忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

10.怖れる必要はない


   山西省五台山の廟の奉納劇(午前7時ごろ)

10.怖れる必要はない
 『 』内は、原文は傍点つき:
 『だがこれは必ずしも実行せずに、発言しただけでも、別のある人たちを怖れさせる。
 先ず大衆語を提唱した人はすなわち「文芸の政治宣伝員の宋陽の類(共産党でこれを担当していた瞿秋白の筆名)」の本意は造反にあるという。色つきの帽子を被らせるのは、極めて単純な反対方法だ。一面では又自己保全の為、中国の80%が文盲でも構わぬと言う。では口頭で宣伝するなら、中国の80%を聾者にしなければならなくなる。だがここでは今「文を談じる」範囲外だから、これ以上触れない。
 専ら文学の為に怖れている人は今2種類いると思う。1種は大衆がみんな読み書きできたら、全員が文学家になると怖れる人だ。これは天が落ちて来るのを怖れるお人よしだ』
上述したように、字を知らぬ大衆の中にもこれまで作家がいた。もう長いこと帰郷していないが、昔は農民達も余閑があり、夕涼みの時、人は故事を語った。語り手は大抵特定の人で、比較的見識があり、話しがうまく、分かりやすく聴かせるのが上手で、且つ面白い。これ即ち作家で、彼の作品を書けば作品となる。話しが無味で、冗長なおしゃべりなどは皆聞こうとせぬし、冷めた言葉で――嘲笑する。我々は何千年も文語でやって来て、この十年来白話でやってきたが、凡そ書ける人はどうして皆文学家だと言えようか?たとえ全てが文学家になったとしても、軍閥や土匪ではないから大衆に危害を及ぼさず、互いに作品を見せ合うだけのことだ。
 もう一つは文学の低落を心配すること。大衆は旧文学の素養などないし、士大夫の繊細さに比べれば、あきらかに所謂「低落」だろうが、旧文学の痼疾に染まっていないから、剛健で清新である。「子夜歌」のような無名氏の文学の流れは、旧文学に新たな力を与えるだろう。上述したが:現在も多くの民歌や故事を紹介している人がいる。更には戯劇もあり、「朝花夕拾」で紹介した「目連救母」の無常鬼の自伝は、いわば一人の鬼魂(亡者)に同情し、半日娑婆に帰してやったら、はからずも閻魔に懲らしめられ、それからというもの、決して手を緩めなかった――
  「たとえ鉄の壁でも銅のでも、
   天子さまの親戚でも、容赦せぬ!」
 なんと人情味のある、また一度間違ったらすぐ改め、法を遵守し、果断に行う。我々の文学者はこんなものを書けるだろうか?
 これは本当の農民と手工業労働者の作品で、彼らは、閑を見つけては演じている。
目連の巡行する一連の多くの故事を借り、「小尼姑下山」以外は、木刻版の「目連救母記」
とはまったく異なる。その中の「武松打虎」は甲乙の二人が一強一弱で演じる。まず甲が
武松になり、乙は虎で、甲に死ぬほど叩かれ、乙は彼を恨む。甲は言う:「お前は虎だから叩かないと、こちらが咬み殺されるじゃないか?」乙は交代してくれと頼むが、今度は逆に甲に咬まれて死にそうで恨みをいうと、甲は「お前は武松だ。咬み殺さないと、お前に叩き殺されるじゃないか?」という。ギリシャのイソップ、ロシアのソログーブの寓話と比べても遜色ないと思う。
 全国各地に行って集めたら、この種の作品は大変多いだろう。ただ無論欠点もある。これまで難しい字と難しい文章で封鎖され、現代の思潮と隔絶している点だ。従って、中国の文化を一緒に向上させようとしたら、大衆語文を提唱し、かつ書法も必ずラテン化しなければならない。

訳者雑感:
 中国の各地の神様を祀る社殿の前には、丁度日本の大きな神社の前の「能舞台」のような屋根を持った「舞台」があり、そこで「目連救母」のような一連の演劇が奉納される。
それは規模の大小を問わず、小さい村にはそれなりの舞台が常設され、本当の農民や手工業の労働者が、「余技」として仕事の合間に練習してきた「戯劇」を演じ、神に豊作のお礼をする。それを村中の人が交替で観に来る。従って彼らの演劇は朝早くから夜更けまで続く。私も山西省の御利益のある廟に朝7時にお参りしたら、その小さな廟の前に立派な舞台があり、それぞれが御利益のお礼参りに来た人達の為に、演じている。えんえんと。
 彼らは物語の筋はよく知っており、台本なしで、演じられる。文盲かと思う。角付の漫才が盲目や、「ごぜ」であった日本も同じだと思う。
 彼らは難しい字や文章は読めなかったが、耳で覚えたせりふは忘れることは無かった。
   2013/10/17記
 


 

拍手[0回]

PR

9.特化か普遍化か?

9.特化か普遍化か?
 ここに来て、大問題にぶつかる:中国語は各地ごとに大きな違いがあり、大きく分けただけでも、北方語、江浙語、両湖川貴語、福建語、広東語の5種あり、この5種も更に小区分があり、今ラテン語で書くとすると、普通語か土語か?普通語を書こうにも多くの人々は書く事も出来ず:土語だと他の地の人は読めないから、却って隔絶が起き、全国に通用している漢字に及ばない。これは大きな弊害だ!
 私の考えは:当初の啓蒙期は、各地は各地の土語を書き、他の地方と意思が通じないのは気にしない。ラテン書法を使う前は、我々の識字できぬ人々は、もともと漢字で互いに通じる音を持っていなかったのだから、新たな短所は何もなく、新しい長所があり、少なくとも同じ言葉の地域なら、互いの意思の交換ができ、知識を吸収し――それは当然一面では、ある人たちが有益な本を書かねばならぬが。問題はこの各地の大衆語文の中から、将来それを特化するか、普遍化するかである。
 方言土語には大変意味深長な言葉があり、私たちの所では「煉話(よく練られた言葉)」
というが、とても面白く、丁度文語に古典を引用する如く、聞く方も興味をそそられる。
それぞれに方言があり、語法と語彙は更に煉って発達させるのが特化だ。これは文学にはとても有益で、それは一般的なありきたりの文章より面白いが、特化には危険性もある。私は、言語学は知らぬが、生物では一度特化すると往々にして滅亡する。人類出現前の多くの動植物は、余りにも特化したため、可変性を失い、環境が変わると対応不能で、滅亡する他なかった。――幸い我々人類は、まだ特化した動物にはなっていないから、心配しないでよい。大衆は文学を持っているし、必要としてもいるが、文学の為に犠牲になってはいけない。さもないと、その荒唐無稽さと漢字保存のために、80%の中国人を文盲にし、殉難させてきた、活き聖賢と何ら変わることは無い。従って、思うに、啓蒙の段階では、方言を使うが、一面では徐々に普通の語法と語彙を取り入れて行くのが良い。まず固有のものを使うことは、その地方の語文の大衆化で、新しい物を取り入れるのは全国的な語文の大衆化だ。
 読書人が数人書斎で話して出した案は大抵通用しないが、すべて自然の流れに任すのもよくない。今埠頭や公共機関で、また大学で確かに一種の普通語(共通語)らしきものがすでに出て来たようで、みんなが話すのは「国語」ではないが、北京語でもなく、夫々郷土の音調を帯びているが、方言でもないし、たとえ話すのに苦労したり、聞く方も苦労するが、なんとか話せるし、聞いて分かる。整理して発展させてゆけば、大衆語の一つとなり、将来さらに主力となるかもしれない。私は方言は「新しいものを取り入れてゆく」と言ったが「新しいもの」の来源はここにある。こういう一種の自然に出て来、更に人工の方言を加えて普遍化すれば、我々の大衆語文は大体において統一したことになるわけだ。
 今後もこれを継続してやるのだ。年月を経れば、語文は更に一致し「煉語」と同じように良いものになり「古典:より活き活きとしたものになり、徐々に形成されて文学は更に精錬を加えることになろう。直ぐにはできない。考えてみてください。国粋家が宝とする漢字は3-4千年かけてやっとこんな程度の結果しか出せなかったじゃないですか。
 それでは誰に始めてもらうか、という問題だが、言うまでもなく:覚悟のできた読書人です。一部の人は「大衆の事は大衆自身でやるべし!」という。勿論それはその通りだが、どういう人がそれを言っているのかを見なければならない。それを言ったのが大衆うならそれはある面で正しいし、正しいのは自分でやろうとする点だが、間違っているのは協力しようとする人を排除してしまうことである。
もしそれを言っているのが読書人なら、話しはまったく違ってくる:彼はきれいごとを言って、文字を把持し、自分たちの尊厳と栄光を守ろうとしているのだ。

訳者雑感:埠頭とか公共機関(役所を含め)大学などには全国各地からいろんな方言の人が集って来て、それぞれが意思の疎通のために、共通語・普通語に近いものを話し始める。
それが上海や北京などの大都会で始まった。1970年代にシンガポールに住んでいた頃、やはり世界的な埠頭であるシンガポールには、マレー人やインド人(主にタミ―ル人)がいたが、共通の言葉は英語であった。しかし人口の80%を占める華人の多くは中国各地から来ていて、多くは英語はしゃべれず、華人の世界でも広東語・福建語・客家語・海南語などお互い通じない方言では意思の疎通ができぬので、「華語」(HuaYu)と称して、北方語を自分の方言の訛りを濃厚に残しながらも使っていた。魯迅の活きていた1930年代の上海は丁度1970年代以前のシンガポールに似ているかと思う。
    2013/10/15記

拍手[0回]

8.どう渡すか

8.どう渡すか
 文字を大衆に渡す事は、清末からすでにあった。
「鼓を打つな、鉦を叩くな、吾が歌う太平歌を聞け……」は、欽頒(お上の御達し)の大衆教育の俗歌だ:この外に、士大夫も些か白話新聞を出したが、その意思はただ、みなが聞いて分かる様にさせることで、必ずしも書けるようにというわけでは無かった。「平民千字課」は少しばかり書けるようになる可能性もあったが、只記帳や手紙を書ける程度で十分とみなしていた。もし考えていることを書こうとしたら、限定された字数では不十分だった。例えば、牢獄は確かに人に一定の土地を与えるが、制限があり、その範囲内だけで立ったり坐ったり臥したりできるが、設定された鉄柵の外に逃げ出す事はできない。
 労乃宣と王照の二人は、簡略字を有し、進歩はとても早く、音に従って字を書けた。民国初年、教育部は字母を制定しようとし、彼ら二人はその会員で、労氏は代表を出席させ、王氏は自ら参加し、入声の存廃問題のため、かつて呉稚暉氏と大いに戦い、その結果、呉氏の腹はぺこぺこになって、ズボンがずり落ちた。だが結果は、例の通りいろいろな斟酌を経て、一つの事を制定し「注音字母」と呼んだ。当時多くの人は漢字を代替することができると思ったが、実際はダメであった。というのもそれはつまる所、簡略な方塊字(漢字の意)に過ぎず、丁度日本の「カナ」と同じで、幾つかを漢字に挟んで、或いは漢字の旁に注をするのはまだいいが、これを師(決定版)と仰ぐには力不足だった。書くとなるととてもごちゃごちゃし、読むとなると眼がつかれる。当時の会員は「注音字母」と呼んだが、その能力の限界をよく知っていた。再度日本を見ると、彼らの中にも漢字を減らせと主張するものあり、ラテン語表記を主張する者もいるが、「カナ」だけにしろと主張するものはいない。
もう少しよいのは、ローマ字表記法で、一番詳しく研究しているのは、趙元任氏だが、私は余り分かっていない。世界に通用するローマ字で表記すると――今やトルコすらそうだが――一ひとつの言葉がひとつながりで、非常に明晰で良い。ただ、私の様な門外漢に言わせれば、その表記法はとても煩雑なようだ。精密さを求めると当然煩雑にならざるを得ぬが、とても煩雑だとまた「難」に変じてしまい、普及の妨げとなる。やはり一番良いのは、別の一種の簡単で、固陋でないものを造ることだ。
 ここで我々は新たな「ラテン化」法を研究できる「毎日国際文選」に小冊子の「中国語法のラテン化」や「世界」第2年第6・7号の合本付録の「言語科学」などはいずれもこれを紹介している。安いから興味のある人は買って読むことができる。それは28字だけで表記法も簡単に学べる。「人」はRhen、「房子」(部屋)はFangzで「我喫果子」はWo ch
Goz「他是工人」はTa sh gungrhenだ。だが私は中国はやはり北方語――北京語ではなく――を話す人が多く、将来もしいたるところで通用する大衆語が持てるとしたら、主力はやはり北方語だと思う。さしあたり、少し増減を行って、各地の特有の音に合わせさえすれば、どんな僻地や田舎でも使える。
 28字を覚え、綴り方、書き方を学べば怠けものと低能以外は誰でも書け、読める。況や
そこには一つの長所があり、早く書けることだ。米国人は、時は金なりというが:私は:時は生命だと思う。何の理由も無く、人の時間を空費するのは、実は財産を奪い、命を害することに他ならない。だが、我々のように夕涼みがてら坐ってだべっている者は別だが。

訳者雑感:
 大学で中国語を学び始めた時、まず、最初に習うのが、ぼぽもふぉであった。ローマ字ではbpmfと表記し、次いでdtnl、gkh、jqx、zhchshr、zcsの合計23音の声母表であった。
 これは魯迅達が上記でいろいろ試行錯誤した後に生まれて来たものだろう。なぜこうした塊で覚えさせるのか、最初はわけがわからなかった。だいぶ経ってから、唇や舌などの動きを系統的にまとめたものだろうと思った。そして無気音と有気音の違いをbp、dt、
gk、jqなどで覚えさせたものだと理解し始めた。だが、欧米人がABCで文字を覚え始め、日本人があいうえお、で始めるのと比較すると、果たしてどうだろうか。
 中国語はこの23の声母(子音)に母音と子音の複合したものを付けて、漢字ごとに発音を覚えなければならない。これは古文の中の漢字で比較的発音の難しいと思われる字には、
反切といって、例えば、東の字を徳紅(d+ong)の反または切と言う長いしがらみから来ているのではないかと思う。確かに一定以上の漢字を知っていれば、これで全ての漢字の発音ができるわけだ。だが、その「一定」は魯迅の言うように「千字」程度では記帳や簡単な手紙を書ける程度で、それ以上を覚えるとなると相当な困難が伴う。
 簡略化される前の画数の多い漢字の文章を読むたびに、魯迅ではないが、(理由も無く)
覚えるのと、書くのに(人の大切な)時間を空費させて来たのは、命を奪うに等しいというのもわからぬでもない。ただ夕涼みの余興でだべるのは別であり、中国人はそうして過ごすことが好きでもある。特に茶館でおいしい茶菓と気の合う友がいっしょなら。
  2013/10/11記

 

 

拍手[0回]

7.字を知らなかった作家

7.字を知らなかった作家
 そんな難しい字で書かれた古語の摘要を、かつては「文」と呼び、今は少し新派らしく「文学」と呼ぶが、この言葉は「文学(文章博学)は子游、子夏の二人(論語)」の中からとったのではなく、日本から輸入したもので、彼らが英語のLiteratureから翻訳した物だ。この「文」を書ける者が、現在では白話文も書けるが、「文学家」或いは「作家」という。
 文学の存立条件としてまず字を書けることが必要だが、そうであれば、字を知らぬ文盲の人達には無論文学家はあり得ない。だが作家はいるのだ。余り早まって私を笑わないで欲しい。まだ話しの続きがあるから。思うに、人類は文字が現れる前から創作してきたが、誰も記録できる人がいなくて、記す方法も無かった。我々の祖先の原始人は、話しもできなかったが、一緒に仕事をするとき、意思を発せねばならない。それで、段々複雑な音声を出せるようになり、当時皆で木を担ぐ場合、とても苦労したが、誰もそれを口にだせなかったが、その中の誰かが、「ヨイショヨイショ」と叫んだ。それで、それが創作となった:皆は感心しそれを使い、これが正に出版に等しく:もし何か記号で残したら文学である:彼は勿論作家で文学家でもあり「ヨイショヨイショ派」だ。笑わないで。この作品は確かにとても幼稚だが、古人が今の人に及ばない点は大変多いが、これは正にその一つである。
周のあの「関関雎鳩、在河之洲、窈窕淑女、君子好逑」を例にとると、これは「詩経」の第一篇だから、我々は、ははーと驚きいって、頭を垂れ敬服するしかないが、もしこれまでにこういう詩がなかったとして、現代の新詩人がこの詩意を白話の詩をつくり、何かの副刊に投稿したとしても、9割は編集者によって屑かごに放り込まれると思う。「きれいなお嬢さん、若旦那の良い伴侶!」なんのこった。
 例えば「詩経」の「国風」の中の多くは、字を識らぬ無名氏の作品だが、すぐれていたから皆が口々に伝えた。採詩の官が探し出し、行政の参考のために記録したが、この外に消滅した物がどれほど多かったかは全く分からない。ギリシャ人のホーマー、暫時こう言う人がいたとする――の二大史詩は元来口吟で、現在のものは他の人が記録したのである。
 東晋から斉陳にかけての「子夜歌」や「読曲歌」の類、唐の「竹枝詞」や「柳枝詞」等、元はみな無名氏の作で、文人に採録と潤色されて伝わった。この潤色により、残るには残ったが、惜しいことにきっと多くの本来の面目は失われただろう。いまでもいろんな所似民謡、山歌、漁歌などがまだたくさんあるが、それはとりもなおさず、字を識らない詩人の作品だ:また童話と故事の伝承も、字を識らない小説家の作品で:彼らはみな不識字作家である。
 だが記録されていない作品は、いとも簡単に消滅し、流布の範囲も広まらないから、知っている人もとても少ない。たまたま、少しの作品が文人に見出され、往々驚いて、自分の作品に吸入し、新しい養分となる。旧文学衰退時、民間文学或いは外国文学を摂取し、新たな転変をする。こうした例は文学史上、よくみられる。不識字作家は文人の繊細さは無いが、却って剛健で清新である。
 この様な作品をみなで共有しようとするなら、まずこの作家が字を書けるようにし、同時に読者たちも識字でき、字や文章を書けるようにすること:文字を全ての人に渡すことが大事だ。

訳者雑感:明治維新後、欧州人が北海道に来て、アイヌの民話や民謡を蝋管で採録して、伝えてくれた。文字の無いアイヌの人たちの中に、まさしく魯迅のいう作家や詩人がたくさんいたのだ。ダークダックスも戦後ロシアに渡り、多くのロシア民謡を採譜し日本語の詩をつけて我々に伝えてくれた。字を識らない人達のなかに沢山の作家詩人がいたのだ。
   2013/10/10記
 

 

拍手[0回]

6.そして文章は奇貨となった。

6.そして文章は奇貨となった。
 文字は人々の間で芽生えたが、後に特権者に収攬されてしまった。「易経」の作者の推測では「上古は結縄して治めた」わけだが、それなら結縄もすでに人を治める人の物だった。巫史の手に落ちた時は、もはや言うまでも無い。彼らは皆酋長の下、万民の上だ。社会の変化につれ、文字を学ぶ人たちの範囲は広がったが、大抵は特権者に限られた。平民は識字できなかった。それは学費が無いためでなく資格制限のためだった。それに書物を目にする事もできなかった。中国で木刻版が未発達の頃、良書はたいてい「秘閣に蔵され、副本も三館だけに置かれ」士大夫すら中に何が書かれているか知らなかった。
 文字は特権者の物だからこそ尊厳性を有し、神秘性を有した。中国の文字は今も尊厳で、我々も壁によく「紙を大切に」と書かれた屑かごが掛っているのを目にする:護符の駆邪治病はその神秘性に依存している。文字は尊厳性を蔵しているので、文字を知る人は尊厳性を帯び始める。新たな尊厳者が毎日現れて来ると、旧い尊厳者は不利となり、文字を知る人が増えると神秘性が損なわれる。符の威力も、その字によく似たもののお陰で、道士以外は誰も認識できないからだ。それ故、彼らは必ず文字を把持しようとする。
 中世の欧州では文章学問は全て教会にあり:クロアチアでは19世紀でも識字者は神父だけで、人民の話し言葉は、旧い生活のために使われるだけまでに退歩した。彼らが革新したとき、外国から多くの新語を借り入れるしかなかった。
 我々中国の文字は大衆に対し、身分や経済といったこうした制限のほかに、難しいという高いハードルがあった。単にこのハードルだけでも十年かけぬと乗り越えられなかった。越えられたのが士大夫で、士大夫はまた文字を更に難しくしようとした。というのも、其れが彼らを特に尊厳にし、他のすべての士大夫の上にでることができた。漢代の揚雄は奇字を好んだのはこの性癖の為であるが、劉歆が彼の「方言」の原稿を借りようとしたときなぞは、もう殆ど自殺せんばかりであった。(「方言」は諸国方言を解釈した物:出版社)
唐代には樊宗師の文は他の人が句点を入れられないほどで、李賀の詩は人が理解できぬのもこのためである。
もう一つの方法は、他の人が知らぬ字を書き、下は「康熙字典」から幾つかの古字を探し、
文中に挟みこむ:
上は銭坫の篆書を使い、劉熙の「釈名」を使うのや、最近では銭玄同氏が「説文」の文字の形を使って、太炎氏のために書いた「小学答問」だ。
 文字や文章の難しいのは元からの物だが、士大夫が更に故意に特製の難しさを加え、それをまた大衆と縁のあるものにしようとするなど、どうしてできようか。だが士大夫達はまさにそうしようと望んでいるが、文字が容易に覚えられるなら、みんなができるので、文字は尊厳でなくなり、彼らも尊厳ではなくなる。白話は文語に如かずという人は、ここから出ている:今、大衆語を論じ、大衆には「千字課」さえ教えれば十分がと言う人の意思の根底もやはりここにある。
訳者雑感:護符(お守り)の中の文字が小学生でも読めるようになったら、文盲の御婆さんが、後生大事にしてきたありがたいお守りの尊厳性がなくなってしまう。
 梵語とか難しい漢語で書かれたわけもわからぬ言葉にはなにか未知のものがあると迷信的に大切にしてきたものが、普通の日本語で書かれるとありがたみが減少する。
お寺の御経も然り。小学生にも読める日本語の御経はありがたみが失せるように感じる。
     2013/10/07記

拍手[0回]

5.古代は言文一致だったか?

5.古代は言文一致だったか?
 ここで古代は言文一致だったかどうかを考えてみたい。
 これについて、現在の学者たちは明確な結論は無いが、彼らの口ぶりからは、一致していたと考えているようだ:時代が古いほど、より一致していた、と。だが私には大疑問で、文字はより容易に書けるようになると、話し言葉と一致した字をより容易に書けるようになるものだが、中国ではそれは書くのが難しい象形文字だから、古人はこれまできっと余り重要でないことばを摘出してきたのだろう。
 「詩経」があんなに読むのが難しいのは、正に話し言葉をそのまま書き写した証拠のようだが、商周の人達の確たる話し言葉は、今まだ研究されておらず、もっと煩雑だったかもしれない。周秦の古書に至っては、作者も彼の地元の方言を使っているが、文字は大方類似しており、たとえ話し言葉と近いとしても、使ったのは、周秦の話し言葉で、周秦の大衆語ではけっしてない。漢代は言うまでも無く「書経」の中の理解しにくい文字を今字に改めたのは司馬遷だということを肯定したとしても、特別な状況下で、些か俗語を採用したに過ぎず、陳渉の古い友人が、彼が王になったのを見て驚いて言った如く:「おおお!
渉が王になった、沈沈と」の中の「渉之為王」という4文字は太史公(司馬遷)が手を入れたものだと思う。
 では、古書が採録した童謡、諺、民歌は当時の本当の俗語だと考えてよいか。私はそうとも言えないと思う。中国の文学家は人の文章を変えるのがとても好むという性癖がある。
最も顕著な例は、漢の民間の「淮南王の歌」で、同じ地方の同じ歌が「漢書」と「前漢記」で違っているのだ。
 一つは――
 一尺の布、尚縫うべし:
 一斗の粟、尚舂(つ)くべし。
 兄弟二人、相容れられぬ。
 もう一つは――
 一尺の布、暖かくてぬくぬく。
 一斗の粟、お腹いっぱい。
 兄弟二人相いれぬ。
 比べてみると、後者の方が本来の面目のようだが、削除したのかもしれない:
只単に摘要を記したのだろう。後の宋人の語録、話本、元代の人の雑劇と伝奇の科白は皆
 摘要で、ただそれが使った文字は比較的平易なもので、削除した文字は少なく、「話している様に明白だ」と感じさせる。
 憶測だが、中国の言文はこれまでけっして不一致ではなかったが、大きな理由として、書くのが難しかったため省略するしかなかった為だと思う。従って、我々が古文を書くと言うことは、もう象形ではなくなった象形文字で、必ずしも諧声とはいえぬ諧声字で、紙の上に現代人はもう誰も話さなくて分かる人も少ない、古人の話し言葉の摘要を書いているのだ。
これは難しいことだと思いませんか。

訳者雑感:
 魯迅は最後のところで、古代の人は言文不一致ではなかった、と憶測している。話したことをそのまま文字にしたが、「書くのが難しかったため省略」したと考えている。話し言葉で饒舌になった「せりふ」を「摘要」だけ書きとめておき、それを演じる時はまた饒舌な「せりふ」に戻して話したのだろう。
 国会の答弁などの議事録は全文一字一句もらさず記すが、新聞には「摘要」だけが公表される。それを見ながら、テレビでの首相の答弁を聞くといろいろ余分なことを言っていると思う。漢字は特に昔の画数の多い字体は、話したこと全部を書くのが難しいから、省略されたケースが多かっただろう。映画の字幕などでも、発言者の言った通りすべてでなく、意味が正しく伝わる限り、省略される話し言葉も多い。
   2013/10/03記

拍手[0回]

4.字を書くのは絵を描くこと

4.字を書くのは絵を描くこと
 「周礼」と「説文解字」にはいずれも文字の造り方は6種あるとしているが、それには今は触れない。只「象形」と関連するものだけを取り上げる。
 象形は「近くはこれを身体にとり、遠くは諸物をとる」すなわち、眼を描いて「目」となり、丸を描いて数本の光を放てば「日」となるのは大変明白で便利だ。だが時に壁にぶつかる。例えば、刀の歯を描こうとするとどうするか?刀の背を描かないで置いたとしても、歯は明らかにできない。こう言う時は他のアイデアを使って、刀の歯のところに一つの短い棒を付けて「この部分を指す」意味とし「刃」を造る。これにはすでに色々工夫をこらしたようで、況や、さらに象形しようにも形の無いものがあり、それで「象意」を持ち出すほかなく、これは「会意」ともいう。手を樹上にかざして「采」とし、心を屋根と飯皿の間に置いて「寍」(ねい)とし、食住が問題無いことを「安寍」という。だが「寧可」
という時の寧は、皿の下に一本の線を引かねばならぬ。これは「寍」の音だけを使っているにすぎないことを示すものだ。「会意」は「象形」より面倒で、少なくとも二つの絵を描かねばならぬ。例えば「寶」は屋根と玉と缶と貝の計4つの絵を描かねばならぬ:缶の字は杵(きね)と臼の合成とみれば、合計5つだ。一つの字を書くのにこんな手間がかかる。
 しかしやはり上手くゆかぬものもある。些かの物は描けぬし、またある物は描けぬからである。例えば松と柏は葉が違うから、本来は分けられるのだが、字を書くとなると所詮は文字で、絵画のように精巧には描けぬから、結局やはり無理はできない。これを打開するには「諧声」で、意味と形象の関係を切り離すことになる。これはもはや「音を記す」のだから、ある人たちは、これが中国の文字の進歩だと言う。確かに進歩とも言えるが、その基礎はやはり絵を描くことにある。例「菜は、草に従属し、采の音」というが、草と手(爪)と樹木の3つの形を描き:「海は、水に従属し、毎の音」川と帽子をかぶった母とやはり3つ。要するに:字を書く時はどうしても絵を描かねばならぬわけだ。
 だが古人はけっして愚かではなく、彼らは早くから形象を簡単にし、写実から離れた。篆字の円や屈折にはまだ絵画の余痕があるが、隷書や今の楷書になると形象とは天地の差がある。しかしその基礎は改変されておらず、天地の差はあるが、象形でない象形文字となって、書くのは比較的簡単になったが、覚えるのは非常に難しくなり、一字一字暗記せねばならない。それに幾つかの文字は今も簡単には書けず、「鸞」とか「鑿」などを子供に書かせるには、半年くらい練習しないと、半寸四方の升目の中に書くのは困難だ。
 もう一つ「諧声」は古今の音の変遷により、幾つかは「音」と余り「諧」しなくなってしまった。今日、誰が「滑」を「骨」と読み、「海」を「毎」と読むだろうか?
 古人が文字を伝えてくれたことは、本当に重大な遺産で感謝すべきものだが、象形ではなくなった象形文字、元の「諧声」から少しかけ離れた諧声文字のでてきた現在、これに対する感謝については些かためらわざるをえない。

訳者雑感:中国の漢字の読みは、大多数が一字一音である。もちろん例外は結構あるが、日本語の音訓の多さに比べたら天地の差である。
例えば数次の一は、Yiで四声は変化するが、Yaoと他の言葉と区別する時以外はYiでいい。
日本語だと「いち、ひと(つ)、ひー、はじめ、ついたち(一日)など一杯あり、これを子供のころから一つひとつ覚える。「日」などに至っては、中国語が「Ri」一個なのに対して、「ひ、じつ、にち、ついたちの日、日本のに、二十日のか」など数えだしたらきりが無いほどある。しかしこれらは振り仮名を付けなくとも中学生くらいだと正確に読めるようになる。
 魯迅の指摘する様に、象形でなくなった象形文字を数千個覚えるのは大変なことだが、今は簡体字になって、かつての煩雑な文字よりは比較的容易になった。あとは、「諧声」の改革だと思う。滑稽の滑と骨とがHuaとGuの音だが、他のHuaの音の旁を充てるとか、
海のHaiと毎のMeiも同じで、環境の環の字がHuanなのに返還の還の字はHaiであるが、旁はいずれも不に簡略化しており、この伝でゆくと、さんずいの旁に不でHaiと読ませる方が、海と書いてHaiと読ませるルールより漢字を覚え始める人には便利かと思う。
 ただ、フランスの詩にあるような「母なる海」という母の象形が無くなってしまうのを惜しむ人も多いと思うが。文字は記号だと割り切ってしまえば、氵の右に不でHai(うみ)
というのもあり得ぬことではない。
人が住む家の字を屋根の下に豕(ぶた)がいるのはおかしいとして、ウ冠の下に人を書いた新字ができたが、結局廃されてしまった。長い年月かけて、使い勝手を良くして行く事になるだろう。慶応大学の立て看板には广の中にKOと書いていたころもあった。
    2013/10/01記

拍手[0回]

3.文字はどのようにしてできたか?

3.文字はどのようにしてできたか?
 「易経」に依れば、書契の以前は、明らかに結縄であった:私の田舎でも、明日大事な用件があるときは忘れぬように:「腰帯びに結びを付けておけ!」と言った。では、古代の聖人も長い縄に一つの用件があるごとに、一つの結びをつけたのか?多分それではだめだったろう。数件なら覚えられるが、沢山になるとダメだ。或いはそれは正しく伏羲皇帝の「八卦」の流れで、三本の縄を一組みとし、結びのないのを「乾」とし、中間にそれぞれ結びをつけるのを「坤」としたのか?多分そうではなかろう。八組くらいならまだいいが、64組となるともう覚えきれないし、況や512組(8の三乗)まであるのだから。ペルーにはまだ「Quippus」という「結縄字」があるが、一本の横縄に沢山の垂直の縄をかけ、網目のようで網でもないように結ぶことで、割合多くの意味を表せるようだ。我々の上古の結縄も多分こうだったのだろう。だがそれは書契に取って代わられたし、書契の祖先でもないから、ここではこれ以上取り上げない。
 夏禹の「岣嶁碑(こうろうひ:読解不能の治水を祈念した碑)は道士達の偽造で:今我々が実物として見ることができる最古の文字は、商の甲骨文字と鏡鼎(かなえ)文のみだ。
しかしこれらはすでに相当進歩しており、殆ど原始形態を見いだせぬ。只、銅器には時にちょっと写実的な図形を見ることができ、鹿や象のように、この図形から文字との関連の手がかりが見つけられる。従って、中国文字の基礎は「象形」である。
 スペインのアルタミラ洞窟に描かれた野牛は有名な原始人の遺跡で、多くの芸術家は、これは正に「芸術の為の芸術」で原始人は楽しんで描いたというが、この解釈はモダ―ンすぎるのを免れぬ。というのも、原始人は19世紀の文芸家のように有閑ではなく、彼が一頭の牛を描いたのにはわけがあり、野牛に関して、野牛の狩猟についてとか、野牛をお守りとかまじないにするためだった。現在上海の壁にタバコや映画の広告ポスターがあり、それをポカーンと口をあけて見ている人がいるが、何を見ても驚く原始社会で、こんな奇跡が起こったら、みんなが大騒ぎしただろうことは想定できる。彼らはこれを見て、野牛も線でもって別の場所へ移す事が出来ると知り、また同時に「牛」という字を認識したようで、この作者の才能を敬服したが、まだ誰も彼に自伝を書いて銭儲けをしてはと要請しなかったから、姓氏も消えてしまった。但し、この世には倉頡は一人じゃなくて、ある人は刀の柄に絵を刻し、ある者は門扉に絵を描き、気持ちが通じ合い、口から口に伝わって文字は増えて行き、史官が採集して事を記して広まって行った。中国の文字の由来は多分こうした例から逃れられないだろう。
 当然、後にまた不断の増補があったはずで、それは史官自身ができたし、新字を熟字の間に挟むと、これも又象形で、他の人も容易にその字の意味を推測できた。現在でも中国は相変わらず新字を作っている。ただむりやり新しい倉頡になろうとすると失敗する。呉の朱育、唐の武則天はいずれも古怪な字を造ったが、すべて徒労に終わった。今造字が最もうまいのは、中国の化学者で、沢山の元素と化合物の名はとても覚えるのが難しく、発音すらうまくゆかない。正直言って、私は見るたびに頭痛を起こす。万国共通のラテン名に遠く及ばぬと思うし、20数個のアルファベットを覚えられねば、率直に言わせてもらえば:そんなことでは、きっと化学を学んでも物には成るまい。

訳者雑感:野牛の牛はまさに牛の顔を正面から描いたものだし、ギリシャ語のアルファという文字「α」も牛の顔を横にして角が右に来ているのでよく分かる。この字を発明した人の名は消えてしまった、という段は、当時甲骨文字の発見とかに関連して、銭儲けをしようとした「文化人」を揶揄しているのだろう。
 中国語通訳をするのに、一番難儀なのは化学の元素名とか化合物の名前だとは、化学品のビジネスをしていた先輩の口癖だった。H2Oを水というのや酸素とか炭素などはOとかCより分かりやすいかもしれないが、Mg2O3とかFe2O3くらいはまだなんとかなりそうだが、コバルトやモリブデンなどを難しい金偏の合成語で書かれると発音すら困ってしまう。ましてやそれらの化合物となるとお手上げだ。
 化学記号に限らず、外国人の名前や地名などは、例えばすべて今世界で一番通用している英語表記をそのままローマ字で表し、発音は中国語訛りでも止むを得ないから、そうした方が、外国人との会話がどんどん増える今日、双方にとって相互理解が容易になると思うのだが、どうであろうか。
      2013/09/26記

 

拍手[1回]

2.文字はどんな人が造ったか?

門外文談2
2.文字はどんな人が造ったか?
 よく聞かされてきたのは、如何なるものも、古代の一聖賢が造ったという故事で、文字についても、当然ながらこんな質問がでる。だが、直ぐ出て来るのは、来源を忘れた答えで:文字は倉頡が造った。
 これは一般的学者の主張で、当然彼の出典はある。私はこの倉頡の画像を見たことがあるが、4つの目を持った老行脚僧だ。このことから、字を造るには先ず容貌も奇でなければならぬことが分かるし、我々のようなただ2つの目しか持たない人間は、才能不足のみならず、容貌的にも失格である。
 だが「易経」を作った人(誰かは知らぬが)は少し賢くて、彼は言った:上古は縄を結んで治め、後世の聖人は之を書契に易えた」と。彼は倉頡とは言わず「後世の聖人」と言い。創造とは言わず、ただとり替えたと言い、真に大変慎重で;多分彼は無意識のうちに、古代の人が独りで多くの字を造ったことはありえたと信じていないから、このような模糊とした言葉を使ったのだ。
 では結縄を書契に代えたのはどんな人だったのか?文学家?確かに。今の所謂文学家の文字を弄することにかけては最もうまい人は、ペン一本でなんでもできる事実からすると、確かにまず彼を思い浮かべる:彼も確かに自分が食わせねばならぬ家族の為に、力を尽くしただろう。しかしそうではない。有史前の人々は、働いている時も歌を歌い、求愛のときも歌を歌ったが、それを起草したり、原稿を残したりしなかった。彼は詩稿を売るとか、全集を編むなど夢にも思わなかったし、当時の社会には、新聞社も書店も無く、文字の用途が無かった。学者の言う話しでは、文字にある工夫をこらしたのは、史官だったろうと思われる。
 原始社会ではきっとその頃は巫(みこ)がいただけで、徐々に進化して、事情が複雑になってきて、幾つかの事、例えば祭祀、狩猟、戦争…などは、徐々に記録の必要が出てきて、巫は彼の本職である「降神」以外に、別に何らかの方法を講じて、事を記すしかなく、これが「史」の始まりとなった。まして彼は「天に昇って、諸侯に成功」を告げる、となると、彼は本職上、酋長と彼の治下の大事を記載した冊子を焼いて、上帝に見て貰わなければならず、その為に、同じように文章を作る必要あり――これは多分後に起こった事だが。また後には職掌がより明確に分かれ、それで事を記す專門の史官が現れた。文字は史官にとって必需の工具で、古人は「倉頡は黄帝の史官」という。第一句はまだ信じることはできないが、史と文学の関係の指摘はとても面白い。後の「文学家」がそれを使って、「ああ、わが愛よ。吾死なんとす!」などという佳句に至っては、すでに出来上がったものを享受したにすぎず、「何をかいわんや」である。

訳者雑感:中国古代の象形文字もエジプトのヒエログリフもともに神への祈りとか呪術などを「職掌」とする「巫」の中から、それを記録して天上の神に献上して願を叶えて貰えるように造りだされたものだろう。「史官」という「書記」が複雑な象形文字を如何にして正確にかつ短時間で記録せねばならぬかに心血を注いだ。それが「民衆語」となり「篆書」「隷書」となって、教育を受けた人々が代代その任に当たった。
 その後、宋代などになって禅宗の僧侶たちがおびただしい量の経典を書写するにあたり、どんどん簡略文字で代替する様になってゆき、より簡単な文字になった。
新中国になってから大量に採用された「簡略文字」のルーツはやはり宗教にあるようだ。
それを採用しない日本や台湾(日本より更に難しい字画の漢字を使っているが)はいつ頃更に簡略文字を採用するのだろう。いずれにせよ、この地域で、統一した漢字を共通させることが求められていると思うのだが。
      2013/09/24記

 

拍手[0回]

門外文談(戸外で文を談ず)

門外文談(戸外で文を談ず)
1.はじめに
 今年の上海の暑さは60年ぶりの由。昼に働きに出て、晩に疲れて帰ると、家の中はまだ暑く、なお且つ蚊もいる。こんな時は戸外だけが天国だ。海に近いのでいつも風があり、団扇も要らない。顔見知りだが、普段はめったに会わない、隣近所の小部屋や裏2階に住む連中も、皆出てきて坐す。彼らは店員や書店の校正係とか腕の良い製図工だ。皆仕事で疲れきって愚痴をこぼしながらも、こういう時は閑があるから世間話もする。
 世間話の範囲も結構広い。旱魃や、雨乞い(パンチェンラマを招いて:出版社注)女の口説き方、(見世物小屋の)干からびた三寸の小人、外米(輸入で大儲け)、女の脚の露出禁止令などなど。又古文も談じ、口語も大衆語も話題となる。私が何篇かの口語小説を書いたので、特に私の古文についての意見を聞きたがったので、やむなく特別沢山話した。そして2-3夜話してやっと次の話題に移っておしまいとなった。しかし数日後、幾人かが私にそれを書いてくれと言った。
 彼らの中には私が古書を何冊か読んだことがあるから、私を信じてくれるし、私が洋書を読んだことがあるから、また古書も洋書もよんだからとして信じるといってくれるが:
但し何名かは逆にその為に私を信じない、私を蝙蝠だという。私が古書の話しをすると、彼は笑いながら、貴方は唐宋八大家じゃないから信じられないといい、大衆語の話しをすると、又笑いながら、貴方は勤労大衆じゃないのに、そんな大口を叩けますかと言った。
 それも尤もなことだ。我々が旱魃の話しをしたとき、あるお偉方が、そこへ調査に行った話しになり、そこでは本来災害を蒙らずにすませることもできた。災害は農民がなまけて、田に水を汲み入れるのを怠ったせいだ、と言った。だが、ある新聞には、60歳の老人が、子供が水の汲み入れで疲れきって死んでしまったが、災害は元のままで、途方に暮れて、自殺したと報じている。お偉方と田舎の人の見方には、かくも大きな隔たりがある。
そうであれば、私の夜話も多分、門外の閑人の空話にすぎないだろう。
 台風一過、天気もすこし涼爽になったが、私はついに私に書けと言う人の希望に応じて、書き始めたが、話したことよりだいぶ簡略にしたが、おおむねの所は変わらない、書きとめて仲間のひと達の御目にかけるとしよう。当時は記憶だけに頼り、古書をいい加減に引用したが、話すのは耳に吹く風で、少しくらいの間違いは構わないが、書くとなると、些か躊躇させられるが、私自身も手元に照会すべき原書もないので、今回は只読者が気がついたらすぐご指正していただきたい。
  1934年8月16夜、脱稿し記す。(下に傍点が付されている:月を見ながら?)

訳者雑感:本文は12回に分かれており、60年ぶりの上海の猛暑の晩に、家の中にいることできぬくらいの暑さゆえ、めいめいが戸外にでて、海風の涼をとっている時の夜話である。
 私自身も学生時代に大阪桃谷のアパート住まいで、当時家に冷房のあるのは殆どなく、夕凪の終わったころに、屋根の上の物干し台に三々五々集まって、世間話をしながら、部屋が何とか寝られるまでの温度になるのを待ったものだ。だが、そこでいろいろ先人達が話すのを聞きながら、大阪人の生きる知恵を習得したのだろう。今ではすっかり忘れてしまったが、魯迅が書いている様に、旱魃のときの「雨乞い」の儀式とか、どこそこの神社で「こっくりさん」の珍しい占いがあるとか、商売の街大阪の雰囲気と上海とはどこか似たところもあるような気がする。東京や北京とはお互いにどこか違う人達が住んでいた。
 表題の「門外文談」はそうした暑い夏の夜の戸外での夜話で、内容は文字から始まる。
さあ、次回からどんな話しになるのだろう。
     2013/09/22記


 

拍手[0回]

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R