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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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儒術

儒術
 元遺山(元好問)は金が元に替る時代の文人で、遺老として野史を修そうと、古い文章を保存した人で、明清以来、一部の人からたいへん敬愛された。だが彼の生涯には疑問があり、それは叛将の崔立を徳者と褒めたことで、彼が本当に関わったかどうかと、それが彼の筆で書かれたかどうかについてである。
 金の元興元年(1232年)、蒙古兵が洛陽を包囲し:翌年、安平都尉京城西面元帥、崔立が二丞相を殺し、自ら鄭王となって元に降った。彼は悪名が残るのを怖れて、側近に旨を下して碑を建てて功徳を讃えることを議させた。その結果、文臣の間に大変な恐慌が生じた。それは一生の名誉と節操に関係するので、各人にとっては大変重大な問題となり、当時の状況は「金史」「王若虚伝」に下記の通り――
  『元興元年、哀宗帰徳に去る。翌年春、崔立叛し、群小附和し、立に功徳碑の建立を請ず。翟奕、尚書相令を以て若虚を召して文を為す。時、奕輩は勢いを恃み、威を為す。些かでも逆らう者あれば、讒言し、貶めて、これを屠滅した。若虚は、自分はきっと死ぬだろうと、ひそかに左右員外郎の元好問に謂いて「今我を召して碑を作れ、従わねば則死、作れば則名誉と節操は地に落ちる故、死す方がよいだろう。私としては理を以て諭してはみるが」……奕輩は(彼の心を)奪えず、つぎに太学生の劉祁麻革輩を相に召して、好問、張信之は碑を建てることについて「衆議は二人に委嘱することに決めており、鄭王にはすでに建白している!二人は辞退することはできない」と諭した。祁等は固辞して去った。
 数日後、督促が止まず、祁は草案を作り、好問に提出した。好問は意に満たぬため、自ら之を為し、それを若虚に示し、共に数文字を刪定したが、そのことを直叙するだけとした。その後、兵が入城し、碑を建てることは果たさなかった』
 碑を建てることは「果たさなかった」が、当時すでに「名節」問題は生じており、元好問作とか劉祁作と言われ、文献の証拠は清の凌廷堪の編輯した「元遺山先生年譜」にあるから、今は引用しない。その推敲勘案を経て前出の「王若虚伝」に、前半は元好問「内翰王墓表」に拠り、後半はすべて劉祁自作の「帰潜志」をそのまま採用しており、上におもねったという誹謗は瞞着された。凌氏はこれを弁護して言う:「当時の立碑の撰文は、崔立の禍を畏れたにすぎず、文辞の巧みさを採ったのではないから、すでに京叔の草稿があるのだから、立の要請を満たすに十分で、なぜ之を為す必要などあろうか?」と。そうならば劉祁は、王若虚のように死を覚悟しなかったのは固より大きなキズだが、更に責任逃れをして「責めを塞ぐ」道具になったのは、まったくの不運と言える。
 然るに、元遺山の生涯にはもう一つ大事件があり、「元史」「張徳輝伝」には――
 『世祖、東宮に在りしとき、…中国の人材を探し求め、徳輝は魏璠と元好問、李冶等二十余名を推挙した。壬子の年、徳輝は元好問とともに拝謁し、世祖に儒教の大宗師となるよう請じ、世祖は悦んで之を受けた。それで:歴朝は勅旨で儒戸の兵賦を免じてきましたので、これを遵行されますように、と上奏したところ直ちに受け入れられた。
 拓跋魏の後裔(元好問のこと)と徳輝は蒙古の小酋長に「漢児」の「儒教大宗師」となるように請じた。今日からみると些か滑稽を免れぬが、当時は誰も問題にしなかったようだ。蓋し、兵賦を免除された「嬬戸」は均しく利益に預かったし、世論は士に握られていたから、利益に預かれるうえに、すでに「儒教」を献呈していたから、もうそれに口を出そうとも考えなかった。
 それから士大夫は段々出世したが、最終的には実用に向かず、また徐々に棄てられた。仕官の途は日に日に塞がれたが、南北間の士の争いは日に日に激しくなった。余闕の「青陽先生文集」巻4「楊君顕民詩集序」に云う――
 『我国は金宋時にはじめて、天下の人は才さえあれば之を用い、専ら何かを主とすることは無かったので、儒者を用いるのが多かった。元になってから、吏を使い始め、執政大臣にも吏(士農工商の下の身分)から抜てきした、……而して中原の士で使われる者は少なくなっていった。況や南方の地は遠く、士の多くは、自ら京師に上ることができず、又その中で才を抱く者は往々、吏となるのをいさぎよしとせず、用いられる者は更に減った。それが久しくなると、南北の士は亦、自ら境界をつくって互いにそしりあい、甚だしきは晋の秦に敵対する如く、同じ中国にはおられぬとして、南方の士は益々減っていった』
 しかし、南方では士人は実は冷落してしまったわけではない。同書「范立中の襄陽に赴くを送る詩序」に云う――
 『宋高宗南遷し、合淝は辺地となり、守臣も多くは武臣がなった。……故に、民の豪傑は、皆行きて将校となろうとし、軍巧を積んだ者の多くは地方軍司令官となった。郡中の衣冠の族はただ、范氏、商氏、葛氏三家のみ。……元の皇帝が命を受け、兵革を収め……諸武臣の子弟は、その能力を使う場所が無くなり、多くは伏し隠れて世に出なくなった。春秋の朔日に郡の大守が(儒教の)学校で行事を催す時、(儒者の)深衣を着、烏角巾を戴き、(儀式用の)籩豆(へんとう)罍爵(らいしゃく)を執り唱賛引導する者は皆三家の子孫で、その故にその材は皆成就し、学校の教官は累々といるし、……天道は満盈を忌み憎むと雖も、儒者の恩沢は深遠なること、古来より然る通りなり』
 これは「中国の人材」たちが儒教を献じ、経典を売ってこのかた、「儒家」の享受してきた佳果である。王者の師とはなれなかったし、吏に次ぐこと数等と雖も、畢竟は将軍達や平民より一等勝り、「唱賛引導」するのは「伏して隠れる」者の望むべくもないところだ。
 中華民国23年5月20日及び翌日、上海ラジオ局で、馮明権氏が一部の奇書:「抱経堂勉学家訓」の話しをした(「大美晩報」に依る)。これは聞いたことの無い本だったが、下に「顔子推」の署があり、顔之推(子ではなく之が正)の「家訓」の「勉学編」だと悟った。
「抱経者」とはそのころ、廬文弨の「抱経堂叢書」に入れられていたためだ。
話しの中に次のような一段があり――
 『学芸のある者は、どこにいても安定していられる。飢饉や戦乱で俘虜を多く目にするが、百世小人と雖も、「論語」「孝経」を読むことができれば、人の師となれる:千載冠冕
(千年官吏をしてきた家)と雖も、書物を読めぬ者は、田を耕し、馬を飼う他ない。この事から分かるのは、諸君どうして自ら学ばないでおられようか?もしいつも数百巻の書を持っていれば、千載ずっと小人であることはない。…諺に曰く「千万の積財も身に僅かの伎(わざ)を持つに如かず」「伎の容易に習得でき、貴とすべきは読書に勝る者無し」
 これは実に透徹した見解で:容易に習得できる伎は読書に如かず。ただ「論語」「孝経」を読むことができれば、俘虜にされても猶人の師となれるし、全ての俘虜の上にいられる。
この種の教訓は、当時の事実から推断できるが、これを金や元のころにてらしてみても、その通りで、明清の際においてもその通りであった。今現在、忽然とラジオ放送で聴衆に「訓」じるのは、講演の選者がすでに将来について、大いに何か感じる所あり、雨の降る前に屋根を修理しておこうとするのか?
「儒者の恩沢の深遠」なことは、小から大を見ることである。
我々はこの事で、「儒術」を理解でき「儒の効力」を知ることができる。
       5月27日

訳者雑感:
ジュジュツと入力すると儒術と呪術が出る。北京語では異なるが日本語では柔術なども
発音が近い。医術とか芸術と同様、儒学も儒術という術で人の生業を助ける方術なのか。
マルクスの術が効力を失ってしまったので、また千載の儒術に戻るのだろう。
金が元に滅ぼされたとき、明が清に滅ぼされた時、儒者はたくみにその戦乱の中を生き延びてきた。民国が日本に滅ぼされそうな時代に、雨の降る前の屋根修理。
今、マルクスの術が効かなくなった時、他に何も頼るものもないから、やはり孔子の術を引っ張りだすしかない。
     2013/08/13記

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連環画雑談

「連環画」擁護者の最近の論調は、「啓蒙」の意味合いが多い。
 古人の「左図右史」は今では只、言葉を残すのみで真相は見ることもできぬし、宋元の小説は、ある物は毎ページ、上段に図、下段に文章の体裁で今も残っていて、所謂「出相」である:明清以来、巻頭に登場人物を描き「繍像」と称した。また毎回の故事に画があるのを「全図」と称した。目的は大概、まだ読んでない読者の購読を誘引するためで、閲読者の興趣と理解を増す為である。
 但し、民間には別に一種の「智灯難字」或いは「日用雑字」があり、一字一像で、両相を対照し、図も見られるが、主意は識字を助けるもので、これを要領よくしたのが、現在の「看図識字」となった。文字の多いのは「聖諭像解」(聖諭の絵とき)「二十四考図」などすべて絵を借りて啓蒙するもので、中国文字は難しすぎるので、絵を使って文字の難しさを助けた産物である。
 「連環画」は「出相」の格式を採り、「智灯難字」の効果を収めており、啓蒙しようというのに都合のよい利器である。
だが啓蒙しようとするなら、分かりやすくないといけない。そのレベルは低能児や白痴向けまでは対応できないが、一般大衆向けに着眼すべきで、たとえば、中国画はこれまで陰影がないので、私があった農民は十人中九人は西洋画と写真に反対で、彼らが言うには:人間の顔の両側がどうして色が違うことがあろうか?というもので、西洋人が画を見る時、見る者が一定の場所に立っているが、中国人はこれまで定点に立って見ていないから、彼の言うのも一理あるわけだ。従って「連環画」は陰影無しで良いと思う:人物の傍らに名を書くのも良いし、夢を見ている時は頭から細い光を放つのも悪くない。見る人は内容を理解したら、自分でそうした補助記号を削除できる。これを本来の姿を失っているとは言えない。というのも、見る人はすでに内容を会得したのだから、芸術的な真実は、実物の通りでなくてはならないというなら、人物の大きさが只2-3寸というのは実物通りでなく、地球大の紙も無いから、地球も描けない。
 艾思奇氏曰く:「大衆の本当に切実な問題に触れることができれば、それがより新しいものであって初めて、より流行させることができる」この言葉はその通りだ。だがそれをそうすれば、触れることができるか、触れる仕方について、よく相談しなければならない。
「分かる」というのが一番重要で、よく分かる絵はやはり芸術足りうるのである。
                5月9日
訳者雑感:
魯迅は三味書屋で勉強していた頃、教師の目を偸んで、小説の登場人物の絵をせっせと書き写したという。子供のころから線描きの所謂「出相」の絵が好きだったのだろう。それでそれを一冊の本にまとめて、それを欲しがる裕福な友達に売って、お金に換えたという。
医者の処方賤を手に質屋通いして、父の病いをなんとか治そうとしていた頃だ。
       2013/08/07記

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「草鞋の脚」(英訳中国短編集)まえがき

 従来中国で小説は文学とみなされなかった。軽視され、18世紀末の「紅楼夢」以後は、比較的偉大な作品も生まれなかった。小説家が文壇に入りこんだのは、「文学革命」運動が始まった1917年以降である。もちろん一つは社会の要請からであり、更には西洋文学の影響を受けたからだ。
 だがこの新しい小説が生き残れるかどうかは、常に不断の闘争の中にある。当初、文学革命者の要求は、人間性の解放で、彼らは既存の古いものを掃蕩すれば、残った物は本来の人間、良い社会だと考えたが、そのために保守派の人達から圧迫され阻害された。
10年ほど後になって階級意識が目覚めてきて、進歩的作家がみな革命文学者となり、迫害は一層厳しくなり、出版禁止、書籍焼却、作家は殺戮され、多くの青年は暗黒の中で、彼らの仕事のために殉難した。
 本社はこの15年来の「文学革命」後の短編小説選集だ。我々はまだ新たな試みを始めたばかりで、幼稚さは免れぬが、それは巨大な石の下の植物のように、余り繁茂はしていないが、折れ曲がりながら成長中である。
 これまで西洋人が中国の作品を語るのは、中国人が自分の物を語ることより多かった。だがそれはどうしても西洋人の見方を免れず、中国の古諺の「肺腑がものを語れるなら、医師の顔は土の如し」で、肺腑が本当にしゃべれても、信頼できるとは限らないが、医師の診断の及ばぬ所もあり、意外に実は本当のこともあるかもしれない。
   1934年3月23日 魯迅 上海にて記す


訳者雑感:これは魯迅がアメリカ人の求めに応じて、茅盾とともに選んだものをアメリカ人(伊羅生)が訳した選集のまえがきだが、実際には出版されず、1974年にMITから内容が大幅に変更されて出版された:出版社注。
 西洋人が自分で選んだものは結構あっただろうが、魯迅や茅盾たちが自分で選んだものをアメリカ人に訳してもらう。それを世界に紹介し、世界の人に中国のことを理解してもらう。それが最終的には中国を変えることに繋がると信じていたのであろう。結局は戦争前に出版されず残念であったが、肺腑がものを語れるなら、医師は云々という諺は、正に中国人自らがものを語れるようになれば、医者の診断で見落としてきたことも発見できるではないか、と期待している。
    2013/08/03記

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国際文学社の問いに答えて

質問――
1.ソ連の存在と成功は、貴方にとっていかがですか(ソビエトを作った十月革命は貴方の思想的回路と創作の性質にどのような変化をもたらしましたか?)
2.ソビエト文学に対するご意見は?
3.資本主義諸国のどういう事件と色々な文化的動きの中で注目したのは何ですか?
  (答え)
1.以前、旧社会が腐敗していると感じていたから、新しい社会ができるのを望んでいたが、「新」とはどうあるべきか知らない:そして「新」ができた後、必ず良くなるか堂か知らない:10月革命後、はじめて「新」社会の創造者が無産階級だと知ったが、資本主義諸国の逆宣伝のため、10月革命に対してはやはり懐疑的だった。現在、ソ連の存在と成功は、確かに私に無産階級が現れることを信じさせ、懐疑を完全に除去したのみならず、多くの勇気を与えてくれた。だが創作上、私は革命の渦の中にいなかったし、長い間各所に考察に行けなかったから、私は只旧社会の悪い所を暴露することしかできない。
2.他の国といっても、只――ドイツと日本――の翻訳しか読めない。現在の社会建設を語るものより、やはり以前の闘争を語る――「装甲車」「壊滅」「鉄の流れ」等の方が――
私には興味があり有益です。ソビエト文学はその大半を中国に紹介したいと思いますが、今はやはり闘争の作品が緊要だと思う。
3.私は中国では資本主義諸国の所謂「文化」というものを見ることはできません:只彼らと彼らの奴才たちが、中国で、力学と化学の方法を使って、更に電気機械で、革命者を拷問し、飛行機と爆弾で革命群衆を殺戮しているということを知るのみです。
   (1934年第3-4合併号の「国際文学」に発表された)

訳者雑感:ソビエトの10月革命が魯迅に中国を変革させようとする思いに希望を与えたことは確かだろう。だが彼にとって、革命成功後のソビエト国家建設を描いた作品より、其れに至るまでの「闘争」を描いた作品の方が、より参考になり興味があると述べている。
 彼は腐敗した旧社会を壊して変革することが彼の責務と感じており、新しい国家建設などを謳歌する作品には食指が動かなかったのだろう。
 かれが1949年の新中国建国後も、なお元気で文章をどんどん書ける状態だったとしても、
彼は筆を置いてしまったことだろう。
    2013/08/02記

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3.中国の監獄について


 思うに、人は確かに事実から新しいことを悟り、状況もそれによって変化する。宋代から清末までの長い間、聖賢に代わって専ら「製芸(八股文)」で建言するという頗る難しい文章で以て、士を採用してきたが(科挙で官僚候補を選抜)、清仏戦争に負けて初めてこの方法が間違いだったことに気付いた。それで西洋に留学生を派遣し、兵器製造局を開設し、改善しようとした。これに気付いてもまだ不十分で、日清戦争に負けて学校を作ることに注力した。それで学生たちは年々おおいに騒ぎ(問題を起こした)。清朝が倒れ、国民党が政権を掌握して、やっとこの間違いを悟り、その改善の手段として、監獄をいっぱい作ったが、それ以外何もしなかった。
 中国でも伝統的な監獄は古くから各所にあったが、清末に少し西洋式、即ち所謂文明的な監獄を作った。これは旅行でやってきた外国人に見せる為で、外国人とうまく付き合って行くためであって、文明人の礼節を学ぶために特別に派遣した留学生と同じ類だ。
このお陰で犯人の待遇もよくなり、風呂やある程度の飯も与えたから、とても幸福な所となった。だが2-3週前、政府は仁政を施すとして、囚人向け食糧をかすめることを禁じる命令を出した。それで更に幸福になった。
 旧式監獄は、仏教の地獄に倣ったようで、犯人を禁錮するだけでなく、苦行をなめさせた。金を取り上げ、犯人の家族からも絞り取るなどで、時にはその両方を行った。だが皆当然だと思っていた。もし誰かそれに反対でもしようものなら、犯人に味方したとして悪党の嫌疑を受けた。(当時国民党は共産党を「匪党」と蔑称していたことを踏まえて、「悪党」という言葉を反語的に使った:出版社)
 だが文明は不思議な進歩をするものとみえ、去年犯人を一度帰宅させて、性欲の解決の機会を与えるべきだ、と頗る人道的な説を提唱する官吏も出た。これは何も犯人の性欲に特に同情しているわけではなく、これまで何も実行できていないから、一つ花火をあげて、自分がそういう存在を示したかっただけだった。しかし世論は沸騰した。評論家のある者は、そんなことしたら牢獄を怖がらなくなり、喜んで入獄するようになるからよくないと、世道人心のために憤慨した。所謂聖賢の教えを受けてかくも久しいのに、あの官吏の様な無責任なものがいないのは、真に頼りになるが、彼の意見は犯人に対して虐待を加えねばならぬということが分かる。
 別の面から考えると、監獄は確かに「安全第一」を標語にする人の理想郷にほど遠い所でないこともない。火災はごく稀、泥棒も来ないし、土匪きっと偸みに来ない。戦争になっても監獄が爆撃の標的にはならず:革命が起きても囚人を釈放する例はあるが、屠戮することはない。福建独立の当初、犯人釈放と言う説もあったが、外に出ると、彼らと意見の異なる連中は逃げ出したという謡言もあった。然しこんな例は、昔は無かった。要するに、けっしてそんなひどい所ではないということ。家族帯同が許されれば、現在のような大洪水、大飢饉、戦争など恐怖の時代、中に入って住みたい人もいないとは限らぬ。それで虐待が不可欠となる。
 (ウクライナ人の)Noulens夫妻は赤化宣伝をしたとして、南京監獄に入れられ、絶食を3-4回したが何の効果も無かった。これは彼が中国の監獄の考えをよく知らないせいだ。官員が訝しく思い:彼が食べないのは他の人に何の関係があろうか?只単に仁政と無関係のみならず、食糧も節約でき、監獄にも有益だと考える。ガンディの計画も興行場所を選ばねば効力は無い。
 しかしかくも完美にちかい監獄にも欠点はある。これまで思想的なことは全く留意されてこなかった。この欠点を補うため、近来「反省院」という特殊監獄を新たに作り、教育を施した。私はまだそこへ行って反省したことが無いから、詳細は知らぬが、言うならば、三民主義を時々犯人に聞かせ、自分の誤りを反省せしめるようだ。この外に、共産主義を排撃する論文も書かねばならぬ由。もし書かないとかやれないというと、当然のことだが、終身反省せざるを得ぬし、格式にあわねば、死ぬまで反省せねばならぬ。今現在入っていった者もおり、出て来た者もいるが、反省院を増やさねばならぬというから、入る者の多いのが分かる。試験を終えて放出された良民にたまたま会うことができたが、大抵はとても委縮させられてしまったようだ。多分反省と卒論の為に力を使い果たしたのだろう。その前途に希望は無い。  (日付記述ないが1934年3月に発表された)

訳者雑感:この三編は日本の雑誌「改造」に日本語で「火、王道、監獄」として載せた物。
この中で触れられている「性欲問題解決のための一時帰宅制度」は1933年4月4日の「申報」に司法界の某要人談として、…壮年の犯人の性欲問題云々として引用されたような提案をしている。人民は罪を犯したら自由は失うが、性欲はこれを奪ってはならぬ…、欧米文明国家には、犯人に休暇が与えられている…、と。日本ではどうだろうか?
 仮釈放とか保護観察とか、犯罪者の更生という観点からだろうが、そんなことしたら喜んで監獄入りを希望する連中が増えて、満杯になってしまうだろう。
中国では最近犯罪者が増え、判決後すぐ処刑するという例が多いそうだ。犯罪者用の食糧をかすめ取るふらちな行為が起こらぬように獄舎での待機期間を短縮するものか)
    2013/08/01記

 

 

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2.中国の王道について

2.中国の王道について
 一昨年、中里介山氏の大作「支那と支那国民への手紙」を読んだ。その中で周漢はいずれも侵略者の資質があったと言う点だけ覚えている。そして支那人は皆彼らを謳歌して歓迎した。朔北の元と清に対してすら謳歌した。その侵略が国の力を安定させ,民生の実をほごしさえすれば、それは支那人民の渇望する王道で、そこで支那人が頑迷でそれを悟らない点に対してたいへん憤慨している。
この「手紙」は満州で発行された雑誌に掲載されたが、中国に輸入はされないから、其れに対する返信的なものはこれまで一篇も目にしていない。ただ去年、上海の新聞に載った胡適博士の談話に云う:「只一つ中国を征服する方法があり、それは侵略を完全に停止し、逆に中国民族の心を征服することである」というのだが、言うまでも無くこれは偶然に過ぎぬが、些かこの手紙への返答の様に感じさせる。
 中国民族の心を征服せよ、これは胡適博士が所謂王道に与えた定義だが、思うに彼自身多分必ずしも自分の言葉を信じていないであろう。中国では実は本当に徹底した王道があったことは無いし「また歴史癖と考証癖」の胡適博士がそれを知らぬはずが無い。
 確かに中国にももともと元と清を謳歌した人もいたが、それは火神を崇める類で、心まですべて征服された証拠にはならぬ。暗示を与えて、もし謳歌しないなら、もっとひどく虐待するぞと脅かせば、ある程度の虐待をしても、人々を謳歌させることができる。
4-5年前私は自由を求める団体に入ったことがあったが、当時の上海教育局長陳徳征氏刃勃然大いに怒って、三民主義の統治下でまだ不満なのか、と言った。そんなことをいうなら、今与えている自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げた。その後、以前より不自由になったと感じるたびに、陳氏が王道の学説に精通していると敬服し、一面では本当に三民主義を謳歌すべきと思わずにはいられなかった。しかし、今やもう遅すぎる。
 中国の王道は一見、覇道と対立する様だが、実は兄弟で、この前と後ろに必ず覇道がやってくる。人民の謳歌するのは覇道の軽減を望み、或いはさらに強化されないことを望むためである。
 漢の高祖は歴史家の説では龍の種だが、実は無頼の徒で、侵略者というのは些か間違いだろう。周の武王は征服者の名を以て中国に入り、さらに殷とは民族も異なるから、現代的な言葉で言えば侵略者と言える。だが当時の民衆の声は今やもう残っていない。孔子と孟子は確かに大いにその王道を宣伝したが、先生たちはただ単に周朝の臣民ではなかっただけでなく、暦国を周遊し、活動したのだが、きっと官(官僚)になろうと思ったかも知れぬ。もう少し耳触りのよい言葉でいえば、「道を行」おうとするためであって、官になる為には、周朝を称賛するのが都合良かったからだ。しかし他の記載を見ると、かの王道の祖師であり且つ専家(プロ)の周朝は討伐の当初、伯夷と叔斉が馬を叩いて諌めて引きとめようとしたが;紂の軍隊にも反抗が加わり、彼らの血を流さざるを得なくなった。次いで殷民はまた造反したが、これらを特に「頑固な民」と称し、王道の天下の人民から除外したが、要するに結局は何か破綻をしたようだ。すばらしい王道もただ一個の頑固な民を消してはじめてその根拠を根こそぎにするのだ。
 儒士と方士(方術を使うもの)は中国特産の名物だ。方士の最高の理想は仙道で、儒士のは王道だ。残念ながらこの二つは中国ではとうとう無くなってしまった。長久の歴史的な事実が証明するのは、もしかつて真の王道があったと言えば、それは妄言であり、今まだあるというのは新薬だ。孟子は周末に生まれたから、覇道を談じるのを羞じとしたが、もし彼が今日に生まれていたら、人類の知識範囲の展開により、王道を談じるのを羞じることだろう。

訳者雑感:
 孔子も孟子も官に就くために諸国を周遊し、周の王道の素晴らしさを説いて、春秋戦国の乱れた社会を「元に戻そう」とした。耳障りのよい言葉で言いかえれば、「道を行う」ために自分を官に採用して、世直しをしようじゃないか、と。
孔子と孟子の弟子たちの更に孫弟子たちが、漢代にようやく採用されて、比較的ましな社会になったことは、それまでのひどい戦国時代より「ましな社会」になったと言えよう。
 今また強大な国力をバックに覇道を唱え始めたのではないかと周辺から危惧されている。
孟子が今日に生まれていたら何というだろうか?
     2013/07/29記

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1934年 中国に関する2-3のこと

1934年 中国に関する2-3のこと
1.中国の火について
 ギリシャ人が使った火は、プロメテウスが天から偸んだものだとされてきたが、中国はそうではなく、燧人氏(燧はひうち、のろし、と訓)が自家で発見した――或いは発明したというべきか。偸んだわけではないから、山上に繋がれ、雕(わし)に啄ばまれる災難から免れたが、プロメテウスのように名声が広まり崇拝されることはなかった。
 中国にも火の神はいた。が、それは燧人氏ではなく、勝手に放火する得体の知れぬ者が。
燧人氏の発見或いは発明以来、旨い火鍋が食べられ、灯をともして夜も仕事ができるようになったが、まさに先哲のいうように「一利あれば必ず一害あり」で、火災も起こり、故意に火を付けるあの有巣氏(樹上の巣に住む人:出版社)が発明した巣という人物も現れた。
温厚な燧人氏は忘れられてもしかたない。たとえ消化不良になったとしても、それは神農氏の領域に属すからで、神農氏は今なお人々に覚えられている。火災については、発明者が誰かは分からない。だが祖師はきっといるわけで、止むを得ぬから火神と適当に称して、畏敬の念を捧げる。彼の画像は、赤い顔、赤いヒゲだが、祭祀の時は赤いものは一切避けねばならず、緑に代える。彼はスペインの牛ほどの大きさで、赤い色をみるとすぐ亢奮し、恐ろしい行動にでる。
彼はこのため、祭祀を受けることになる。中国ではこういう悪の神は大変多い。
だが世間は彼らのおかげで賑やかなようだ。儀仗がくりだすお祭りは火神だけで、燧人氏のは無い。火災が起こると被災者と近隣の被災していない人達は、みんなで火神を祭り、感謝の意を表すのは些か意外に思われるが、もし祭らないと再度焼かれることになるから、やはり感謝しておいた方が安全だということだ。また火神に対してだけでなく、人間に対しても時に同じようなことをするのは、多分儀礼の一種と思う。
 事実、放火は非常に恐ろしいことだが、飯を炊く事と比すと興趣がある。外国の事は知らぬが、中国ではどういう歴史があるか調べてみても、飯炊きと点灯をした人達の列伝は探しだせない。世の中でたとえどんなに飯炊きや点灯が上手でも、名人になる望みは殆ど無い。だが、秦の始皇帝は書物を焚いたことで、今も厳然とした名人であり、ヒットラーの焚書事件の前例として引き合いに出される。かりにヒットラーが点灯やパン焼きが上手くて、歴史に前例を探してみても多分難しかろう。ただ幸いながらそんなことで、世の中は騒がないだろう。
 家を焼くのは、宋人の筆記によれば、蒙古人が始めた由。彼らは天幕に住み、家に住むことを知らぬから、彼らが通過した場所に火を付けたという。だがこれはウソだ。蒙古人には漢文を読める者が少なかったから、これを訂正しなかったせいである。その実、秦末には放火の名人、項羽はおり、阿房宮を焼いて天下に名をはせ、今も戯台に登場し、日本でも大変有名である。しかし、焼ける前の阿房宮で毎日灯を点じていた人の名は誰が知っていようか?
 今や爆撃弾、焼夷弾の類が出てき、加えて飛行機も大変進歩し、名人になるのも容易だ。
更にもし以前より大規模な放火をすれば、その人は更に尊敬され、遠くから見ると救世主のようで、その火の光は光明ではないかと思わせる。

訳者雑感:
 愛宕山に登り、神社に詣でて来た。7月31日の夜にお参りすると千回お参りしたことになるというので、一万人程が参詣するので、そのための電球が924メートルの山頂から半分程のところまで取り付け中であった。
 以前京都に住んでいた時、町内ごとに代表を選んで、町内全員向けに「火廼要慎」というありがたいお札を買って来て、翌日配っていた。木造の町家が櫛比(しっぴ)する京都の下町では、毎年どこかで失火で多くの家屋が焼失する。翌年、その地区の人の多くは自ら愛宕山に詣でて、沢山の賽銭を投じ、あのお札を購入すると聞いて、魯迅が書いているように些か不思議に思った。その人に聞くと、翌年は必ずよりおおぜいの人がお参りして、お願いするのだそうだ。そうせぬと今年もまた失火する人がでてくるから…。
 火神を祭るのは、それまでの自分たちの尊崇の念が足りなかったせいであり、それを反省して今年からは盛大に祭るのだ、ということだ。
 京都の八坂神社の祇園祭も京都に例年流行した疫病から守って欲しいとの切なる願いからあのように盛大になり豪奢な山鉾の飾りとなって「尊崇」の念を表そうとしたものだ、といわれている。
 戦争で犠牲になった御霊に尊崇の念を捧げたいという人にとって、靖国神社の御霊は、愛宕山や八坂に祭られている神と同じだろうか?
     2013/07/28記

 

 


 

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且介亭雑文  序

且介亭雑文  序
 この数年、所謂「雑文」の量が増え、また以前より攻撃を受けることも増えた。例えば自称「詩人」の邵洵美、前「第三種人」の施墊存や杜衡即ち蘇汶、更には一知半解の程度すらない大学生の林希雋の類は、いずれも雑文は骨肉の仇の如く、様々な罪状を加えたが、何ら効果は無く、作者も増え、読者も多くなってきた。
 しかし「雑文」というのも今日の新しい事物ではなく、「古(いにしへ)よりこれ有り」で、凡そ文章は分類するに帰すべき類があり、編年なら書かれた年月に従い、文体に関わりなく各種の文を一か所に入れると「雑」となる。分類は文章吟味に有益で、編年は時勢を明らかにするのに有益で、人を知り、世を論じようとすれば、編年の文集を読まなければならず、今古人の年譜を新たに作るのが流行しているが、それは即ちすでに多くの人がこの間の状況を知ろうとしていることを証明している。況や、今これほど切迫した時、作者の任務は有害なものに対し、すぐ反論し抗争することであり、それに立ち向えるのは、反応神経であり、攻守の手足となることだ。他の巨大長編に専心し、未来の文化に対して構想するのはもとより素晴らしいことだが、現在の抗争のために、まさに現在と未来の為に戦う作者が、現在を失ってしまったら、それは未来も失くしてしまうことになる。
 戦闘には必ず発展の方向がある。それは即ち邵・施・林の輩にとっての大敵であるが、彼らの憎む中身は、文芸の法衣を着てはいるが、その中は「死の説教者」を蔵しており、生存と両立するのは不可能である。
 この一冊と「花辺文学」は去年1年の間、官民からの明々暗々、軟々硬々の「雑文」への包囲攻撃の筆と刀に対して書いたものを集めたもので、私の書いたものは全てこの中にある。勿論詩史(杜甫の詩が歴史を捉えていてこう呼ばれた)などとはおこがましくも言えぬが、中には時代の眉目があり、けっして英雄たちの八宝箱のように、一朝開けば光輝燦爛というものでもない。私は只深夜の街頭で夜店の棚に、幾つかの釘や素焼きの皿を並べたに過ぎないが、何人かの人がこの中から自分の用途に合った物を探し出してくれるのを希望し、かつまた信じる。
        1935年12月30日 上海且介亭にて記す。
訳者雑感:出版社注によれば、魯迅は当時、北四川路に住んでいた。同地区は「越界築路」と呼ばれ、(帝国主義者が租界範囲を越えて築いた路)所謂「半租界」だった由。
それで租界の2字から半分ずつとって且介としたという。そんな遊び心もあったというか、前の「花辺」とか「華蓋」とか、魯迅が自分の雑文集に付けた名前への愛情が感じられる。
 さあこれから本冊と二集、末編という3冊を訳すとしよう。
     2013/07/27記

 

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