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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「これとあれ」

一.
 読経と読史(儒教の経書と史書を読むこと)
 偉い人が、経書を読むべしと言うと、提灯持ちが右に倣えとばかり、経書を読むべきだと唱える。それも何と読むだけではすまず、それでもって救国すると言い出す始末だ。「学びて時に之を習う、亦楽しからずや?」それは確かにそうだ。だが、1895年の日清戦争には負けた。なぜ日本との戦争だけ取り上げるのか?というのは、その時は新しい学校ができる前で、経書を廃止していなかったからだ。
 勉強を始めたばかりの人は、今更糸綴じ本をうんうん唸って学ぶ必要は無いと思う。すでにもう長く勉強した人で、古い書物にはまってしまっているなら、史書を読むのが良い。とりわけ宋代や明代、なかでも野史や雑説が良いと思う。
 今、内外の学者たちは「欽定四庫全書」という名を聞いただけで、魂消てしまい、膝もがくがくと、へにゃへにゃと崩れてしまいそうになる。だが実は,書の原形は改変され、文章も改刪され、簡単な例が「琳琅秘室叢書」の二種の「茅亭客話」で、一つは宋本、もう一つは四庫本で、これを比べればすぐわかる。「官修」で「欽定」の正史も同様。本紀や列伝だけでなく、“歴史の体裁”を整えるだけで、実のあることは何もない。文字や行間に褒貶が隠されているというが、誰がそんなことに気を使って、壺の中身の謎ときなどするものか。今でもなお「平生の事柄を国史館に宣して、伝を立てよ」などと言っているが、もうやめた方が良い。(官僚政治家はこの伝が立つことで名が残るのを目指す:訳者注)
 野史と雑説にも、中には誤伝や恩と怨みに絡んだものもある。しかし、往時を見る目はしっかりしている。それは正史のように恰好をつけなくても良いからである。宋のことなら、「三朝北盟匯編」は骨董品で高すぎる。新刷「宋人説部叢書」が手頃だ。明なら「野獲編」、原本もいいがこれも骨董で、一部数十元もする。「明季南北略」が入手しやすい。また新刷なった「痛史」もお勧めだ。
 史書は本来、過去のエンマ帳で、急進的な猛士とは関係ない。只、先に述べたように、もしそれにはまってしまって、やめられないなら読むのは構わない。我々の目前の状況が、その当時と何と似ていることか、そして現在の混迷な状態、デタラメな思想は、当時にもあって、且またすべて滅茶苦茶だったことがよくわかる。
 中央公園に行くと、おばあさんが孫娘を遊ばせているのを目にする。このおばあさんの容貌は、孫娘の将来を予告している。だから、もし誰かの令夫人の後日の容姿を知りたければ、彼女の祖母を見ればよい。もちろん違いはある。だが総じて言えば、そんなに違わない。我々がエンマ帳を使うのは、このためである。私は、昔からこうだから、現在はもう成すべきことも無く、人々に「過去」に対して畏敬の念を持てとか、過去が我々の命運を決めているなどとは言うつもりは無い。LeBon氏は、「死者の力は生きている者より大きい」と言った。誠に一理あるが、人類は進化発展しているのだ。又、章士●(金+刂)総長の説によれば、米国の何とかいう地方では、進化論を唱えることを禁じた由。これは私を死ぬほど驚かせたが、禁じたいなら禁じさせるまでで、進歩というものは、これはどう転んでも止められないものである。
 要するに、歴史を読むと、中国の改革はいよいよ手を緩めてはならぬとの覚悟ができて来よう。国民性とはいえ、改革が必要なものは改革せねばならぬ。それをしないでは、雑史、雑説に書かれた前車の轍、即ち失敗の前例を学ばないということである。改革すれば孫娘がおばあさんに似てくるなどの心配は無用だ。よい例が、おばあさんの足は纏足で歩行も困難だが、娘は自然の足で、跳びはねたりできる。祖母は天然痘であばたが残っているが、令夫人は種痘のおかげで、つやつやの白い肌。これも大変大きな進歩である。
  十二月八日
二.
 褒めることとけなすこと。(持ち上げることと、掘り下げること)
 中国人は自分を不安にさせる兆のある人間に会うと、これまで二つの方法で、彼を押しつぶしたり、持ちあげたりしてきた。押しつぶすのは、古い習慣と道徳を使い、或いは官の力によって行った。だから孤高な精神の戦士は、民百姓の為に闘おうとして、往々にして、これにやられて亡んだ。それで彼らは安心した。押しつぶせなかったら、今度は持ち上げるのだ。高いところに担ぎあげ、十分に満足させ、自分にとって無害な状況になれば、安心できる。
 利口な人は、利益の為に持ち上げ、勢力家を持ち上げ、役者を持ち上げ、総長の類を持ち上げる。但、一般人は、即ち“儒教の経書”を読んだことの無い人は、持ち上げる“動機”のほとんどは、災厄から免れようと思うからだ。祈り奉る神は、大抵は凶悪な者で、火の神、疫病の神は言うまでも無く、財神も蛇やハリネズミに似た、ひとを脅す畜生である。観音菩薩は良い顔をしているが、これはインドからの輸入で、我々中国の“国神”ではない。要は凡そ持ち上げられるものの十のうち九はロクでもないものである。
 十のうち九がロクでもないものなら、持ち上げられた後、その結果は持ち上げた者の希望に反することになる。不安を増すばかりでなく、怖れを生むことになる。人心というものは、そう簡単に満足しないもので、人々は今に至るもそれを悟らず、持ち上げるのが一時的な安心に過ぎないとは思っている。
 笑話の本に、名は忘れたが、「笑林広記」だったか、ある知県の誕生祝いに彼は子年だったので、部下は金を集めて金のネズミを祝いに贈った。知県はもらった後、別の折に言った。来年は家内が五十歳だ。彼女は私より一年若い牛年だ。もし金のネズミを贈らなかったら、彼は金の牛を思いつきもしなかったろう。一度始めると収拾がつかなくなり、金の牛は贈る力も無いが、仮に贈ったら彼の妾は象年になるかもしれぬ。象は十二支に入っていないから理にかなっていないが、これは私が思いついた話で、知県は我々が考えもしないもっと巧妙な方法を持っていよう。
 辛亥革命の時、私はS城にいて、(革命政府の)都督がやってきた。彼は匪賊の出だが、「経典」を読んだことは無かったけれど、大局をみることはでき、世論を聞くこともできたが、紳士から庶民まで、祖伝の担ぎ揚げで持ち上げられた。こちらで表敬訪問、あちらで御接待、今日は衣服をもらい、明日は高級料亭、持ち上げられて彼はその本分を忘れ、結果、旧来の官僚と同じになり、地上の富を削り取り始めた。(この表現を魯迅は“地表を削り取る”と言う意味の“刮地皮”という成語を使っている、それが次の黄河の氾濫対策提言への導入となる:訳者注)
 一番奇怪なことは、北方各省の河道で、河の全身を持ち上げて、屋根より高くしてしまった。最初は決壊を防ぐために土を積んだ。あにはからんや、積み上げれば積み上げるほど高くなり、一旦決壊すると被害は甚大になる。そこで競って堤を高くし、堤を護り、決壊を防ぐ方法を考える。方法が増えるほど、民は苦労する。もし、最初から河川が氾濫したら、堤をかさ上げせず、川底を掘るようにすれば、このようなことにならないで済むと思う。
 金の牛をむさぼらんとする者には、金のネズミはおろか、死んだネズミすら贈ってはならない。そうなれば、こうした輩の誕生祝いをする必要も無く、誕生祝いに出向かなくてもすむようになれば、これはもう大変な快事である。
 中国人が自らを苦しくさせている根底には、この持ち上げがある。「自ら多幸を求める」道は、掘り下げることにある。その実、労力の量は大差ないのだ。但、惰性に流されている人は、持ち上げる方が省力だと思っている。
 十二月十日
三.
 トップとビリ
 「韓非子」は競馬の奥義を説くに、「トップにならず、ビリを恥じず」と言う。これは我々門外漢から見ても理にかなっているようだ。仮に初めから力いっぱい走ると、途中で馬力が尽きやすい。但、この句は競馬にのみ適用されるべきなのが、不幸にも中国人は処世の金言にしてしまっている。
 中国人は「謀反軍のトップになるな」だけでなく、「災禍を引き起こす首領となるな」や果ては「福の先駆けになるな」などという。だから、すべての改革が容易ではない。先駆けと突撃大将には誰もなりたがらない。しかし人生は道家の人が言うように、恬淡になることですむ訳にはゆかない。それでいて欲しい物はたくさんある。もしまっとうに得ようとしないなら、陰謀と手管を使うしかない。そのため、ひとは日ごとに卑怯になり、「トップになろうとしない」し、「ビリを恥じて」しまう。したがって群衆も危ないと見るや、さっと「鳥や動物のように逃げ去る」。偶に数人が退却せず、害されると、世の評論家たちは、異口同音にバカ呼ばわりする。「こつこつやる」人に対しても同じだ。
 学校の運動会を見た。これはもともと二国間の戦争でもないのに、仇敵視し、競って罵り、殴り合いまでする始末。まあこの件は又別の機会に論じよう。今話すのは、徒競争の時だ。大抵は先頭の三四人がゴールに着くと、それ以外の者はだらけて、数人は所定のコースを走る気も無くして、途中で観客席に紛れ込み、或いはわざと転んで、赤十字の担架で担がれる。もし落後しても完走すると、完走した人を観衆が嘲笑う。多分彼はトンマで「ビリを恥じない」からだ。
 中国にはこれまで、失敗せる英雄は少なく、粘り強い反抗も少なかった。単騎決戦に臨む武人も少なく,反逆者を哭す弔問者も少ない。勝ちそうだとみるや、その周りに群がり、負けそうだと、一目散に逃げ出す。武器が我々より優れた欧米人、我々よりさして優れた武器を持たない匈奴、蒙古、満州人も、すべて無人の境に侵入してきたごとしだ。「土崩瓦解」の四文字はまことにこれを形容していて、自分のことは自分が一番よく知っているということを物語る。
 「ビリを恥じない」人の多い民族は、何事であれ一気に「土崩瓦解」する心配はない。運動会を見るとき、いつも思うのだが、優勝者には敬意を表すべきだが、遅れても、ゴールまで走り終える人と、これを見ても嘲笑わない観客は、正に中国の将来の背骨だろう。
四.
 流産と断種
 近頃、青年の創作に対して、一旦「流産」という悪評がでると、わっとばかりにそれに悪乗りするのが沢山いる。私は信じているが、もともとこの言葉を使った人は、悪意は無かったのだが、偶々そう言うと、それに同調するものも出てくるのは理解できる。世事はもともと大概こうなのだから。
 私はいまひとつ分からないのだが、中国人はなぜ古い事に対して、心は安寧で気持ちも和らぐのだろう。新しい機運に対しては、すぐにも拒絶反応を起し、既成の事にはそんなに完全を求めぬのに、新興のことにはなぜこんなに完全を求めて責めたてるのか。
 知識水準も高く、眼光も遠大な諸先生は我々を指導して、生まれてきた者がもし、聖賢、豪傑、天才でなければ、生まなくてよい。書いたものが不朽の作品でないなら書かなくてよい。改革がすぐ極楽世界に変わるのでなければ、或いは少なくとも我々により多くのメリットを与えてくれないなら、手を出すな!という。
 それなら彼は保守派か?というとそうではない、と。彼は正しく革命家だ。だが、只、公平、正当、穏健、円満、平和で弊害の無い改革法を目下研究中で、まだうまく研究しきれてないという。
 いつ研究成果が出るのか? まだ分からないとの応え。
 子どもの最初の一歩は、大人から見ると確かに幼稚で、危険で、様になっていない。或いはまったくおかしな格好である。ただ、どんな愚かな婦人も、切なる望みは子が第一歩を踏み出すことで、彼の歩き方が幼稚なため、金持ちの車の前に出てひき殺されるのを心配して、ベッドに縛りつけて、横にさせたまま、跳ぶように走れるようになるまで研究させてから、地上に下ろすようなことはしない。彼女はもしそんなことをしたら、百歳になっても歩けないことを知っている。
 昔からこうである、ということでいわゆる読書人は新しく出てきた人に対して、手を換え品を換えて、彼らを縛りつけてきた。近頃は、多少遠慮し、誰か出てくると、大抵は学士文人たちが道をさえぎり、暫く待ちなさい、まあお掛けなさい、と言う。そして道理を説き、調査研究推敲修養…、結果は元の場所にずっと死んだように留まらせる。
さもなければ「かき乱した」との称号を与える。私も今の青年同様、もう亡くなった導師
や存命の人にどう進むべきか訊ねた。彼らは口々に、東に向かってはならん。そして、西
も、南も、北もだめ。だが、東に向かえとか、西へ、南へ、北へとは言わなかった。結局
彼らの心の底にあるものを発見した。それはただ「動くな」だった。
 坐して安寧を待ち、前進を待て。もしそれができれば大変すばらしい。但し、心配なの
は、死ぬまで待っても、待っているものは来ず、生育もせず、流産もせず、一人の英明な
子の生まれるのを待つ。もちろんそうなれば喜ばしいことだが、心配なのはついに何もな
いまま終わることだ。
 もし生まれる子が抜群に優れた子でなければ、断種したほうがましだ、というなら何を
かいわんや。話にもならない。我々が永遠に人類の足音を聞こうとするなら、私は流産は生まないより、希望があると思う。これは明白に出産できることを証明しているから。
  十二月二十日              2020.8.3.訳
 
 訳者あとがき
 平安の昔、菅原道真の出世が余りに早すぎたので、それをねたんだ藤原一族が考え出したのが、「官打ち」という手段だそうだ。菅原家の身分以上に高位の右大臣に持ち上げ、天皇の廃立まで左右できる権力を行使させておいて、最後はザン言により、大宰府に左遷させられた。今回、菅総理が同じ目に会わないことを祈るばかりだ。
 中国でも、宋代に新法党の王安石と党争した旧法党の蘇軾は、何回も地方に左遷されながら、新法党の失脚で中央に戻ったが、やはり上記と同様の「官打ち」に遭い、それを事前に察知して、自ら地方赴任を願いでたなどの話が伝わっている。
 蘇軾が白楽天にならって、西湖の底を浚えて、その土で蘇堤を造った話は有名だ。冬の雨の少ない季節に、湖底や川底を浚える法は南方では可能であったが、北方ではどうだっただろう。
 魯迅はこの作品で、北の人々が、黄河の洪水防止のために、堤を年々高くして、結局は被害を甚大なものにしているから、却って川底を掘り下げる方が良いと説いている。
 阪神間の川は、ほとんど天井川と言われるように、川底の方が高くなっている。本来、川の水は川底を削り取って海に流れるので、川の自然の力に任せて削り取りやすいように、分水を何本も掘り下げて、堤は高くしすぎないのが洪水防止には良いと思う。
 ただ、魯迅の故郷のあたりと違って、黄河はとてつもない量の黄砂を一気に流し込んでくるので、掘り下げれば掘り下げただけ、すぐ溜まってしまうことが問題だろう。最近はダムと分水と取水及び気候変動で、断水現象に悩まされているのも皮肉な結果だ。
南方の洞庭湖は、唐の詩人が歌ったように、「八月湖水平らかなり」で、この平らというのは、最初どういう意味か分からなかったが、夏の大雨によって、水面が岸と同じ高さまで来ている、すなわち水と地は同じ水平線、地平線にあるということで、夏に江南を旅して実感した。江南の水路は地面とあまり段差がないので、そこに架かる橋は水郷の風景でおなじみの下に小舟が通過できるように、丸か台形の高い橋を架けており、それで「高橋」と呼ぶそうだ。もちろん南京や内陸の大都市周辺は高い堤で持ち上げているが、洪水対策用の大きな湖やその支流は水と平らになる。従って、いつあふれ出してもよいように、農家は3-4階建の家を造って避難する。
 三峡ダムも本来ダムのある宜昌あたりは、海抜数十メートルだった水位は今185Mを超えている。この水位がまさしく上流のダム湖の八月湖水平らなり、を生じさせた。何百キロも上流の重慶の水位は175メートルを超え、あれほどの険しい峡谷の崖に立つ住居を水没させて、なお且つ下流に流れて行く速度が緩慢なため、重慶市街も大洪水となってしまった。185メートルのダムというのは、魯迅の反対した堤を高く持ち上げた結果だが、この湖底の底を掘り下げるのは、人類の知恵と手の届かぬところにあるようだ。うまく放水で湖底を掘り下げられれば良いのだが。
 2―3百年前の地図には、上海は正しく海の上だったので、海岸線はだいぶ内陸にあった。あと2-3百年しても、海岸線は過去3百年のようには延び出していないだろうな。
 

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