魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
私の中国生活はおよそ40余年になるが、その間、お世話になったお米について述べてみたい。
【広州のお米】
1957年以来広州で春秋2回開催されていた広州交易会には、1972年の日中国交回復以後、毎回参加し、開催期間中のほぼ1ヶ月、広州の長粒種米にお世話になった。
このお米は、シンガポール、香港の中華料理店や屋台でよく食した、長くて白い香りのある香米という美味しいタイ米に比べると、ゴミや砂が混じり、とてもノドを通る代物ではなかった。
後に耳にしたことだが、ゴミや砂が混じるのは、脱穀用の石を先端につけた棒で稲の穂先を叩いて脱穀した後、アスファルトの道路上の片側で天日干しをしていたためという。
【上海のお米】
1979年頃、上海某製鉄所の案件で商談に参加した際、資金手当で問題が発生し、半年ぐらい案件が中断した結果、暇になってしまった。ある日、上海大厦(旧ブロードウェーマンション)の8階の部屋から、ビルの真下を流れる蘇州河(運河)をぼんやりと眺めていた。
頻繁に行き交う船々にの中に、稲わらを満載したジャンク船が8~10隻連結されて、小型タグボートに牽引されて黄埔江に進んでいくのに気がついた。それらがガーデンブリッジ(白渡橋)を通過して、黄埔江に入ると、連結を解いた各ジャンク船の船頭は、それぞれが契約しているわら半紙工場に向かうべく、必至になってあのジャンク特有の帆を揚げて、黄埔江を進んでいった。
後に聞いたことだが、それらのジャンク船は、帰路、黄埔江の岸壁に何カ所も設けられた屎尿積み込み場で人肥を満タンにして、蘇州河を上っていくという。
先年、久しぶりに上海に出かけた折、以前よく散策した豫園周辺の下町長屋を再訪したが、朝出ししておいた馬桶(マートン)をきれいに水洗いして、家の前に斜めにかけている光景は見られなかった。現在では、住まいも近代的な高層マンションに変わり、戦前からの稲わらと人肥のリサイクルは途絶えたのだろう。
上海の米は、水が悪いせい(?)か、妙な臭いがして美味しくなかった。
【大連のお米】
2000年頃、上海から大連に引っ越すと、お米が急に美味しくなった。
現地の人に尋ねると、戦前、信濃川デルタの改良に携わった日本の農民が、満州開拓団として入植し、全身泥まみれになりながら、広大な遼河デルタの大湿地帯を改良した結果、美味しいお米が生産されるようになったという。
これは日本人が現地人から唯一感謝されていることであるという。遼河デルタは、仙台とほぼ同じ緯度で寒冷地だが、米作には適しているのだろう。
この遼河デルタは、大連から錦州に向かう折、よく通過したが、農業用トラクターに牽引された10数輌もの荷車が、往復2車線の片側を、車線をはみ出すほど稲わらを積み込んで、ゆっくり進み、また、反対方向からもやってくるため、追い越しもままならず、難儀したものだった。
【天津葦簀(ヨシズ)】
このデルタには、また、東洋一の葦原が広がっていて、道路は、稲わらの荷車ばかりか、稲わらよりも長い葦の束を積み込んだ荷車もよく往来していた。葦も、稲わらと同じようにわら半紙になるそうだが、品質のよいものは、ヨシズになるとかで、これらは天津あたりに送られ、天津葦簀となって、輸出されていた。
2017.11.16作成
2017.12.11投稿
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