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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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4.字を書くのは絵を描くこと

4.字を書くのは絵を描くこと
 「周礼」と「説文解字」にはいずれも文字の造り方は6種あるとしているが、それには今は触れない。只「象形」と関連するものだけを取り上げる。
 象形は「近くはこれを身体にとり、遠くは諸物をとる」すなわち、眼を描いて「目」となり、丸を描いて数本の光を放てば「日」となるのは大変明白で便利だ。だが時に壁にぶつかる。例えば、刀の歯を描こうとするとどうするか?刀の背を描かないで置いたとしても、歯は明らかにできない。こう言う時は他のアイデアを使って、刀の歯のところに一つの短い棒を付けて「この部分を指す」意味とし「刃」を造る。これにはすでに色々工夫をこらしたようで、況や、さらに象形しようにも形の無いものがあり、それで「象意」を持ち出すほかなく、これは「会意」ともいう。手を樹上にかざして「采」とし、心を屋根と飯皿の間に置いて「寍」(ねい)とし、食住が問題無いことを「安寍」という。だが「寧可」
という時の寧は、皿の下に一本の線を引かねばならぬ。これは「寍」の音だけを使っているにすぎないことを示すものだ。「会意」は「象形」より面倒で、少なくとも二つの絵を描かねばならぬ。例えば「寶」は屋根と玉と缶と貝の計4つの絵を描かねばならぬ:缶の字は杵(きね)と臼の合成とみれば、合計5つだ。一つの字を書くのにこんな手間がかかる。
 しかしやはり上手くゆかぬものもある。些かの物は描けぬし、またある物は描けぬからである。例えば松と柏は葉が違うから、本来は分けられるのだが、字を書くとなると所詮は文字で、絵画のように精巧には描けぬから、結局やはり無理はできない。これを打開するには「諧声」で、意味と形象の関係を切り離すことになる。これはもはや「音を記す」のだから、ある人たちは、これが中国の文字の進歩だと言う。確かに進歩とも言えるが、その基礎はやはり絵を描くことにある。例「菜は、草に従属し、采の音」というが、草と手(爪)と樹木の3つの形を描き:「海は、水に従属し、毎の音」川と帽子をかぶった母とやはり3つ。要するに:字を書く時はどうしても絵を描かねばならぬわけだ。
 だが古人はけっして愚かではなく、彼らは早くから形象を簡単にし、写実から離れた。篆字の円や屈折にはまだ絵画の余痕があるが、隷書や今の楷書になると形象とは天地の差がある。しかしその基礎は改変されておらず、天地の差はあるが、象形でない象形文字となって、書くのは比較的簡単になったが、覚えるのは非常に難しくなり、一字一字暗記せねばならない。それに幾つかの文字は今も簡単には書けず、「鸞」とか「鑿」などを子供に書かせるには、半年くらい練習しないと、半寸四方の升目の中に書くのは困難だ。
 もう一つ「諧声」は古今の音の変遷により、幾つかは「音」と余り「諧」しなくなってしまった。今日、誰が「滑」を「骨」と読み、「海」を「毎」と読むだろうか?
 古人が文字を伝えてくれたことは、本当に重大な遺産で感謝すべきものだが、象形ではなくなった象形文字、元の「諧声」から少しかけ離れた諧声文字のでてきた現在、これに対する感謝については些かためらわざるをえない。

訳者雑感:中国の漢字の読みは、大多数が一字一音である。もちろん例外は結構あるが、日本語の音訓の多さに比べたら天地の差である。
例えば数次の一は、Yiで四声は変化するが、Yaoと他の言葉と区別する時以外はYiでいい。
日本語だと「いち、ひと(つ)、ひー、はじめ、ついたち(一日)など一杯あり、これを子供のころから一つひとつ覚える。「日」などに至っては、中国語が「Ri」一個なのに対して、「ひ、じつ、にち、ついたちの日、日本のに、二十日のか」など数えだしたらきりが無いほどある。しかしこれらは振り仮名を付けなくとも中学生くらいだと正確に読めるようになる。
 魯迅の指摘する様に、象形でなくなった象形文字を数千個覚えるのは大変なことだが、今は簡体字になって、かつての煩雑な文字よりは比較的容易になった。あとは、「諧声」の改革だと思う。滑稽の滑と骨とがHuaとGuの音だが、他のHuaの音の旁を充てるとか、
海のHaiと毎のMeiも同じで、環境の環の字がHuanなのに返還の還の字はHaiであるが、旁はいずれも不に簡略化しており、この伝でゆくと、さんずいの旁に不でHaiと読ませる方が、海と書いてHaiと読ませるルールより漢字を覚え始める人には便利かと思う。
 ただ、フランスの詩にあるような「母なる海」という母の象形が無くなってしまうのを惜しむ人も多いと思うが。文字は記号だと割り切ってしまえば、氵の右に不でHai(うみ)
というのもあり得ぬことではない。
人が住む家の字を屋根の下に豕(ぶた)がいるのはおかしいとして、ウ冠の下に人を書いた新字ができたが、結局廃されてしまった。長い年月かけて、使い勝手を良くして行く事になるだろう。慶応大学の立て看板には广の中にKOと書いていたころもあった。
    2013/10/01記

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