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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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藤野先生

東京もまあこんなもんだろうと思った。上野の花は今まさに春爛漫、薄紅の春霞は、確かに聞いていた通りであったが、花の下には‘清国留学生’速成班が、頭のテッペンに大きな辮髪を巻きあげ、学生帽をトンがらして、あたかも富士山のようであった。辮髪をバラした者もいて、平たく頭に巻きつけ、帽子を脱ぐと、油でテカテカし、姑娘(クーニャン)の髷のようで、これで首でもくねらせれば、じつに美形であった。
 中国留学生会館のロビーには買いたくなるような本が何冊かあり、時には出かけてみる価値があった。午前中は、洋間に坐って静かに過ごせたが、夕方になると、ある部屋の床がいつもドスンドスンとやかましかった。もうもうとしたほこりが部屋に充満した。
事情に詳しい人に訊くと、「ダンスの稽古さ」とのこと。
 よそに行ってみてはどうだろう。
 それで仙台の医学校に行くことにした。東京を離れて暫くすると、日暮里という駅に着いた。なぜか今もこの名を覚えている。次は水戸しか覚えていない。ここは明の遺民、朱舜水先生が客死された所。仙台は市だが、さして大きな都会ではなく、冬は大変寒い。中国留学生は一人もいなかった。
 物は希なるを以て貴とする。北京の白菜は浙江に運ばれ、紅い紐で根元を束ねられ、八百屋で逆さに吊るされ「膠菜(膠は山東省)」と尊称される。福建で野生している蘆薈(ロカイ)は北京に来ると温室に入れられ「龍舌蘭」という美名を与えられる。私が仙台に来ると、これに似た大変な優待を受け、学費免除だけでなく、数名の職員が宿舎や食事の心配までしてくれた。最初監獄のそばの下宿に入った。初冬でも相当寒く感じられ、それに蚊もまだ多かったので、布団を全身に被り、服を顔に乗せ、鼻のところだけあけて息をした。息の出るところはさすがの蚊も刺すことあたわず、やっと安眠できた。食事も悪くなかったが、ある先生がこの宿は囚人の食事をまかなっているから、よくない、として何回も繰り返し引っ越すように促した。宿が囚人の賄いをしていることと、私とは何の関係も無いと思ったが、好意は辞しがたく、別なところを探さねばならなかった。それで引っ越したのだが、監獄からはだいぶ離れていたが、毎日とても喉を通らない芋の茎の汁を飲まされるはめになった。
 この後、新しい先生にたくさん教わった。新鮮な講義をあまた聞いた。解剖学は二人の教授の分担。初めは骨学。教室に色黒い痩せた先生が入ってきた。八字ヒゲで、眼鏡をかけ、大小何冊もの本を抱え、それを教机に置いて、ゆっくりと抑揚をつけて自己紹介した。
「私は、藤野 厳九郎 といいます…」
後部席から笑いが聞こえた。続けて、日本に於ける解剖学の発達の歴史を語り始めた。大小何冊もの本は、初めのころから今日に至る関係書物であった。何冊かは糸綴本で、中国の訳本の翻刻もあり、新医学に対する彼らの翻訳と研究は決して中国より早いというわけではなかった。
後ろで笑ったのは、前年の不合格者で、一年の経験があり、彼をよく知っていたのだ。彼らは新入生に各教授の来歴を教えてくれた。この藤野先生は、着るものに無頓着で、時にはネクタイを忘れ、冬は一着の外套のみで、寒さに震えている。ある時、汽車に乗っていたら、車掌にスリと疑われ、乗客に用心するようアナウンスされたそうだ。彼らの話しの大抵は事実で、私もネクタイ無しで教壇に上がった彼を見たことがある。
 一週間たち、多分土曜だったか、助手に私を呼びに来させた。研究室に入ると、整体人骨と沢山の頭蓋骨の中に坐っている彼を見た。―――彼はその時、頭蓋骨を研究していて、後に本校の雑誌に論文を発表した。
「講義は聞きとれますか?」と訊ねられ、
「はい、何とか少しは」と答えた。
「見せてごらん」
 ノートを差し出すと、彼は受け取って二三日後に返してくれ、今後は毎週見せるように、と。持ち帰って開いてみて、びっくりすると同時に、ある種の不安と感激を覚えた。ノートは初めから終わりまで、赤ペンで添削されていた。抜けた点も補充されていたばかりでなく、文法上の誤りも一つ一つ訂正されていた。こうしたことが、彼の授業が終わるまで続いた。骨学、血管学、神経学。
 残念ながら、当時の私は余り熱心な学生ではなく、時としていい加減であった。ある時、先生が私を研究室に呼んで、ノートの図を開いた。それは腕の血管だったが、それを指して穏やかな口調で指摘した。
「ほら、君はこの血管を少しずらしているでしょ。こうすると見栄えが良いのは確かだけど、解剖図は美術じゃないから、実物はそうなっているのだから、それを勝手に換えてはいけない。直しておいたから、今後は黒板の通りに描くようにね」と。
 しかし私は納得はせず、口ではハイと応えたが、心の中では「図は私の方がいい線行っているし、実際の状況はしっかりと記憶している」と考えていた。
 学年試験の終了後は東京に出てひと夏過した。秋の初めに学校に戻ると、成績が発表された。百人中、私は中くらいで落第しなかった。今度の藤野先生の担当は解剖実習と局部解剖学だった。
 解剖実習を一週ほど学んだ後、彼はまた私を呼び、大変うれしそうに抑揚のある声で私に言った。
「中国人はとても鬼(死人、幽霊)をこわがると聞いていたので、とても心配だったが、君は死体解剖を嫌がりはしないようで、安心した」
 但、彼は時折、私を困らせるようなことも言った。中国の女性は纏足するそうだが、詳しいことは知らない。それでどのように足を巻くのか、足の骨はどんな畸形になるのだろう。と嘆息して、「やはり見てみないと分からないね。一体全体どんな具合か」
 ある日、クラス会の幹事が下宿に来て、ノートを貸してほしいという。取り出してきて見せたら、ぺらぺらめくっただけで持っては行かなかった。だが、彼らが去って後、郵便配達がたいへん部厚い封書を届けに来た。開いてみると、
「汝、悔い改めよ!」
 これは「新約」の句ではないか。トルストイが最近引用したものだった。その当時はまさしく、日露戦争の真っ最中、ト翁はロシアと日本の皇帝に手紙を書いたが、その書き出しをこの句で始めた。日本の新聞は彼の不遜を大いに譴責した。愛国青年は憤慨した。だが見えない形で彼の影響を受けたようである。続けて、去年の解剖学の試験問題で、藤野先生はノートに記号を付け、私はあらかじめそれを知っていたので、こんな成績を取れたのだ、云々。文末は匿名だった。
 私はこの時、数日前のことを思い出した。クラス会開催の知らせを、幹事が黒板に書いた。末尾に「全員参加のこと!くれぐれも漏れのないよう」その「漏」の字の横に丸印を付けた。そのときは、どうして丸印を付けたのか、おかしかったが不思議にも思わなかった。しかし今になって、あの字も私を風刺しているのだと悟った。私が教員から問題漏えいを受けていた、といわんばかりに。
 私は藤野先生にこの事を話した。私と親しい同級生もとても怒って、言を弄してノートを検査した幹事の非礼を難詰に行こうと言い、彼らの検査結果を公表するよう要求した。それでしまいにはこの流言は消えてなくなり、幹事は懸命に、あの匿名の手紙を取り戻そうとした。トルストイ式の手紙は彼らに返した。
 中国は弱国で、したがって当然のことながら中国人は低能児であり、60点以上とれたのは自分の能力ではない。彼らが疑うのも無理は無かった。
 但、私はそれに続いて、中国人の銃殺を見るという運命に出会った。二年目は細菌学が加わった。細菌の形状はすべてスライドで示された。授業が一段落して、まだ放課までに時間があると、時事関係のものを映した。もちろん全て日本がロシアに勝っている場面であった。どうしたわけか、中国人が出て来、ロシア人のためにスパイをした罪で、日本軍に捕まり、銃殺されるシーンが映された。まわりで見物しているのも中国人。教室の中にもう一人 私。
「万歳!」彼らは手をたたいて歓呼した。この歓呼は各シーン毎に起こった。歓呼の声が私の耳をいたく鋭く刺した。
 その後、中国に戻り、犯罪者を銃殺するのをのんきに見物している人々を見ると、彼らはどうして、酔い痴れるがごとくに喝采するのか、嗚呼―――考えられない! しかしあの時、彼の地で、私の考えはすっかり変わったのだ。
 二年目の終わるころ、藤野先生を訪ねて、私は医学をやめて、仙台も去ると告げた。彼は、悲哀をうかべたような顔で、何か言おうとして、何も言わなかった。
「私は生物学を勉強したいと思います。先生が私に教えて下さった学問はきっと役に立つ、と」実は生物学を勉強しようなどとは決めていなかったのだが、彼の表情が凄然としているのを見て、慰めるための嘘をついたのだ。
「医学の為に教えた解剖学の類は、生物学ではなんら役に立たないだろう」と嘆息された。
 去る数日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚呉れ、裏に「惜別」の二字を書き、私の写真を所望されたが、この当時たまたま写真が無かったので、撮ったら送るように言われた。また、時折は近況を知らせて呉れ、とも。
 仙台を去って後、長い間写真を撮らなかった。状況も無聊をかこち、そんなことを書いたら、彼を失望させるに違いないと思い、手紙を出すのをためらった。時が経てばたつほど、何から書きだしたらよいかも分からなくなり、手紙を書こうとは何回も思いながら、どうしても筆を取れなかった。今に至るまで一通の手紙も写真すらも送っていない。彼からすれば、去りしのち、杳として消息無し、ということになるだろう。
 しかし何故かわからぬが、私は時として彼を思い出し、私が師と仰ぐ人のなかで、彼は私を最も感激させ、一番熱心に激励してくれる師の一人である。しばしば思うのだが、彼の私に対する熱い希望、倦まざる教えは、小にしては、中国の為、中国に新しい医学が起こるため、大にしては、学術の為、新しい医学が中国に伝わることを望んでいた。
 多くの人は彼の名を知らないだろうが、私の目の中と心の中ではたいへん偉大である。
彼の添削してくれたノートは三冊の厚い本に装丁し、永遠の記念にとっておいたが、七年前の引越しのとき、輸送中に一個の箱が壊れてしまった。その箱の中に運悪くこのノートが入っていた。運送局にクレームし、探させたが何の返答も無かった。
 彼の写真は今も私の北京の寓居の東の壁に架けてあり、書机に対している。夜、疲れて、怠けようとするとき、灯の下で、彼の黒くて痩せた顔を仰ぎ見ると、抑揚をつけながら、とつとつと話を始めるようで、私は忽然、また良心を取り戻し、勇気倍増して、煙草に火をつけ、「正人君子」の輩が憎悪し、いやがる文字を書き続けるのである。
  十月十二日                      2010.6.8訳
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
東京もまあこんなもんだろうと思った。上野の花は今まさに春爛漫、薄紅の春霞は、確かに聞いていた通りであったが、花の下には‘清国留学生’速成班が、頭のテッペンに大きな辮髪を巻きあげ、学生帽をトンがらして、あたかも富士山のようであった。辮髪をバラした者もいて、平たく頭に巻きつけ、帽子を脱ぐと、油でテカテカし、姑娘(クーニャン)の髷のようで、これで首でもくねらせれば、じつに美形であった。
 中国留学生会館のロビーには買いたくなるような本が何冊かあり、時には出かけてみる価値があった。午前中は、洋間に坐って静かに過ごせたが、夕方になると、ある部屋の床がいつもドスンドスンとやかましかった。もうもうとしたほこりが部屋に充満した。
事情に詳しい人に訊くと、「ダンスの稽古さ」とのこと。
 よそに行ってみてはどうだろう。
 それで仙台の医学校に行くことにした。東京を離れて暫くすると、日暮里という駅に着いた。なぜか今もこの名を覚えている。次は水戸しか覚えていない。ここは明の遺民、朱舜水先生が客死された所。仙台は市だが、さして大きな都会ではなく、冬は大変寒い。中国留学生は一人もいなかった。
 物は希なるを以て貴とする。北京の白菜は浙江に運ばれ、紅い紐で根元を束ねられ、八百屋で逆さに吊るされ「膠菜(膠は山東省)」と尊称される。福建で野生している蘆薈(ロカイ)は北京に来ると温室に入れられ「龍舌蘭」という美名を与えられる。私が仙台に来ると、これに似た大変な優待を受け、学費免除だけでなく、数名の職員が宿舎や食事の心配までしてくれた。最初監獄のそばの下宿に入った。初冬でも相当寒く感じられ、それに蚊もまだ多かったので、布団を全身に被り、服を顔に乗せ、鼻のところだけあけて息をした。息の出るところはさすがの蚊も刺すことあたわず、やっと安眠できた。食事も悪くなかったが、ある先生がこの宿は囚人の食事をまかなっているから、よくない、として何回も繰り返し引っ越すように促した。宿が囚人の賄いをしていることと、私とは何の関係も無いと思ったが、好意は辞しがたく、別なところを探さねばならなかった。それで引っ越したのだが、監獄からはだいぶ離れていたが、毎日とても喉を通らない芋の茎の汁を飲まされるはめになった。
 この後、新しい先生にたくさん教わった。新鮮な講義をあまた聞いた。解剖学は二人の教授の分担。初めは骨学。教室に色黒い痩せた先生が入ってきた。八字ヒゲで、眼鏡をかけ、大小何冊もの本を抱え、それを教机に置いて、ゆっくりと抑揚をつけて自己紹介した。
「私は、藤野 厳九郎 といいます…」
後部席から笑いが聞こえた。続けて、日本に於ける解剖学の発達の歴史を語り始めた。大小何冊もの本は、初めのころから今日に至る関係書物であった。何冊かは糸綴本で、中国の訳本の翻刻もあり、新医学に対する彼らの翻訳と研究は決して中国より早いというわけではなかった。
後ろで笑ったのは、前年の不合格者で、一年の経験があり、彼をよく知っていたのだ。彼らは新入生に各教授の来歴を教えてくれた。この藤野先生は、着るものに無頓着で、時にはネクタイを忘れ、冬は一着の外套のみで、寒さに震えている。ある時、汽車に乗っていたら、車掌にスリと疑われ、乗客に用心するようアナウンスされたそうだ。彼らの話しの大抵は事実で、私もネクタイ無しで教壇に上がった彼を見たことがある。
 一週間たち、多分土曜だったか、助手に私を呼びに来させた。研究室に入ると、整体人骨と沢山の頭蓋骨の中に坐っている彼を見た。―――彼はその時、頭蓋骨を研究していて、後に本校の雑誌に論文を発表した。
「講義は聞きとれますか?」と訊ねられ、
「はい、何とか少しは」と答えた。
「見せてごらん」
 ノートを差し出すと、彼は受け取って二三日後に返してくれ、今後は毎週見せるように、と。持ち帰って開いてみて、びっくりすると同時に、ある種の不安と感激を覚えた。ノートは初めから終わりまで、赤ペンで添削されていた。抜けた点も補充されていたばかりでなく、文法上の誤りも一つ一つ訂正されていた。こうしたことが、彼の授業が終わるまで続いた。骨学、血管学、神経学。
 残念ながら、当時の私は余り熱心な学生ではなく、時としていい加減であった。ある時、先生が私を研究室に呼んで、ノートの図を開いた。それは腕の血管だったが、それを指して穏やかな口調で指摘した。
「ほら、君はこの血管を少しずらしているでしょ。こうすると見栄えが良いのは確かだけど、解剖図は美術じゃないから、実物はそうなっているのだから、それを勝手に換えてはいけない。直しておいたから、今後は黒板の通りに描くようにね」と。
 しかし私は納得はせず、口ではハイと応えたが、心の中では「図は私の方がいい線行っているし、実際の状況はしっかりと記憶している」と考えていた。
 学年試験の終了後は東京に出てひと夏過した。秋の初めに学校に戻ると、成績が発表された。百人中、私は中くらいで落第しなかった。今度の藤野先生の担当は解剖実習と局部解剖学だった。
 解剖実習を一週ほど学んだ後、彼はまた私を呼び、大変うれしそうに抑揚のある声で私に言った。
「中国人はとても鬼(死人、幽霊)をこわがると聞いていたので、とても心配だったが、君は死体解剖を嫌がりはしないようで、安心した」
 但、彼は時折、私を困らせるようなことも言った。中国の女性は纏足するそうだが、詳しいことは知らない。それでどのように足を巻くのか、足の骨はどんな畸形になるのだろう。と嘆息して、「やはり見てみないと分からないね。一体全体どんな具合か」
 ある日、クラス会の幹事が下宿に来て、ノートを貸してほしいという。取り出してきて見せたら、ぺらぺらめくっただけで持っては行かなかった。だが、彼らが去って後、郵便配達がたいへん部厚い封書を届けに来た。開いてみると、
「汝、悔い改めよ!」
 これは「新約」の句ではないか。トルストイが最近引用したものだった。その当時はまさしく、日露戦争の真っ最中、ト翁はロシアと日本の皇帝に手紙を書いたが、その書き出しをこの句で始めた。日本の新聞は彼の不遜を大いに譴責した。愛国青年は憤慨した。だが見えない形で彼の影響を受けたようである。続けて、去年の解剖学の試験問題で、藤野先生はノートに記号を付け、私はあらかじめそれを知っていたので、こんな成績を取れたのだ、云々。文末は匿名だった。
 私はこの時、数日前のことを思い出した。クラス会開催の知らせを、幹事が黒板に書いた。末尾に「全員参加のこと!くれぐれも漏れのないよう」その「漏」の字の横に丸印を付けた。そのときは、どうして丸印を付けたのか、おかしかったが不思議にも思わなかった。しかし今になって、あの字も私を風刺しているのだと悟った。私が教員から問題漏えいを受けていた、といわんばかりに。
 私は藤野先生にこの事を話した。私と親しい同級生もとても怒って、言を弄してノートを検査した幹事の非礼を難詰に行こうと言い、彼らの検査結果を公表するよう要求した。それでしまいにはこの流言は消えてなくなり、幹事は懸命に、あの匿名の手紙を取り戻そうとした。トルストイ式の手紙は彼らに返した。
 中国は弱国で、したがって当然のことながら中国人は低能児であり、60点以上とれたのは自分の能力ではない。彼らが疑うのも無理は無かった。
 但、私はそれに続いて、中国人の銃殺を見るという運命に出会った。二年目は細菌学が加わった。細菌の形状はすべてスライドで示された。授業が一段落して、まだ放課までに時間があると、時事関係のものを映した。もちろん全て日本がロシアに勝っている場面であった。どうしたわけか、中国人が出て来、ロシア人のためにスパイをした罪で、日本軍に捕まり、銃殺されるシーンが映された。まわりで見物しているのも中国人。教室の中にもう一人 私。
「万歳!」彼らは手をたたいて歓呼した。この歓呼は各シーン毎に起こった。歓呼の声が私の耳をいたく鋭く刺した。
 その後、中国に戻り、犯罪者を銃殺するのをのんきに見物している人々を見ると、彼らはどうして、酔い痴れるがごとくに喝采するのか、嗚呼―――考えられない! しかしあの時、彼の地で、私の考えはすっかり変わったのだ。
 二年目の終わるころ、藤野先生を訪ねて、私は医学をやめて、仙台も去ると告げた。彼は、悲哀をうかべたような顔で、何か言おうとして、何も言わなかった。
「私は生物学を勉強したいと思います。先生が私に教えて下さった学問はきっと役に立つ、と」実は生物学を勉強しようなどとは決めていなかったのだが、彼の表情が凄然としているのを見て、慰めるための嘘をついたのだ。
「医学の為に教えた解剖学の類は、生物学ではなんら役に立たないだろう」と嘆息された。
 去る数日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚呉れ、裏に「惜別」の二字を書き、私の写真を所望されたが、この当時たまたま写真が無かったので、撮ったら送るように言われた。また、時折は近況を知らせて呉れ、とも。
 仙台を去って後、長い間写真を撮らなかった。状況も無聊をかこち、そんなことを書いたら、彼を失望させるに違いないと思い、手紙を出すのをためらった。時が経てばたつほど、何から書きだしたらよいかも分からなくなり、手紙を書こうとは何回も思いながら、どうしても筆を取れなかった。今に至るまで一通の手紙も写真すらも送っていない。彼からすれば、去りしのち、杳として消息無し、ということになるだろう。
 しかし何故かわからぬが、私は時として彼を思い出し、私が師と仰ぐ人のなかで、彼は私を最も感激させ、一番熱心に激励してくれる師の一人である。しばしば思うのだが、彼の私に対する熱い希望、倦まざる教えは、小にしては、中国の為、中国に新しい医学が起こるため、大にしては、学術の為、新しい医学が中国に伝わることを望んでいた。
 多くの人は彼の名を知らないだろうが、私の目の中と心の中ではたいへん偉大である。
彼の添削してくれたノートは三冊の厚い本に装丁し、永遠の記念にとっておいたが、七年前の引越しのとき、輸送中に一個の箱が壊れてしまった。その箱の中に運悪くこのノートが入っていた。運送局にクレームし、探させたが何の返答も無かった。
 彼の写真は今も私の北京の寓居の東の壁に架けてあり、書机に対している。夜、疲れて、怠けようとするとき、灯の下で、彼の黒くて痩せた顔を仰ぎ見ると、抑揚をつけながら、とつとつと話を始めるようで、私は忽然、また良心を取り戻し、勇気倍増して、煙草に火をつけ、「正人君子」の輩が憎悪し、いやがる文字を書き続けるのである。
  十月十二日                      2010.6.8訳
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
訳者 あとがき
京都でも新撰組のころ鴨の河原に首が転がってい、大森でもさらし首が通行人に見せるようにさらされていたそうだ。西洋人がそれを見て治外法権を主張したと言われるような、犯罪者を見せしめにする野蛮性を残していた。ギロチンのフランス革命から百年後のこと。
フランス人ジャーナリストが山西の平遥に来て、その刑のすさまじさを写真に残している。
魯迅の小説の中には、本品も含め、阿Q正伝,薬、頭髪の話しなど処刑の場面が生々しく出てくる。秋瑾、徐錫麟など同郷の運動家の処刑が、影響を与えたに違いない。そしてその処刑を、酒を飲んでもいないのに、酔い痴れるがごとく見物している刑場の周りの顔 顔 顔。それがあの時、彼の地で彼をすっかり変えた、と彼は記す。
今日ではもうさすがに、盛り場での処刑は無くなったが、凶悪犯については判決後3日で処刑した、とテレビで報じる。すべて見せしめのための市中引き回しの発想から出ているようだ。判決に至るまでの裁判の様子も、容疑者(というより殆ど犯罪人扱いだが)は阿Qが着せられたようなチョッキ、というか交通警察が危険防止のために着るハデハデしい原色のものを着させられて、坊主頭でテレビに映される。このチョッキは、清朝時代の映画などで犯罪者が頭から架けられる首かせが変化したような形だ。阿Qではないが、首切りが銃殺に変わったのはS城の見物人たちにはつまらなかった、というが、つい十年ほど前には、テレビで銃殺されるシーンが放映されていた。チャウシェスクが部屋の隅に追い詰められたのと同じ目的であろう。猿を怯えさせるには鶏の首を目の前ではねるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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