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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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孫文夫人・宋慶齢の死

 北京の中南海のやや北、北海および什刹海という湖の西側地区には、中国政府要人の住居が多い。ここはやや古びた大きな別荘地のようで静かな雰囲気に包まれている。1981年頃から外国人にも開放されだした。ある日その辺りを歩いていたら、「宋慶齢故居」という案内が偶然に目に入ってきたので、見学したことがある。
 その後しばらくして、ラジオを聞きながら散歩していたら、イヤホンから、宋慶齢の死を告げるニュースが流れてきた。そのコメントでは、遺骨は孫文の墓とは別の場所に埋葬されるということだった。不思議に感じたので、その訳を親しい中国の友人に尋ねたら、彼女は、1925年(民国14年)の孫文の死去の後、他の男性と一緒に暮らしてきたから……ということだった。
 中華民国の建国の父、国父たる孫文の正夫人だったのだから、もし国民党の政権が続いていたら、彼女は国父の正夫人として「国母」と呼ばれていただろう。だが国民党政府は、毛沢東を中心とする中国共産党との戦いに敗れ、台湾への逃亡を余儀なくされた。
 彼女は、孫文死去後の1930年代以降、魯迅たちの左翼文芸戦線に近づき、共産党に近い立場で活動していた。魯迅の作品にも、彼女がアグネス・スメドレーと一緒に写っている写真が記載されている。

      魯迅の葬儀の様子
 1936年の魯迅の葬儀に際して、彼女は葬儀委員として、作家の茅盾や内山完造らとともに名を連ね、彼らとともに「民族魂」と大書された白い棺掛け布に包まれた魯迅の棺を取り囲ながら、何万人もの上海市民と一緒に万国公墓へ向かっている。
 その後も彼女は、国民党とは一定の距離をとりつつ、非共産党員でありながら共産党に協力している。新中国建国後も政治協商会議の重要メンバーとして共産党政権を支えていった。その彼女にしてみれば、自分の死後、孫文の墓に埋葬されるのは、思想的にも夫婦感情的にも受け入れられないことだったのだろうか?
2017.6.12作成
2017.6.16投稿
2017.6.19改訂

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