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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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子の写真から考えたこと

子の写真から考えたこと
 長い間、子がなかったため、それは私の品行が悪いせいで、種が絶えるぞと言われたりした。家主の奥さんは、私に文句がある時には、彼女の子供たちが私の所へ来るのを禁じ「死にたくなるほど寂しがらせればいいさ!」と言った。だが今、子ができ、うまく育つか分からぬが、しゃべれるようになり、自分の意見も言えるようになった。しかししゃべれない時の方がよかった。しゃべれるようになると、ときに私の敵のようにすら感じる。
 子は私に時々たいへん不満を抱き、ある時私に対して「僕が父親になったらもっと良い父親になる…」と言い、甚だしきは「反動」(政敵を罵った常套句)だと言い、厳しい批評をし、「こんな父親は、何という親父だ!」とまで言った。
 彼の言葉は信じない。子供の時は将来良い父親になろうとするが、自分に子ができると、以前の宣言はすっかり忘れてしまう。また私も自分としてはそんな悪い父親とは思っておらず、時にはしかったり、ぶったりもするが、本当は彼を愛している。だから彼が元気で、活発で、腕白なのに対して、頭ごなしに叱ったりはしない。本当に「何という親父だ」ということなら、彼は面と向かってこんな反動的な言動をするだろうか?
 但し、その元気の良さと活発さは時にひどい目にあい、9.18事件以後、同胞から日本人の子供と間違われ、何回もなぐられ、罵られた――無論大したことはなかったが、ここでは彼が話したことや、言われたことを書くのは余り気分が良くないほどだ。しかしこの1年余はもうそういうことは一回も無かった。
 中国と日本の子供に同じ洋服を着せたら、一般的には見分けるのは難しい。但し、当地の人は間違った速断法を持っていて:おだやかで、文雅で、大声で笑ったりせず、動き回らないのは中国の子で」元気が良く活発で、見知らぬ人を怖れず、大声で叫び跳ねるのは日本の子だ、と。
 しかし不思議なことは、私が日本の写真館で彼を撮った写真は、満面腕白そのもので、本当に日本人の子のようだった:後に中国の写真館で撮ったのは、似た服装だったが、顔は謹厳で、従順で、正真正銘の中国の子だった。
 このことから、私は考えた。
 この差の大きな理由は写真師にある。彼の指示通りに立ったり坐ったりの姿勢は、両国の写真師の違いからくるので、しっかり立たせた後、目を大きく開いて写真機を覗き、彼が一番いいと思う一瞬の顔を撮るのだ。写真機のレンズの中で子供の表情はたえず変化し、時に活発、時に腕白、時に柔順、時に謹厳、時に面倒な顔、怖れたり、平気な顔だったり、疲れた顔だったり……。柔順で謹厳な一瞬を撮ったのは中国の子供の顔で、活発で腕白な顔を撮ったのは日本の子供のようだ。
 柔順というのはけっして悪くは無いが、成長しても一切の事に柔順なのは美徳とはいえず、将来の見込みに欠ける。「父」と先輩の話しは無論聞かねばならぬが、それは道理があることが前提だ。ある子が何事も自分は人に及ばないと思って、お辞儀して引き下がるのは:或いは満面笑みを浮かべながら、実際はたえず陰謀と闇の矢を放つのは、私に面と向かって、私のことを「なにが父親なものか」と罵るのを聞く方が爽快であり、彼自身も一個の人間たることを望むものだ。
 しかし、中国の一般の趨勢は、只柔順な方向に向い――「静」の方面に成長し、眉を垂れ、目は従順で、唯々諾々とするのが良い子だとされ、之を「見込みのある」という。
活発、元気、頑強、胸を張り、上を向き……凡そ「動」に属すことに対して、人々は首を横に振りがちで、甚だしきは「洋気(西洋かぶれ・日本かぶれも含む)」という。そして又多年に亘り侵略されたために、この「洋気」は仇で:更に言えば、故意にこの「洋気」の逆・反対のことをやろうとする。彼らが活動的なら、我々はかたくなに静かに座す:彼らが科学を説くなら、我々はコックリさん(迷信)を信ず:彼らが短い上着を着るなら、我々は長衫を着る:彼らは衛生を大事にするが、我々はハエも食す:彼らは壮健だが、我々は病気がち…、それでこそ中国の固有文化を保持でき愛国であり、奴隷性はない、とする。
だが、私の観点からすると、所謂「洋気」の中にも優れた点は少なくないと思われる。
中国人の性質の中にもともとあったものが、歴代の朝廷の抑圧で委縮してしまい、今や自分でも訳が分からないほど、洋人(外国人)にあげてしまった。これは必ず取り戻さねば――回復せねば――無論更にもう少し慎重に選ばなければならぬが。
 たとえ中国固有のものでなくても、優れていれば我々は学ぶべきだ。たとえその師が我々の仇敵でも、我々は彼から学ぶべきだ。
 今ここに現在みんなが好きでない日本を取り上げようと思う。彼らの摸倣に長じていること、創造の少なさについて、多くの中国の論者は軽んじているが、彼らの出版物と工芸品を見ただけでも、とうに中国の及ぶところではないことから「摸倣に長じている」ことはけっして劣る点ではないことがわかる。我々はまさにこの「摸倣に長じている」事を学ぶべきである。その上に又創造を加えられれば、さらに良いではないか?さもなければ、ただ「恨みを抱いて死す」のみにすぎぬ。
 今ここにもう一言付け加えるのは余計なことだが:私は自分の主張を信じており、けっして「帝国主義者の指図を受けて」中国人を奴才に引き込もうとしているのではない:口先だけの愛国を唱え、全身国粋で固めていると雖も、実際には奴才になりさがるのを防ぎきれていない。          8月7日
訳者雑感:
 1934年の夏、9.18で日本に東北満州を占領され、華北にもその手が伸びてきていた時、魯迅の子供は日本人と間違われて、同胞から嫌がらせを受け、罵られたと記している。
そういう情勢でも、彼はこのころ上海に来た日本人と多く面談会食している。当時の一般中国人は日本を憎み、軽蔑していた。仇敵とみなしていた。状況は尖閣購入直後の反日と似ている。(もちろん当時は実際に戦争状態であったが)それでも彼は、洋人に学ばねば中国は「恨みを抱いて死す」ばかりだ、と説く。これは日本帝国主義者の指図を受けて言っているのではない、と。今年の9.18は政府のコントロールを受けてか、穏やかであった。     
2013/09/20記

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曹聚仁氏への返信

曹聚仁氏への返信
聚仁様
 大衆語の問題は提起されてから実に長い時間が経ちましたが、私は研究したことが無く、これまで黙っていました。しかし現在の文章の多くは「高論」で、文章はよいですが、言うは易くても実行できないので、直ぐ消え去って、元の木阿弥です。
 今、質問に答えて、私の簡単な意見を下記します。
1.漢字と大衆は勢いとして両立できない。 
2.従って、大衆の言葉を推進しようとするなら、ローマ字拼音(ピンイン:発音記号)を使わねばならない。(即ちラテン化で、今一部の人は二つのこととしているが私にはそのわけが分からない)そして幾つかの区域に分け、各区域も小区に分ける。(例:紹興地方も少なくとも4つの小区に分ける)書く時も、初めは純粋にその地の方言を使う。だが、人は進歩しようとするから、その時は元々の方言ではきっと不満足で、(普通語の)口語や、欧州の文字及びその語法を採用するしかない。但し、交通が盛んで、多くの言語が混じり合う所は、また別種の言葉を使っており、より普通のもので、それは新しい語彙を使っており、これが「大衆語」のひな型だと思う。その語彙と語法は貧しい地方や辺鄙な所にも持ちこめる。中国人は何はともあれ、将来必ず数種の中国語を通用させねばならぬ運命にあり、この事は教育と交通によって成し遂げられる。
3.ラテン化は大衆自らが教育を手中にした時に普及する。今我々が為し得るのは:
(甲)ラテン化法を研究:(乙)広東語の類を試験的に使い、読者のより多い言葉で、実物をつくり:(丙)口語をできる限り簡単で通じやすくし、分かる人を増やす。但し、精密な所謂「欧化」言語はやはり引き続き支持する。というのは、話し言葉を精密にしようとするなら、中国の既存の語法では不足だからである。中国の大衆語も決して永久にいい加減にしておけぬからだ。例えば、欧化反対者がいう欧化は、即ち中国固有の字ではなく、新しい字や語法を持つか、或いは使わねばならない時期にきているのだ。
4.田舎における啓蒙的な大衆語は、方言を純用せねばならぬが、一方では改善が必要で、例えば、「媽的」(マーダ:この野郎とか罵る言葉だが随所で使われる)は田舎では色んな意味を持ち、時に罵り、時に敬服、時に賛嘆の意味があり、それは本人が他の言葉を使えぬからだ。先駆者の仕事は、彼らの多くの言葉に、より明確な意味を持たせられるようにし、同時により精確な意味が分かる様にさせることだ。もし例の調子で「この媽的天気は本当に媽的で、こんな状態のままだと、何もかも媽的だ」とやって行ったら、大衆に何の益があろうか?
5.すでに大衆語のひな型がある所では、それに基づいて、大いに改善して行けばいい。
特殊な土語は使わぬほうが良い。例えば、上海で「打」というのは「やられる」ということで、上海人の会話には使えるが、作者が叙事する文章には使わない方が良い。「打」といえば、労働者も同じように分かるからだ。一部の人の間で「いかにももっともらしい」類の言葉は、通用していると考えられているが、不確かであり、北方人のこの言葉に対する理解は江蘇人とは違うし、その感覚もけっして「厳密にその通り」ではない。
 書き言葉と話し言葉は、完全に同じということにはならず:話す時は多くの「あのこの」「そのあの」という類が挟まるが、何の意味も無いし、書く時は時間と紙の節約と、意味を明確にするために削除するから、書き言葉は話し言葉より必ず簡潔であるべきで、明解であり、違いがあってもそれは書き言葉の欠点では無い。
 従って、今実行できるのは、(1)ローマ字拼音を作ることだと思う。(趙元任のは煩雑で使えないが):(2)もっと平明な口語、より共通の方言を使ったものを暫く大衆語法の作品とみなして、思想については言うまでも無いが「進歩的」であるべきで:(3)やはり欧化文法を支持し、一つの予備とする。
 もう一つ、文語の保護者は今も大衆語の旗手を叩くが、彼は一面では、その立論は極めて高く、大衆語を空高く掲げてしまって、どうしようもない状態である:別の面では、これを借りてきて、彼の当面の大敵――話し言葉を攻撃している。この点も注意すべきだ。
さもないと我々は自分から武装解除してしまうことになるからだ。
とりあえずご返事まで。
お元気で。                   迅上
                        8月2日
訳者雑感:
1968年夏、文化大革命中の中国各地を訪ねた。江西省や湖南省の人民公社や革命記念館、毛沢東の生家などで現地の人の説明を受けるとき、まずその地の方言で説明があり、それを同行の通訳が北京語にし、それを日本語に訳すという大変面倒な状態であった。
その説明の前に、リーダーの青年が赤い毛主席語録を掲げ、第何ページを開きましょう、といって北京語で朗読すると、多くの人はそれに唱和する。しかし中年以上の人達はそれぞれの方言で発音するしかない。子供たちや学生たちがそうした親たちに北京語の発音を伝えるが、うまくゆかなかった。だが、この毛語録の朗読が共通語の普及にも役だった。
 1970年代、宝山製鉄所の商談で半年ほど上海にいた。北京の商店には漢字の看板だけで、ローマ字は無かったが、上海の通りのすべての看板の漢字にはローマ字でルビがふってあった。上海人達が北京語で発音できるようにとの政策だった。
 1970年代にシンガポールにいた頃、ラジオのニュースは7-8個の方言で放送していた。
2百万人ちょっとの人口の7割くらいが華人だったが、北京語を理解できる人は少なかった。
北京語、福建語(アモイとミンナン)広東語(広州と潮州スワトウ)、海南語など。私の1年先輩は、会社から香港に語学修業生に派遣されて、広東語を学んだ。(1972年頃)
私自身もシンガポールで広東語を家庭教師について勉強した。広東語が話せないと会話ができない人も大勢いたからだ。手元に広東語の辞典とアモイ語の教科書がある。頁を開くと、千字文がアモイ語と日本語のローマ字が併記され、英語の訳がついている。日本がシンガポールを占領したのは確か1941年末だったが、この本は1940年8月初版のままだ。
この千字文の漢字のローマ字表記はアモイ語と日本語が非常に近い、北京語よりも近いことが分かる。例えば日月はJit goat,とJitsu getsu(今の日本ではニチゲツが普通だが)。
これは、日本人にとっても、一旦アモイ語の漢字発音を覚えれば、他の漢字音を類推するのは比較的容易であったし、逆も又真で、福建の人には日本語漢字音を類推するのは容易だと言える。(無論、日本語の訓読みは別の問題だが)
 1990年代には改革開放で、全国に開発区が雨後のタケノコのごとくにでき、テレビ工場が建設され、一家に一台テレビが普及し、その地方の方言の番組と北京語の番組が放映されたが、プログラムの面白さでは断然北京語の方が面白いから、一部の古典劇やニュース以外は、あっという間に北京語が席巻していった。大衆語の普及は、かくして魯迅たちが心配していた以上のスピードで広まった。以前は地方に出張してテレビをつけると、各地の方言の番組の方が多かったが、今ほとんどが北京語になり、広東では、広東語のテレビを残そうと言う運動がニュースになっているほどで、将来は、上海語と広東語ですら伝統劇の番組くらいしか残らず、それも分かる人が少なくなって減少することだろう。
     2013/09/15記

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劉半農君を憶う

 劉半農君を憶う
 これは小峰が私に与えた題目だ。
 この題は決して分にすぎるものではない。半農の死はむろん哀悼せねばならぬ。彼も私の古い友人だから。但しそれは十数年前の事で、今はもうそうは言えない。
 彼とどの様にして知り合ったか、彼がどういうことで北京に来たかは、もう忘れた。彼が北京に来たのは多分「新青年」に投稿してからで、蔡孑民氏(元培)か陳独秀氏が招いたもので、北京に来てから「新青年」内の一個の戦士となった。彼は活発、勇敢で大きな戦を何度もやった。例えば、王敬軒に答える「なれあい論戦」、「她」や「牠」という字の創造(女性と獣の三人称)などだ。この二つのことは今から見ればちいさなことだが、十数年前は、単に新式の句読点提唱をしただけで、大群の人々が「両親を亡くしたごとく」にさびしがり、すごく憎んで「その肉を食らい、はぎ取った皮上で寝る」ほどの激しさで、従って、確かに「大きな戦い」だった。今20歳前後の青年は、30年前には、単に辮髪を切っただけで牢に入れられ、首を切られたということを知る人はとてもすくないだろう。が、それは事実だった。
 しかし半農の活発さは、時に軽率に近く、勇敢さも無謀に失する所もあった。だが敵への攻撃を相談するときは良い仲間で、実行中に口と心が裏腹になったり、ひそかに背後から刃を突き付けることはなかった。もし事が上手くゆかなかったとしたら、それは計画が上手くなかったせいであった。
 「新青年」を出した後には、編集会を開き、次回の内容を打ち合わせた。その時、最も私の注意を惹いたのは、陳独秀と胡適之だった。もし戦略を武器庫に比すと、独秀氏は外に大きな旗をたて、大きな字で:「中は武器で一杯故、注意せよ!」と書いた。だが門は開いており、中には数丁の銃と刀が数本なのが一目瞭然で、注意するまでもなかった。適之氏の門はピシッと閉めてあり、そこには小さな紙に:「中に武器は無い。疑うなかれ」と。これは本当の事だともいえるが、一部の人にとっては――少なくとも私みたいな人間には――時にはどうも首を傾げて考えざるを免れぬ。半農はその逆で、中に「武器庫」があるとは感じさせぬ人間だった。私は陳・胡は敬服したが、半農には親しみを感じた。
 親しみというが、それは何度も閑談をしたに過ぎぬが、何度も話していると欠点も現れる。殆ど1年余りの間、彼は上海から来た才子が必ず帯びている「妾を側に、夜書を読む」という艶福な考えから抜けきれておらず、何度も罵られてやっとそれを棄てた。だが彼はいたるところでこんなデタラメを吐いていたので、一部の「学者」は眉をひそめていたようだ。ある時期「新青年」への投稿もすべて排斥された。大変勇敢に書いたが、古いのを見てみると、何号かには彼のが無い。その人達は彼の人格を浅いと見ていた。
 確かに半農は浅かった。が、彼の浅さは一条の清渓の如く、澄明で底まで見え、たとえ大量の滓や腐草があっても、その大筋としての清さは掩いつぶされなかった。もしそこに泥水がつまっているなら、その深さは分からなくなるが:もし泥水ばかりの深淵なら、少しでも浅い方が良い。
 だがこうした背後からの批判が、半農の心を大変傷つけ、彼がフランスへ留学したのも大半はこのせいだと思う。私はとても筆不精なので、その後我々の間は疎遠になった。彼が帰国した時、彼が外国で古書を書き写したことを知り、後に「何典」(清代の風刺小説)に標点を付けようとしていることを知り、私は古くからの友として、序文に真面目な事を書いた。が、その後で、半農はとても面白くないと思っていたことを知った。「口から出てしまったものは、もう取り戻せぬ」からどうすることもできなかった。他にも一度「語絲」
について、被我の心に、言うに言われぬ不快なことも起こった。5-6年前、上海の宴席で一度会ったが、もう何も話す事もなかった。
 ここ数年、半農は段々高位に就き、私も徐々に彼を忘れた:だが報道で、彼が(外来語)「蜜斯」(Miss)の類を使うのを禁じるという記事をみて、反感を持った:私はこうしたことは、半農が言いだす必要もないことだと感じていた。去年から彼はしばしば諧謔詩を作り、デタラメの古文を弄すのを見、かつての交情を思い出し、長い溜息がでた。もし会っても、古くからの友人として「今日はいい天気だね…ハハハ」だけですませなかったら、きっと衝突したことだろう。
 しかし半農の熱い心は、私を感動させた。私は前年、北平に出かけたことがあったが、後にある人から半農が私に会おうとしたが、誰かに脅されて果たせなかった、と聞いた。これが私を大変慙愧させた。なぜなら、私は北平に着いても実は半農を尋ねようと考えもしなかったからだ。
 今彼は死んでしまった。彼への気持ちは生前と変わらない。10年前の半農を愛すが、ここ数年の彼は憎んだ。この憎しみは友人としてのもので、私は彼が常に10年前の半農であることを望んでおり、彼は戦士としてたとえ「浅」くとも、中国にとっては有益であったからだ。私は憤りの火で、彼の戦績を照らし、一群の陥沙鬼(砂に陥没させる悪魔)達が、彼の生前の栄光と死屍をいっしょくたにして、底なしの泥の淵に投げ込ませぬよう願う。
       8月1日

訳者雑感:
 これは結核で若くして死んだ素園君(翻訳家)への弔文とはだいぶニュアンスが異なる。しかし正直であり、率直である。「新青年」を一緒に盛り上げていた頃の半農を「浅」くとも、中国にとって有益な仕事をしたと評価している。しかし半農は北京大学教授や、北平女子文理学院の院長などまで務めているが、43歳で没した。
 「新青年」の編集会議でのひとコマとして、陳独秀の「中はがらんどう」の武器庫と、胡適の「中に武器は無い。疑うなかれ」の対比は面白い。半農には「武器庫」は無かった。
        2013/09/11記

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韋素園君を憶う

韋素園墓記
韋君素園之墓
君は1902年6月18日生まれ、1932年8月1日卒す。
嗚呼、才宏く、志遠きも、短年に厄す。文苑は英を失し、明者を永遠に悼む。
弟叢蕪、友静農、霽野 表を立つ。魯迅書

韋素園君を憶う
 記憶はあるのだが、だいぶ抜け落ちてしまった。我が記憶は庖丁でそがれた鱗のように、一部は残っているが、一部は水に落ちてしまい、かき混ぜると何枚かは浮き上がり、きらきらするが、中には血の筋も混じり、私自身も見る人の目を汚しはせぬかと危惧する。
 今数名の友人が、韋素園君を記念しようとしており、私も何か言わねばならぬ。確かに私には義務がある。私の体の外の水をかきまわせば、何が浮かび上がるか見るしかない。
 十余年前、私が北京大学で講師をしていた頃、ある日、教員控室で髪も髭もとても長い青年に会ったが、それが李霽野だった。素園君とは多分霽野の紹介で知り合ったのだが、その時のことは忘れた。今記憶にあるのは、彼がすでに客舎の小さな部屋で、出版を計画している時だった。
 この部屋が未名社だった。
 当時、私は2つの小叢書を編印していて、一つは「烏合叢書」で創作専門。もう一つが「未名叢刊」で翻訳專門。いずれも北新書局から出版していた。出版社と読者が翻訳を評価しないのは、当時も今と同じだから「未名叢刊」は特に冷遇されていた。たまたま素園たちが外国文学を紹介したいと考えていて、李小峰と相談し「未名叢刊」から出て、数人の同人が自分たちで発行しようとした。小峰は即了解した。そこでこの叢書は北新書局から離脱した。原稿は自分たちのものゆえ、別途印刷費を集めて始めた。この叢書の名から社名も「未名」とした。――だが「名無し」ではなく、「まだ名の無い」意味で、丁度子供を「未成年」というに似ている。
 未名社の同人には実は何も大それた雄志とか大志がある訳ではないが、一歩ずつ着実にやって行く願望は一致していた。その骨幹が素園だった。
 それで彼は小部屋の未名社で活動していたが、半ばは、病気で学校に行けなかったので、自然彼が砦を守る役になったからだ。
 私の最初の記憶は、みすぼらしい砦で素園に会ったことだ。痩せて小柄だが、テキパキとしていて、真面目な青年で、窓前の数列の擦り切れた古い外国の本は、貧しいが文学に取り組んでいることを証明していた。しかし、私は同時に悪い印象も持った。笑顔が少ないから、彼とは上手くやって行けないのではと感じた。「笑顔が少ない」のは元々未名社の同人の特色で、素園はそれが特に顕著でひと目見て、そう感じさせた。だが後になって、それは私のかん違いだと分かった。彼とのつきあいは難しくなかった。彼が笑わないのは、多分年齢の差から来るので、私には特別な態度で接したのだろう。残念ながら私は青年になって、被我の差を忘れさせることはできないとの確証を得た。この辺について霽野たちはみな知っていた。
 だが私が誤解だと分かって後、又も彼の致命傷を発見した:真剣になり過ぎるという:沈着冷静のようで実は激烈だった。真剣さは致命傷となるのか?少なくともその時から現在まで、そうだった。一旦真剣に取り組むと、すぐ激烈になり、発揚すると自己の生命を落とし、沈静にしていると、自分の心を咬み砕いてしまう。
 ちいさな例だが、――我々には小さな例しかないが。
当時、段祺瑞総理と彼の取り巻き連中の弾圧で、私はアモイに逃れたが、北京で虎の威を借る狐たちは、まさになんでもかんでもやった。段派の女子師範大学校長林素園は軍隊を出動させ、学校を接収し、武力行使後、数人の教員を「共産党」と指定した。この名詞はこれまで一部の人が「何かやる」際に便宜を与え、その手法もある種の古くからの手口で、もともと珍しくも無かった。但、素園は却って激烈になったようで、その後、私宛の手紙に「素園」の2字を憎んで使わなくなって、「漱園」と改めた。同時に、社内にも衝突が起き、高長虹は上海から手紙を寄こして、素園が向培良の原稿を握りつぶしたから、私に何か言ってくれと書いてきた。私は何の反応もしなかった。そしたら、「狂飆」で罵り始め、先ず素園を罵り、その後私を罵った。素園は北京で培良の原稿を握りつぶし、上海の高長虹から反感を持たれ、アモイの私に判断を求めて来たのだが、私はとても滑稽に感じ、一つの団体、それも小さな文学団体なのに、状況が難しくなるたびに、内部で一部の人が引っかき回すのも珍しくも無いことだ。だが素園は大変真剣で、私に手紙で詳細に書いてきただけでなく、一文を雑誌に載せ、内実を弁明した。「天才」たちの法庭で、他の人がどうして明解に弁明できようか?――私は長い溜息を禁じえず、彼は只一個の文人で、病を抱えながら、こんなに真剣に内憂外患に応対していたら、どれだけ持ちこたえることができるだろうか?もちろんこれは小さなことだが、真剣かつ激烈な人にとっては、相当大きな問題だった。
 暫くして、未名社は封鎖され、数名が逮捕された。素園はすでに喀血して入院していて、その中には入っていなかったようだ。その後、逮捕者が釈放され未名社も封鎖を解かれたが、また突然封鎖されたり解かれたりし、今なお一体どうしてなのか私は知らない。

 私が広州に来たのは翌1927年の初秋で、その後も彼からの手紙は受け取ったが、西山病院(北京のサナトリウム)の枕に伏して書いたもので、医者から坐るのを禁じられていたためだ。彼の文章は益々明晰になり、思想も明確で、さらに大きく広がりをみせてきたが、私はそれが更に彼の病を心配させた。ある日突然本を受け取ったが、布で装丁した素園の翻訳「外套」だった。見たとたんぞくっとした:それは明らかに私への記念品(かたみ)で、彼は余命いくばくもないことを自覚しているのではないかと思った。
 この本をもう一度読み返すのは忍びない。だが私にはどうすることもできなかった。
 このことから、私は昔のことを思い出した。素園の親友も喀血し、ある日彼の目の前出吐いたので、彼は驚いてしまったが、やさしく心配した声で、「もうこれ以上吐いちゃいけないよ」と言った、と。その時、私はイプセンの「ブラント」を思い出していた。彼は死んだ者に、さあ立ちあがれと命じたが、そんな神通力も無く、自ら雪崩の下に埋もれてしまったのではなかったか?…。
 私は空中にブラントと素園を見たが、何も語りかけることはできなかった。
 1929年5月末、私は西山病院に行き、素園と話す事が出来たのを最も僥倖に想う。日光浴のため、真っ黒に日焼けし、精神も少しも衰えていなかった。我々数名の友と大変喜んだ。が、うれしさの中に時として悲哀を感じ、忽然彼の恋人のことを思い出し、彼の同意のもと、他の人と婚約した:ふと又彼が外国文学を中国に紹介するという志さえも達成できなくなったと思い到り:彼はここで静かに臥しているが、自分では全快を待っているのか、滅亡を待っているのか知らず:なぜ彼は精装本の「外套」を送って来たのか?…
 壁にはもう一枚のドストエフスキーの大きな画像があった。私はかれを尊敬し、敬服するが、彼の残酷で冷酷な文章を憎む。彼は精神的な苦刑を配し、一人ひとり不幸な人を引っぱりだし、拷問して見せる。今彼は沈鬱な目で、素園と彼のベッドを凝視し、私に告げているかのようだ:これも作品に入れられる不幸な人だ、と。
 むろんこれは小さな不幸にすぎぬが、素園にとっては大変大きな不幸だ。
 1932年8月1日朝5時半、素園はとうとう北平同仁医院で病没し、一切の計画、一切の希望とともに尽きてしまった。私がとても残念なのは、禍を避けるため、彼の手紙を焼いてしまったことだ。「外套」一冊が唯一の形見で、永遠に私の身辺に置いておく。
 素園歿後、瞬く間に2年が過ぎ、その間、文壇は誰も彼の事を口にしなかった。これも亦まれなこととは言えぬ。彼は天才でも豪傑でもなく、生きている時も、黙々と生きて来たに過ぎず、死後も当然黙々と消え去る他ない。だが我々にとっては記念に値する青年で、彼は黙々と未名社を支えてくれたのだ。
 未名社は今ほとんど消滅したし、活動期間も長くはなかった。が、素園が始めてから、ゴーゴリ、ドストエフスキー、アンドレーエフを紹介し、Eedenや Ehrenburgの「煙袋」と Lavrenevの「41」を紹介した。「未名新集」も出し、その中に、叢蕪の「君山」静農の「地の子」と「建塔者」私の「朝華夕拾」を出したが、当時としてはいずれも読むに値する作品だったと言える。
事実としては、軽薄陰険な小人たちの注目は得られず、数年後にはすべて煙のように消え、火は滅したが、未名社の翻訳は文苑の中で今なお枯死してはいない。
 確かに、素園は天才でも豪傑でもなく、むろん高楼の尖頂や名園の美花でもなく、楼下の一塊の石材、園中の一撮みの泥土だが、中国は彼の様な人が増えるのを最も欲している。彼は鑑賞する人の目に入らぬが、建築者と造園者は彼をほっておくことはない。
 文人の不幸は、生前に攻撃されたり冷落することではなく、一瞑後、言行ふたつながら亡び、無頼の徒が妄りに友人であったと言いふらし、群がって来て、見せびらかすことで金を稼ぎ、死屍すらも彼らの売名獲利の具とされるのは、悲しく哀れむべきことである。
今私はこの数千字を以て、私が良く知っていた素園を記念するが、それで私利を得るようなことのないように願うのみで、他に話す事は何もない。
 この先彼を記念することがあるかどうか分からない。もし今回で終わるなら、素園よ、
これでお別れだ!
      1934年7月16之夜、魯迅記。
訳者雑感:
 これを訳していた時、「風立ちぬ」の映画を見た。小説とはストーリーが違うが、主人公は恋人の喀血の報を受け、名古屋の飛行機製作所から東京の彼女の家に急ぐ。彼女は病気を治したいとの強い願望を持って軽井沢の結核療養所に入る。1930年代の青年男女が結核を患い、短い人生を終えた。けがれなき面影を残った人達に残しつつ。
魯迅は段祺瑞政府の弾圧下、北京を逃れ、アモイ・広州へ行き、そして上海に居を移す。この時期に書いた「朝華夕拾」の十篇も、彼の父親はじめ多くの亡くなった人への挽歌だ。
この「朝華夕拾」については、奥野信太郎の「芸文おりおり草」(平凡社・117頁)に、「魯迅の文章について」―「朝華夕拾」を中心として――として下記がよく的を射ている。

『魯迅の「「朝華夕拾」諸編は、回想記の形式を借りた自己表現でありながら、純抒情的按甘美の陶酔を強くおしのけていることは前述のとおりであるが、しかしそれにもかかわらず、きわめて善意にみちたものである。意地のわるさ、冷酷、揶揄、そういうものとは、およそ裏腹な精神によって一貫されている』

 奥野は「朝華夕拾」は魯迅が1926―27年の彼にとってもっとも暗澹たる時代の作品であることを思うとき、…と書いているが、それを彼に書かせ発行したのは素園の真剣で激烈な熱情の慫慂だったのだろう。
 魯迅の文章の多くは「批判」「否定」「罵倒」に満ちているが、この文章と「朝華夕拾」の十篇は奥野の言う通り、「きわめて善意にみちたものである」と思う。
   2013/09/09記

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「小学大全」購入の記

「小学大全」購入の記
 糸綴本は買いたくても手が出ない。乾隆時代の木刻の値は殆どその頃の宋本に等しい。明版の小説は、五四運動以後暴騰し:今年からこの大波は小品文にも押し寄せるのではと懸念される。清朝の禁書になると、民国革命後は宝物になり、取るに足らぬ著作でも百余元から数十元する。古書店街をちょくちょくぶらついてきたが、この種禁書に分不相応な思いをしたことはなかった。端午の節句の前、四馬路(上海の書店街)辺りを歩いていたら、無意識の内に「小学大全」を買っていた。全5冊、70銭で、この名は人から余り歓迎されぬが、清朝の禁書だ。
 この書の編纂者、尹嘉銓は(河北)博野の人:彼の父、尹会一は有名な孝子で、乾隆帝はかつて彼を褒める詩を与えたことがある。彼本人も孝子で道学者であり、官は大理寺卿稽察覚羅学(清朝の皇族子弟の学校主管)になった。そして旗本の子弟に、朱氏の「小学」を講読する様に上奏し「よろしい。その通りせよ」となった。この書は2年後「小学」6巻に注解され、「考証」と「釈文」「或問」各一巻と「後編」二巻で、一函として「大全」とした。そして進呈されてついに乾隆42年9月17日、旨を奉じ「よし。了解。その通りにせよ」となった。これは明らかに皇帝の嘉許を得たのであった。
 乾隆46年、彼は退官し郷里に帰った。だが真に所謂「その老に及び、戒しむべきは得にあり」(何かを得ようとするな)で、彼が欲したのは「名」であったが、大禍を招いてしまった。この年3月、乾隆が保定を通る際、尹嘉銓は子を使わせて上奏し、彼の父に謚(おくり名)を請うたが、朱批は「謚を与ふは国家の定典で、豈(あに)妄らに求むべけんや。
この奏文は本来なら、罪に当たるが、汝が父の為の私情と思い、暫く之を免ず。もし再度分に安んじて家居せねば、汝の罪はのがれられぬ。しっかり遵守せよ」であったが、彼はこれがそんな大問題になると予想しておらず、次いでもう一つ上奏し、「我が朝の」名臣,湯斌・范文程・李光地・顧八代・張伯行などを孔子廟に合祀することを願い出て、「臣の父
尹会一はすでに御製の詩で、孝を讃える褒嘉を蒙っており、すでに徳行の科にあり、自ずと合祀すべきですが、臣敢えてこれを請じるにあらざるなり、とした」さあ大変。これが大問題となり、3月18日の朱批に:「遂に好き勝手に狂吠(ほえる)すは、許すべからず。
これをつつしめ」となったのである。
 乾隆時代の一定した方法は、凡そ文字で罪を得た者は、身柄を拘束し、家宅捜査する物で、家産をとやかくするのではなく、蔵書や他の文章を捜査し、他に「狂吠」があれば、併せて罰するもの。乾隆の考えは一度「狂吠」したものは、一二度には留まらず、徹底して調べねばならぬからだ。尹嘉銓も当然例外たりえず、自己の逮捕と同時に、彼の博野の家宅と北京の寓居も全て捜査された。蔵書と著作は実にたくさんあったが、たいした物は無かった。だが当時はそういうふうには考えられず、大学士三宝等の再三にわたる審査尋問の後、「尹嘉銓は大逆律に照らして、凌遅死刑にするよう請旨するのが相当とされたが、幸い結果はたいへん寛大で:「尹嘉銓には著しい恩を与え、凌遅の罰は免じ、改めて即時に絞首刑と決し、家族にも恩を加え、連座を免じる」として完結した。
 これも名儒兼考子たる尹嘉銓の思いも及ばぬ事であった。
 今回の文字獄はただ一人を絞殺しただけ故、他の案件に比べれば大獄とは言えぬが、乾隆帝は、心機を費やし数編の文章を発した。この文章と奏文(いずれも「清代文字獄档」第6集)から、今回の禍の機は、彼が「分に安んじなかった」ことにあるが、大きな原因として、すでに名儒として自居しおりながら、さらに名臣として合祀を請じたこと:之は全く「許すべからざる」ことだ。清朝は朱子を尊崇していたとはいえ、「尊崇」だけであって、「そのまま学び受け入れる」ことは許さなかった。一旦そうすると、それを講じる者が出てき、学説が生まれ、門徒ができ、門戸(閥)ができ、門戸の争いが起こり、「太平盛世」に累を及ぼすことになる。況や、このような「名儒」で、官について「名臣」として自居するようになることを免れず、「妄りに尊大」になる。乾隆は清朝に「名臣」が存在することを認めなかった。彼自身が「英主」で「名君」だから、彼の統治下に奸臣はありえず、特に悪い奸臣がいなければ、特に良い名臣もおらず、一律に全て良くも悪くも無く、所謂好漢も悪漢の奴才もいないのだ。
 道学の先生を特に攻撃した所以は、当時の潮流で「聖意」でもあった。良く目にするのは、紀昀(イン)の総編纂した「四庫全書総目録提要」と自著の「閲微草堂筆記」の中にある、折々の排撃だ。これが潮流に迎合したもので、もし、彼の性格が生来親しみやすく気さくな性格だったから、道学先生の刻薄を憎んだからだ、と考えるのは誤解である。大学士三宝たちもこの潮流をよく分かっていて、尹嘉銓審査時、かつて奏して:「当該犯がこのようにでたらめで不法な点を調べ、即刻罪を定め、法を正しただけでは、公憤を晴らし、人心を納得させるには不足です。当該犯はかつて三品大員に任官した人物であり、ここは相応に例に従って奏明し、当該犯には厳罰の足ばさみの刑を加え、更に多くの刑罰を受けさせて、いかなる下心でこれを行ったのか追求し、供述を採り、具体的に奏し、もう一度正しい典刑を発して戴いてはじめて、明らかな戒めとなりましょう」とある。
その後、挟み刑をしたか否かは調べていないが、供述を見ると、彼の「醜悪な行為」を以て彼の道学を打倒する策略で、とても真に迫っているので、3件下記する。
 『尋問:尹嘉銓よ!お前は李孝女老いて嫁さずという一篇を書き、「年50を過ぎて嫁さず、我が妻李恭人はそれを聞き、賢と思い、彼女を淑女として夫を相助けんとしたが、仲女は固辞した」などを記している。この処女は堅く嫁さぬと決めているのに、なぜ妻を遣わせて彼女を妾にしようとしたのか?こんな破廉恥なことをどうして正しい経典を講じる男がやったのか? 供述:私が50歳を過ぎて未婚の李孝女を書いたのは、以前から雄県に李という女が貞節を守って、嫁がぬということを知っており、我が妻は彼女を妾にしようとしたが、私は北京にいて候補をしていたので、全く知りませんでした:後から妻が話したのではじめて知りました。それで彼女のためにこれを書いて表揚したが、彼女に会ったこともありません。だが、彼女が50を過ぎているのに、私が妾にしようとした話しは、文の中にあり、破廉恥なことで、弁解の余地はありません』
 『尋問:お前は皇帝に翎子(羽のついた冠)を請いて、それが無いと妻妾に会わす顔が無いといったそうだな。このエセ道学者は女房がこわくてしょうがないとか、皇帝は結局翎子を与えなかったが、どんな面して帰ったか?
供述:当初家にいた時、帝に会ったら翎子を戴けるようお願いしてみると妻に言いました。その頃は、礼儀もわきまえず、恩典を賜るようお願いしたのは、翎子を頂戴して帰れば、とても栄誉なことと思っていました。帝はお与えくださらず、帰宅しても大変恥ずかしく妻子の会わせる顔がありませんでした。全て私がエセ道学者で女房を怖れたのは事実です』
 『尋問:お前の妻は平素から嫉妬深く、お前の為に妾を娶って、嫉妬深くない事を示そうとしたが、もともとこの50女は嫁ごうとせぬことを知っておったのだ。要するにお前というエセ道学者は常常世を欺き、名を盗んだが、お前の妻もそれをまねした。その通りだろう:
供述:妻が私に妾を娶ろうとし、この50才の李氏という女はすでに嫁がぬことを心に決めており、私の妾には決してならぬことは、妻はよく知っており、妻はこれを利用し、嫉妬深くないという名を得んとしたのです。要するに、私が平素してきたことは、世を欺き名を盗んだゆえ、私の妻もこのまねをしたので、陛下の御洞察通りです』
 もう一つ大事なことは、彼と関係のある書物を焼いたことだ。彼の著作は実に多く、版木を「焼却」すべき書籍は86種、拓本7種で、すべて著作だ:「棄却」すべきは、書籍6種、すべて古書で彼の序跋がある。「小学大全」は「注釈編集」したにすぎぬが、「焼却」の列に入れられた。
 だが、私が買った「小学大全」は光緒22年に刻し始め、25年に刊行され、「宣統丁巳」
(実際は中華民国6年に当たる)重版された遺老本で、張錫恭が跋に云う:「世風古(いにしへ)に如かず、この書を読む者、之が転移を願う。…」また劉安濤が跋に云う:「近来、衰退益々甚だしく、異論騒がしく、顕かにこの書にもとり、一唱百和し、家国に害を蒙らせ、唐虞三代以来の先聖先賢、蒙以て正を養うとの遺意は、地を掃きて尽きた。剥(易の64卦)極まれば、必ず復すというゆえ、天地の心は現れん……」
 文字の獄で、士子は敢えて史を治めず、特に近代の事は敢えて言わなくなったが、故事にもうとくなり、乾隆帝が力を尽くして「焼却」した書は、遺老ですらもう分からなくなってしまい、130年も経ずして、新たに宝典となった。これは「剥(易の64卦)極まれば、必ず復す」ではないか?遺老たちも乾隆帝の思いもつかぬことをしたものである。
 しかし、清の康熙、雍正と乾隆の三人は特に後の二皇帝は「文芸政策」更に大きく言えば「文化統制」に大変な努力を尽くした。文字の獄は消極的な一面に過ぎず、積極的な一面は、欽定四庫全書のごとく、漢人の著作には取捨せぬものはなく、採用した書は、凡そ金・元に関する所があれば、大いに修正し、定本とした。この外、「七経」「二十四史」や「通鑑」文士の詩文、和尚の語録も放ってはおかず、鑑定しなければ、評選し、文苑中に実際に蹂躙されなかった個所はない。且つまた彼らは漢文に深く通じた異民族の君主であり、勝者の立場から征服された漢族の文化と人情を批評し、見下し、また恐惧し、過酷な論も加えたが、的確なものもあり、文字の獄はただこうしたことから出て来た辛辣な手法の一つで、その成果は満州の側から言えば、確かに有効でなかったとは言えない。
 現在、この影響はうすれてきたようで、遺老たちの「小学大全」重版はその証拠だが、愚弄されてしまった性霊も、ついにまた、呼び覚まされなかったことが見て取れる。
 近来、明人の小品文や清代の禁書で市価の高いのは貧乏な読書人の手に届かぬが、「東華録」「御批通鑑輯覧」「上諭八旗」「雍正朱批諭旨」……などは誰も見向きもせぬようで、その低廉さは一切の他の書の比ではない。もし心ある人がこれを集め、一冊一冊考察し、その中から、漢人統御、文化批評、文化利用に関する所を分類排列して一冊にまとめてくれたら、単にその策略の博大さと悪辣さが分かるだけでなく、如何にして異民族の主(あるじ)に手なずけられたかが分かるし、今に至るも遺留している奴隷根性の由来が分かる。
 もちろんこれは、性霊文学を賞玩するという趣のあることには遠く及ばぬが、之を使って、些かなりとも現在の所謂性霊を演成してきたところの歴史をしるのも十分有益である。
       7月10日

訳者雑感:
 この3件の尋問と供述をみていると、8月の薄氏裁判の内容とダブってくる点がある。
中国人の心の奥深くには、歴代の裁判の記録や演劇での立ち居振る舞いを「頭に浮かべながら」身を処するというか、あたかも自分もその演者として振舞うような性癖があるように見られる。PTTとは恐妻家の謂いだが、夫人の虚栄心を満足させるために、夫人が賄賂や翎子(社会的地位と名誉)を得んがために、悪を重ねる。必要悪として。やむなく。

薄氏の裁判で浮かびあがって来たいろいろなエピソードをつなぎ合わせると:
 薄氏は大連の星海広場周辺のプロジェクトで実徳の徐氏との関係を強めた。
 大連に石化プラントの一貫としてPVC製造が計画され、そのダウンストリームとして、窓枠(サッシ)の大規模製造工場を実徳が手掛けた。
 薄氏は妻が徐明氏などから相当な金額を受け取っていたことを認識はしていたが、それらはすべて彼女の口座にふりこまれ、彼女が使った部分が多いことがわかる。
フランスの別荘や航空券などの費用を出させた。(この辺は守屋防衛次官のケースと同じ)
そのころから谷氏の言葉を使うと、「心照不宣」口にはできない状況になってきた。
 薄氏が浮気をしたことで、夫婦仲が悪くなり、谷氏は息子瓜瓜を英国に留学させてしまう。それにかかる費用はすべて徐氏等からの賄賂を当てた。
 徐氏等の他に瓜瓜の家庭教師だった英国人Heywood氏に貿易関係での便宜を与え、相当な賄賂を受け取るようになったが、そのことでもめ事が起き、彼を重慶のホテルで毒殺した。これを調べる立場の重慶公安局長だった王立軍が、谷氏が殺害したことを薄氏に報告。
それで、ビンタを食らって終うほどしかられた。他の仲間も同じようにやられて失踪していることを知っていた王は、身の危険を感じて、成都の米国領事館に亡命申請に駆け込んだ。その報告を受けた薄氏は、途中まで王が病気か何かで留守にしているというごまかしがきかなくなって、中央政府は成都の領事館から王を連れ戻した。
 この裁判の彼の弁明で、谷は気がくるってしまった。王は全く信用ならない男で、谷に横恋慕している云々という事柄までDiscloseされた。
 谷・王両氏ともすでに刑が確定された後の証言で、三すくみの「批難合戦」の様相を呈してきたが、これは2人は薄を悪物にすることで、自分の減刑、もしくは仮釈放への措置を望んでおり、それを餌にしての(誘導)尋問に答えるような響きが感じられる。
これは裁判をする政府側の意向に沿ったものだろう。まるで、一時代前の演劇や舞台で演じられた、冤罪裁判と情欲裁判、金瓶梅のどこかの裁判シーンと変わりが無いようだ。
薄氏はやり方が間違っていたことを認めた。家族をしっかり掌握していなかったことも認めた。だが彼は罪を犯したとは認めていない。
それでも、薄氏はどんな判決がでようと、上訴して、最後まで戦うだろう。もう守るべきものは何もないのだから。自身の名が汚れたままで残らぬようにする以外は。
       2013/08/29記

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できもしないこと、と信じない事

できもしないこと、と信じない事
 中国の「愚民」――学問の無い下等人は、人が彼に関心を寄せるのを怖れた。もし、君が何の理由も無くお年は?ご意見は、兄弟は何人?家の状況はなどと訊くと、彼はきっともぞもぞ言った後、どこかへ行ってしまう。学識のある大物は彼らのこうした気質を嫌う。だがこの気質は簡単には治らない。それは彼らの経験に基づくものだから。
 誰かに関心をもたれたら、気を付けないとだまされてしまう。例:中国は改革したから、子供たちはとっくに「孟宗、竹に哭す」や「王祥、氷に臥す」(「二十四孝」の故事の句)
の教訓からは抜けだしたが、はからずもまた新たな「児童年」なるものが現れ、愛国の士はそれで「小朋友」を思いつき、筆や舌でもって、労苦をいとわず教訓を垂れる。一人は勉強を勧める時、昔は「蛍を袋に入れて読書した」とか「壁を穿って光を偸む」等した志士がいた云々:一人は愛国を説く時、昔は十数歳で包囲網を突破し、救援を求めたとか、14歳で出陣して敵を倒した奇童がいた云々。こうした故事は閑談として聞くのは悪くはないが、もし誰かが信じて、その通りにやろうとなると、乳臭いドンキホーテとなる。
毎日ひと袋で4号活字を読めるだけの蛍を捉えるのは容易なことではない。これは容易なことではないだけでなく、壁を穿ったら、大変な騒ぎになり、どこであろうと、怒鳴りこまれて、両親はお詫びに参上してすぐ修理するはめになる。
 救援を求めたり、敵を倒すとなると、もっと大ごとで、外国では30-40歳のすること。
彼らの児童は食べ、遊び、字を覚え、ごく普通のことと重要なことを学ぶのに重点を置く。
中国の児童が特に褒められるのは、もちろんとても良いことだが、一方で出て来る課題はこの為、常に難題ばかりで、今もなお飛剣(剣を空に飛ばす術)の如しで、武当山に上って、師を尋ね、道を学んでからでないと、まったく手が出ないのである。20世紀になって古人の空想した潜水艦や飛行機は実際に成功したが「龍文鞭影」や「幼学瓊林」(いずれも児童向けの故事出典の本)に出て来る模範的故事を学ぶのは難しい。教えている人も信じているとは限らぬと思う。
 だから聞いている人も信じない。千余年の間に、剣の仙人や侠客の話しを聞いてきたが、去年武当山に上ったのはたった3人で、全人口の五百兆分の一(四億人x千余年?)ということが分かる。昔は多かったかもしれぬが、今では経験もあり、余り信じないし、その通りやる人も減った。但しこれは私個人の推測にすぎぬが。
 無責任な、その通りにはできもしない教訓が多いと、信じる人は減り:利己的で人に害を与える教訓が多くなれば、信用する人は減る。「信じない」ことは「愚民」が害を避けるための塹壕で、彼らをバラバラの砂にさせる毒だ。だがこうした気質は単に「愚民」だけでなく、説教する士大夫と雖も、自分と他人を信じている人は何人もいない。例をあげれば、孔子を尊敬しながら、その一方で活仏を拝むのは、丁度、彼の財産をいろいろな株に投資し、多くの銀行に分散して預けるのと同じで、実はそのいずれも信じていないのだ。
      7月1日
訳者雑感:
 中国の物語は奇想天外、できもしないことを大げさに取り上げ、まるで本当にできたかのようにして、人を驚かし、惹きつける。それを読んだり、芝居で観たりする愚民達も、経験を積んでいるから、心から信じる人はいない。それでも、事実は小説より奇なりで、
重慶のトップだった薄氏の裁判をみていると、彼の収賄汚職や権力乱用を証明する為に登場させられた、彼の妻谷氏(英国人毒殺で死刑を無期懲役に猶予)や、彼の右腕だった王氏の証言などの「VTR」を見ると、奇想天外なことが起こるものだと、空いた口を閉じられない。
           2013/08/25記

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「木版画の手引き」まえがき

「木版画の手引き」まえがき
 中国の木版画は唐代から明末まで、大変素晴らしい歴史があった。ただ現在の新木版画はこの歴史と関係が無い。新木版画は欧州の創作木版の影響を受けた。創作木版の紹介は、朝花社に始まり、出版した「芸苑朝華」4冊は、選択と印刷は決して精巧とは言えないし、有名な芸術家は歯牙にもかけぬが、青年学生の注目を浴びた。1931年夏に、上海で遂に中国初の木版講習会が開かれた。それが広まり、木鈴社が<木鈴木版画集>を2冊出した。また野穂社が「木版画」を出した。また無名木版社は「木版集」を出した。だが、木鈴社はとうになくなり、後の2社も継続とか発展したとかの消息は無い。以前上海にはM.K.木版研究社があり、歴史の長い小団体で、何度か作品展を開き、「木版画選集」を出そうとしたが、今夏、私怨者の密告に遭い、社員の多くは逮捕放逐され、版木も工部局に没収された。(M.K.とは木刻の頭文字:工部局とは租界の外国の統治機関:出版社)
 私の知る限り、今木版研究団体は一つも無いようだ。但し、木版を研究する人はいる。羅清楨は「清楨木版集」を2輯出したし:如又村は最近「廖坤玉故事」の連環画を出した。これらは全て特記に値する。
 また作者の暦来の努力と作品が日進月歩したため、只単に中国の読者の共感を得ているのみならず、徐々に世界にもその第一歩を踏み出した。まだ確固たるものにはなっていないが、要するに踏み出そうとしているが、同時に停滞の危機にも直面している。もし鼓舞激励と切磋琢磨が無いと、自己満足に陥ってしまう恐れがある。
 本集は木版画の路程碑となることを願い、去年から流布すべき作品と思われる物を、陸続と編集印刷し、読者の総合的な鑑賞と、作者の参考に供しようとしている。但し、当然ながら蒐集の及ぶ範囲に限りあり、中国の優秀作が全てここにある訳ではない。
 他の出版者は今まさに欧米の新作を紹介しており、同時に中国の古い木版を復印しており、これらはすべて新木版画の羽翼である。外国の良い規範を取り入れ、発揮すれば、我々の作品はさらに豊かになる路が増えるだろう:中国の遺産を取り入れ、新機軸と融合させれば、将来の作品に新しい道が開けるだろう。作者がみな不断に奮発し、本集で一歩一歩前進できれば、上述したことは実際問題、望外のことではないことが分かるだろう。
      1934年6月中 鉄木芸術社記。
訳者雑感:
 魯迅は幼いころから、小説の挿絵に大変興味を持っていた。小説の内容とそれらの挿絵の登場人物の姿・着物・持ち物・小道具など丹念に観察して書き写していたという。
原文は「木刻」で、日本語でもそのままで良いかと思うが、一般に使う「木版画」とした。
それにしても、1934年以前の上海の租界で、木版画を出版する団体が、私怨者の密告によるとはいえ、社員が逮捕放逐され、版木も工部局に没収されてしまった、ということは、内容が左翼的であったのか。魯迅が紹介した「ケーテ・コルヴィッツ」の版画などもその系統をひくものであった。    2013/08/23記

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 隔膜 (隔ての膜)

 隔膜 (隔ての膜)
 清朝初年の文字の獄は、清末になってやっと改めて提起された。最も精力的だったのは「南社」の数名で、被害者の為に遺文を集め印刷した:又留学生の一部は競って日本から文献証拠を持ち運んだ。孟森の「心史叢刊」が出て、我々は比較的詳細な状況を始めて知った。これまで多くの意見は、文字の禍というのは、清朝を罵り嘲笑したから起こったと思っていた。実はそれだけではないのだ。
 この1-2年、故宮博物院の(内部から盗み売却するなど:出版社)話しは芳しくないが、「清代文字獄案件集」という良い本を出し、去年すでに8刷りとなった。その案件は実にいろいろなものがあり、最も興趣あるのは、乾隆48年2月の「馮起炎、易詩二経を注解し献呈する」だ。
馮起炎は山西臨汾県の生員(科挙の一次合格者)で、乾隆の泰陵(雍正帝の陵)参詣を聞き、その著作を懐にして、路上を徘徊し、献呈せんとしたが、はからずも「形跡不審」で逮捕された。その著作は「易」を以て「詩」を解し、とするが、実はでまかせで、ここには抄録しないが、結末に「自伝」もどきの長文があり、これがとても風変わりである。
『さて臣の参上致しましたは、何か請願するとか、求めるということではありません。只一つ未決の事があり、陛下にその由縁を叙したく。臣、名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣張三の姨の家に行き、一人の娘をみそめ、娶りたいと考えましたが、財力及ばず、果たせませんでした』(この後、別の娘を云々と続き、要するに乾隆帝に仲人を頼みたいという内容の手紙だが、ここでは翻訳を省略する)

この文章にどれ程の悪意があるというのだろうか?その頃流行していた才子佳人の小説に夢中になり、なんとかそれで名を成そうとし、天子に媒酌してもらって、いとこの女を娶ろうとしたにすぎぬ。はからずも、事態は結局よくない方に展開した。直隷総督袁守侗が上奏しようとした罪名は「その上程した文書を検閲したら、大胆にも聖主の御前にて、経書をデタラメに講じようとし、その末尾の措辞に至っては、狂妄そのものである。その罪状を諮るに、儀仗に衝突するよりも重いと判定します。馮起炎への罰として、黒竜江等へ流し、軍隊の奴隷にすべく、本庁からの返あり次第、慣例に照らして、刺青をした後、本部に送り届けたく」と。この才子は多分、一人(山海)関を出て、奴隷になっただろう。
この外の案件は、これほどの風雅は無いが、反逆的でないものも結構少なくない。ある者は無鉄砲というだけ:或いは気違い:或いは田舎の迂遠な儒者で、それが本当に忌に触れることすら知らず:或いは田舎の愚民で、本当に皇室に親愛な気持を抱いていただけ。
だが彼らの運命は大抵非常に悲惨で、凌遅(手足を切断し、ゆっくりなぶり殺す)でなければ、一族皆殺しか、その場で首切り或いは「収監して判決待ち」だが、生きて出獄することは無かった。
凡そこれらの事は、粗略に目を通しただけで、清朝の凶暴さと死者の憐れさを感じさせる。だが、もう少し考えると、ことはそんな簡単なものじゃないことがわかる。
こうした惨案の由来はすべて「隔膜」によるためだ。
 満州人自身、厳格に主と奴隷を分けようとし、大臣が上奏する時必ず「奴才」と自称させたが、漢人に対しては、「臣」と称すれば良いとした。これはなにも「炎黄帝の子孫」だから特に優遇し、嘉名を賜ったというのではない。実は、満州人の「奴才」と区別する所以(ゆえん)は、その地位は「奴才」より数等下とするためだ。奴隷はただ命ぜられた通り行うことができるだけで、発言は許されず、議論は固よりダメ。妄に自ら持ち上げるのもいけない。これ即ち「思ったことをその位の範囲外に出してはならぬ」ということだ。例えば:ご主人様、お召しものの角が少しほころびています。このままでは破れますから、繕いましょう、と進言する。彼は自分では忠を尽くしたと思うが、実は罪を犯したことになり、それはそういう類のことを発言するのを許した者がおり、誰でもそれを言えるわけではないから、妄りに言うと「余計なことをして」で当然罪を得る。自分ではそれを「忠を尽くしたのに、咎めを獲た」と考えるのは自分を糊塗しているにすぎない。
但し、清朝建国の君は、大変聡明で、彼らはこうした主意を定めながら、口ではその通りには言わず、中国の古訓を使い:「民を愛すは子の如し」とか「一視同仁」と言った。
一部の大臣と士大夫はこの奥義を理解していたが、信じることはなかった。だが、単純で愚かな人達は真に受けて、「陛下」は自分の親と思い、熱心に甘えてご機嫌とりに励んだ。
だが、彼はどうしてこの被征服者を自分の子にするだろうか?それで殺してしまった。暫くして子供たちは驚いてもう何も言わなくなり、計画はうまく行った。
光緒帝の時、康有為たちが建白書を提出し始めて「祖宗の成法」が破られた。しかしこの奥義は今なお誰も説明しきれないようだ。
 施蟄存氏が「文芸風景」の創刊号に、「忠なのに咎を獲た」者の為に大いに不満を述べているが、「隔膜」からまだ免れていないためだ。これは「顔氏家訓」や「荘子」「文選」等には無いことである。     6月10日

訳者雑感:
 最近の中国のテレビでは清朝の故事を放映するのが減ってきているようだ。以前は現在の所謂「抗日映画」よりずっと多かった。丁度日本の時代劇のように有名な将軍や武将が登場する連続映画で、勧善懲悪あり、才子佳人の恋物語ありだった。
 その中で、「奴才」と自称するのが満州人の首相大臣だった。漢族の大臣は「臣」だった。
なぜ満州人が「奴才」(奴隷と同義語)というのか、余り深刻に考えたことは無かった。
本文を読んではじめて、これは満州人と漢人を数等の距離で疎隔するための「方法」「隔膜」だと知った。
モンゴル人が元を建てた時、やはりモンゴル人が一番上にいて、その下に色目人と言われた西域人を置き、次が最初に降った華北の漢人、一番下が南人で、こうした「隔膜」を設けて漢人を支配した。だが百年もたなかった。満州人はそれ以上にうまく運営したから三百年もった。アヘン戦争と太平天国で満州人だけではどうにも行かなくなって、漢人の首相・大臣を多く登用せねばやってゆけなくなった。それだけ満州人に有能な政治家がいなくなったのは、「奴才」と卑下ばかりさせられてきたからか。満州八旗といわれた旗下の武士達も経済的に困窮して、優秀な子孫を養成できなくなってきていた。それが辛亥革命への導火線となった。
     2013/08/22記

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取り入れ主義

取り入れ主義
 中国は最近まで所謂「閉鎖主義」で、自から出かけず、他者が来るのも許さなかった。大砲で大門を破られて、一連の困難に直面し、現在まで、何でもすべて「差し上げ主義」となった。他の事はしばらく置き、単に学芸上の物も、近頃まず骨董品をひと揃いパリの博覧会に送ったが、「その後どうなったか知らず」じまい:また数名の「大師」たちが数幅の古画と新画をひっさげて、欧州各国で展示し「国光発揚」と称した。まもなく梅蘭芳博士をソ連に送り、「象徴主義」を進める由で、その後、順に欧州にも伝道するという。
私はここで梅博士の演技と象徴主義との関係を論じようとは思わぬが、要するに生きている人間が骨董に代わったのだから、敢えて言うと、顕かに進歩した。
 だが、我々の誰も「礼は往来を尚す」の礼にのっとり、「取り入れよ」と言う者は無い。
 勿論、只送りだす事ができるのも悪くは無く、一に豊富さ、二に度量の大きさを示せる訳だ。ニーチェは自らを太陽と誇ったが、光熱は無窮だが、只与えるだけで取ろうとしなかった。しかるに、やはりニーチェは太陽ではないから狂ってしまった。中国もそうではない。ある人は地下の石炭を掘れば、世界の数百年間の需要を満たすことができるという。だが、数百年後は?数百年後、我々は当然霊魂と化し、天国か地獄に行くだろうが、我々の子孫は存在しているから、彼らに些かの品を残さねばならない。さもないと佳節大典の際、彼らは何も出せなくなり、深々と頭を下げて慶賀し、残り物や冷めた物を賞品として頂戴するしかない。
 この賞品は「(放り投げて)くれる」ものと誤解してはならない、これは「下賜」であって、体裁よく言えば「贈って」くれるもので、私は今その実例を挙げようとは思わない。
(出版社注:これは米国からの五千万ドルの「綿麦借款」を指している、と)
 私は「送り出す」についてこれ以上なにも言いたくない。さもないと「モダ―ン」ではなくなってしまうから。私はただもう少ししぶちんになることを鼓吹したい。送るだけでなく、「取り入れる」ようにしなければならない。即ち「取り入れ主義」である。
 だが、我々は「送られた」ものにおどかされてきた。まず英国のアヘン、ドイツの廃物の銃砲、後にはフランスの香粉、アメリカの映画、日本の「百%国産品」のマーク付きの各種小物。それで、めざめた青年達すら外国品に恐怖を感じた。だがこれは正に「送られて来た」もの故で、「取り入れた」ためではないからだ。
だから我々は頭を使って、自分の目で見て、取り入れるのだ!
 たとえば、我々の貧しい青年が、先祖の陰徳のお陰で(しばらくこう言わせてもらう)大きな邸宅を得、彼がだましとったとか、奪ったとか、合法的に継承とか、入り婿になったとかは問わない。それで、どうするか?私はまず何はともあれ「取り入れよ」と言いたい。だが、この邸宅の元の主に反対し、彼の物はけがれていると考えで、徘徊して門の中に入ろうとせぬのは、ロクデナシだ:勃然大いに怒って、火を付けて焼き尽くし、自分の潔白を保とうとするのは大バカ者だ。しかし、元々この邸宅の主を羨んでいて、今回全てを接収し、欣然とこっそり寝室に入りこみ、残っていたアヘンを吸うのは勿論クズだ。
「取り入れ主義」というのはまったくそうではない。
 彼は占有し、選び出すのだ。フカヒレを見つけても、すぐ路上に放り投げて「平民化」を顕示しようなどとしなくて良い。栄養になるなら、友人と一緒に大根白菜と同じように食べればよい。それを使って客をもてなそうなどとしないこと:アヘンを見つけても、大衆の前で、これ見よがしに便所に抛るなどして、革命を徹底しているような格好はせず、薬局に送り、治療に供すればよいが、「在庫販売、売り切れ御免」などのまやかしはせぬこと。キセルやアヘン用のランプは型式はインド・ペルシャ・アラブの喫煙用具と異なって、確かに一種の国粋といえるし、それを担いで世界周遊すれば、きっと見物客はおり、一部は博物館に送り、それ以外はすべて破壊処分してよいと思う。
 また一群の妾たちは、彼女らを解放し自由に散じさせるが良い。そうしないと「取り入れ主義」は危機に陥ることを免れぬと思う。
 要するに、我々は「取り入れるべしで、我々が必要なもの、或いは使うものは残しておくべきで、それ以外は取り壊して無くすのである。そうすれば、主人は新しい主人となり、家は新しい家となる。しかし、まずこの人は沈着、勇猛で、分別があり、私利私欲の無い人でなければいけない。取り入れることが無ければ、人は自分から新しい人間にはなれず、取り入れるものが無ければ、文芸も自分から新しい文芸にはなれない。
       6月4日

訳者雑感:中国は何でも揃っており、外国から取り入れるものは何もない、とうぬぼれて来た。イギリスの使節が貿易を求めにやってきても、何も要らないと追い返した。それでも彼らが茶や絹を欲しいというと、それなら銀を持ってくれば、与えようという。
 銀が大量に中国に貯まって、銀の交換価値が大幅に下落した。幕末の頃、日本で1:4
の金銀比価が、中国では1:15位で、日本に銀を持ちこみ、大量の金が流出した。こうした金銀為替レートの大変動が、清朝と江戸徳川幕府の旗本たちを困窮させ、庶民も苦しまされた。こうした経済の基盤変化が明治維新と戊戌の政変などにつながったが、日本は西洋からおびただしい量の「文明の機器と学問文化」を「取り入れた」が、中国の方はというと、魯迅の指摘するように、アヘンも妾もそのまま温存する「旧態依然」の旧主人たちが政治経済を支配し、日本のように外国から「取り入れなかった」魯迅は1934年に書いた本文で、「取り入れ主義」を提唱せねばならぬ自分を、どれほど歯がゆく思ったことか。
        2013/08/20記

 


 

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「絵を見て字を覚える」

 人は中年から晩年になっても、子供と触れ合うと、久しく忘れていた子供の世界の領域に踏む込み、お月さんはなぜ人と一緒に歩くのかとか、星はどういうふうに天空にはめ込まれているのかと考える。だが子供は自分の世界で、水中の魚のように自在に泳ぎ、その所以を忘れてしまうが、成人は大人が泳ぐ時と同じように、水のすべすべした清涼感を覚えるが、疲れて辛くなって、どうしても陸に上がらなければならなくなる。
 月と星については、どんなにうまく説明したとしても、生活がよほど困窮していない限り、やはり所謂教育を施し、まずは字を覚えさせるに及ばない。上海には各国の人が住み、各国の書店があり、児童用の図書もある。だが我々は中国人で中国の本を読みたいなら、中国の文字を知らねばだめだ。この様な本もあり、紙も絵も色も装丁も他国には遠く及ばぬが、あることはある。市場に行き、子供に民国21年11月発行の「国難後第6版」の「絵を見て字を覚える」を買った。
 まず色はとても悪いが、それは今問わない。絵も生彩に欠けるが、これもさて置くとする。発行所は上海とあるが、奇妙なのは、絵に蝋燭やランプはあるが電灯は無い:礼装靴や三鑲雲頭靴(刺繍のついた靴)はあるが皮靴は無い。跪づいて銃を打ち、一本足で雑巾がけし、弓を射るのに、両腕は水平ではないから、的に当てることはできないし、もっとひどいのは、吊り竿、風車、機織機の類さえも実物とだいぶ違う。
 私はちょっとため息が出、幼いころに見た「日用雑字」を思い出した。これは婦女婢僕の教育用で、彼らが記帳できるようにさせるための本で、物の名前の種類も多くはないし、絵も粗劣だが、とても生き生きとしてよく似ている。なぜだろう?絵を画いた人がそれをよく知っており、「大根」や鶏は彼らの記憶には曖昧な点は無く、画くと当然実物そっくりのものだからだ。今我々は「絵を見て字を覚える」に画かれた暮らしの――洗顔、食事、読書――状況を見れば、これは作者の意中の読者向けで、作者自身の暮らしぶり、租界で家を借り、一家で住んでいて、金持ちでも貧乏でもないが、一日中懸命に働いてやっと暮らしており、子は学校に行かねばならず、自分も長衫(足もとまである長い服)を着なければならず、心神を使い果たし、暮らしを支えねばならず、参考書を買う余裕、実物を観察し、本領を習得する余力などどこにもない。なんと、その本の末葉に一行「戊申年七月初版」とあり、年表を見ると、清の光緒34年即ち1908年で一昨年に新版印刷と雖も、本は27年前のもので、すでに古籍で、気息奄奄、正に奇とするに足りぬ。
子は敬服すべきもので、彼は星や月以上の境界に思いを寄せ、地下の状況も考えたり、花卉の用途も考え、昆虫の言葉にまで思い到る:彼は天空に飛びあがろうとし、蟻の穴に潜入しようと思う……それゆえ、児童に与える本は本当に慎重でなければならぬから、画くのも本当に大変である。「絵を見て字を覚える」のような2冊の本は、天文、地理、人事、物ごと等、無い者は無い。だが、上は宇宙の大、下はハエの微小まで、すべて本当に知識のある画家でなければ、任に堪えない。
 しかし、我々は自分がかつて子供だった頃のことを忘れ、彼らを間抜けと思い、大して注意しない。たとえ時代の趨勢だとしても、少しは所謂教育を施さねば、またしても只、間抜けに与えるだけで満足し、そうなると彼らは大人になると本当の間抜けとなってしまって、我々と同じことになる。
 だが、我々この間抜け度はさらにひどいもので、子供を愚弄している。この2-3年の出版界で「小学生」「小さい友達」などの刊行物が特に増えたことが分かる。中国には突然こんなにも多くの「児童文学者」が現れたのか?私は:決してそうではないと思う。
           5月30日

訳者雑感:1934年当時の上海出版界では児童向けの本が顕著に増えた。それは中国の親たちが児童向けに本を買い与えることができるようになったことを意味する。たとえ粗悪で絵のおかしなものでも、無よりはましかもしれない。日本も色々な統計資料では昭和10年のころが一番盛んな時代だといわれてきた。丁度1935年ころだ。
魯迅がこうした児童向けの本に対する強い願望は、しっかりとした観察眼を持った画家によって、正しい姿を伝えることである。「いいころかげん」中国語でいう馬馬虎虎の絵や知識で、子供は間抜けだから適当でいい、などという中国人の悪い癖を徹底的に直さないと彼らが大人になっても又我々と同じ轍を踏むことになると警告している。
 21世紀の中国各都市の書店の3分の1程はこうした児童向けのカラフルな絵本などで一杯である。1934年当時のように、児童に本を買い与える親が増えて来た証である。
問題は内容である。昔の版の影印版などのパクリでコストを下げ安売りしているケースが多々見られる。魯迅の警告したように、しっかりした観察力を持った画家を育成できるような「仕組み」が欠けているようで、出版業は「売上」にしか目を向けない。嗚呼!
      2013/08/15記


 

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