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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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毛沢東の周恩来への送り火

 1976年1月8日、長い間病床にあった周恩来が満77歳で死去した。翌朝、毛の住む中南海の一角から何発もの花火が上がった。この花火は、毛が彼の地位を脅かす恐れのある唯一の政治家、周恩来が自分よりも先に往生したことに大いに安堵し、それを喜んで打ち上げたのだ、と解説する人もいる。
 それから約30年後の2007年春、筆者は大連開発区のアカシアビラという集合住宅に移り住んだ。道ひとつ隔てた一角の広大な敷地に「開発区病院」という病院があり、ある日午前6時頃、その敷地で何発もの花火が打ち上げられ、目を覚まされた。それがどういう意味か分からなかったので、さっそく大連の中国人の友人に、その理由を尋ねてみた。彼の答えは以下のようなものであった。
 大病を患って開発区病院に入院していた故郷の親が、治療も甲斐なく亡くなってしまった。親孝行の末に大病院で昇天したことを喜び、花火であの世へ送り出し、それを周囲の人に知らせるのだ、と。
 ところで、周の死去に対する毛の気持ちはどうだったのだろう? 周は、毛を中心とする共産主義専制政治の中枢にいて、実務を取り仕切り、毛に対しては一度も叛くことなく、忠実に仕え、一度も失脚しなかった故に、不倒翁と呼ばれていた。
 文革期間には、劉少奇から林彪まで、いわゆる毛の後継者といわれたNo.2を悉く追いつめ、あるいは失脚させてきた毛にしてみれば、自分の存命中にいつ叛かれやしまいかと心配してきたその周が、毛自らの手を汚すこともなく、自分より先に死んでくれたのだ。これは、2人にとって大変喜ぶべきことだから、花火を打ち上げて、天下の人々に知ってもらうが良い。友人の話から推測すれば、それが毛の気持ちだったのかもしれない。
 文革末期、四人組は「批林批孔」運動を繰り広げた。この運動で、彼らは周を孔子になぞらえて、林とともに葬り去ろうとしたのである。
 周は批判の対象となったまま失意のうちに死去した。1976年4月5日、文革に苦しめられ、四人組を憎んでいた民衆は、彼の死を悼み、天安門で花輪を捧げた。この花輪は北京市当局によって撤去された。この撤去をめぐって抗議する民衆と当局が衝突、これが四五天安門事件(第一次天安門事件)である。ちなみに、この年から15年後の1989年に起こった天安門事件は、六四天安門事件(第二次天安門事件)という。
2017.5.24 作成
2017.5.27 投稿

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