最近、肺がんで療養中の先輩のOさんが、入退院の合間を縫って、
関内から神奈川宿のあった旧東海道へ通じる横浜道周辺を歩き巡った紀行文を送ってくれた。
この横浜道に因んで、私も、数年前、Oさんが訪れた場所のひとつ、掃部山に登ったことがある。それは、なぜ横浜に掃部山があるのか、不思議に思ったからである。
この掃部山と横浜道を南に越えた野毛山の間には、神奈川県奉行所跡、伊勢山皇大神宮、野毛山の佐久間象山顕彰碑や成田山横浜別院など、江戸時代や明治時代にかかわるものが結構集中している。
さて、その掃部山は公園になっており、公園には、幕末ペリーから開国を迫られて、攘夷派が反対するなか、勅許を得ないまま日米通商条約を締結し、開国を進めた大老、井伊直弼掃部頭の銅像が建っていた。
なるほど、開国を決定した井伊さんは、明治以降大きく発展した横浜の恩人であることは、確かである。だが、掃部という言葉が、井伊直弼とリンクしていることを知っている人は、よっぽどの歴史好きに違いなく、一般の人はほとんど知るまい。
幕末、ペリーから江戸に近い神奈川に開港を迫られた江戸幕府は、当初、神奈川宿に近い神奈川湊を開放したが、この地は比較的人口も多く、日本人と外国人との接触が増えるにしたがって、トラブルが多く発生し、問題となっていた。これを恐れた幕府は、神奈川湊に代わるものとして、野毛山にほど近い桜木町付近から南にかけて新たに港を建設した。それが現在の横浜港である。
その後の横浜港の発展はご存じの通りである。井伊直弼といえば、開国に反対した攘夷派などを安政の大獄において次々と処断したため、イメージがよくなく、それほど人気もないが、横浜にとっては大恩人というべき人で、横浜の人々にもっと知ってもらいたいものだ。
2017.6.13作成
2017.6.29投稿
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