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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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病後雑談

病後雑談
1.
 ちょっと病気になるのは確かに一種の福である。それには2つの条件があり:1つは軽いものに限り、決してコレラで嘔吐とか、ペスト、脳膜炎の類でなく:2つには手元にお金があり、一日横になっていても餓えることの無いことだ。この2つの1つが欠ければ、俗人は病の雅趣を云々できない。
 かつて私は閑事にかまけるのが好きで、沢山の人を知ったが、こうした人は1つの大望を抱いていた。大望は誰もが持っている物だが、ある人達は茫然な状態にしているだけで、自分ではっきりと口に出せぬに過ぎない。そうした中で、特別風変わりな人が2人いた:一人は天下の人が皆死んで、彼と美女と、もう一人大餅売りが残れば良いと:もう一人は秋の薄暮に、少し喀血し、二人の腰元に扶けられながら、ゆっくりと階前に到り,秋海棠をながめる、というものだ。この種の志向は一見奇妙だが、実は大変周到に考えられている。最初のはしばらく置いておき、2番目の「少し喀血し」はとても道理的だ。才子は元来多病だが、「多い」だけで重くては良くない。一回でお碗一杯や数升も吐血したら、一人の血は何回吐けるだろう?日ならずして雅でなくなるだろう。
 これまで私は余り病気しなかったが、先月ちょっと病気になり、初めは毎晩熱が出て、気力が失せ、食欲も無く、一週間しても回復しないので医者に診てもらった。医者は流行性感冒だと言った。よかった、流感で。流感なら熱が下がる時になっても下がらなかった。医者は大きなカバンからガラス管を出して、採血しようとしたので、彼はチフスを疑っているのではと心配になった。だが翌日血液中にチフス菌は無いと言った:それで肺を診たが平常:心臓も問題無い。これが彼を困らせたようだ。私は疲労ではと聞いた:彼も余り反対せず、只消沈して、疲労ならもっと低いはずだが…といった。
 何回も検査して後、死ぬような病気ではなく、嗚呼哀しい哉、ということにならぬことも明白だったが、毎晩発熱で気力が無く、食欲も衰え、これ真に「少しの喀血」と同じで、病の福を享受した。遺嘱を書く必要もなく、大きな苦痛もなく、真面目な本を読まなくてすみ、日常生計の心配の要もなく、毎日ぶらぶらとし、名目も「療養」と聞こえが良い。
この日から私はどうやら「雅」になったようだ:少し喀血したいという才子のことを、その時何の用もなく寝そべっていてふと思い出した。
 ただ気ままに乱想するだけなら問題ないし、頭の疲れぬ本を読むに如かず。さもないと「療養」にならぬ。こういう時、中国紙の糸綴じ本が良い。これも少しは「雅」になった証拠だ。洋装本は棚に並べて保存するには便利で、今では洋装の二十五六史があるだけでなく、
「四部備要」(経・史・子・集の四部)すら、硬い襟に皮靴(洋装)となった――無論これなども不見識とは言えぬ。だが洋装本を読むには若さと体力が要り、襟を正し正座して厳粛な態度で臨まねばならぬ。寝転んで読むとなると両手で大きなレンガを持つようで、暫くすると両腕が疲れ、一息入れるためにそれを置くしかない。だから糸綴じ本を探しに
行く。
 少し探していると、永らく読まなかった「世説新語」の類が一山あり、横になって読んだ。とても軽くて楽だ。魏晋人の豪放瀟洒な風姿も目に浮かぶようだ。これで阮嗣宗が、
歩兵厨の酒造のうまいのを聞くとすぐ歩兵校尉になろうとしたのを思い出し:陶淵明が彭澤令になるや、官田はすべて酒用米を植えて酒造しようとしたが、夫人の抗議で少し
うるちも植えたことなど、これ真に天の趣が横溢し、今日の「雲の端に立って吶喊する」
者たちが逆立ちしてもけっして果たせぬ事だ。だが「雅」はいでこの辺りで止めておく。
これ以上は良くない。阮嗣宗が歩兵校尉になれたように、陶淵明が彭澤令に補せられたように、彼らの地位は一般人ではないからで、「雅」を求めるなら地位が要る。「菊を東籬の下に採り、悠然と南山を見る」は淵明の好句だが、我々が上海でこれを学ぶのは難しい。
南山が無いから「悠然と洋館」とか「悠然と煙突」を見ると改められるが、庭に竹籬があって、菊を植えられる家を借りると月百両(テール)は必要で、水と電気代は別途:巡警団への支払いも家賃の14%かかるから14両だ。単にこの2項目だけで114両、1両1.4元換算で159.6元となる。近頃の原稿料はいくらにもならず、千字で最低だとたった4-5角で、陶淵明を学ぶ雅人の原稿だからとしても、今千字3元にしかならず、しかも句読点、洋文、空白は除かれる。それだと只菊を採る為、毎月ネットで53,200字翻訳しなければならなくなる。飯はどうする?これは別途考えねばならず、従って「飢え来たりて我を駆り、いずこへゆくか知らず」となる。
 「雅」は地位が要り、銭も要るのは古今不変だが、古代、雅を買うのは今より安かった:
だが方法は同じで、本は本棚に並べ、或いは数冊は床に放り、酒杯は卓に置くが、算盤は引出しに仕舞い、または一番良いのは腹にしまっておくこと。
 これ「空ろなる霊」という。

訳者雑感:長い間熱が下がらず、寝ながら読んだ「世説新語」や陶淵明の句を学ぶことから、当時の上海の文筆業での生計の一端が推察される。駆けだしの作家は千字0.5元くらいで、魯迅などのクラスで千字3元。それも句読点とかローマ字の部分は除外される由。
一方の家賃の方は百テール(租界の通貨)で1.4元換算という2重通貨制度。これは当時の
中国では上海と広東での通貨の価値が違ったことなどからして何の不思議も無かったろう。
つい30年前でも外貨兌換券というのが外国人用に発券されていて、輸入品を購入するにはこれでないと買えなかったことなど、中国人の貨幣に対する感覚では何ら問題ないようだ。
日本でも江戸と大阪では金と銀の2重通貨制であった由。
それにしても、家長としての長男魯迅は、北京時代も上海時代も、母や家族の為に為替を送って、生計を支えており、経済感覚は他の「経済観念に疎い」作家と違い、しっかり計算して暮らしていたようだ。
   2013/12/15記

 

 

 

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新しい文字について

新しい文字について
         ―問いに答えて
 比較するのは一番良いことだ。ピンイン字を知るまで、象形文字の難しさに想い到らなかった:ラテン化新文字を見るまで、それまでの注音字母とローマ字拼法も面倒で実用に適せず、将来性は無いと明確に断定するのはとても難しかった。 
 四角い漢字はまさに愚民政策の利器で、苦しむ大衆の学習と会得する可能性が無いだけでなく、裕福で権勢ある特権階級ですら10-20年かけても終に会得できぬ者も大変多い。
最近、古文の良さを宣伝する教授も、竟に古文の句読点を付け間違えたのがその証拠である――彼自身も分かっていないのだ。だが彼らは分かったふりをして、デタラメを言い、真相の分からぬ人を騙す事が出来る。
 だから漢字は中国大衆を苦しめる結核で、病原菌が内に潜伏しているから、まずそれを除去せねば、自ら死ぬ他ない。以前も学者がピンインを考え出し、皆が簡単に学べるよう簡単に教訓し、その延命を図ったが、それらの字はやはり繁瑣であって、というのも学者はどうしても官話、四声を忘れられず、学者が造った字だから、学者の気息がなければならなかった為だ。今回の新しい文字は大変簡易で、実生活に基づき簡単に学べ、有用で皆に話す事が出来、皆の話すのも聞け、道理も理解でき、技芸も学べ、これこそ苦労している大衆の物で、まずは唯一の活路である。
 今まさに中国で治験中の新文字は、南方人に読ませてすべて分かるという訳ではない。今の中国では元々一種の言語で統一はできぬから、各地の言語で話さねばならず、それは将来もう一度通じるようにすることを考えるしかない。ラテン化文字に反対する人は往々、これを一大欠陥として、中国文字を不統一にさせるものだと考えているが、四角い漢字は元々、大多数の中国人が識字できぬことを抹殺しており、知識階級の人すらも真に識字してはいないことを抹殺している。
 しかし彼らも新字が苦労している大衆に有利だということはよく知っておるので、白色テロの弥漫している所で、この新字はきっと痛めつけを受けている。現在、新字でなくても、口語の「大衆語」に近いものが、過酷な圧迫と痛めつけを受けている。中国の苦しむ大衆は、不識字なのに、特権階級は彼らがとても聡明になるのを恐れ、まさに彼らの思索機関(頭脳)を麻痺させようと懸命になっており、飛行機から爆弾を落とすように、機関銃から弾を発射するように、刀斧で以て彼らの頭をするのは、すべてそれである。
      12月9日

訳者雑感:訳者が学校で中国語を学び始めた1960年代は倉石先生がラテン化新字で中国語を学ぶ運動が始まっていた。教科書に漢字の無いのもあり、現在のラテン字の綴りだった。
それでも1年生のはじめは、ピンイン(拼音方案)で学んだ先生たちは日本語のカタカナやハングルのような表音文字であるピンインが併記されている辞書や教科書を使っていた。
ボポモフォ と繰り返し舌や上あご、唇をしっかり閉じた破裂音とか確かにこれで発音を覚えないと、所謂欧米人がローマ字で、日本人がカタカナで習った外人の中国語しか話せなくなってしまう。
 これは魯迅も指摘するように学者が官話と四声を忘れられないことからきているだろう。
その後、ローマ字で破裂音や四声を表示する方案が出されたが、魯迅の言う通り、繁雑すぎて実用に適しなかった。いろいろな記号が一杯ついていたからだ。
 それでローマ字方案に代わるものとしてラテン化新字が打ち出され、今日の姿になった。
しかし、このラテン化新字は上海人がそのまま読むと、まったく別の言葉に聞こえてしまう。上海語をこの綴りで記述するのは困難である。やはり全国が北方の言葉を中心にした普通語という統一言語を話せるようにならないと、この新字は普及が難しい。
 それには将来の統一を待たねばならぬ、というのが魯迅の文章だが、それから80年経って、テレビの普及などにより、香港ですら普通語が通用するようになった。だがその一方で、香港の政治家たちは、正式な場では広東語で話し、これを堅持し続けようとしている。
返還後50年したら、政治家も普通語を正式な場で使うようになるだろうが。
      2013/12/11記

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中国文壇の亡霊4

 書店への弾圧はまさに最高の戦略となった。
 だが、数回の投石では、不十分の嫌いがあった。
中央宣伝委員会は計149種の大量の書籍を発禁処分し、凡そ売れ筋の物は殆どその中に入れられた。中国左翼作家の作品は勿論たいてい発禁にされ、次に訳本も発禁となった。何人かの名を挙げると、ゴーリキー、ルナチャルスキー、フェディン、ファディイフ、セラ
フィモビッチ、シンクレアー、更にはメーテルリンク、ソローグフ、ストリンドバーグにまで及んだ。
 それで出版社は大変困った。彼らの数社は即刻本を供出し、焼却したが、ある社は役所と相談し、救済法を考え、一部の免除を得た。将来の出版の困難を減らす為、役人と出版社は会議を開いた。この会議に数名の「第3種人」がいて、「良い文学と出版社の資本保護の為、雑誌編集者の資格で、日本式方法の採用を提案し、印刷前に原稿審査を行い、削除改定し、他の人達が左翼作家の作品で連座させられ、発禁されることのないようにし、又印刷後に発禁されて出版社が損失を被ることを免れようとした。この提案は各方面に大変喜ばれ、即座に採用された。だが、けっして栄光あるバツ―汗の方法ではなかったが。
 そして即実行され今年7月上海に書籍雑誌検査所が設立され、多くの「文学家」の失業問題は消えたが、それで悔い改めた革命作家たちと、文学と政治を絡ませることに反対する「第3種人」たちが検査官の椅子に坐った。彼らは文壇の状況を熟知しており:頭脳も純粋な官僚の様にまぬけでなく、小さな風刺や片言一句の反語もすぐその含意を察知し、文学の筆で抹消し、いずれにせよその作業は創作より面倒でもないから成績良好の由。
 だが彼らの使った日本式は間違いだった。日本も固より階級闘争を論じるのは許さないが、世界に階級闘争が無いと言ったわけではない。だが中国は、世界には所謂階級闘争はなく、すべてマルクスの捏造したものだから、これを論じるのを許さないのは真理を守る為だとした。日本も固より禁止され、書籍雑誌では削除したが、削除された所は空白を残し、読者はそれが削除されたと分かるが、中国はそれを許さず、必ず文を続けねばならず、読者の眼には完整した文のように見えるが、作者の説いている意味が不明でぼやけたものになった。この種の物は今中国の読者の前ではボケた話しとなり、フリッチェ、ルナチャルスキー等のもそれを免れない。
 それで出版社の資本は安全となり「第3種人」の旗も見えなくなり、彼らも闇の中で、あの絞首刑台の同業者の足を懸命に引っぱったので、彼らの元の姿を描ける雑誌はなくなったが、それは彼らがまさに抹消する筆先で生殺与奪の権力を手にしたためだ。読者は雑誌の消沈してゆくさまと、作品の衰退とそれまで有名だった外国の前進的な作家は、今年になって大抵忽然と低能者に変じたのを目にするのみとなった。 
 しかし実際は文学界の陣営の線引きが一層明確になった。隠蔽は長続きせず、次いで起こったのはまたしても血なまぐさい戦闘だった。
    11月21日


訳者雑感:昨夜12月9日、安部首相がテレビの記者会見で、「特定秘密保護法案は通常の(国民の)生活を脅かすものではない、と発言した。「国民の生活が第一」の小沢氏が以前から、これは「国民の生活を脅かすもの」との批判に反論するものだろう。通常の生活さえしていれば、とは何を意味するのだろう。政府の検閲で「黒塗り」にされるような言動をしなければ、それが通常の生活だというのだろうか?
通常の生活とは政府の言う通りの生活をし、ポチのようになれということか?
1934年の日本と中国の新聞雑誌の検閲で、中国はつじつま合わせの文章でわけが分からなくなってしまったが、日本の検閲ではそこは黒塗りにしたり○や△でブランクにしたそうだ。通常でない主張や意見を発表しようとすると、政府国家はいつでも「秘密保護法案」に基づいて、発言者を拘束、10年の刑を宣告できるわけだ。
            2013年12月10日記

 

 

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中国文壇の亡霊3

中国文壇の亡霊3
3.
 だが革命文学はそれによって動揺しなかったし、更に発展し読者も信頼を深めていった。
 それで別の方面から所謂「第3種人」が現れ、これは左翼ではないが右翼でもなく、左右の外に超然とした人達だ。彼らは、文学は永遠と考え、政治的現象は一時的だから文学は政治と関わりをもつことはできず、もし関わりを持てば、永遠性を失って、中国には偉大な作品は無くなるだろうと考えた。しかし彼らは文学に忠実な「第3種人」だが偉大な作品は出せなかった。なぜか?左翼の批評家は文学が判らず、邪道に迷わされ、彼らの良い作品はみな厳酷で正確でない批評を受け、彼らが書けなくなるほどの攻撃を受けたためだ。従って、左翼の批評家は中国文学の殺し屋だという。
 政府が禁じた刊行物や作家を殺戮したことについては何ら触れず、それは政治に属するからで、一旦それに触れれば、彼らの作品の永遠性が失われるためだ:況や弾圧については、「中国文学の殺し屋」の類を殺戮するについては、まさに「第3種人」の永遠の文学、偉大な作品の保護者だとした。
 この微弱で偽善的な啼き叫びは、ある種の武器だとは言え、その力は無論とても弱く、革命文学はそれによって撃退されることはなかった。「民族主義文学」はすでに自滅し、「第3種文学」ももう立ちあがれず、この時、本物の武器が登場した。
 1933年11月、上海の芸華映画社が突然一群の連中に襲撃され、滅茶苦茶に壊された。彼らは極めて組織的で、笛の号令で始め、次の笛で停止し、その次の笛で散開した。離れる時にビラをまき、彼らが征伐したのは、同社が共産党に利用されているためだとし、更には映画社だけでなく、書店方面に蔓延し、大規模なのは一群の連中が闖入して全壊し、小規模なのは、どこかから石を投げ、1枚2百元もする窓ガラスを割った。その理由は勿論その書店が共産党に利用されているため。高い窓ガラスが安全でない事が書店主を非常に悩ませた。数日後、「文学者」が自分の「よい作品:を売りに来た。彼は誰も読まぬ物と知りながら、買うしかなかった。代金は1枚の窓ガラスに相当するに過ぎないから、2回目の石を投げられて修理せねばならなくなるのを免れるしかなかった。

訳者雑感:中国の文学は政治と関わりないものが古典として残って来ただろうか?
司馬遷の「史記」は歴史の書だが、中身は「文学」作品としても非常に魅力に富む。
唐代の詩はたいていが「政治に関わりのある」官僚やそれに登用されるために勉強をしてきた「文人」たちのものだから、政治から離れたい様なことを書いていながら、実はやはり政治の世界に関わりたいというものが多かった。
 辛亥革命後の「五四運動」でも多くの文学関係者は政治に深く関わってきた。魯迅すら民国政府の教育部の役人をし、北京大学の教師も兼任していた。この辺は森鴎外が軍人でありながら文学作品を残したのと似てはいるが、彼以外の殆どは政治と関わっていない作家が主流をしめていたのと比べると、中国の場合は文学が政治に翻弄され続けたと言っても過言ではないだろう。
戦後の一連の政治闘争とその渦の中で悲惨な目にあってきた文学者の末路を見た時、日本
と中国の「残酷・厳酷」さの落差がひしひしと感じられる。
 2013/12/08記


 

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中国文壇の亡霊2

中国文壇の亡霊2
2.
 これ以降、中国で懺悔を知らない共産主義者は殺されるべき罪人となった。さらにこの罪人は、なんと無窮の便宜を提供するようになり:商品となって、金で売られ、人の為に仕事を増やした。さらに学園騒動や恋愛のもつれも、どちらかが共産党だとされて罪人となり、この結果きわめて簡単に解決できるようになった。誰かが裕福な詩人と論争すると、その詩人の最後の結論は:共産党員はブルジョアに反対するが、私には金があり、彼は私に反論するから共産党だ、となる。そして詩神は金のタンクに乗って凱旋する。
 しかし、革命青年の血は革命文学の芽にそそがれ、文学面では以前以上に革命的となった。政府内には外国で学び、或いは国内で学んだ知識水準の高い青年(役人)がおり、彼らが最初に使うのはきわめて普通の手段で:書籍新聞などを発禁し、作家を弾圧し、終には作家を殺戮し、5人の左翼青年作家がこの示威行為の犠牲となった。しかるにこの事件も公表されず、彼らは、これは実行できるが、口外してはよくないことを知っているからだ。
古人も昔から「馬上で天下は取れるが、馬上で之を治めることはできない」と諭している。
だから革命文学を剿滅するには文学という武器を使わねばならないことになる。
 この武器として現れたのが所謂「民族文学」だ。彼らは世界の各人種の顔色を研究し、色が同じ人種は同じ行動をとらねばならぬとしたから、黄色の無産階級は黄色のブルジョアと闘争すべきではなく、白色の無産階級と闘争すべきだと決めた。彼らはジンギスカンを理想的モデルとし、彼の子孫のバツー汗を描き、どの様にして多くの黄色民族を率いてオロシアに侵入し、彼らの文化を破壊し、貴族と平民を奴隷にしたかを描いた。
中国人は蒙古人可汗に従って戦ったが、それは中国民族の栄光とはいえず、ただオロシアを滅ぼしただけで、彼らはそうせざるを得なかっただけで、我々の権力者は現在すでに昔のオロシアが今日のソ連だと知っているから、彼らの主義はけっして自分たちの権力と富と妾を増やす事はできぬと知ったからである。では今日のバツー汗とは誰なのか?
 1931年9月、日本が東三省(旧満州)を占拠したが、これは確かに中国人が他の人の後についてソ連を破壊しようとする序曲で、民族主義文学者達は満足することができた。唯一般民衆は却って目下の東三省喪失は、ソ連を壊すより大変なことだと考え、彼らは激昂しはじめた。そこで民族主義文学者もただ風にまかせて舵を転じるほかなく、この事件に対して啼き叫び嘆くように改めた。多くの熱心な青年達は、南京(政府)に請願に赴き、出兵を求めた:だがこれは極めて苦しく辛い試練を経ねばならなかった。汽車には乗れず、何日も野宿してやっと南京に辿り着いたが、多くの人は自分の脚に頼るしかなかった。
南京に着いたら、はからずもよく訓練された一大隊の「民衆」の手に握られた棍棒、皮の鞭、拳銃で迎えられた。彼らは顔と体にいくつもの腫れ物をもらい、その結果頭を垂れ、気を喪失し、帰るほかなかったが、何名もの人はその後行方不明になり、ある者は水に落ちて溺死したが、報道によると彼らは自ら落ちたとされている。
民族主義文学者達の啼き叫びも、こうして収斂していった。彼らの影も見えなくなり、彼らはすでに葬送の任務を完了した。これはまさしく、上海の葬送の行列と同じで、出発の時は、楽隊が入り乱れてガンガンかき鳴らし、歌うような鳴き声をだすが、その目的は悲哀を埋めてしまおうとするもので、再び記憶に残さぬためで;それが達成されたらみんなちりぢりに解散し、もうもとの行列には戻らない。

訳者雑感:民族主義文学というものが、ジンギスカンをモデルに黄色人種として白人世界
に侵入し、オロシアからドイツ方面を占拠して諸汗国を建てた。
今回は日本の後についてソ連を攻撃する序曲として「民族主義文学」を提唱したが、その日本が
満州事変を起こし、満州を占拠したから、青年達が南京政府に出兵を要請したが、無残な
結果となってしまった。これ以後、国民党政府は「新聞雑誌の弾圧」を始めた。
     2013/12/08記

 

 

 

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中国文壇の亡霊

中国文壇の亡霊
1.
国民党が共産党に対し、合作から剿滅(そうめつ)に方針変更後、ある人は言った:
国民党はもともと彼らを利用しただけで、北伐がうまくゆきそうになったら、剿滅しようとするのは予てからの計画だった。だが私はこの説はその通りだったとは思わない。国民党の権力者の多くは、共産を望んでいて、彼らは当時先を競って自分たちの子弟をソ連に留学させたのがその証拠だ。中国の父母は自分の子が一番の宝だから、自分の子を剿滅の対象になるための勉強をさせたりはしない。しかし権力者たちは間違った考えを持っていたようで、彼らは、中国はひたすら共産にすれば、自分たちの権力はさらに強大になり、財産と妾もよりたくさん持てるようになると考えていた。少なくとも、共産でないより更に悪くはならないと考えていた。
 我々には伝説がある。2千年ほど前、劉という人が幾多の苦功を積んで神仙となり、彼の夫人と一緒に天に昇ることができるようになったが、夫人はそれを余り望まなかった。どうしてか?彼女はそれまで住みなれた家、鶏、犬たちと離れたくなかった。劉氏は上帝に懇求するしかなかった。家鶏犬と彼ら二人はすべて天上に移りやっと神仙になった。大きな変化だが、その実、何ら変わりはないに等しかった。共産主義国で少しもそれらの権力者の元のままの状態を変えなければ、或いは更に権勢が強大になるなら彼らは必ず賛成する。然るに、その後の状況は、共産主義は上帝のように融通無碍ではないことが判明したので、剿滅の決心をしたのだ。子は勿論一番の宝であるが、自分の方がより大事なのだ。
 それで多くの青年共産主義者及びその嫌疑者と嫌疑者の友人たちが、至る所で自らの血で自らの誤りを洗うはめになった。権力者たちは先の誤りは、彼らの欺騙を受けたのだから、彼らの血できれいに洗わねばならぬと考えた。だが多くの青年達はその詳しい事情も知らず、ソ連留学を終え、駱駝に乗って喜び勇んで蒙古を経由して帰国してきた。ある外国の旅行者がかつて心痛む光景を見たとして、彼女は語った。彼らは今祖国で彼らを待っているのは、絞首刑台だということを知らないのですね、と。
 その通り絞首刑台だが、絞首刑はまだましな方で、単にロープで首を絞められるだけで、それは優遇である。一人一人絞首刑台に登るのだが、彼らの中の一部の人間にはもう一つの道があり、その首にロープを巻かれた友の足を強く引っぱるのだ。これが即ち、事実で以て彼の内心の懺悔(転向)を証明することで、懺悔できるものは、精神的に極めて崇高になった証なのだ。

訳者雑感:本編は4段に分かれており、長いので、1段ごとに分けることとする。
 蒋介石が子の蒋経国をソ連に留学させ、彼がロシア人と結婚したことは皆知っている。
孫文の三民主義も「耕す人に土地を」という考えは共産の考えである、として、それとの対立軸に袁世凱などを担いだのが辛亥革命後の中国の状況であった。それを倒そうとするのが北伐であった。それには共産党との合作が必須であった。
 多くの国民党権力者は共産という考え方で封建王朝とその衣鉢を継ぐ「袁世凱とその後継者」を倒そうとして、共産とも合作しようとしたのだ。そのころは共産と言う考えの下で、今よりずっと強大な権力と財産と妾(情婦)をたくさん蓄えることができると考えていた、と魯迅は指摘する。
 2013年の今日、8千万人強の共産党員は、百年前の辛亥革命後の国民党の権力者が考えていた以上に、強大な権力と財産とお妾さんをたくさん蓄えている。
      2013/12/04記

 

 

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週刊「戯」編集者への書状

編集者さま:
 今日、週刊「戯」第14号を拝読。「独白」に私からの回答が得られず「遺憾」とあり、この回答は一昨日に発送したと記憶しており、病いをおして書いたもので、私としては努力したと考えておりまして、今ここで声明しますが、喜んでいただけたと思っています。
 今週号で、数枚の阿Q像を見ましたが、とても風変わりだと感じました。私の意見としては、阿Qは30歳前後で、平常な格好で、農民的な質朴さを持ち、愚鈍だが、ちょっと遊び人的な狡猾さもあり、上海には人力車夫や車を牽いている者の中から彼の影を探す事が出来るが、流れ者風ではなく、ルンペン風でもない。頭に小型のお碗帽を被せると、阿Qではなくなってしまう。私は彼にフェルトの毡帽(チャンマオ)を被らせたと記憶する。
これは黒くて半円形の帽子だが、縁は少し折り曲げて被る:上海の田舎ではまだ被っている人がいるだろう。
図がいるとの由、陳鉄耕君の刻したものが十枚あり、同封しますが不用なら返送ください。彼は広東人で、彼が用いた背景は多くは広東のです。第2、第3の2、第5、第7のこの4枚は比較的良いです:第3の1と本文は符合せず:第9は事実とかけ離れ、あの頃、どこにモーター車に乗った阿Qがいたでしょうか?これは荷車にすべきで、ある地域では板車といい、馬で引く四輪で、平時は貨物を載せます。但し、紹興にもこんな車は無く、私が使ったのは、当時の北京の状況で、私が紹興にいた時は、こんな盛大な行列は見ておりません。
 また今日の「阿Q正伝」で「小Dはきっと小董か」とありますが、そうではありません。
彼は「小同」といい、大人になったら阿Qと同じになります。とりあえず要点のみ。
あわせてご健勝を祈ります!
      魯迅拝     11月18日

訳者雑感:武田泰淳が紹興を訪問し、阿Qが被っていた「毡帽」を買って紀行文を新聞に寄せていた。私も、その数年後に紹興で買い求めて、寒い北京で被っていた。フェルトというか、なんか羊毛や動物繊維の短い糸を(長いのは衣服に仕立てる)突き固めたような感触で、けっこう分厚くて、長持ちしそうな感じがした。2年ほど冬に被っていたが転勤の際、どこかにしまいこんでしまったようで、今手元には無い。残念。
    2013/12/03記

 

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週刊「戯」の編者に答えて

週刊「戯」の編者に答えて
 魯迅様
 「阿Q」第一幕を掲載完了しまして、舞台上演は直ぐには難しいけれど、準備工作は始まりました。第一幕掲載できましたので、貴方からの御意見を賜り、我々の公演準備に対しての助言とさせていただき、また本刊の叢書計画が実現した際には、貴方の意見と「阿Q」の劇本を一緒に印刷して、その序にさせていただきたく、これは編者としてのお願いであり、また作者、読者の演出の仲間たちのお願いであります。
 ご健康をお祈りします。      編者

編集者様――
 週刊「戯」の私あて公開状はつとに拝読致しました:その後、週刊誌も拝受し、これはきっと私に何か答えよとの催促であろうと思いました。戯劇について私は研究したことがないので、最も確かな回答は一声も発せぬことです。しかし、貴方と読者の皆さんが、予め私の門外漢の気の向くままの話しでもよいと御理解いただけるなら、少しばかり個人的な考えを述べても構いません。
 「阿Q」は一回分があまり長くないのと、6日の間があり読んですぐ忘れていました。
今思いだすと、只あの編集の中で「吶喊」の他の人物も登場させ、未荘或いは魯鎮の全容を示す方法はたいへん結構です。ただ阿Qの話す紹興語は、私にはどうも理解できません。
 さて私としても幾つか申し上げたいことがありますが、二点申し上げます――
1.未荘はどこですか?「阿Q」の編者はすでに紹興と決めているようですね: 私は紹興人で、私の描いた背景も紹興が多いため、この決定は大概みなが同意するでしょう。
しかし私の全ての小説では、某所と明示しているのは大変少ないのです。中国人は殆どが故郷を愛護し、他所の大英雄を見下しますが、阿Qもこの癖があり、当時私がもし暴露小説を書いて、事件が某所で起こったと特定したら、そこの人は恨んで、不倶戴天の敵となり、某所以外の人は対岸の火事を見るのといっしょで、被我ともに反省せず、一組は切歯扼腕、他の組は漂漂然とし、作品の意義と作用は全く失せてしまうだけでなく、そこから無聊の末節を生じ、みんなが閑潰しの議論を始め――「閑語揚州」は最近の例です。
病を治すため、処方箋に人参とあるのだが、その服し方が悪いと、全身がふくれてきて、大根の種を飲んでやっともとの状態に戻ったとしたら、人参を買った金は無駄になり、さらには大根代も損をしてしまう。人の名も同じで、古今の文壇の消息通は、往々ある小説の根っこの所は、私仇を晴らす為だと考えているから、作品中の誰それは必ず実際の誰それだと詮索する。こうした才子学者たちに無駄なことをさせ、他の末節を生じさせぬ為に、私は「趙太爺」「銭大爺」を使ったが、これは「百家姓」の最初の2字だからで:
阿Qの姓に至っては、誰もよく知らないとした。但し、当時やはり遥言が飛んだ。又拝行についても、私は長男で弟が二人おり、遥言家の毒舌予防の為、私の作品の悪役には、一人も長男でないものはいないし、四男五男でないものもいない。
 上記のような苦心は、人を怒らせないようにとの心配したのではなく、目的は無聊な副作用をなくし、作品の力を集中し、更に強い力を発揮させるためです。
ゴーゴリの「検察使」は、演者が観客に向って「貴方がたは自分を笑いなさい!」と直接言わせている。(おかしなことだが、中国訳本にはこの極めて大事な一句が削られている)私のやり方は、読者が自分以外の誰だと探りだせなくすることで、暫くしたらそんな推測を忘れ、傍観者となり、そしてひょっとしたらこれは自分の事か、或いは全ての人のようでもある、と疑い始め、そこから反省が始まる。が、私は歴来の批評家で、この点に注意した人はいないと思う。今回の編者が、主役の阿Qの話す紹興語を、このようないいかげんでたらめな態度をとるのは、彼の眼も俗塵に覆われているのだと思う。
 しかし、紹興と特定するのもよいだろう。そこで出て来るのが第二の問題で――
2.阿Qは何語を話すべきか?これは問うまでも無く、阿Qの一生の事がらは紹興で起こった以上、当然紹興語を話すべきだろう、だが第三の問題が出て来る――
3.「阿Q」はどこの人達に見せるのか?紹興人に見せるなら紹興語を話すのは疑いない。紹興の戯文ではこれまで、官員・秀才(科挙合格者)は官話を使い、ボーイ・獄吏は土語
を使い、生(男役)旦(女形)浄(敵役)は大抵官話で道化役は土語を使った。思うにこれもけっして全てこの様に、上下、雅俗、善悪を区別したのではなく、大きな理由として、
警句やこなれた文句、風刺と滑稽は十中八九、下等人の口から出たもので、従って、彼は必ず土語を使い、当地の観客たちがはっきりわかるようにした為だ。そうであれば、この
問題の重要さは、考えてみればすぐわかる。だがもし紹興人に見せるなら、他の演者にも紹興語を大いに話させるのがよく、同じ紹興語だが、所謂上等人と下等人の話すのは必ず
しも同じではなく、たいてい前者の一句は簡明で、助詞と感嘆詞は少なく、後者の一句は長くて助詞と感嘆詞が多く、同じ意味の一句でも倍くらい冗長になる。他の地区の人に見
せるなら、この劇本の作用は減じてしまい、弱まって消えてしまう。私が注意してみる限り、紹興語に深く通じてと自認する県外の人はたいてい、現在、明代の人の書いた小品に
句読点をつけている名人と同様、あまりわかっていないのだ。
北方や福建広東の人に至っては、外国のサーカスの即興劇のしゃれより分からないだろう。
 思うに、普通、永遠、完全という三つの宝は、無論大切なものだが、作家の棺桶の釘にすぎず、彼を釘づけにしてしまうだろう。現在の中国で、時流に会い、その地にふさわし
いものをつくろうとして、使えない劇本は無いが、その実、それは不可能で、このように編集して見ても、それは困難なことだ。だから、現在とれる方法は、会話は比較的簡単で、
理解し易い劇本を書くしかなく、学校のような場所で上演するなら、改める必要はないが、某省の某県の某村でやるとなると、これは一冊の底本とし、せりふはその地の土語にし、
言葉だけでなく、背景も人名も変え、観客が切実に感じられるようにすべきである。例えば、演じられる所が水郷でなければ、船は荷馬車にし、七斤(船頭)も「小辮髪」に
すればよいと思う。
 以上ですが、総括すれば、この劇はやはり専門家せず、多くの人に活用してもうらのが一番です。
 終わりに臨んで、もう一つの尻尾をつけたく、これは無論狆の尻尾のようにおもしろくはありません。これは私にとっても大変残念ですが、言わねばなりません。数ヶ月前、
かつてある友人に大衆語について質問を受け、それへの返信が後に「社会月報」に載りましたが、末尾には、楊頓人氏の文章が載せてあった。紹伯氏が「火炬」に、私はすでに楊
頓人氏と協調し、その上、中国人は協調性に富んでいると深く感慨をもった、と。
今回、この手紙はきっと発表されるでしょうが、私は週刊「戯」にすでに曾今可・葉霊鳳両氏の文章が載ったのを覚えていますが:葉氏は一枚の阿Q像を描いており、私のあの「
吶喊」は、まだ便所で使いきっていないようで、もし多年に亘って、便秘に苦しんでいないのであれば、新しく一冊買ったに違いない。もし私が紹伯氏の判決におびえているなら、
今回は何も書かぬのが当然だが、必ずしもそうとは思わない。ただここで、ついでに声明する:私はこの種の権力は全く無いし、他の人が私の手紙を雑誌に発表するのを禁じるこ
とはできるし、他に誰かの文章があるのかどうか、予め知るすべもなく、従って同じ雑誌に、如何なる作者が協調的か否かを示す意味はない:但し、同じ陣営の人が、変装して、
背後から私に一撃を加えるなら、彼に対する私の憎悪と蔑視は明らかに敵に向けられる。
 これはけっして個人の問題ではなく、現在また紹伯氏がいつもの手段を展開する時期になっており、私が声明しないと、私が書いた各節は、たとえ買弁意識でないとしても、
協調性の論議になってしまう。それでは何の意味があろうか?
 とりあえずご返事まで。お体たいせつに。
      魯迅   11月14日

訳者雑感:紹興では阿Qの頃、1910年頃には、戯が官話と土語の両建てで話されていたのを初めて知った。役人や秀才、二枚目、女形などは北京官話を使ったというのは、北京から数年ごとの任期で紹興に赴任してきた官とその部下たちが話す北京官話をしゃべることができたのだろうか。そして戯を観に来る紹興の土着の人達もその北京官話が理解できたのだろうか?と疑ってみると、やはり警句とか滑稽などの「キーワード」は土語を使って、土着の観客にしっかり分かってもらえるようにしていた、とある。
 かといって、北京から赴任してきた「偉いさん」たちとの会話は絶対必須であったから、土地の役人や秀才たちは北京官話を話せるようになっていたのだろう。2重言語生活は広大な中国で、中央から赴任してくる「長官とその部下」との会話に不可決だったのだ。
 しかし紹興語の土語のしゃれは、外国のサーカスのピエロのしゃれ以上に外部の人には理解困難だった、というのは面白いというか、テレビの普及する前の日本でも、上方漫才
のエスプリは江戸っ子にも理解できなかったのも事実であった。
     2013/12/02記

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ナポレオンとジェンナー

ナポレオンとジェンナー
 私の知人の医者は、よく流行っているが、いつも患者の家族から責められるので、ある時、自嘲気味に:人から称賛を得たいなら、人を殺すのが一番だよ。ナポレオンとジェンナーを比べてみればよくわかる、と言った。
 確かにその通りだと思う。ナポレオンの戦績は我々とは何の関係も無いが、やはり彼を英雄だと敬服する。甚だしきは、自分の祖宗が蒙古人の奴隷になったのに、それでもなおジンギスカンを称賛する:現在の逆卍(ハーケンクロイツ)の眼からすると、黄色人種はすでに劣等種だとされているのに、我々はそれでもヒットラーを讃えたりする。
 彼ら三人は人を殺しても屁とも思わぬとんでもない厄病神だ。
 しかし、我々は自分の上腕に瘡があるのを知っているが、これが種痘の跡で、天然痘から命を救ってくれたものだ。このお陰で、世界でどれほどの子供が救われたか知らぬ――
ある人は成長して後、やはり英雄たちの銃砲で灰になったとはいえ、我々の内でこれが、発明者の名から付けられたことをどれほど知っているだろうか?
 殺人者は世界を破壊し、救人者はそれを補い、修復している。銃砲で灰にされる有資格者たる諸公は、それでも殺人者に恭順する。
 この考え方を変えない限り、世界はさらに破壊されつづけ、人は更に苦しむことになる。
                              (1934年)11月6日
訳者雑感:ドイツ語の新聞や雑誌などでヒットラーが政治に登場してきたころの状態を見て来たのだろう。1934年当時、ナチスドイツから黄色人種は劣等種だといわれて見下されていたのを、承知していながら、ヒットラーを讃えたりした。第一次大戦の結果、青島などの植民地から追い出されたドイツは、英米仏日など帝国主義植民地支配者とは違った目で、ドイツを見て来たためだろうか。当時の国民党の軍備は、クルップなどドイツ製が殆どであった。それは英米仏日など植民地支配者が売ってくれないということもあったろうが、中国とドイツの協力協定の結果であった。
 それにしても、米英から追いつめられたとはいえ、黄色人種は劣等種と公言しているナチスドイツと防共協定から三国同盟を締結するに至るとは、いかなる風の吹いたものか?敵の敵は味方という論理からか。そのドイツは中国大陸で日本軍と戦闘する国民党軍に新鋭の武器弾薬を供給し、日本軍はそのドイツ兵器で大きな痛手を受けたという。また、南京の所謂虐殺を世界に向かって最初に報じたのは在南京のドイツ人ジャーナリストであった。これが世界に日本軍の残虐性を宣伝し、反日活動を高揚させたと言われている。ナチスドイツは一方で中国と協力し、それと戦っている日本と同盟を結んだ。これは独ソもしかり日ソもしかり、中立条約を結びながら、「すきあらば」いつかは攻め込もうと虎視眈々であった。それが30年代後半から40年代への世界情勢だと言えばそれまでだが。智恵が足りなかった。
無人島を巡る制空権という問題が発端となって戦端が開かれぬ事を切に祈る。       2013/11/25記

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気ままにめくる

気ままにめくる
 私の消閑としての読書――気ままにめくるについて書いてみよう。但し一歩間違えると、害を及ぼすかもしれない。
 私が初めて本を読んだのは私塾で、最初は「鑑略」(清代の歴史本)で、卓上にはこれと習字の赤格子付きの帳面、対字(詩作の為の本)の教科書以外、他の書物は不許可だった。だが後に徐々に字を覚えて書物に興味が湧いてきて、家にあった二三箱のボロ本をめくり始めたが、大目的は絵を探すことで、その後、字も読んだ。これが習慣となり、手元に本があると何でもめくってみて、或いは目次をながめ、何ページかを読み、今でもこんな具合で、いい加減な読み方だが、往々にして文を書いた時や、読まねばならない本を読んだ後で、疲れて来るとこんな風にしてうさばらしをしている。確かにそれで疲労回復することができる。
 人を騙そうとするなら、この方法でとても博学で高雅なようにみせることができる。
現在、少し真面目な人は私と閑談後、私が沢山本を読んでいると感心し、概略を話すと、
確かに結構な量を読んでいるようにみえるが、いつも気ままにめくっているからである。
一冊ずつ丁寧に読んでいるわけではない。
簡単に入手できる虎の巻は「四庫書目提要」で、これも面倒だと思うなら「簡明目録」でも問題無い。これを丁寧に読めば、あたかも沢山の本を読んだような気にさせてくれる。
だが私もかつて真面目に努力して、例えば「国学」の類等、師に教えを請い、学者の著述した参考書目に注意した。結果、すべて不満足であった。幾つかの書目は量がとても多くて、十年かけてやっと読み終えることができるほどで、私は彼自身も読んでいないのではないかと思う:ただ、何冊かは比較的良いのがあり、これも著者の人柄を見なければならないし、彼がいいかげんなら、出版されたのも多分極めていい加減で、読まぬ方がましで、読むと余計悪くなってしまう。
 私はこの世に後学のために読書指導をする先生がいないとは言っていない。いるにはいるが、得がたいのである。
 さて私の消閑の読書を述べる――真面目な人はそれに反対で、「雑」だと言い、「雑」は、現在良くないという意味である。しかし良い面もある、と思う。ある家の古い家計簿を見て、毎日「豆腐三文、青菜十文、魚五十文、醤油一文」とあると、昔はこれくらいの出費で一日のおかずが買え、一家が食べられたことを知り:昔の日暦には「外出は不宜、沐浴不宜、上棟不宜」などと書いてあり、昔はこんな多くの禁忌があったと知る。宋人の筆記に「食菜事魔」があり、明人の筆記に「十彪五虎」(五彪が正:出版社)があり『おお!元々「昔からすでに之あり」かと、知る』但し、一部の本だけ読むと、すべて当時の名人の逸事ばかりで、某将軍は毎回38碗の飯を食べたとか、某氏の体重は175斤半もあったとか:或いは奇聞や奇怪な事として、某村では落雷でムカデが死んだとか、某婦が人面の蛇を産んだとか、なんの益体も無いものもある。こうした時は、自らの主意を持って、これは幇閑が書いた本だということを知らねばならない。凡そ幇閑というものは、人の消閑を最悪にさせるもので、彼が使うのは最悪の手法だ。用心しないと誘い込まれ、陥穽に堕ち、後には頭中が某将軍の飯の量、某氏の体重、ムカデや人面蛇で一杯になってしまう。
 コックリさん(占い)の本、妓女の本など読む機会があれば、眉をひそめ、憎厭の態度などしないで、ちょっとめくってみても良い:自分の考えと違う本も、すでに過去のものとなった本に対しても同じ方法で良い。楊光生の「やむを得ず」は清初の本だが、読んでみると彼の思想は活き活きとしており、今彼の意見に近い人が多い。これは些か危険もあり、というのも、それに誘い込まれる恐れがあるからだ。それに対するには、沢山の本をめくってみることだ。多くめくれば比較ができ、比較は騙されることを防ぐ良い方法だ。田舎の人はよく硫化銅を金鉱石と思い、口先で訳の分からぬ事を言うと、慌ててしまいこんで、相手が彼から宝をだまし取ろうとしているのではないかと疑う。本物の金鉱石なら掌にのせて重さをみればわかるから、そうするとあきらめて:分かった、と認める。
 「気ままにめくる」は各種の他の鉱石と比べるやり方で、手間はかかるが本物の金鉱石と比べるほど明白で簡単な事はない。現在の青年が常々、どんな本を読むべきかと訊くのは、本物の金を見たいからで、硫化銅にだまされまいとするためである。そして一度本物の金を認識できたら、同時に硫化銅も認識できるようになり、一挙両得である。
 しかしこういう良いものは、中国の原有の書物の中から容易には得られない。自分でも少しばかり知識を得た頃のことを思い出すと、本当にひどい目にあったと思う。幼い頃、中国は「盤古氏が天地開闢」した後、三皇五帝が出、……宋朝、元朝、明朝、そして「我大清」と続いていると習った。20歳になって「我々」の成吉思汗は欧州を征服し、「我々」の最盛時だったと聞いた。25歳になって所謂「我々」の最盛時は、実は蒙古人が中国を征服し、我々が奴隷になったのだということを初めて知った。今年の8月に、少し調べ物をしていた時、三冊の蒙古史をめくってみたら、蒙古人が征服したのは「オロシア」で、それからハンガリー・オーストリアに侵入したのは、全中国を征服する前だったということを初めて知った。
あの当時の成吉思汗はまだ我々の汗ではなく、ロシア人が奴隷にされたのは、我々より古く、彼らが「我々の成吉思汗が中国を征服し、あの当時が我々の最盛時だった」と言うべきなのである。
 もう長い間、現行の歴史教科書を見ていないから、中身がどんな風か知らぬが:新聞や雑誌には成吉思汗について自慢げに書いた文章をまだ目にすることがある。ことはすでに過去のもので、元々たいした事ではないかもしれぬが、大きな問題であり、やはり真実を書く方が良いと思う。従って、文学を学ぶにも、科学を学ぶにも、まずは歴史について、簡明で信頼できる本を読むべきだと思う。ただし、彼が専ら天王星或いは海王星、ガマの神経細胞を講じるとか、ただ梅の花を詠み、妹よ妹よというだけで、社会について議論しないなら、もちろん読まなくても構わない。
 私は日本語が少し分かるので、日語訳「世界史教程」と新出の「中国社会史」を応急的に使っているが、私がこれまで読んできた歴史書の類より明確である。前者の一部は中国にも訳があったが、只第1巻のみで、後の5巻は出てないし、訳がどうなのか読んでいないので知らない。後者は中国が「中国社会発展史」として先に訳したが、日本語の訳者によると間違いが多く、だいぶ削除されており信頼できない由。
 私は今でも中国がこの2冊の翻訳本をもつことを望む。そしてまた、皆が一斉にやって、一斉に散って行くのを望まない。訳すなら完全に訳し:削除せず、もし削除するならその旨声明を出す事。だがやはり一番大切なのは、注意深く訳し、完全を期し、作者と読者の為に、よく考えることを望む。    11月2日


訳者雑感:
 元・清と異民族(唐も西方の異民族出の李氏という説がある)が中国を統治した時代の版図が最大で、最盛時であったというが、元のジンギスカンは実はロシアを先に征服して、それからハンガリー・オーストリアに侵入したので云々の段は、魯迅の「真骨頂」である。
時間軸から言えば、先にモンゴルの奴隷にされたロシア人こそ、あの当時が、ロシア民族の最盛時であったというべきである。先に従属した民族が後から奴隷にされた民族より上位にある、という考えである。元の時代はモンゴル人が一番上にいて、次が目の色の違う異民族の「色目人」が2番目(これは西域の諸族が主でロシア人はどうかな?少しはいたかもしれない)、その次にモンゴルに奴隷にされた北にいた漢族が3番目、そして最後が南宋と言われた地域で最後まで抵抗を続けていた南人(これはモンゴル人から蔑まれ、日本攻撃の元寇の際に、船に乗せられ大量に狩りだされて多くが死亡した)が4番目であった。魯迅たち長江の南に住んできた南人にとっては「我々の最盛時」などとはとても言えない時代であった。
      2013/11/24記

 

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