魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
8.どう渡すか
文字を大衆に渡す事は、清末からすでにあった。
「鼓を打つな、鉦を叩くな、吾が歌う太平歌を聞け……」は、欽頒(お上の御達し)の大衆教育の俗歌だ:この外に、士大夫も些か白話新聞を出したが、その意思はただ、みなが聞いて分かる様にさせることで、必ずしも書けるようにというわけでは無かった。「平民千字課」は少しばかり書けるようになる可能性もあったが、只記帳や手紙を書ける程度で十分とみなしていた。もし考えていることを書こうとしたら、限定された字数では不十分だった。例えば、牢獄は確かに人に一定の土地を与えるが、制限があり、その範囲内だけで立ったり坐ったり臥したりできるが、設定された鉄柵の外に逃げ出す事はできない。
労乃宣と王照の二人は、簡略字を有し、進歩はとても早く、音に従って字を書けた。民国初年、教育部は字母を制定しようとし、彼ら二人はその会員で、労氏は代表を出席させ、王氏は自ら参加し、入声の存廃問題のため、かつて呉稚暉氏と大いに戦い、その結果、呉氏の腹はぺこぺこになって、ズボンがずり落ちた。だが結果は、例の通りいろいろな斟酌を経て、一つの事を制定し「注音字母」と呼んだ。当時多くの人は漢字を代替することができると思ったが、実際はダメであった。というのもそれはつまる所、簡略な方塊字(漢字の意)に過ぎず、丁度日本の「カナ」と同じで、幾つかを漢字に挟んで、或いは漢字の旁に注をするのはまだいいが、これを師(決定版)と仰ぐには力不足だった。書くとなるととてもごちゃごちゃし、読むとなると眼がつかれる。当時の会員は「注音字母」と呼んだが、その能力の限界をよく知っていた。再度日本を見ると、彼らの中にも漢字を減らせと主張するものあり、ラテン語表記を主張する者もいるが、「カナ」だけにしろと主張するものはいない。
もう少しよいのは、ローマ字表記法で、一番詳しく研究しているのは、趙元任氏だが、私は余り分かっていない。世界に通用するローマ字で表記すると――今やトルコすらそうだが――一ひとつの言葉がひとつながりで、非常に明晰で良い。ただ、私の様な門外漢に言わせれば、その表記法はとても煩雑なようだ。精密さを求めると当然煩雑にならざるを得ぬが、とても煩雑だとまた「難」に変じてしまい、普及の妨げとなる。やはり一番良いのは、別の一種の簡単で、固陋でないものを造ることだ。
ここで我々は新たな「ラテン化」法を研究できる「毎日国際文選」に小冊子の「中国語法のラテン化」や「世界」第2年第6・7号の合本付録の「言語科学」などはいずれもこれを紹介している。安いから興味のある人は買って読むことができる。それは28字だけで表記法も簡単に学べる。「人」はRhen、「房子」(部屋)はFangzで「我喫果子」はWo ch
Goz「他是工人」はTa sh gungrhenだ。だが私は中国はやはり北方語――北京語ではなく――を話す人が多く、将来もしいたるところで通用する大衆語が持てるとしたら、主力はやはり北方語だと思う。さしあたり、少し増減を行って、各地の特有の音に合わせさえすれば、どんな僻地や田舎でも使える。
28字を覚え、綴り方、書き方を学べば怠けものと低能以外は誰でも書け、読める。況や
そこには一つの長所があり、早く書けることだ。米国人は、時は金なりというが:私は:時は生命だと思う。何の理由も無く、人の時間を空費するのは、実は財産を奪い、命を害することに他ならない。だが、我々のように夕涼みがてら坐ってだべっている者は別だが。
訳者雑感:
大学で中国語を学び始めた時、まず、最初に習うのが、ぼぽもふぉであった。ローマ字ではbpmfと表記し、次いでdtnl、gkh、jqx、zhchshr、zcsの合計23音の声母表であった。
これは魯迅達が上記でいろいろ試行錯誤した後に生まれて来たものだろう。なぜこうした塊で覚えさせるのか、最初はわけがわからなかった。だいぶ経ってから、唇や舌などの動きを系統的にまとめたものだろうと思った。そして無気音と有気音の違いをbp、dt、
gk、jqなどで覚えさせたものだと理解し始めた。だが、欧米人がABCで文字を覚え始め、日本人があいうえお、で始めるのと比較すると、果たしてどうだろうか。
中国語はこの23の声母(子音)に母音と子音の複合したものを付けて、漢字ごとに発音を覚えなければならない。これは古文の中の漢字で比較的発音の難しいと思われる字には、
反切といって、例えば、東の字を徳紅(d+ong)の反または切と言う長いしがらみから来ているのではないかと思う。確かに一定以上の漢字を知っていれば、これで全ての漢字の発音ができるわけだ。だが、その「一定」は魯迅の言うように「千字」程度では記帳や簡単な手紙を書ける程度で、それ以上を覚えるとなると相当な困難が伴う。
簡略化される前の画数の多い漢字の文章を読むたびに、魯迅ではないが、(理由も無く)
覚えるのと、書くのに(人の大切な)時間を空費させて来たのは、命を奪うに等しいというのもわからぬでもない。ただ夕涼みの余興でだべるのは別であり、中国人はそうして過ごすことが好きでもある。特に茶館でおいしい茶菓と気の合う友がいっしょなら。
2013/10/11記
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