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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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故郷 

訳者 まえがき
 武田泰淳が、数十年前、宿願であった魯迅の生地を訪ねて、「故郷」の中で閏土が被っていた、フェルトの帽子を買ってきた、と言って、夕刊か何かの文芸欄に写真とともに彼の小品が載っていた。私も30年ほど前、紹興に行ったときに、黒くて厚手の持ち重みのする帽子を買った。かぶってみたが、へんてこな感じだった。
他の地域では麦藁とか、葦や竹のとか、いまでは中国各地の観光地ではそれぞれの特産の帽子を、山のように並べて売っているおばさんたちがいる。2個千円、安いよ、と。
紹興でこの帽子が普及した理由は知らない。阿Qに被らせたり、閏土にかぶせたりして、なにやらフランスの街角の片隅にいるルンペンの被っている帽子のイメージが、強くなったようだ。先日、あのあたりに出かけたが、あまり見かけなくなった。
今では大量生産で、安くできる野球帽が、とってかわったようだ。魯迅の希望した通りかどうかは、別として、大都市近郊の農民は、新しい生活を始めたように見える。
この作品の書かれた90年前よりは、少なくとも軍閥や匪賊とか郷紳などから、搾り上げられ、手も足も出ぬ、がんじがらめのような理不尽なことは、稀になったと言えようか。さあ翻訳を始めよう。
 
 厳寒の中、二千里余も離れた遠いふるさとへ、二十数年ぶりに帰るところであった。
 真冬の風景は、故郷に近づくにつれ、空も陰鬱になり、風が音を立て、小舟のなかに吹きこんできた。篷の隙間から外をのぞくと、どよーん、とくすんだ空に、活気のない、さびれた荒村が、点点としていた。
 私はむしょうに、たまらなく悲しくなった。
 ああ。これは私が二十年来、思い描いてきた心の故郷ではない。私の心にある故郷は、こんなんではない。もっと素晴らしいはずだ。が、美しさ、素晴らしさを思い出そうとしても、影像は形にならず、言葉も出てこなかった。こんなものだったかも知れない。それで自分に言い聞かせるかのように、故郷は、もともとこんなものさ、なんら進歩もないが、私が感じているほど悲愴さもなにもないのだ。ただ、自分の気持ちが変わってしまっただけなのだ。今回、私が帰る目的は、気の晴れる、楽しいことでもないのだから。
 今回は、もっぱら故郷に別れを告げに来たのだ。私たち一族が、長年大家族として暮らしてきた老屋は、すべて別姓の人に売り払われ、年内に明け渡すことになっており、正月前に住みなれた家とも永別し、懐かしの故郷から、遠く離れた、いま生計を立てている異郷に越さねばならないのだ。
 翌早朝、やっと一族の屋敷の入り口に着いた。屋根の上は、枯れ草の茎が何本も、風に揺れていた。この老屋が主替わりをまぬかれない仕儀となった事情を説明していた。数棟あった本家は、とうに越していて、音もなく静かだった。自分たちの棟に着くと、母はすでに迎えに出ていて、8歳になったおいの宏児も飛び出してきた。
 母はとてもうれしがってくれたが、心の中は、悲しみではちきれんばかりなのが分かった。座をすすめ、茶をいれてくれ、お疲れだったね、まずお茶をお飲みというのみで、しばらく引越しの話はしなかった。宏児は初めてなので、離れたところから立ったまま私の方を見ているだけであった。
 とうとう引越しの話になった。住む家はもう手配したし、家具もだいぶ買いそろえた。ここにある木製の家具は、すべて売って、向こうで買いなおせばよい、などと話した。
母も、そうだね、と言った。引っ越し荷物はほぼ整理したし、家具は運ぶのが大変だから、半分ほどはもう売ったけど、いくらにもならなくてね、と。
 「一日か二日休んでから、本家や親せきに挨拶したら、いつでも出られるさ」と母。
 「そうだね」
 「あ、それから閏土(ルントウ)がね、来るたびにお前のことを聞いてね。とても会いたがっていたよ。お前の帰るおおまかな予定は、知らせておいたから、多分きっともうじき来るよ」
 このとき、私の脳裏に、忽然、一幅の神秘的なシーンが閃いた。濃紺の空に、黄色い丸い月が浮かび、下は海辺の砂地。見渡す限り青いスイカ畑。そこに十一、二歳の少年が立っている。銀の首輪をはめ、鉄の刺叉を、チャー(獣偏に査)めがけて、全力で突き刺そうとしている。が、獲物はするりと体をかわすと、彼の又下をくぐり抜けて、逃げられてしまった。
 この少年が閏土。知り合ったときは、私も十数歳で、かれこれ三十年前だ。父はまだ存命で、はぶりもよく、私はまさしく坊ちゃんであった。その年は、我が家が、大祭礼の当番だった。この当番は三十数年に一度という大役で、とても丁重に行われた。正月に先祖の像を飾り、たくさんの供物、祭器もとても立派なものをそろえた。お参りに来る人も多いので、祭器が偸まれないようにしなければならなかった。我が家には、忙月(マンユエ)という雇い人は一人しかいなかった。(私の地方では、3種の雇い人があり、1年中雇うのは長工、日雇いを短工、自分で耕作しながら、年越しや節季、年貢の徴集のときなどに雇うのを、忙月と呼んでいた)。それで、忙しくてとても手が回らないから、息子の閏土に祭器の見張りをさせたい、と頼みに来た。
 父は許した。私はとてもうれしかった。以前、閏土の名は聞いたことがあり、彼が私とほぼ同い年で、閏月に生まれて、五行の土を欠いていたので、閏土と名付けられたと知っていた。仕掛けをこしらえて、小鳥を捕えるのがとてもうまい、とも。
 それからというもの、正月が早く来ないか、と待ち遠しかった。正月になれば閏土が来る。年末のある日、母が、閏土が来たよ、と言ったので、走って見に行った。台所で、日に焼けた丸顔で、小毡帽(紹興のフェルトの帽子:訳者注)をかぶり、キラッと光る銀の首輪をして、父親が、どれほど息子を可愛がっているかが分かった。息子が死なないよう、神仏に願をかけて、この首輪で守ってもらっているのだ。恥ずかしがり屋だったが、私にはとても人懐こく、人がいないときに、打ち解けてすぐなんでも話すようになり、しばらくすると、とても仲良しになった。
 何をしゃべったか、ほとんど忘れてしまったが、彼が城内に連れて行ってもらって、村ではめったお目にかかれない珍しいものを沢山見たよ、と興奮しながら話してくれたことは、よく覚えている。
 次の日、鳥を捕ってほしいと頼んだら、彼は「今日はだめだよ。大雪が降らなきゃ。砂地に雪が積もったら、それを掃いて、空き地をつくり、そこに短い棒に大きな竹ザルを仕掛けて、シイナを撒く。鳥が食べに来たら、離れた場所から棒に結わえておいた縄を引っ張るのさ。すると鳥はザルの中って寸法さ。どんな鳥でも捕まえられるよ。稲鶏、角鶏、スズカケ鳩、藍背……」
 私は雪が降るのが待ち遠しかった。
 閏土は私に、こうも言った。
 「今は寒くてだめだけど、夏になったら、僕ん家へおいでよ。昼は海辺で貝殻がいっぱい拾えるよ。赤いのや青いの、何でも取れるよ。鬼見怕も観音手も、取れるよ。夜になったら、父ちゃんとスイカの見張りに君も連れて行ってやるよ」
 「泥棒?」
 「ちがうよ。僕らのとこじゃ、喉が渇いたひとが、一個くらい取っても、泥棒とは言わないよ。見張るのは、アナグマ、ハリネズミ、チャーさ。月が出ると、がさがさ音がして、チャーがスイカをかじるのさ。そしたら胡叉を持って、静かに近づいて、……」
 そのころ私は、彼の言うチャーとはどんな生き物か 一 今なお知らないのだが 一 なんとなく、格好は小型犬のようだけどとても獰猛な奴くらいに感じていた。
 「人間は咬まないの?」
 「胡叉があるさ。近づいて見つけたらさっと刺すのさ。あん畜生はとてもすばしこいから、歯向かってきて、又の下をさっとくぐって逃げるのがうまいんだ。毛はツルツルしていて……」
 この世の中にこんなに私の知らないことをたくさん知っている。海辺には五色に輝く沢山の貝があり、スイカがこんな危ない目にあっていたなんて。果物屋の店先に並んでいるのしか知らなかった。
 「砂地にはね、潮があげてくると、跳ね魚がいっぱい跳びはねるのさ。カエルのように二本足でさ」
 「ああ。閏土の心には汲めども尽きぬ珍しいことがいっぱいあって、普段の友達が知らないことばかりであった。彼らは何も知らない。閏土が海辺にいるとき、彼らは私同様、高い壁に囲まれた内庭で、四角い空しか知らないのだ。
 正月が終わって、閏土は帰ることになり、私は急に大声で泣き出した。彼も台所に身をひそめて、帰りたくないと泣きじゃくった。しかし、しまいには父親にひかれるようにして帰って行った。その後、父親に託して、いろいろな貝殻やきれいな羽毛を私にくれた。
私も何回か送ったが、それ以降、会ったことはない。
 今、母が彼のことを話したので、子供のころの記憶が、稲光のように忽然とよみがえって、私の美しい故郷を見たような気がした。それですぐに「そりゃあ、とてもうれしいね。
今、彼はどんなぐあい?」とたずねた。
 「彼かい……、それがねえ……」母は応えながら、窓の外を見て、「あの人たちがまた来たよ。家具を買うようなこと言って、ついでに何か持ってっちゃうんだよう。見張りに行かなきゃ」
 母は出て行った。外で数人の女の声。私は宏児を呼んで、字は書けるかいとか、よそに行くのは、うれしいかいとかきいた。
 「汽車に乗って行くの?」
 「そうだよ。汽車に乗るんだよ」
 「船は?」
 「最初は船さ」
 
 「まあ、こんなえらくなりなすって。髭も立派に」と甲高い不思議な声がした。
 驚いて立ち上がったら、ほう骨の出た唇の薄い50歳くらいの女が、私の目の前で、両手を腰に、裳裾なしの、もんぺ姿で、脚を広げて立っていた。あたかも製図用のコンパスの細い脚のようであった。
 愕然とした。
 「忘れたの?あんなによく抱っこしてあげたのに」よけい愕然としたが、母が近づいてきて「長いこと離れていたから、忘れちゃったんだよ。ほら思い出して、筋向いの楊おばさんだよ, 豆腐屋の」
 「おお、思い出した。小さいころ、筋向いの豆腐屋に、一日中坐っていた楊おばさんだ。
豆腐西施と呼ばれたほどの」だが、当時はオシロイを塗り、頬もこんなに出てなくて、唇もこんな薄くなかった、それに一日中坐っていたので、コンパスのような姿は見たこともなかった。その当時、彼女のおかげで、この店はとても繁盛していた。だが、年齢の加減で、私には何の感化も及ばなかった。それですっかり忘れてしまっていた。コンパスはそれがとても不満げで、人をさげすむように、まるでフランス人にしてナポレオンを知らざるを、アメリカ人にしてワシントンを知らざるを嘲るごとくに、冷笑し、非難した。
 「忘れちゃったの?偉くなるとこうだからね」
 「そんな…、私は……」私は慌てふためいて立ち上がった。
 「それじゃ言うけど、迅ちゃん、お金持ちになったんだから、引越しにわざわざ重くて大変な家具は、もうだいぶくたびれてもいるし、私にちょうだいよ。うちのような貧乏人にはまだまだ使い道があるんだからさ」
 「金持ちだなんぞ、とんでもない、これを売って、また買わなきゃならないんだ」
 「あれま。道台(清朝時代の地方長官)までやってさ。お金持ちじゃないっていうの。三人もお妾さんがいて、8人担ぎの立派な駕籠でお出ましっていうじゃない。それでも金持ちじゃない?ふん!私は騙されないからね」 
 私は何を言っても始まらないと黙っていた。
 「あああ、ほんとうだね。お金持ちになれば一銭も出さないし、一銭もださなきゃ、ますますお金がたまるって道理だよ」コンパスはぷんぷんしながら、身をひるがえし、ぶつぶつ言って、おもむろに外に出て行きざま、母の手袋をもんぺの腰にねじ込んで、去っていった。
 この後、近所の本家や親せきが訪ねてきた。その応対をしながら、暇をみつけては荷物をまとめた。三、四日はあっという間に過ぎた。
 とても寒い日の午後。昼を済ませて、お茶を飲んでいると、人が来たようだった。外を見て、思わずびっくりし、急いで立って行って、迎えに出た。
 閏土だった。一目で彼だとわかった。が、記憶の中の閏土ではなかった。背は倍になり、以前の日焼けした丸顔は、今では灰色になり、深い皺が増え、目も父親とそっくりで、目の周りは腫れて赤らんでいた。海辺で農業すると、終日海風に吹かれて、たいていこうなるということは知っていた。
 くたびれた毡帽をかぶり、非常に薄い綿入れを着て、全身、ちぢこまって見えた。紙包みと長キセルを持ち、手は私が覚えている血色の良い、ふっくらしたのではなく、粗くてごつごつし、ひび割れの、松の樹皮のようだった。
 このとき、とても興奮して、なんと切り出せばよいかわからず、ただ、
 「あ!閏土さん、よく来たね」と発した。続いて、たくさんの話しが、数珠のように湧き出してきて:角鶏、跳魚ル、貝殻、チャー……、だが、何かがつっかいをしているようで、脳の中でぐるぐる回っているだけで、口から外に出てこなかった。
 彼は立ったまま、うれしさとさびしさが、入り混じったような顔をして、唇を動かすのだが、声にならなかった。
 彼はようやく、うやうやしい態度になって、はっきりと言葉を口にした。
 「旦那さま!……」
 ああ一、私はぞーっと身震いした。われわれの間は、すでに悲しむべき厚い壁に隔てられてしまったのを悟った。私も声をつまらせてしまった。
 彼はうしろを向いて、「水生、旦那様にごあいさつしなさい」と後ろに隠れていた子供に挨拶をさせた。この子はまさしく、二十年前の閏土だった。ちょっと痩せているのと、銀の首輪はしていないが。
 「五番目の子で、世間様にあまり出してないもので、人見知りして…」
 母と宏児が下りてきた。声を聞きつけたのだろう。
 「大奥様、お知らせはとうにいただいておりました。ほんとうにうれしくて、旦那様がお帰りになるって……」閏土は言った。
 「お前、どうしてそんな遠慮するんだい。昔は兄ちゃん、弟って呼びあってたんじゃないか。やはり以前のように、迅にいさんって、呼んであげなよ」母はうれしそうに言った。
 「大奥様、めっそうもない。昔は礼儀知らずで、子供だったものですから、何も知らずに」閏土は言った。そして水生に挨拶をさせた。その子ははずかしがって、彼の背中にくっついていた。
 「この子が水生かい?五番目?初めてだから、はずかしがるのも無理はないよ。宏児と一緒に遊んでおいで」と母は言った。
 宏児はそれを聞くと、水生に声をかけて、二人してうれしそうに出て行った。
 母は閏土に席を勧めたが、彼は一度辞退したが、ようやく坐った。長キセルを卓に凭せ掛けて、紙包みを差し出して言った。「冬で、何もありませんで、家で作った青豆の干したのですが。旦那さんに、…」
 「暮らしはどう?」とたずねたら、頭を揺らすばかり。
 「とても苦しくて、六番目の子も、もう手伝うようになったんですが、食えなくて、世の中も物騒で、どこも、何をするのも、理由もなくお金を取られて、作物も不作で、育てたのを売りに行っても、いつも損してばかりで、元手にもならず、また売りに出かけなきゃ、腐らせるばかりで、……」
 頭を揺するばかりで、顔は皺だらけだったが、石像のように、皺すらほころびようがないのだった。彼は、苦しいことばかりで、それを言い出せなくて、しばらく沈黙のままであったが、ようやくキセルを手にとって、黙々と吸い始めた。
 母がたずねたら、家の方が忙しいので、明日には戻らなければならない、と。また昼もまだだ、というので、自分で台所に行って、炒飯でも作って食べるようにと言った。
 彼は出て行った。母と私は彼の状況を知り、嘆息した。子だくさん、飢饉、苛税、兵隊や匪賊のユスリ、役人、郷紳たちが、寄ってたかって、彼をまるで木の人形のように、手も足も出せないほど、めちゃくちゃにしてしまったのだ。母は言った、引っ越しで持って行かないものは、みな閏土にあげよう。彼に欲しいものを選ばせよう、と。
 午後、彼はいくつか選んだ。長卓二竿、椅子四脚、香炉と燭台。それに台秤。また、ワラ灰も全部欲しいと言った。(我が家では煮炊きにワラを使うので、灰は砂地の肥料になる)私たちが出立するころ、舟で取りに来ることになった。
 夜、我々はとりとめのない話をして、翌朝はやく、彼と水生は帰っていった。
 それから九日が過ぎ、出立という日、閏土は朝早く来た。水生は来ず、5歳の女児に舟の番をさせていた。その日は一日中忙しかったので、話しをする暇もなかった。来客も多かった。送別の人、物を持って行く人、送別と物の両方兼ねる人も多かった。
 夜、我々が船に乗る頃、我が老屋のすべての、こわれかけた大小粗細なものは運びだされて、全くのカラになった。
 我々の船が進もうとしだすと、両岸の青山が黄昏の中で、濃い黛のようになり、連なって、船の船尾の方に去って行った。
 宏児と私は船窓にもたれて、ぼうーっとした外の景色を見ていた。彼が突然私にたずねた。「伯父さん、ぼくたちいつ帰ってくるの?」 
 「帰る? まだ出発してもいないのに、もう帰ること考えてるの?」
 「うん。水生と彼の処へ遊びに行くって約束したんだもん」黒い目を見開いて、たわいないことを考えていた。
 私も母も、茫然として、そして閏土のことに話が及んだ。母は言った。「あの豆腐西施の
楊さんがね、引っ越し荷物を整理しだしてから、連日のようにやってきてね。一昨日、灰の中から十何個もの皿と碗を探し出してね、議論の末、閏土が隠したんだと言ってさ、灰を運ぶときに、一緒に持ち出そうと:楊さんが発見して、鬼の首をとったように威張ってさ、あの犬じらし(我々の所で使う養鶏の器具:木盤の上に柵檻を乗せて、餌を入れて鶏は首を伸ばせば食べられるが、犬はじらされる故、かく言う)を掴むや、飛ぶがごときに走り去った。あんな高い靴底の纏足で、よくもまああんな速く走れるものよ。
 老屋はだんだん遠ざかった。故郷の山水もしだいに遠ざかったが、名残惜しさは特に感じなかった。私の周りには、目に見えない高い壁があり、私ひとりを孤独にさせ、とても滅入ってしまった。スイカ畑の銀の首輪の小さな英雄の像は、この前までは、はっきりと思い浮かべることができたのだが、もうぼんやりしてしまったことが、私の悲哀を痛切にした。
 母と宏児はもう眠ったようだ。
 横になって、船底のさらさらと聞こえる水音を聞き、自分の道を進んでいるのだと思った。私は考えていた。ついに閏土と隔絶した、こんなところに来てしまったが、我々の次の世代は、まだ気持ちを通じることができて、宏児は水生のことを想っているではないか。
彼らが、二度と私のように、かけ離れてしまわないように願った。その一方で、彼らが気持ちを通じ合ってゆくために、私のような辛くて苦しい暮らしをすることもなく、閏土のように、辛酸で神経を麻痺させられるような暮らしをしなくて済むように願った。また、他の人のように、生活の辛さゆえに、そこから逃避してでたらめな生き方をしないように、心から願った。彼らには新しい生活を始めてもらいたい、と。我々の経験したことのない新しい生活を切に希望する。
 希望、について考えたら、忽然、怖くなってしまった。閏土が香炉と燭台を下さいと言ったとき、私は心の中でこっそりと笑っていた。まだ偶像崇拝してるのか、と。いつ何時も、片時も忘れずに。私の今いう希望とは、私が手の中でこしらえた偶像ではないか、と。
ただ、彼の願望は手の近くにあるもので、私のは、茫としてはるか遠くにあるに過ぎない。
 朦朧とするうちに、目の前に海辺の紺碧の砂地が広がってきた。私は思った。希望とは、
もともとあるとも言えないし、無いとも言えない。それは正しく、地上の道と同じである。
その実、地上にも、もともと道はなかった。歩く人が多くなって道になったのだ。
    1921年1月
 
 
訳者 あとがき
この作品の最後の句は、第一次大戦とロシア革命の5年後に書かれた。5年間の、いわゆる古い体制を打ち破り、新しい社会制度が、人類社会、なかんずく軍閥や郷紳にでたらめにされてきた中国の新青年たちに、「希望」を与えるかのように歓迎された。
 作者は別のところで、「絶望の虚妄なること、希望に相同じい」という東欧の言葉を引いている。閏土のように、手足をもぎ取られた木の人形、希望のない自暴自棄にならざるを得ない暮らし。次世代が、そんなでたらめな理不尽な社会から抜け出せることを切望して。
絶望がその虚妄に達したとき、希望が見えてくる。
 
 
 
 

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