魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
1978年8月12日の日中友好平和条約締結後、中国各地には、それを記念して、日中友好(中日友好)と冠した病院や教育施設などが多く建設された。
1982年秋、私が勤めていた会社と農機会社のY社が共同で、北京郊外の中日友好人民公社に米作用農機を寄贈することになった。
季候のいい10月に友好訪中団がやって来たので、私はY社のY社長一行をその公社へ案内した。公社への道中、Y社長は、農地のあぜ道がクネクネ曲がっているのを指しながら、私に向かって、「人民公社になっても、まだ農地の整備がきちんとできていませんネ。農業の機械化のためには、できるだけ広く方形の耕作地を作らねば効率が悪いんです」と指摘された。
その時、私は新幹線の列車の車窓からよく見た、方形に広がっている琵琶湖東岸の水田の状況を思い出した。
この地方の水田が、私の故郷愛知県のそれと違うのは、あぜ道に高さ2メートルほどの高さの稲架木が等間隔に植えられ、稲刈り期には、木と木の間に長い横木を架けて稲架(はさ)として利用していたことだった。近江の人は賢い、とつくづく感心した。
私の祖父の水田では、稲刈り期には、丸太3本で稲架を架ける柱を組み、長い丸太の棒を農地近くの納屋からリヤカーで運び出して、その柱間に架けていた。その長い棒を盗まれたたこともよくあったらしい。
その後、2010年代になって京都勤務になり、近江平野を車窓から見ると、以前のような稲架に使う並木がすっかり姿を消しているのに気づき、不思議に思った。それで、彦根に住んでいる同僚に尋ねてみた。
「もうそんな昔のやり方は、どこもやってませんわ!」と笑われた。「収穫はすべて機械でやり、刈り取りと同時に、脱穀し、籾殻と藁にわけるんですわ。藁は田に戻して肥料にします……」
その結果、今では畳や藁細工用の藁が不足し、中国の奥地から藁を輸入しているらしい。彼は「害虫が付着していないか、農水省の検査が厳しくて……」と教えてくれた。
あれから45年、中日友好人民公社は解体された。人づてに、都市近郊型モデル農業として、しばらくは発展していたとは耳にしていたが……今頃、あのY社の農機もさび付いて、日中友好のモニュメントとともに、朽ち果てたことだろう。
2017.11.13作成
2017.11.21投稿
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