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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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宮芝居 (奉納劇と改称)

 訳者 まえがき
 これから訳すのは、原題は「社戯」日本では「宮芝居」と訳されてきた。日本でも訳者が小さい頃には、神社の祭礼の時に、参道の広場で旅回りの役者が演じる芝居を見たことがある。だが、それは股旅物など、時代劇が多かったと記憶する。漢語の戯というのは、京劇とか昆劇、越劇などが有名である。京劇はオペラのような歌劇に近い。それで英訳ではペキンオペラという。といっても京劇では音曲は、いくつかのパターンが決まっていて、クライマックスでは、さあこれからだぞ、と観客がわかるようなメロディが奏でられる。それまでよそ見していた客も、舞台に目をやる。西洋のオペラのように作曲家が、一作ごとに曲を作るわけでなく、昔からある宋詞元曲などの調べにのせて、大概の物語は歌える。元曲の伝統を今日まで伝えていると言われるゆえんか。
歌劇と芝居は日本でも意味するところと、出し物は異なるようだ。筆者が、北京で2回、そして故郷で見たのは、銅鑼や太鼓でドンドンジャンジャン頭がクラクラするほどの音響の中で、とんぼを切る派手な活劇と、唱と言って、喉をうならせ、頭のテッペンから絞り出す甲高い声で、歌い続ける劇などがあり、それらが組み合わさって、人気を博し、津々浦々でプロから素人までが唱し、それが今も、すたれないでいる。小学生の名優、普通の服装で唱の部分だけ歌う、一日中これを放映するテレビもある。
 訳者が一昨年の国慶節休みに、山西省五台山の小さな祠を訪ねたとき、朝8時にも拘わらず、全国から何十台もの大型バスで参詣に来た人々が、押すな押すな、であった。とても有名で、ごりやくがあるということで、大勢の人が願掛けとお礼まいりに来る。
 その祠の対面に、常設の舞台が設けられ、夜明けから、奉納劇が始まる。それが夜が更けて、参拝客がいなくなってもやっているそうだ。この劇は祈願成就の人がお礼として、神様に奉納する由で、それを参拝客もみることになるのだが、趣旨はあくまで、神様への奉納で、ドンチャンドンチャン騒がしい、役者が唱い、踊り、剣劇もある。
 日本のお神楽に近いかもしれない。薪能などは、奉納の面が強いだろう。もちろんそれを見に来た人々へもおすそ分けをするのだが。演者も、本尊への奉納と思えば、一層張りあいが出てくるというものだ。この作品は、最初の部分は、何を言いたいのか理解しにくいが、後半が面白い。まるで京劇のはじめのやや退屈な部分と、後半のクライマックス仕立てのようである。主人公が観たのは越劇であろう。越劇では京劇と違って女性が多く登場し、小旦は若い女性、花旦はヒロイン、老旦はおばさん或いは老婆の役である。女形はいない。新劇ではなく、伝統的な中国劇である。
 
 
 かれこれ二十年の間に、二度しか中国劇を見ていない。初めの十年は一回も見ていない。見ようという気にならなかったし、機会もなかった。で、二回というのはこの十年のことだが、結局なにも見ずに劇場を出てきてしまった。
 最初は民国元年、北京に来たばかりで、友人が京劇は素晴らしいから見に行こうと誘われ、京劇もいいな、と興味津津、某劇場に出かけた。劇は始まっていて、外にまでドーン
ジャーンと音が聞こえてき、木戸をくぐると赤や青のけばけばしい衣装が、目に飛び込んできた。客席をみると、人の頭でいっぱいだったが、中央に空席が見えたので、身をよじりながら入って行き、坐ろうとすると、隣の男が何か文句を言っている。耳は銅鑼の音で、グアーン、として何も聞こえない。注意して聞いてみると「人がいるから坐るな」と言っているのだった。
 後ろに戻ると、辮髪をてかてかに光らせた男が、壁際の席に案内した。ここは長い床几の席で、板は太腿の四分の三くらいの狭さ。高さは下肢より三分の二も高い。もう坐る気にもならず、拷問の刑具のように感じて、ぞーっとして出て来てしまった。
 だいぶ歩いたろうか、後ろから友の声がする「どうしたの?」振り向いて、彼も一緒に出てきたのかと思った。「どうして返事もしないで、ずんずん行っちゃうの?」「ごめん、ごめん。ドン ジャンで耳が何も聞こえなくなっちゃって」
 後になってこのことを思い出すたびに、とても奇妙に感じ、この劇がそもそも面白くなかったとも思った一一 また私がもう舞台を観ることに適さなくなったのだと思った。
 次はいつだったか忘れた。湖北水害の義捐興行で、名優、譚叫天の亡くなる前だった。
二元で券を買い、第一劇場に行った。名優が名を連ね、その一人が小叫天。買ったのも、もともと、義捐金集めの人への義理。それに好事家から良い機会だから、叫天の大法要を見ない手はないよ、というのに乗ったのである。数年前にドンジャンでさんざんな目にあったことを、ころっ、と忘れて、劇場に向かった。高いお金を払った以上、行かなきゃ損というのが半を占めていた。叫天の出番はおそいと聞いていたし、第一劇場は新式だから、席を取られる心配もないと9時に出かけた。あにはからんや、もう一杯で入り込む余地もない。舞台から離れた立ち見の人で込み合う場所で、立ったまま、老旦が唱ずるのを観た。老旦が口に火のついたコヨリを二本くわえて演じているのを見、傍らに鬼卒が立っているし、後から和尚も出てきたので、誰だったなかと思いを巡らし、目連の母だろうと思った。しかし、その名優の名を知らなかったので、満員の中で、身を細めてる太った紳士に聞いてみた。とんでもないことを聞く奴だと軽蔑した顔をして、「龔雲甫!」と。私は浅薄固陋、粗忽疎漏を恥じ、真っ赤になった。そしてもう二度と人には聞くまいと心に決めた。
 それから、小旦が唱じ、花旦も、老旦も唱った。誰が何を唱っているかも知らず、活劇の立ち回りを見、二三人のかけ合いを見、9時から10時、10時から11時、11時から11時半、11時半から12時 一一 になっても叫天はついぞ現れなかった。
 これまで、こんな辛抱強く何かを待ったことはない。隣の太った紳士は、スーハーと大きな息を吐くし、舞台では、ドーン、ジャーンとすごい音。赤や青の衣装がきらきら揺れ、
すでに12時。ここは私のいる場所ではないと悟って、身をよじって外に出ようとすると、後ろもぎゅうぎゅうで、出られない。あの太っちょの弾力ある紳士が、早くも私の去った後の空間を占めんとばかりに、右半身をねじりこませてくるのだ。後ろにさがるのは無理と悟って、身をよじらせくねらせ、なんとか木戸の外にでた。
 外は客待ちの車の他、誰もいない。大門の所には、十数人が上の看板の演目を見ている。
もう一方の連中は、立ったまま何も見ていない。彼らは劇のはねた後に出てくる女たちを待っているのだろう、と思った。それにしても叫天は、まだ出ない。
 夜気はじつに爽快で、まさしく「肺腑にしみわたる」心地よさ。北京に来て初めてこんなうまい空気を吸った。
 この夜が、中国劇に別れを告げる夜となった。その後、二度と行こうとも思わなかったし、劇場の前を通っても、お互い無関係で、一方は天の南に、もう一方は天の北にいた。
 数日前、何気なく日本の本を見ていた。書名と著者は忘れたが、要するに、中国の劇についてだった。大意は、中国の劇は、おおいに敲き、叫び、跳ね、観客の頭がクラクラしてしまうから、劇場には適さず、野外の開けたところで、遠くから観たら、特色もうまく出せるだろう、という。これぞまさしく、我が意中にありながら、言い表せなかったことを言ってくれた、と思った。
 確かに、私は野外でとても素晴らしい劇を観た覚えがある。北京に来て、2回劇場に行ったのも、多分その時の影響だろう。惜しいかな、どうしたわけか書名を忘れてしまった。
 
 素晴らしい劇を観たのは、実に「遥か遠い昔」のことで、多分私が十一、二歳のころ。魯鎮の習慣では、嫁に行った女は、本人が家政を任されるまでは、夏の間、たいていは実家に戻って過した。当時私の祖母はまだ元気だったが、母は既に何がしか、家政を分担していて、夏に長い間、帰省するのは無理だった。だが、(清明節の)墓参りが終わって、暇ができると、何日か戻った。このころ母に連れられて、実家に行った。そこは平橋村といい、海に近い片田舎の、河沿いの小さな村で、三十戸に満たなかった。みな農業か漁業で、雑貨屋が一軒だけあった。しかし私には楽園であった。ここで私はただ優遇されるだけでなく、「秩秩斯干幽幽南山」(詩経の句:訳者注)の暗唱から放免された。
 一緒に遊んだ友達も、遠来の客ということで、私と遊ぶ分、家の仕事を減らしてもらえた。小さな村では一軒の客は、全村の客で、我々は年も近かったので、もし、世代関係を言い出すと、伯父や曾祖父に当たるのもいた。全村同姓で、本家分家の関係だったから。
しかし、友達なのだから、たまに喧嘩して曾祖父を殴っても、「目上の人を殴った」などとは言いだす者はいなかった。99%は文字を読めなかったし。
 毎日、たいていミミズをとってきて、銅線の鈎につけ、岸に腹這ってエビガニを釣るのが楽しみだった。エビガニは水中世界のあんぽんたんで、餌とみるや、両手ですぐつかみ、口に持って行く。それであっというまに、大きな鉢が一杯。それを私に食べさせてくれるのだ。その次は牛の世話。だが牛は高等動物だから、黄牛も水牛も、私のような素人をあざむくし、侮って言うことを聞かないので、私は近寄らなかった。それで少し離れて立って見ているだけだったが、小さい子たちが、「秩秩斯干…」という文句を読める私を容赦せぬとばかり、みな大笑いとなった。
 一番の楽しみは、趙荘に劇を観に行くことだった。趙荘は平橋村から五里ほどのやや大きな村だった。平橋はちいさすぎて、自分では劇をやれなかったので、なにがしか払って共催にしてもらった。当時、私はどうして毎年劇をやらなければならないのか、その訳を考えてもみなかった。現在思うに、あれはきっと、春の祭礼で、祠へ奉納されたのだろう。
 十一二歳のころ、その日が待ち遠しかった。それなのに、残念ながら、朝、船を頼んだのに、もう私の乗れる船はなかった。平橋村には、朝出て、晩帰る大きな船は、一隻しかなかった。その他は小舟で、使えない。人をやって隣村に問い合わせたが、そこもダメだった。すでに他の人が押さえていた。祖母は気をもんで、家人がもっと早く頼んでおかないから怪しからんと、ぶつぶつ怒りだした。母はなんとか、なだめようと、魯鎮の劇は小さな村のより、ずっといいし、一年に何回もやっているから、今日はもういいですよ、と言った。ただ、私が急に泣き出したので、母は懸命になって、そんなダダこねちゃいけないよ。おばあちゃんに叱られるよ、と言い、他の子と一緒に行くのも、おばあちゃんが心配するから、と認めてくれなかった。
 すべて終りであった。午後になると、友達は出かけて行った。劇はもう始まっているだろうな。銅鑼や太鼓の音が私の耳に聞こえるようだった。そして、みんな舞台の下で、うまい豆乳を買って飲んでいることを知っていた。
 この日は、エビガニ釣りにも行かず、食欲も無かった。母も困ってしまったが、どうしようもなかった。夕食時になって、祖母もやっと察して、私がとてもつまらないと感じているに違いない。みんな怠慢だよ!となじり、客をもてなすのに、こんなことってないよ、と叱った。
 夕食後、劇を観てきた友達が集まってきて、とても楽しそうに劇のことをしゃべっていた。私はただ黙っているので、みんなはため息をつき、同情してくれた。そのとき突然、
頭のいい双喜が、良い案がある、と言った。大きい船なら、八叔の便船はもう戻っている筈さ。十数人の子供たちも、そうだそうだと言い、この便船で私と一緒に行けるじゃないか、と言いだした。私はうれしくなった。だが祖母は子供だけじゃ心配だ、という。母は大人を誰かつければいいけど、一日中働いて、夜もまた頼むのはねえ、とためらっていた。
 そうして結論が出ぬままぐずぐずしていると、双喜が事情を察して、「おいらが保証するよ!船もでかいし、迅ちゃんもムチャしないし、俺たちみな泳ぎもうまいし」と大きな声で、提案した。その通り!この子たちで泳げないのは一人もいない。その中の何人かは、大潮乗りの名手だ。(杭州湾の大潮)
 外祖母と母も信用して、反対せず、ほほ笑んだ。即刻 ワーッと一声、門を出た。
 私の沈んだ気持ちも一気に軽やかになり、体ものびやかに大きくなったように感じた。
外に出るやいなや、月光の下、平橋のたもとに停泊している白篷の便船に乗りこんだ。
双喜が舳先の棹を抜き、阿発が船尾のを抜いた。小さい子はみな私の周りの船倉に坐り、
年長者は船尾に集まった。母が送りに来て、「気をつけてね」と声をかけたときには、船はもう動きだしてい、橋石を一突き、数尺バックしてから、すぐ前進。橋を通過した。
そこで二丁の櫓をつけ、一丁に二人、一里ごとに交代。笑うもの、叫ぶ者、サラサラと
舳先にかき分けられる水の音、両岸の碧緑の豆と麦の畑の中を、船は飛ぶように趙荘めざして進んだ。
 両岸の豆と麦の、そして河底の水草が発するすがすがしい芳りが、水気とともに、私の頬に吹いてきた。この水気におぼろな光を浮かべた月。暗緑色の起伏する山なみは、鉄製の獣の背骨が、波打つかのように、一山、ひと山と船の後方に走り去って行く。しかしそれでも私には、船が遅いように感じられた。漕ぎ手は四回替わった。ようやく趙荘がかすかに臨めるところに来た。唱や音曲が聞こえるようだ。灯もみえる。あれが舞台かと、或いは漁火か、と思った。
 あの音は横笛だろう。コロコロコロと転がす如く、悠揚迫らず、私のこころを静かに落ち着かせてくれたが、また、茫然として、豆と麦と水草の芳り、そして夜気とが一体になったような気がした。
 その灯は、近づいてみると果たして漁火だった。さきほど目にしたのは、趙荘ではないということを、思い出した。あの舳先の前に見える松柏の森は、去年遊びに行った場所で、
壊れた馬の石像が地面に横たわっており、羊の石像が草むらにうずくまっていた。
 その森を過ぎると、船は曲り、河が交差する港に入った。そこから趙荘が目の前に現れた。
 一番目を引くのは、荘外の河畔の空地に屹立するように建てられた舞台だった。模糊とした月光の下でみる遠景は、天空と溶けあって、絵画で見たことのある仙境が現出したのではないかと思われた。
 このとき、船は急に速くすべりだし、舞台の上に役者が登場するのが見え、赤や青の衣装をまとったのが動き回った。舞台近くの河面は、観劇に来た黒篷の船でいっぱいだった。
 「近くは空いてないから、遠くから観ようぜ」と阿発。それで船足をゆるめて、近寄ろうとしたが、近づけそうもない。それでそこで棹をさすしかなかった。舞台の対面にある神社より遠く離れていた。
 実を言えば、我々の白篷の便船は、もともと黒篷の船と一緒に停泊するつもりはなかった。それに空いた場所もなかった。
 いそいで船を泊めると、舞台では黒くて長い髭の役者が、背に4本の旗を差し、長槍を手にしごき、肌脱ぎの連中をバッタバッタとなぎ倒すのが見えた。双喜はあれが有名な鉄頭の老生だよ。連続84回もとんぼを切るんだぜ、と昼に自ら数えたと言う。
 我々は船首に集まって、活劇を眺めた。が、鉄頭老生は、とんぼを切ってくれない。肌脱ぎの連中が、数回切っただけで退場してしまった。そして小旦が出てきてキンキンした高音でうたった。双喜は「夜は客が少ないから、鉄頭も手を抜いたんだ。得意技は客が大勢いないときには、見せたりしないんだ」と言った。その話はもっともだと思った。そのころには、舞台下の席にはたいして客がいなかった。田舎の人は明日の仕事のため、夜更かしはできない。もう寝に帰ってしまっていた。立って観ているのは、数十人の趙荘と隣村の閑人だけだった。黒篷の金持ちの家族はもとよりいたが、彼らは観劇というより、お菓子や果物、瓜の種をかじるのを専らとし、したがって誰もいないに等しかった。
 だが私の気持ちは、とんぼを切るのを観たいためではなかった。一番観たかったのは、白い更紗をかぶって、両手で頭上に棒のような蛇の頭をかざした、蛇の精だった。その次は、黄色のぬいぐるみをまとって、跳ねまわる虎だった。だが、いくら待っても出てこない。小旦は下がったが、次に出たのはひどい年寄りの小生。私は疲れてきて、桂生に豆乳を買ってきて、と頼んだ。戻ってきて、「もう無かったよ。豆乳売りの聾も帰っちゃった。昼はいたんだ。2碗も飲んだんだ。…  水くんできてやるよ」と言う。
 水は飲まずに我慢して観ていた。何を演じているのかも分からず、役者の顔もぼうっとしてきて、目鼻立ちもぼやけ、見わけもつかなくなってしまった。ちいさい子たちは欠伸しだし、年長の子たちもめいめいの話を始めた。そして、赤い衣装の小丑(ピエロ)が柱に縛られ、白ひげの男に鞭で打たれるのを観て、やっと元気を取り戻して笑った。その夜、これが一番面白かった。
 それからついに、老旦が出てきた。私は老旦がいちばん嫌いで、坐ってうたいだしたら、もうどうしようもなかった。皆も興味喪失したらしく、彼らと私の意見は一致した。老旦は初めのうちは、動きながらうたっていたが、とうとう坐ってしまった。私の心配があたった。双喜たちはすぐ罵りだした。私は辛抱強く待った。かなり経って、老旦が手をあげたので、立ち上がるだろうと期待した。が、またゆっくりとその手をおろして元に戻って、うたいつづけた。
 船中の数名は、ため息をつき、他の者も欠伸を始めた。双喜はもう我慢できない、あいつは明日の夜明けまでうたっても終わりそうにないから、帰ろうよという。皆賛成した。
出発したころと同じくらい元気になり、3,4人が船尾に行き、棹を抜いて数丈バックし、船を回転させ、櫓をつけ、老旦を罵りながら、松柏の森めざして前進した。
 月はまだ落ちていなくて、劇を観たのもそんなに長い時間ではなかったようだ。趙荘を離れると、月はまた格段に明るさを増し、皓々としてきた。はるか舞台の灯を眺めたら、着いたときと同様、渺茫として仙山楼閣のごとく、紅い霞にすっぽり蔽われていた。耳元に聞こえてくるのは、やはり横笛で、悠揚としていて、あの老旦はもう退場したのではと思った。が、もう一度戻ってみようとは言いだせなかった。
 そのうち、松柏の森も船の後ろになり、船足も速くなったが、周りは真っ暗で、夜もだいぶ更けてしまった。皆は役者をつかまえては、罵ったり笑ったりしつつ、せっせと漕いだ。舳先に当たる水音も大きくなった。船は一匹の白い大きな魚が、子供たちを背に、波の花の上を跳ねるがごとく進み、夜通し漁をする漁父たちも、漕ぐ手を休めて喝采した。
 平橋村まで1里ほどのところに来て、船足は遅くなった。漕ぎ手は疲れたと言い、力を出しすぎたし、長いこと何も食べていなかった。桂生が良い考えがあると言いだした。ソラマメは丁度食べごろだ。柴もあるし、ちょっくら失敬して食べようぜ、と言った。賛成。
すぐ近くの岸辺の畑は、黒々と光る、熟したソラマメだ。
「あ。阿発、この辺のはお前ん家のだ、あっちは老六のだ。どっちを取る?」双喜が先に跳び下りて岸から聞いた。
 我々もみな跳び下りた。阿発は跳び下りざま、言った。「ちょっと待って、おいらが見てみる」彼は両方を一わたり見て、身を起して、「おいらん家のにしよう。こっちのが大きい」
その一声で、みなが阿発の畑にちらばり、各自一抱え摘んで、船倉に投げ入れた。双喜はこれ以上取ると、阿発のおっかさんにばれると、泣いて罵られるから、次は六一爺さんの豆を各自一抱え取った。
 年長の何人かはゆっくり漕ぎ、残りは船の後ろで火を起し、年少組と私は豆の皮をむいた。まもなく豆が煮え、車座になりにぎやかに食べた。食べ終わると、船を出し、器具を洗い、さやと豆柄は、河に捨てた。何の痕跡も残さぬよう注意した。ただ双喜が心配したのは、八叔の船の塩と柴を使ったので、爺さんは細かいことにもうるさいから、ばれたら、
怒るだろうな、ということだった。みんなで議論の結果、心配しなくて大丈夫、もし彼が怒ってきたら、我々は、去年彼が岸辺で拾った枯れた柏の木を返せ、と反論すりゃいい。
面と向かって、「かささき」って言ってやれば、引っ込むから、まず問題ないとなった。
 
 「みんな、無事帰ってきたよ。保証通り! 問題なしさ」双喜は船首で大声で叫んだ。船首の先を見ると、もう平橋だった。橋の上に立っていたのは私の母で、双喜は彼女に叫んでいたのだ。私は前に行き、船も平橋を過ぎて、止まり、皆上陸した。母はとても怒って、もう三更も過ぎてるのに、なんでこんなに遅くなったの、と言いながら、うれしそうに、
皆に、家に炒り米を食べにおいで、と言った。
 みんなお腹は一杯だったし、眠いから早く寝たいとそれぞれ家に帰った。
 翌日、昼ごろ起きたが、八叔の塩と柴の件で悶着が起こったとは何も聞かなかった。午後は相変わらずエビガニ釣りに出かけた。
 「双喜! このがきゃあ、昨日俺の豆を偸んだな。きれいに摘まないで、しかも畑を踏み荒らしやがって」見ると、六一爺さんが、舟を回して近づいてきた。豆を売っての帰りで、舟腹にはまだ豆が、一山残っていた。
 「そうだよ。お客を招いたんだ。俺たちゃ、最初おじさんとこのは止めよう、っていったんだ。ほら釣ったエビガニが逃げちゃったじゃない」と双喜は言った。
 六一爺さんは私を見て、櫂を止め、笑って「お客さんを? そりゃそうだな」と言い、
私に向かって「迅さん、昨日の劇は面白かったかい」と訊ねた。
 私はうなずいて、「面白かった」と応えた。
 「豆はどうだったかい?」
 私はうなずいて「とってもうまかったよ」と言った。
 そしたら、六一爺さんは非常に感激して、親指をにゅっと突き出して、得意げに言った。
 「大きな町で学問なさってる人は物の良し悪しがよくおわかりじゃ。わしとこの豆は、種をひとつひとつ、えりすぐってるから、田舎もんはそれも分からんと、人のに、劣るとぬかしよって。今日は奥様にお持ちして、召し上がって頂くことにするよ」と櫂をこぎながら、去って行った。
 母が夕食だよと呼びに来て、戻ってみると、卓上の大きな鉢にソラマメのゆでたのが、山もりだった。六一爺さんからのだった。彼は母に私のことを、とても褒めて「お若いのに、立派な見識をお持ちで、将来は必ず状元さまじゃ、奥さま、あなたの福はもう保証付きじゃ」と言って帰ったという。私はソラマメを食べたが、昨夜のようにうまくは感じなかった。
 本当に 今に至るまで、あの夜のようにうまい豆を食ったことはない一一 また、あの夜のように面白い劇を観たこともない。
   1922年10月
 

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