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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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家長魯迅

 魯迅は、日本留学で医専を中退し大学の卒業証書も得ないまま、辛亥革命直後の故郷に戻り、紹興や杭州で学校の校長等を勤めた後、孫文が率いる国民党の南京臨時政府で教育総長(教育大臣)をしていた同郷の先輩、祭元培の引きにより、教育部の役人となった。その後、孫文が大総統を辞職し、袁世凱に譲ったため、政府も袁世凱の本拠地北京へ引っ越した。魯迅もその影響で袁世凱政府の役人として北京へ引っ越すことになる。
 彼の日記は、この時から、つまり1912年5月5日に上海から船に乗って天津に到着した日から始まり、死去前の1936年10月17日まで、24年間も続いている。
 彼は、友人や後輩への手紙や雑文の中で、血気にはやり、むやみやたらに義士ぶって、少人数で武装蜂起し、清朝の役人を殺したり、官憲に切り込んだりしても、結局捕まって犬死にするだけだから、生命を無駄にしてはならなず、どうせやるなら、第一次世界大戦中の塹壕戦のような方法を採るのがよい、と戒めている。
 辛亥革命前の東京で、滅満興漢の革命団体――光復会に加入したとされる魯迅は、少人数の武力闘争には参加しなかった。
 それは、多分、官憲に逮捕され、獄死することになれば、母や一族郎党が路頭に迷うことになると恐れたことも影響しているかもしれない。
 魯迅が10代の初め頃、科挙の最高位(進士)の役人であった祖父は、息子(魯迅の父)の科挙受験に際して、その試験官として故郷に帰ってきた自分の友人に賄賂を贈って、父の合格を頼んだことが発覚し、牢獄に繋がれてしまった。その上、長い間患っていた父も亡くなり、稼ぎ手を失ってしまった一家は、一気に没落した。魯一家を支えねばならぬ長男の魯迅は、家長として残された自分が祖父の様に獄に入れられたら、全てはお仕舞いになると考えたのだろう。
 魯迅の日記には、次弟・作人と三弟・建人の嫁であった日本人姉妹、信子・芳子の実家へ生活資金として、北京の東交民巷にあった日本郵便局から為替で送金していたことも記されている。実の母と彼の最初の妻への仕送りは当然のこととして何も記されていないが…
 その他、日記には、魯迅を尊敬し、或いは慕って近づいてくる後輩たちからの手紙への返信や雑誌等への寄稿による支援も多く見られる。この辺りにも中国文芸界の家長としてできるだけ支援したいという彼の配慮が感じられる。
2017.6.14作成
2017.6.23投稿

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