魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
両地書34
広平仁兄大人閣下。
拝啓;大作を寄稿賜り、早速載せますが、或いは作者から蔭で呪詛されるやもしれません。私は題名まで変えたのですから。変えた理由は原題がとてもおっかないと感じたからです。結末は迫力が足りないので数句加えました。ご尊意に背くとは思いませんが:要するに:とくに専断的で、望むらくは是非ともご容赦いただき、貴方の罵りを免れたく、角突きださず、「害馬」の才も暫く停止いただき、またご投稿くだされば幸甚です!
大作が常に載るのは、実際「莾原」が飢饉に陥っているからです。私が載せたいのは評論ですが、どうしても寄稿は小説詩が多いのです。以前はいつわりの「花よ」「愛よ」だったが、今はいつわりの「死よ」「血よ」の詩です。嗚呼、頭が痛いです。従って評論に近いものがあれば、載せやすいのです。これを「子供だまし」と言わんか?そして又新しく文章を書く人は、私の編集するものには、比較的容易に載りやすいが、これが「子供だまし」の嫌疑をうけるのです。だが暫く書き続けたら、必ず進歩の結果が出てくるもので、怠けていい加減に書いていたら猛烈な攻撃を加えますよ。ご注意のほど。
謹んで申し上げる次第。
「おしゃべりがうまくなるよう」祈ります!
「老師」謹訓。7月9日
新聞は章士釘が辞職し、屈映光が後任と報じています。彼は浙江省の有名な「私は元々(宴席に呼ばれて)食事はしません」式人物です。士釘と五十歩百歩で、或いは少し劣るくらい。それゆえ、私はいつも内政を改革せぬ限り、良い状況にはならないと思っていますし、無論どんなデモを行って示威行動を起こしても、何の役にも立ちません。 (この間、5-6通 欠落)
訳者雑感:冒頭から大仰な言い回しで、評論を寄稿してくれる許広平に感謝しているが、題名を変え、結末は迫力不足として補っている。この辺りから二人の間に変化が起き始めているようだ。
2016/10/17記
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