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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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劉暁波の死

 ある中国の改革派の学者が、先日(2017年7月15日)の神奈川新聞に、劉暁波の死に関して述べたコメントが強く印象に残った。「新たな劉暁波は又生まれるかもしれない。それを支持する大勢の大衆がいるか、そういう社会になっているかどうかが問題である」と。劉暁波は中国のために死んだ。このコメントは、その志を引きつごうということだろう。
 劉暁波らが提唱し、2008年12月9日インターネット上で発表した「08憲章」は、1989年6月4日、第二次天安門事件(六四天安門事件、六四運動)で、その2カ月前になくなった胡耀邦総書記の名誉回復と民主化を求めるために、戦車の砲身の前に空手で立ち向かった学生たちやそれを支持する人々への熱い思いを表明したものだ。また、振り返れば、この六四運動は、1976年4月5日、第一次天安門事件(四五天安門事件、四五運動)で周恩来の名誉回復を求めた学生大衆の民主化要求運動に流れを汲むといえる。
 劉暁波の逝去に際して、共産党政府は、遺灰は海へ散灰されると公表した。これは多分、彼の遺骨を墓に納めると、その墓が反政府運動のシンボルになるのを恐れたからだろう。周恩来は、生前、墓は建てず、遺灰は海に散じるようにと遺言した。これは、自分の墓が反政府運動のシンボルになって、時の政府から墓が暴かれることのないようにとの思いからだという。
 1836年に永眠した魯迅は、棺に「民族魂」と大書された白布にくるまれて万国公墓に土葬された。その墓石には、他の中国人と同様、写真を焼き付けた陶器が飾られていたが、戦後上海に抑留されていた堀田善衛が、魯迅の墓を訪れた時、その顔は投石か何かで欠けていたそうだ。
 その後、文革の嵐の中で、魯迅は毛沢東から、中国文化革命の主将とか、中国でもっとも硬い骨と称えられたり、空前の民族英雄と持ち上げられたりしたが、その遺骨は万国公墓から、上海の魯迅公園に作られた銅像つきの巨大な墓に埋葬され直した。「魯迅墓」という毛自身による揮毫を備えたこの墓は、それこそ、魯迅公園の記念碑(シンボル)となっている。
 もし魯迅が生きていたら、今頃どうしているでしょうね、と問われた毛沢東が、「相変わらず時の政府に抵抗する文章を書いて、監獄にいるか、死んでいるだろう」と応えたという話は有名だ。
 毛は、魯迅を巨大な墓に閉じ込め、「大勢の大衆」が再び担ぎ出せないようにした。その結果、今ではもう誰も魯迅を担ぎ出して反政府運動をしたりするものはいない。
 今後、第二、第三の劉暁波は現れるかもしれないが、それを支持する大勢の大衆がいるか、そういう社会になっているかどうか、中国の民主化や改革は気の遠くなるほど難しい問題だ。
2017.07.18作成
2017.08.01投稿

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