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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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楊邨人氏の公開状に答える公開状

楊邨人氏の公開状に答える公開状
「文化列車」がレールの無い私の机にまで乗り入れて来た。
それは12月10日発車の第3号で、近頃こういう雑誌がでたのを知った。
その中で、楊邨人氏が私宛に公開状で答えるよう求めている。
これには必ずしも答える必要は無いと思う。
公開状の目的は皆に見てもらうためで、私個人に対しては二次的であるからだ。
答えてもいいが、それはやはり人々に見てもらうためで、
さもなければ、ただ個人宛に郵送すればすむ話だ。
回答のする前に元の書状を記せねばなるまい――

魯迅様
李儵(シュク)氏(李又燃氏のことか或いは曹聚仁氏の筆名か)の「偽自由書を読む」を
読むと、文末近くで:
『魯迅の「偽自由書」を読んで、魯迅氏の人となりに思い到った。
その日、魯迅氏が食事中、咀嚼時に動かす筋が、胸の肋骨まで連動するのを見て、
魯迅氏も老いたな!と。その時私は胸が締め付けられるような感情を禁じえなかった。
以前、父の老いたのを見たとき、そういう気持ちになったことを思い出して、今魯迅氏の
老いたのを見て、昔のことを思い出した。
これは司馬懿一派を喜ばせたであろう。況や傍らには、とうに変心した魏延がいたから』
(この末尾の一句は原文の十字そのまま写したもので、一字も違わない、確かに妙文だ!)

これに対して、二つの感想を禁じ得ない:
一つは、我々の敬愛する魯迅氏も老いたということ。
一つは、我々の敬愛する魯迅氏がなぜ諸葛亮なのか? 氏の「傍らに」いったいどこから「とうに変心した魏延」がやって来たのか?
プロレタリア大衆はいつ阿斗(劉備の子、凡庸な無能者)になったのか?
 一番目の感想を持ったことで、私は大変おそれ驚いた。我々の敬愛する魯迅氏が老いたとは、なんともはや驚きに堪えない!
「吶喊」が北京で初めて出たころ(多分10年前)、拝読後、大変敬慕し、称揚の紹介文を張東蘇氏の編集する「学灯」に載せたことを覚えている。
当時私の先生への敬慕度は、創造社の四君子たちより上だった。
後になって、1928年「語絲」に氏は我々を嘲笑する文章を載せ、双方の論戦には感情が無かったとはいえ、論戦は論戦として、私の心からの敬愛は変わらなかった。
1930年秋、氏の50歳の誕生祝賀会には私も参加者の一人として、大変親しく氏とお話できたことも幸栄だった。
左聯のある大会が、日本人同志の家で開かれた時、また氏とお会いし、愉快であった。
しかし、今年私が共産党を離れて後、左右の挟撃にあい、「芸術新聞」と「出版消息」に、
氏が私を「嘘」(吹飛ばす)と非難しているという記事が載り、書名は多分「北平五講と上海三嘘」で、私を「嘘の方法で、襲撃する」とし、なお且つ、私と梁実秋、張若谷とを同列にしていたので、私は当然反感を抱かざるを得ず、「新儒林外史第一回」を書くことになった。この「新儒林外史第一回」に氏が交戦に使ったのは大刀だと書いて、反攻的な風刺としたのみ。
引用した文章の情緒と態度はすべて氏を敬慕したもので、文中の意味は却って、氏が私を「嘘」で襲撃するのは敵を見誤ったのではないかと述べた。
大著「両地書」を拝読しての紹介文は、筆先にも十分敬慕を含み、謾罵の字は半句も無い。
だが氏は「私の種痘」の一文を誤解したようで、筆に任せて私向けに、2-3本の冷酷な矢を射て、特にある人が、氏が老いたのを攻撃しているとし、私は決して氏が老いたと感じてなどいないし、あの文も氏の老いたのを攻撃していないのに、氏は自ら老いたと思っているのではないか。
 バーナード・ショーの方が氏より年長だし、ショーの髪や髭は氏よりずっと白いが、彼は老いていない。氏はどうして自分が老いたと感じたのか?
私はこれまで氏が老いたと感じたことは無いし、氏が青年の如くあり、且つ永遠に若さを保つのを望む。
 しかし、李儵氏の文を読んで、怖れおののき驚いた。氏はやはり本当に老いたのだ。
李儵氏は氏が老いたのを見て「胸が締め付けられるほど」彼の御尊父の老態を見た時に感じた気持ちになり、私もよく私の老いた父のことを思いだすが、人が私を攻撃した時のように「孝子」になろうとは思いません。
天性として時にはそういう気持ちになり、想念することはありますが。
従って李儵氏の文を見た時、私が自分の父親のことを連想したのではありません。
しかし、氏が本当に老いたのは私を怖れ驚かせた。
私が怖れ驚いたのは、我々が敬愛する文壇の先輩が老いたことだ。
生理的なことで仕事を止めねばならなくなってしまうこと!
この敬愛する気持ち・思いで、今年来の氏に対する反感を砕き、誠心誠意、氏が訓悔されることを切望する。
氏が厳粛な態度になって、「嘘」で吹き飛ばすとか、冷矢を射るなどは慎まれ、相手を心服させるよう希望します。
 第二の感想は私を……、これは李儵氏のことだから、ここで物議をかもしたくない。
 本状について先生が返信の価値があると感じたら、この「文化列車」の編集者に送って、
発表して下さい。さもなくば、文書で厳正に批判してもらっても構いません。どこに発表してもらっても結構です。
 以上、誠心の敬慕を表し、ご健康を祈ります。
楊邨人 謹啓 一九三三、一二、三。

 追信。この手紙は誠心から出た物で、鬼の子らが私を罵って、先生とペンでいざこざを起こした結果、子鬼となって、先生に和を求め「大鬼」に…の意思ではありません。
        邨人再拝

 以下、私の返信。手紙だから冒頭は例の通り書くと、

邨人様:
 貴方の私宛書状に対して返答する値打ちもありません。
貴方が私を「心服」するのを望んでもいないし、貴方も私の批判は不要でしょう。
この2年来の文章はすでに自身の形象を明白にしているし、勿論「鬼の子」たちの
根も葉もない話しは信じませんが、貴方のことも信じておりません。
 これは貴方の言葉が、彼らと同じように、狆ころ式のキャンキャン吠えるだけだと言っているわけではありません:
多分貴方は自分としては永遠に誠実だと思っているでしょうが、急な変化により、
苦心の挙句、身をかわし、右顧左眄した結果、自分の言葉をうまくまとめられず、
デタラメなことを書くようになったのでしょう。
だから聞く人の心に響かなくなったのです。
貴方のこの手紙を例にとれば、もし本当に自分を知っているなら、本来書く必要もないことでしょう。
 貴方はまず初に「どうして諸葛亮か」と尋ねた。それは実際おかしな問いです。
李儵氏は会ったことがあります。曹聚任氏ではなく、李又燃氏かどうか確認できません。
又燃氏とは会ったことも無い。
 私が「どうして諸葛亮」か? 他人の議論に答えることはできぬし、その必要も無い。
そんなことしていたら、一日中返事を書かねばならない。私を「群衆中の蛆」という人もいます。「どうして?」――そんなことに関わってはいられません。
しかし私の知る限り、魏延の変心は諸葛亮の死んだ後で、私はまだ生きています。
従って私を諸葛亮というのは該当しません。
従って「プロレタリア大衆はいつ阿斗になったのか?」という問題もピントはずれです。
こうしたデタラメは「三国演義」や呉稚暉先生を知っているなら、あり得ぬことで、書物にも、他の人も人民を阿斗と呼んだことは無い。安心して下さい。
 しかし貴方は「プチブル文学革命」の旗の下にいながら、いまだに「プロレタリア大衆」とか言っておられるが、自分でこうした字を見て、恥ずかしいとかおかしいとか思わないですか?もう二度とこういう文字を使わぬようにしては如何ですか?
 次に私の老いに「怖れおののいた」とは一体どうしたわけか、不思議です。
私は仙丹の修煉をしてないから、自然の法則で老いるのは、何ら奇とするに足りません
もう少し平静になってください。又その後は死ぬでしょうから、それも自然の法則ゆえ、予め表明しておきます。どうか「怖れおののかぬ」ようにしてください。
さもないとその内に神経衰弱になり、いよいよ話しが支離滅裂になりましょう。
たとえ私が老いたとしても、死んでも、地球を棺桶に持ち込むことはしません。
地球はまだ若いし、存続しますから、希望はまさしく将来にあり、今も尚貴方の旗を立てることは可能です。それは敢えて保証しますから安心して仕事をしてください。 

 さて「三嘘」ですが、そういうことはあったが、新聞に載ったのとは少し違います。
当時あるホテルで、みんなで閑談し、何人かの文章に及んだ時、私は確か:
そんなものは一嘘(ひと吹き)でけりをつけられるから、反駁の値打ちもない、と言った。
この数人の中に貴方も入っていた。私の意見は貴方があの堂々と書いた「自白」(共産党からの離党)の中で明白に農民の純朴さとプチブルインテリの動揺と利己的さを述べ、
それでプチブル革命文学の旗を立てようとするのは、自分で自分の頬を殴るようなものだ。
 しかし、私がそれを言う前に、散会してしまい、終わってしまった。
だが転々とするうちに、その時記者が同席していたかどうか知らぬが、暫くしたら尾ひれがついて新聞に載った。それが読者の憶測を呼んだのでしょう。
 この5―6年、私に関する記事がとても増えた。毀すためか誉めるためか、ウソか真か。
私は意に介さぬ。弁護士を雇う金も無く、しょっちゅう広告を載せるだけの巨費も無い。
各種の刊行物をくまなく見る暇も無い。況や記者は読者の気を引こうと、誇大に書きたてるのは周知のことで、ひどいのはすべて捏造さえする。
例えば、貴方がまだ「革命文学家」だったころ、「小記者」のペンネームで新聞に、
私が南京中央党部の文学賞の賞金を貰って、大宴会を開き、子供の一歳の誕生を祝い、
それが郁達夫氏に亡くなった児のことを思い出させ、悲しませた、と書きましたね。
これなど実に見て来たようなウソもいいところで、まだ一歳にならぬ嬰児も私のとばっちりを受けて、汚れた血を浴びました。
これはすべて創作で、それは私も知っており、達夫さんも知っている。
記者兼作者の貴方、楊邨人さんは当然知らぬはずはない。
 私はそのとき一言も言わなかった。どうしてか?革命者は目的達成の為、いかなる手段を使っても良いというのは、正しいことだと思っていたから。
だから私の罪が重いという理由で、革命文学の第一歩として、まず私を血祭りにあげようとするのなら、私も歯を食いしばって忍受せんとしたのです。
それでも殺されさえしなければ、草の中に逃げ込み、自分で傷口の血をなめてきれいにし、決して他人の手を煩わして伝来の薬は使わないようにしようとした。
 しかし、聖人では無いから、煩わしさに激動する時もあり、確かに貴方「がた」を嘲笑い、それらの文章を後に「三閑集」に入れ、一つたりとも削らなかった。
しかし貴方「がた」のデマと攻撃の文の重さの10分の1以下だ。
それだけでなく、講演でも時に葉霊鳳氏や貴方を嘲笑し、貴方達が「前衛」の名で雄赳びをあげて出陣の際、私は祭旗の犠牲にされ、何合かの剣戟の後、戦線から消え去って行くのを見て、笑いをこらえることができなかった。
 階級的立場上でも個人の立場でも、一笑する権利はある。然し私がまだ傲然と何とかの
「良心」或いは「プロレタリア大衆」の名を借りて、敵を凌圧したことは無い。
さらに表明するが:それは私が彼との個人的な私怨のせいだ、と。
先生、これでもまだ謙譲不足ですか?
 私が責任を負えないような記事のせいで、貴方の「反感」を引き起こしたのに、破格の
優待を蒙って「新儒林外史」で私に大刀を褒めてくれたことに対して、儀礼上謝意を表すべきだが、実際は大宴会を開いたのと同じで、私には大刀なぞ無いし、只一本の「金不換」という名の筆しかありません。
これは何もルーブルを貰っていないという宣伝でもなく、子供のころから使いなれた、
一本5銭の安い筆です。確かにこの筆で貴方と交戦したが、古典を引用するのと同様、
筆に任せてひねり出し、趣をこらしたのみで、特に報復する悪意は無い。
だが貴方は私に「三本の冷酷な矢」だと言った。これは貴方を怪しむことはできない。
というのは、これは陳源教授の発言の余波にすぎぬからです。
しかし報復としても、上述の理由から私はまだ「怨みを以て徳に報ず」の隊伍にまで至っていない。
「北平五講と上海三嘘」などこれまで書いたことも無い。北平で「五講」が出たそうだが、
私が書いたものではないし、見たことも無い。
そんな風潮で騒ぎが広がったら、将来きっと何か書くかもしれないが。
もし書いたら「五講三嘘集」と名付けてみようか。だが後半のは必ずしも新聞のいう三人とは限らぬ。貴方はどうやら梁実秋・張若谷両氏と同じにされるのを羞じているようだが、
並べてみても何も貴方を侮辱などしていないと思う。ただ、張若谷氏は少し劣るし、
とても浅陋で「一嘘」の対象にもなりません。私なら他の人に換えてしまうだろう。
 貴方については、今の私の意見としては多分、そんな悪く書かないだろう。
貴方は革命場中の小さな売店で、決して奸商ではない。私の言う奸商とは、国共合作時代、羽振りの良かった連中で、当時ソ連をほめ、共産に賛同し、とことんやったが、
いざ清党になると、共産青年を使い、共産の嫌疑のある青年の血で自分の手を洗い、
依然としてはばを利かせ、時勢が変わっても羽振り良さは不変で:
もう一種は革命の驍将(勇猛な)で、土豪を殺し、劣紳を倒し、すごく激烈だが、
一度蹉跌すると、「邪を棄て、正に帰る」として「土匪」を罵り、同志を殺し、すこぶる激烈で、主義も変え、依然として驍将たるを失わない。
貴方はといえば、「自白」の中で、革命か否かは、親の苦楽を以て転移するとし、投機的な気分があること疑いも無い。といって大口の売買をするでもなく、わずかに何とかして、
「第3種人」になろうとし、革命党より良い生活をしたいようです。
革命陣営から退散し、自己弁護の為、穏健に「第3種人」になる為にはどうしても、
少しばかり懺悔をせねばならず、支配者にとっても、それは実は頗る有益なのだが、
やはり「左右からの挟み撃ちの対象」となってしまう。
多分その方面で、貴方がたの面積が狭すぎるからでしょう。
それは銀行員が小さな銭荘の丁稚を見下すのと同じことです。
不服だろうが、「第3種人」の存在を認めないのは左翼のみならず、貴方の経験からも
証明されたことで、これはある意味、大きな功徳でした。
 平静にみて、貴方は失敗者の中に入らぬし、自分では「挟み撃ち」にあっていると、
感じているが、今はただすぐにも人を殺せる権力のある連中以外は、誰でも攻撃されるわけだから止むを得ません。
暮らしは辛いだろうが、殺戮される人、監禁される人たちから見れば、月とスッポンで:
文もどこにでも発表でき、封鎖・圧迫・禁止されている作家よりはるか自由自在だ。
羽振りのいいのや驍将に比べると勿論ずっと下だが、それは貴方が奸商でないからで、
貴方の苦しい所だが、いい所でもある。
 大分長くなったからこれまでとする。要するに、私は以前同様、決してデマやデタラメで、貴方を攻撃しようとは思わぬが、これからは別の態度に改めるかもしれない。
当人の「反感」や「敬慕」など一切計算にいれないようにする。
貴方も私が「生理上の理由で仕事を止めるだろう」などということで、私を許すとか容認するなどしないでもらいたい。
 専ら返答のみ、お元気で。
      魯迅。1933.12.28。

訳者雑感:
返信する価値なしと述べながら、なぜこれを公表したのだろうか?出版社注では、これは
当時の刊行物には発表しなかった由だから、この「南腔北調集」になぜ入れたのだろう?

怒り心頭に達したのであろうか。相手はかつて揉み手をして近づいてきた者で、文中にも
魯迅を「先生」「先生」と呼び、敬慕していた、今もしていると書きながら、人身攻撃的な非難の文章は慎めと「慇懃無礼」である。
この文中の「先生」という漢語をどう訳そうか迷った。
 本編に「先生」という言葉が沢山出て来る。楊氏から魯迅宛ての公開状に出て来るのは、
宛先の時は「様」、魯迅先生とか、先生という時は一部を除き「魯迅氏」、「氏」としてみた。
一方、魯迅から楊氏あてには、宛先は「様」で同じだが、先生とあるのは、「貴方」としてみた。
中国語の「先生」の訳語は「さん、様、貴方、お前、君」とした方が適切な場合がある。
日本語の「先生」には「教師、国会議員、稽古ごとや美容師の師匠等」の意味で使うのが多く、中国語で批判的に、或いは揶揄的に使うようなニュアンスの時には、氏とか貴方の方が適切かと思う。
漱石の「心」の中の「先生」と私の関係は、人間として生きてゆく上での「師」「恩師」的なニュアンスが強いが、中国語の文章の中で使われる「先生」は必ずしも「師」ではなく、本編の中で何十回と使われている「先生」は往往「皮肉っぽい」ニュアンスがある。
夫婦間でも互いに名前か時には姓も一緒に、後に何も「さん」に相当するようなものを
つけずに、呼び捨てにするのが「愛情」表現のようだ。
それでいて第三者に向かって話すときは、夫のことを「我的先生」と日本で言う「主人」のように使うのも面白い。
妻のことは、「我的老婆」というのも漢字にすると妙なものだが。
本当の先生(教師)のことは、「我的老師」とこれも老がつく。
教師のことを先生とは言わない。

 最後に、魯迅はこの「返事を書く値打ちも無い」ような男に対してすら、これだけの時間を費やしている。訳しながら、時に嫌気がさすほどで、連休で用事も重なり、私自身も
長い時間を費やし、タイプするごとに、初めから読み返してはいろいろ手を入れた。
 魯迅も何回か手を入れたと思われる。
文末に、老いぼれてもう仕事ができなくなるだろうからなどという理由で私を許すなどせず、どしどし論戦で腕を磨け、と励ましてもいるようだ。
   2012/05/08訳



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「総退却」序

「総退却」序
 中国は長い間、小説を「閑書」と呼んできたが、つい50年前まではその通りで、
一日中働いている人には小説など読む暇は無かった。
だから小説を読む人は暇があり、閑があるのは、四六時中働かなくても良いわけだ。
成仿吾氏がかつて断定して曰く:
「有閑は即ち有銭!」(閑があるのは、金がある意)
まことに、経済学的にみれば、現在の制度では「閑暇」は一種の「富」に違いない。
だが、貧しい人も小説が好きで、字が読めぬから、茶館に「講談」を聞きに行く。
百回以上もの長いのも、毎日少しずつ聞き続ける。
一日中働いている人に比べれば、彼らも閑がある。
さもなければ茶館に行く閑や、茶を買う余裕などないだろう。
欧米の小説もかつては同じであった。後に生活が苦しくなり、
生きるために余暇が減り、
そんな悠長な暮らしができなくなった。
只たまには本を借りて、気分を安らげたいと思い、
ざわざわした騒がしさに耐えられず、
余暇をつくろうとしたので、短編小説が盛んになってきた。
こうした西洋文壇の趨勢は、古人の所謂「欧米の風雨」と共に中国に影響を与えた。
「文学革命」後に出て来た小説は殆ど短編だった。
だが、それは作者の才力も大作を書けなかったことも大きな理由だ。
 作品の主人公も変化した。昔は、勇将策士、侠客盗賊悪徳役人、
妖怪神仙、才子佳人、などだった。
その後は妓女と嫖客、無頼漢ヤクザとなった。
「五四(運動)」後の短編は大抵、新知識人が登場し、
彼らは先ず「欧米の風雨」の動きを感じたが、
古い英雄才子の気風から抜け出せなかった。
今はもうすっかり変わった。
皆すでにその動きを感じ取り、二度と特別な一人の人物の運命を書こうとはしなくなった。
某英雄がベルリンで牌を打ちながら天を仰ぐとか、某天才が泰山で、胸をかきむしって、
血の涙を流すなど、誰がそんなものに目を向けるものか?
彼らは更に広大で深遠なものを知り、感じ取ろうとする。
 この本はこうした時代が生んだもので、明らかに脱皮していることを示している。
登場人物も英雄ではなく、風光も美しくないが、中国の視点が出てきている。
 作者は工場の描写は農村には及ばないと思うが、それは私がどちらかと言えば、
農村の方を良く知っているせいだろうと思う。
或いは、作者も農村の方がよく分かっている為だろう。
       33年12月25日夜、魯迅記

訳者雑感:
 これは葛琴(1907-1995年)という女流作家の短編小説への序である。
日本では紫式部など平安時代から女流作家が小説を書いてきたし、
それを手書きして読む女性が上流階級に限られてはいたが、いることはいた。
中国でも詩を作る女性詩人は昔からいたが、
紫式部のような小説を書いた人は知らない。
魯迅は母親が決めた嫁、朱安は文字を読めなかったので、
魯迅から文字を読めるように勉強してくれといわれたが、
もう年も年だから勉強できないと断っている。
魯迅の嫁になるような女性も文字を読めなかったというのは、
江戸時代の日本は寺子屋で、
女の子も読み書きソロバンを習ったことと比べると、一体どうしてかと思う。

漢字の習得はそれほど難しかったと言ってしまえば、それまでだが、
今や殆どの中国人が漢字を読み書きできることを考えれば、
漢字学習がそんなに困難だったとは思えない。
儒教の発想で、漢字を支配階級の男だけに制限してきた制度の問題だろう。
 明治維新後しばらくして日本に来た外交官、黄遵憲は「日本雑事詩」で、
「日本の子供は幼いころから字を読み書きでき、
ミミズののたくったような字(ひらがなのこと)を紙一杯に書き、
『お母様ちかごろ御機嫌いかがですか』という手紙も書く」
という趣旨のことを書いて、日本ではイロハの47文字だけで手紙が書けるし、
小説も読めると紹介している。
 そうした紹介の結果もあり、洋務運動で中国にも洋式の学校が作られ、
魯迅も父親の死後、南京の洋式学校に
(科挙を諦めて、洋鬼に魂を売ったと言われながらも)通い始めたのだ。
 その後1933年にこうした女流作家の短編小説が出、
それに魯迅が序を書くまでになった。
それまでの中国女性は一部の上流階級以外は、
演劇や講談主流の娯楽に甘んじていたのだろう。
子供の教育は母親ではなく、科挙に落ちた人たちの塾が主体で、
寺子屋のように女子は取らず、専ら科挙合格の為に勉強した。
女子は科挙を受験できないのだから漢字を勉強する動機も理由も
取りあげられていた訳だ。
         2012/04/27訳




 

 




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家庭は中国の基本

家庭は中国の基本
 中国は自から酒の醸造したのは、アヘンを植えたのより早いが、
今や横になってアヘンを吸う人間の方が多いと言われる。
だが外国の水兵の様に街中にくり出す酔っぱらいは少ない。
唐宋の玉蹴りも絶えて久しく、一般的な娯楽といえば、家でやる徹夜マージャンだ。
この2点から我々は戸外から徐々に家の中にこもる様になったのは疑いない。
昔の上海の文人も慨嘆して、一聯をつくり、
その聯に対する対をつくって欲しいと人に求めて曰く:
「三鳥人を害す。鴉(片)・(麻)雀・鳩」、鳩は宝くじ、雅号は奨券。
当時「白鳩票」と称した。その後誰かが対句をつくったか知らぬ。
 しかし我々は現状に満足はせず、小さな家にしても、気持ちは宇宙の外に馳せ、
アヘンを吸う者も、幻想を享受し、麻雀を打つ者も、いい牌を敬慕する。
軒下で爆竹を鳴らす者も、月を天狗の嘴から救い出すためで:
剣の仙人は書斎にいながら、フンの一声で白光が光り、千万里外の敵を殺し、
飛剣は家に戻り、もとの鼻孔に収まる。次回再び使うためである。
これを千変万化と言い、まさしく祖伝のままである。
だから、学校は家庭から子弟を預かり、社会の人材を養成する場所だというが、
どうにも手のつけられないほどになってくると、
やはり「家長に厳重にしつけてもらう」次第となる。
「骨肉は土に帰るが命なり:それ魂あらば、行かざる所なし、行かざる所なし」
人間は(死んで)幽鬼となったら、本来どうしようと自在なのだが、
残った人は、やはり紙の家を焼いて、そこに住んでもらおうとし、
金持ちなどはジャン卓、アヘン盆も要る。
仙人になるとこの変化はとても大きいが、劉夫人はどうしても住んでいた家を離れられず、「家ごと昇天」できるように働きかけ、鶏犬も共に昇天させてしまい、
依然として家事を司り、犬を飼い、鶏に餌をやる。
 我々古今の人々は現状に対して実際に変化を望み、変化を認める。
幽鬼に変じてしまうのは仕方の無いことだが、仙人になれればもっと良いが、
昔から住んできた家については、死んでも手放さない。
火薬で爆竹しか造らず、羅針盤も墓の風水しか見ないという原因もこの辺にあると思う。
 今火薬は爆弾となり、焼夷弾として飛行機に積みこまれたが、
我々は家の中でそれが落ちて来るのを待っているだけだ。
飛行機に乗る人は多くなったが、遠くまで出かけようとするよりは、
早く家に帰りたい為の方が多いようだ。
 家は我々が生まれた所だが、死ぬ所でもある。
    12月16日

訳者雑感:
魯迅の指摘するように、中国人は戸外より家の中を好むようだ。
スポーツもテニスより卓球、テニスも室内を好む。
バレーやバスケットの方が、野球やサッカーする選手より世界的に優れており、
オリンピックでも活躍している。
酒の飲み方も、水兵ほどではないとしても、日本人が新宿の街を酔っぱらってハシゴ酒をしているのを見ると不思議がる中国人は多い。
人前で酔い潰れるのを一番見下すという。だから自分が見下されぬように注意する。
 中国が世界に誇る火薬と羅針盤の発明も、
爆竹と墓の方角を決める風水にしか使わず、
爆弾を落とされる被害者と成り下がってしまった、と嘆いている。
 題名の「家庭は中国の基本」というのは、中国人を縛り付けている源という風刺か。
      2012/04/25訳

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捏造のテクニック

捏造のテクニック
 中国人は奇怪な形状が大好きで、また蔭にかくれて何かをするのが好きである。
古い樹木が発光するのを見る方が、大麦の開花を見るより好きだ。
その実、大麦の開花等見たことはないが。
怪胎畸形(胎児が畸の意)は新聞のネタになり、生物学の常識がくつがえされる。
最近広告に双頭の蛇のような、頭が二つで手が四本の胎児が載り、
腹から足が一つ出て、計三本足の男も現れた。
人間も固より怪胎もあり、畸形もあるが、造化の本領にも限度があり、
いかに怪や畸でも、何らかの限界があり、双子の背中の連結、
腹、臀、脇、頭までもつながっている例もあるが、頭が尻から出てくることは無い:
形も親指が人差し指とくっついたのや、指が多いのや手足が欠けているの、
乳房の多いのもあるが、
「2個買えば1個おまけ」のように両足の外側にもう一本というのはない。
天も実のところ、人間のやる捏造には及ばない。
しかし、人間のやる捏造は天に勝るとはいえ、実際の技両には限りがある。
捏造のカギはけっして表に出さぬことにある。
簡単には見破られぬことにある。一旦表に出たら、
捏造が露見するから制限が生まれる。
ゆえに、やはりネタは深遠にするに如かずで、影響もまた模糊としたものになる。
「一利あれば一害あり」で、私のいわゆる「有限」はここにある。
 清朝の人が書いたものでは、よく羅両峰の「鬼趣図」を取り上げるが、
実に鬼気拂拂と描かれており:後にそれを文明書局が出したが、奇痩なの、
背が低いが超デブ、又は、
ぶくぶく腫れあがったの、必ずしも奇とは言えず、やはり本物には及ばぬ。
 小説に画かれた鬼相はどんなに描いてみても、まったく驚くほどのことはない。
私が一番恐ろしいと思うのは、晋の人が画いた「五官のない顔」で、卵のような、
山中歴鬼のようであった。五官は五官にすぎぬから、
どんなに苦心して凶悪にしようにも、五官の枠から逃れられず、
今それを全体として奇妙な物にすると、読者も却ってわけが分からなくなる。
しかしその「弊害」もあり、印象が模糊となることだ。
だがこれに比べて「恐ろしい形相の悪者」「口と鼻から血を流す」
などの阿呆を画く方が、ずっと賢い。
 中華民国人が罪状を挙げるとなると大抵十条ほどになるが、たいした効力が無い。
古来多くの悪人はことごとく十条など気にもせず、
人の注意を引いて活動しようなどとは思わなかった。
駱賓王の「討武照檄」はあの「入宮見嫉、蛾眉人に譲るを肯んぜず、袖で蔽って、
たくみに無実の人を陥れ、こびへつらって主を惑わす」という数句は、
きっと大変苦心して書いたものだが、則天武后はここまで読んできて、
微笑んだにすぎぬ、と伝わる。
そうだ、こんなことを書いてみて、それがまたどうだというのか?
罪状を並べ討伐せよとのいくら書いても、その力は顔を寄せ、
耳近くで話す密語に及ばぬ。
一つは分かり切ったことであり、方やとても推測できぬことだから。
 当時駱賓王が群衆の前に立ったとき、只眉をしかめ、頭を揺らし、
「極悪人、極悪人だ」と連呼するのみで、極悪の実例を示せず、
その効果は文章上でしかなかったと思う。
[狂飆の文豪」高長虹(魯迅に一度接近したが、後に攻撃を始めた:出版社)が、
私を攻撃した時に使ったのは、悪い行跡が山のようにある、だったが、
本当に発表したら、身は滅び名も失っただろう。
最終的には発表せず、捏造そのものだった:だが結局は大した効力もないので、
それとともに模糊とした状態となった。
 この二つの例から、治国平天下の方法が分かる。人に告げる時には、
方法があるということを示し、それが本当にどういう方法かは明らかにしてはならない。
口に出すと言葉になり、言葉があるなら、実行と対照できるから、
これを示すには不測を以てするに如かず。
不測の威力は人を委縮させ、不測の妙法は人に希望を与え――
飢饉の時の病気、戦時に詩をつくり、治国平天下とは関係ないようだが、
訳も分からない中でも、却って人々に、
もしや治国平天下の妙法があるのではと思わせ――
しかしながらその「弊」でもあり、
逆に例によって、模糊とした状態の中に疑心しながらも妙法があると思わせ、
実は何の方法はないのだが。
 捏造には技があり、効力もあるが、限界がある。
だから古来これで大事を成したものはいない。
                  11月22日

役者雑感:
 本編は分かり難い。捏造とかでっち上げ、人に隠れて何か悪事を働く。
奇岩怪石が大好きな中国人のもう一つ好きなのはこうしたことだ、
というのが魯迅の意見。
よく考えてみればすぐばれてしまう様な捏造、でっち上げを見世物として
サーカス小屋のようなテントの中で金を取って見世物にする。
そんなテレビ番組が過去には沢山あった。
最近は「そんな馬鹿なあ…」という人が増え、あまり放映しなくなった。
 ところが、昨年11月に重慶の高級幹部しか使えないリゾートホテルの一室で、
英国人が死んだ。本人は酒を飲まないということを、
長年のつきあいから知っていたはずなのに、
死因はアルコールの飲み過ぎということで、検死もせずにすぐ遺体を焼いたという。
もう少しばれないような注意を払えば、こんな展開にはならなかったかもしれない。
その点が、魯迅の指摘するとおり、こうした捏造で大事を成したものはいない、
との結論を導き出す。
古来そうであり、21世紀の今も天網恢恢疎にして漏らさずだ。
     2012/04/24訳
 


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作文の秘訣

作文の秘訣
 今もまだ手紙で作文の秘訣を教えてくれという人がいる。
よく聞く話だが:拳法の師は弟子に対して、最後の一手は教えない。
全て教えたら、最後は自分が殺され、彼が英雄になるのが怖いからだ。
実際こうしたことが無いとは言えず、逢蒙が羿(ゲイ)を殺した前例がある。
逢蒙のことは遠い昔だが、こうした古い気風は無くなっていない。
後に「状元狂」が加わった。
科挙が廃されて久しいが、今も何が何でも「一番」「最優秀」を狙う者がいる。
「状元狂」に会ったら、教師は危ない。
武術を教え終わると、往往、打倒されてしまう。
新しい拳術師は弟子に教える時、自分の師を鑑とし、最後の一手は教えないし、
三手四手も教えないから、拳術は「代ごとに技両が落ちる」 。
医者になるにもまた秘方があり、料理人にも秘法があり、
点心(飲茶の小料理)の店を開くにも秘伝がある。自家の衣食を保全するためで、
これは嫁にだけは授けるが、
女児には教えない。他家に伝わるのを防ぐための由。
「秘」は中国では普遍的で、国家大事の会議すら「内容は極秘」だという事を皆知らぬ。

だが、作文はどうも秘訣が無いようで、もしあるのなら、作家はきっと子孫に伝える。
だが祖伝の作家はとても少ない。
 もちろん作家の子供たちは小さい頃から本と紙筆になじんでいて、
目も比較的肥えているが、文章がうまいとは限らぬ。
 今の雑誌によく「親子作家」「夫婦作家」の名がでるが、
遺嘱や情書(ラブレター)で本当に何か秘訣のようなものを秘伝できるというが、
実はやはり軽佻浮薄なことを面白がっているだけで、
妄りに役人になった関係を作文に使っているわけだ。
 では作文はほんとうに秘訣が無いかというと、そうでもない。

かつて古文を書く秘訣を書いたことがあり、篇を通じてすべて来歴があるわけだが、
古人の成文(出来上がった文)ではいけない:即ち篇を通じてみな自分が書くのだが、
又全て自分の書いたものではいけないし、
個人としては実際には何も説いてはいけない:
即ち、「事は因ありて、出る」のであり、又「調べたが確証はない」のである。
このようにして、「願わくは大過を免れるように」云々となる。
簡単に言えば、実際は「今日はお天気も…、ははは…」と書くにすぎぬ。

 以上は内容についてだが、修辞については少し秘訣があり:
一つは朦朧。二に難解。
その方法は:句を短くし、難しい字を多用する。
例、秦朝について、「秦の始皇帝が本を焼き始めた」と書くと、良い文章にはならない。
必ず翻訳せねばならぬ。簡単に一目瞭然、とはさせぬが良い。
この時「尓雅」「文選」を使うべしで、人に知られぬように「康煕字典」を引くのもいい。
 書きだしを「始皇帝焚書を始め」とすると「古」めかしくなり、もっと古めかしく、
「政俶燔典」<政=始皇帝、典を燔(焼)き俶(始め)る>とすれば、
班固司馬遷の気風だ。

そうすると、見ただけでは分かりづらいが、こういう風に一篇、一冊をものにすると、
「学者」と称せられる。だが、私は長い間考えてやっと一句しかできぬから、
雑誌に投稿するしかない。
 古の文学大師はよくこの手を弄した。
班固先生の「紫色鼃声、余分閏位」<「漢書」「王莽伝」の王莽の簒奪を指す:出版社注>
は四句の長い句を八字に縮め:揚雄先生の「蠢迪検柙」<君子の挙動は規則に則る:
出版社注>は、「動は規矩に由る」の四字になる。
 普通の字を難しい字に訳したものだ。
「緑野仙踪」は塾の師匠が「花」を詠じたのを記したもので、その句:
「媳釵…(割愛)」は自らその意を説明し、息子の嫁が花を折って来て釵(かんざし)にし、麗しいが、その為に息子が読書を廃してしまうのが心配で:
下の聯は、解説が必要で、彼の兄が花を折ったが、花瓶が無いので、
瓦の甕にさし、香りを聞いた。
だが、彼の嫂(兄嫁)はそれをやめさせようとして棒で甕と花を壊した。
これなどは冬烘先生に対する嘲笑だ。
 しかし彼の作法は実際には揚(雄)班(固)とはまったく合わないのではない。
間違いは古典を使わずに、新典を使ったことだ。この所謂「間違い」は「文選」の類が、
遺老や遺された若旦那衆の心眼中に威霊を保持し続けているためだ。
 朦朧にするのは、「良い」といえるか?答えは:すべてそうとも言えぬ。
実は醜いことを隠すにすぎない。
「恥を知るのは勇に近い」と言うごとく、醜さを隠すのも良いに近い。
モダンガールが前髪を垂らし、中年婦人が紗を被るのはみな朦朧術だ。
人類学者は衣服の起源に三つの解釈を与え:
一つは、男女の性の羞恥心からこれで羞を蔽う:
一つは逆にこれで刺激する為に使う:
もう一つは老弱男女が身体が衰えたとき、醜さを露出せぬ為、何かをまとい、
醜さを蔽う為という。修辞学の立場から最後の説に賛成する。
今まだ四六駢儷体があり、儀式には立派な祭文、挽聯、宣言、公電などがあるが、
いまもし字典を引き、類書をめくり、外面の装飾を剥がして、口語文に翻訳すると、
最終的にどんなことになるのだろうか?
 分からぬのも勿論いいのだ。良いというのはどこか?
即ち「分からぬ」中に良さがある。
だが考慮せねばならぬのは、その良さを人が良い悪いと言えぬくらいにせねばならない。
だから「分かり難い」に如かずである:
少し分かって、更に苦心を重ねると、だんだん分かりかけてくる。
これまで「難解」を有難がるクセがあり、毎回3杯の飯を食すを奇とはせぬが、
毎回18杯も食したら必ずそれは記される:
手で針に糸を通しても誰も見向きもせぬが、足でやると、
テント張りで見世物にして稼げる:
一枚の画は平凡で何の奇もないのでも、立派な箱に入れ、洞を穿って、
西洋鏡に仕立てると、人々はポカンと口を開け、熱心に見ようとする。
況や、同じことでも、苦心して目的を達したことは、
何の苦労もせずに得られたことより貴い。
例をあげれば、どこかの廟に焼香に詣でるにも、山上に登る方が、平地より貴い:
三歩進むごとに、一拝しながら、やっとたどり着いた廟と、駕籠に乗って着いた廟とでは、
同じ廟でも到達者の心理的尊さは雲泥の差がある。
作文の尊さも、分かり難さにあり、即ち読者を三歩ごとに一拝させ、
やっと一つの目的に到達できたと思わせる妙法だ。
 ここまで書いてきて、講じて来たのはただ古文を書く秘訣だけではなく、
人を騙る古文を書く秘訣となったようだ。

思うに、口語文も何の違いも無い。それも珍奇な言葉を入れ、
朦朧と難解を加え、手品師の目隠し用ハンカチを引っぱりだすのだ。
その反対をやろうとすれば、それは「白描」(線描、明白に叙述する)だ。
 「白描」には何の秘訣も無い。もしあるとするなら、それは目隠しの反調だ。
真意があり、装飾を取り去り、作為を少なくして、知識をひけらかす勿れ、のみ。
           11月10日

訳者雑感:
 魯迅は兄弟が有名な作家であった。
日本でも兄弟姉妹が作家とかという例はある。
親子代々役者とか音楽家というのは多いが、作家は多くない。
和歌、俳句などの世界は結構多い。作文の秘訣は祖伝が難しいが、
演劇や俳句などは祖伝しやすいのかも知れない。
それで生計を立てて来たというのが背景にあろう。
小説では代代師匠として祖伝できるような素地も無いし、
そこへ弟子入りする人も無い。

 本編で、魯迅は筆の勢いか、古文を沢山引用して、
それの解説もしてくれているが、
要するに、朦朧と難解という4字で以て、
文章を庶民の手の届かぬところまで持ち上げてしまい、
弟子には最後の一手を伝授せぬから、代代技両が低下したし、
その目的がどうも人を騙る方に「劣化」してきたため、
中国の近代化の大きな障碍になった、という点に
彼の論点・主張が感じられる。
 最後の一句、知識をひけらかす勿れ。
 これは読者が鼻じらむからだろう。
しかし、本編にも彼の古文耽溺の氷山の海面上の一角がたくさん出ている。
       2012/04/21訳

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「木刻創作法」序

「木刻創作法」序
 古今東西、木刻の図版は、画は画く人、刻は彫る人、刷は刷る人が携わってきた。
世界では中国がいちばん早かったが、例にもれず、久しく衰退してきた:
清光緒年間に、英人Fryer氏が「格致匯編」を編集し、挿絵は中国の画工は彫れず、
精密なものは英国に運んで図版にせねばならなかった。
それが即ち所謂「木口木刻」(木材の横断面に彫る)で、インド人向けの英語の本に編集した物や、後に中国人向けの英語の本の挿絵と同じだ。
当時子供だった私はこうした絵を見て、
その精巧さと生き生きとした魅力に震えあがり、宝物として大切にした。
この数年、西洋では画家が自分で版画を彫るということを知り、
即ち原画を木刻するのを、「創作木刻」といい、芸術家の直接の創作で、
彫り師と印刷者の手は一切借りない。
今、紹介するのがこれだ。
 なぜ紹介するか?
私個人として面白いからである。面白いというとふまじめに聞こえるが、
大変長い間、本や字を書いてきたから、誰しも少し目を休め、
しばし窓外の空を眺めたくもなろう。
壁に一幅の画があればもっと良い。
 名画を買える人はそんな必要は無いが、さもなければ、複製縮小したものは、
実際として原版の木刻にはるか及ばない。版画はリアルさを失わず、お金も節約できる。
 勿論、多分ある人は「“今の雅”で立国しようとして」も、“古雅”に比べるならば、
“古”と“今”を区別しているのではないかと批判するだろう。
(これは論敵が、“古”と“今”で魯迅を攻撃したのに対する皮肉;出版社注)
 第二、簡便さ。今何でも高い。画学生が何か画こうとすると、
画布、顔料に大金を投じ:
絵ができても展覧する方法が無いし、自分で眺めるしかない。
木刻はさしてお金がかからず、数本の彫刻刀で彫れば
――実はそんなに簡単ではないが――刻印する人がやるように創作できる。
作者も創作の喜びを得られる。刷れたら同じ作品を人に分けられる。
多くの人が創作の喜びを得る。要するに、他に比べて普遍性がとても大きい。
 第三、有用。これは「面白い」と矛盾するが、必ずしもそうではない。
何が面白いかを見てみよう。麻雀を打ってもそれで生計を立てるのは難しいが:
火薬で花火を上げて玩ぶのは、それを推し進めて行けば、銃砲を作れるようになる。
大砲はやはり実用的にちがいないが、アンドレーエフは金ができたら、
それを自分の庭に置いて玩んだりした。
木刻はもとはプチブルの芸術だったが、雑誌に載り、文学や科学書の挿絵になると、
みんなの物になった。これ以上はもう言うまでも無かろう。
 現代中国によく適した芸術だ。
だがこれまで、木刻を講じた本は一冊も無く、これが最初。
少し簡略だが、大意は読者に伝わるだろう。これからの発展は前途洋洋である。
テーマは豊富で、技術も熟達し、新しい方法を採用し、中国の昔の長所を加え、
新たな道を切り開く望みもある。
その時製作者は各自の本領と心得で貢献したなら、中国の木刻界は耀いてくる。
本書はその為の一粒の星星(ちいさな)火となるに過ぎぬが、歴史的意義は大きい。
     33年11月9日 魯迅記

訳者雑感:
 魯迅が触れている上海に設立された格致書院と英国人フライヤーが、
中国の近代化に果たした役割は大変大きい。
太平天国で南京、上海あたりがめちゃくちゃに荒れた後、
英語による教育を推進したことで、洋務運動への道が開かれた。
 魯迅が上海から数百キロも離れた紹興で、
子供のころにフライヤーがイギリスで印刷した木版挿絵の入った本を手にして、
宝物のように大切にしたと。
彼は1881年生まれだから90年前後には、そんな所までも浸透していたと分かる。
英国は植民地とか租界の支配に、英語の書物による教化が、
最も有効だと認識していた。
今もそうだが、英本国ではとても高価な本も、旧英連邦だった所では、
その所得水準に合わせた価格体系で英語本の普及に務めている。
立派なものだ。
        2012/04/18訳





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版画の復刻を論ず

版画の復刻を論ず
 Masereel(ベルギーの画家)の連環画4種出版後、しばらくしたら新聞に様々な批評が出た。これまでの美術書出版で、かつて無いほどの盛況で、読書界の本書への注目度が
高いことが分かる。
 だが議論の要点は昨年と異なり:昨年は、連環画は美術と言えるかどうかだったが、
今はこの様な画の理解の難易度が話題となったことだ。
 出版界のスピードは、評論界ほど早くない。
だが、Masereelの版画の復刻版は、連環画が確かに美術であることを証明した。
現在の社会には様々な読者層があり、出版も当然いろいろである。
この4種は知識者層向けである。しかしなぜ多くの地方で理解が難しいのだろう?
同じ中国人とはいえ、これまで飛行機救国とか、「卵の落下」を見たことがあれば、図上でそういう物を見てもすぐ分かる。
だが、これまでこうした盛典を見たことの無い人には、凧やトンボにしか見えないだろう。
 自称「中国文芸年鑑社」、実は匿名の人たちが編集している「中国文芸年鑑」は、
その「鳥瞰」で、以前私が発表した「連環画弁護」は、連環画の芸術価値を蘇汶氏に訴えているが、「無意にドイツ版画のような芸術作品を中国に持ち込んでも、一般大衆は理解
できるだろうか、それは大衆芸術の問題として、過去を理解していないのではないか、
更にはこの種の答が大衆化の命題に、直接的意義は無い」としている。
これはほんとうに「中国文芸年鑑」を編集する選者でなければ、言えないお利口な言葉だ。
というのも私はもともと「ドイツ版画を中国に持ち込んで、一般大衆の理解が得られるか」という討論に加わっていないからだ:
 弁護したのは、ただ連環画は芸術になりうるという点だけで、青年美術生が曲説に迷うことなく、勇敢に創作に励めば、ゆくゆく大衆化した作品を生み出せるという点だけだ。
私が本当にあの編者の望むように「意図」して、ドイツ版画が中国の大衆芸術たりうるかどうか、などと言ったら、「低能」の類にされるだろう。
 だがきっとこう尋ねるだろう:「ドイツ版画のような芸術作品を中国に紹介して、
一般大衆が理解できるか?」
私は次のように答えられる:
立体派、未来派などの古怪な作品でなければ、たいてい少しは理解できると。
理解できるのは「中国文芸年鑑」のより多いし、「西湖十景」より少なくなることはない。
風俗習慣は被我異なり、当然訳のわからぬ点はあるが、人物とか建物、樹木だということは分かる。上海に来たことがある人なら、電灯、電車、工場も分かる。
より適しているのは、画かれたのが物語なら容易に通じる。かんたんに覚えられる。
 古(いにしえ)の雅人は、かつて婦女俗人は画を見て、これはどんな故事かと問うが、
そんなことを問うのは笑止千万だと言った。
中国の雅俗の差はここにあり:雅人は往往、彼が良いと思う画の内容については何も言わぬが、俗人は内容を問わずにはいられぬ。
この点から、連環画は俗人には良いが、「連環画弁護」でそれを芸術だと証明したから、
雅人の高尚さを傷つけたようだ。
 しかし知識者向けだけにMesereelの作品を紹介するのは不十分だと思う。
同じ木版でも刻法も異なり、思想もことなる。文字付と文字なしがあり、何種かを出して初めて、現代の外国の連環画の概況を窺うことができる。
木版出版は本物に近いものが作りやすく、観る者にも有益である。
常々思うのは、最も不幸なのは中国の青年芸術生で、
外国文学を学ぶのは原書を読めるが、西洋画を学ぶに、原画を見られぬ点で、
復刻もあるが、大きな壁画を葉書大にしたら、
果たして実相を見いだせるだろうか?
大きさも関係があり、象を豚のサイズに縮小し、虎を鼠の如く小さくしたら、本物の気魄を感じることができるだろうか?
木版は小品が多いから、復刻しても大きく乖離することは無い。
 だがこれも僅かな一般知識者の読者層に紹介しただけで、美術生の為を思うなら、
亜鉛版の復刻では不十分だ。細い線は亜鉛版ではよく消えてしまい、
太い線も強水の浸食時間の長さによって違ってき、短いと太すぎ、
長いと細すぎてしまう。
中国にはまだ熟練の名工がとても少ない。
真面目な話、硝子版を使うしか無く、私が復刻した「セメントの図」250冊は、中国ではじめての試験だった。
施蟄存氏が「大晩報」副刊の「火炬」で:
「それが魯迅氏のコロタイプ版木刻のように個人出版の精装本で、稀覯本かどうか、
はっきりしない」というのは、このことを嘲笑うものである。
私自らこの青年がこの「稀覯本」というのを聞いたし、只250冊出したというのは、
人を欺むくもので、きっともっと沢山印刷したが、余り多いと報酬が少ないから、
値をつりあげようと考えたに過ぎぬ、と書いている。
 我々自身、「個人で精装本」をというおかしなことをしたことも無く、こうした笑罵は、
怪しむに足りぬ。
私はただ美術学生にしっかりした復刻を供したいがために、原画から硝子版を作ったが、この製版を使っては300しか作れず、多く刷るには別に製版せねばならない。
一回一枚からせいぜい300枚しかできず、印刷費は3元で、300以上600枚まで6元、
900枚だと9元で、その他に紙代がかかる。
大書店や大官庁なら1万2千冊も容易だが、私は一「個人」に過ぎぬし:
売れ筋でもなく、「精装本」だから財力に制限あり、一版を出せるだけである。
幸いにも印本は完了し、他に読みたい人がいるのを知り:
一般読者向けに亜鉛版で復刻し、
「セメント」翻訳版にさし込んだが、編集者兼批評家は何も言わない。
 人はいい加減になると青年の指導をもいい加減にしてしまう。
わずか10枚ほどの図の印刷を、真剣に何度も考える人もいるが、
自らは何も口をださない。今回私がこれを書いたのは、青年美術生たちに、
コロタイプ版では300部しか刷れぬこと、それは製版の関係上、当然のことだということを説明し、故意に「稀覯本」にしようなどとしてない事と、より多くの好事の「個人」が無責任な話しに欺かれぬようにして、皆が「精装本」を作ることを望む。
      11月6日
訳者雑感:
 魯迅の版画に対する熱情が伝わる文章である。
子供のころから中国伝統の線画による、
登場人物や風景の挿絵を何枚も書き写して、一冊の本にするほどだったという。
そうした挿絵が連環画となって中国の一般大衆と子供たちに広まっていった。
 私も1960-70年代の中国各地で、葉書きの半分くらいの大きさで、50ページ前後の、
連環画を沢山買って読んだ。登場人物の口から日本の漫画のような吹き出しは無い。
四角い画の下に地の文と会話が別にあったのは、きっと絵は絵だけで造り、
文字は文字と分業したものだろうか?
 今では日本のアニメの影響で、トトロとかコナンの翻訳版が街にあふれている。
温首相の孫も殆どの日本アニメを知っているとのコメントもあった。
最近は所謂テレビのゴールデンアワーに外国アニメを禁じたそうだが、
それほど人気がでたのだろう。
       2012/04/16訳

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プロメテウスが人類の為に火を偸んだのは天の掟を破ったとして地獄に落とされた。
が、木をこすって火を得た燧人氏は窃盗罪に問われることなく、神聖な私有財産を破壊もしなかった――当時、木は所有主のない公有物だったから。
 しかし燧人氏は忘れ去られた。今中国人は、火神菩薩は祭るが、燧人氏は祭らない。
火神菩薩は火事を管轄するが、点灯は関知しない。火を燃やすのが彼の領分である。
その為、人は彼を祭り、彼ができるだけ悪いことをしないようにとお願いする。
だが、彼が悪いことをしなくなったら祭られるかどうか? どう思いますかあなた?
 灯をともすのは平凡なこと。古来灯をともすことで有名になった人はいない。
人類は燧人から点灯を学んでから5-6千年たったが、火事はそれとは全く違う。
秦の始皇帝は火を放って――書を焼いたが、人間は焼かなかった。
項羽は入関後、放火し、焼いたのは阿房宮で、民家ではない(?要調査)。…ローマの某帝は放火して人民を焼いた。
中世の正教僧侶は異教徒を柴のように焼いた。更に油をかけたりした。
彼らは一世の雄で、現代のヒットラーは生き証人だ。祭らずに済ますわけにはゆかない。
まして今は進化の時代ゆえ、火神菩薩も代々先祖を乗越え進化してきたのだから。
 例えば、電灯の無い所で、民は国産品愛用年とかいってはいられない。
外国の石油を買って、夜には灯をともす:幽暗な橙色の明かりが紙窓に映る。
なんとケチなことをするのだ!
ダメだ。そんな点灯は許さぬ!
光明が欲しいなら、そんな「浪費」は禁じねばならぬ。
石油は田に運んで、ポンプホースでジャブジャブ噴いて、…大火となって、数十里を
延焼させ、稲、樹木、農家――特に藁葺小屋――を瞬時に灰にして空に舞わせる。
 それでもまだ不十分で、焼夷弾、硫黄弾を飛行機から投下し、上海(事変)の1.28の
時の大火の様に何日も幾晩も燃え続ける。それこそ偉大な光明である。
火神菩薩の威風はかくのごときだ。だがそう言うと、彼はそれを認めない:聞く所では、
火神菩薩は元来、民の保佑が本分で、火事が起こるのは民が不注意から起こるのだとして、或いは悪い事をして、放火掠奪を咎める立場にある由。
 誰がそんなことを知ろうか?歴代放火の名人は総じてこういうが、人がそれを信じるとは限らぬ。
 点灯は只平凡なことで、放火は雄壮だと思うから、点灯するとすぐ禁じられ、放火は祭られる。
(上海に来たドイツの)Hagenbeckサーカス団を見ればわかる:
耕牛を宰いて虎に食らわす。それが近来の「時代精神」なのだ。
                                11月2日
訳者雑感:
京都愛宕神社は火を司る神様で、ここにお参りせぬと火事が起こるという。
特に7月末と年末は夜通し歩いて山頂にある神社に詣でて、あり難い御札を貰いに参詣する。各町内では行けない人の為に、代表が取りまとめて沢山のお札を貰って下山する。
お伊勢さんには年一度だが、愛宕さんには月参りともいう。
だが、木造家屋のしっぴする京の町家は年中どこかで失火し火事となる。
火事を出した家は、翌年ここに詣でて、二度と火事を起こさないようにしますから
とお詫びし、また新しい御札を貰って下山する。
本来ここにお参りするのは火事を出さないように守って欲しいという願いからだが、火事を起こしてしまったのは、自分たちの不注意からであって、愛宕神社の神様のせいではない、とお詫びに参上せねば、今年もまた火事になって大変なことになる、と怖れるのだ。

 魯迅の指摘する通り、民は放火や火災を司る火神菩薩を大事に祭らねばならぬ。
皇帝とか火の神とか、自分に危害を与える神は、しっかり祭らないと大変なことになることを良く分かっている。それはそうさせることで民を支配してきた神々の智恵であろう。
       2012/04/09訳

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女性解放について

女性解放について
 孔子曰:
「唯女子と小人は養い難し、之を近づければ則不遜、之を遠ざければ則怨む」
女子と小人を一緒にしているが、彼の母親を含むか否か知らない。
後に道学の先生は、母に対しては表面的には必ず敬って大切にしたと言える。
そうではあるが、中国で母となる女性は自分の息子以外の男の軽蔑をまだ受けている。
 辛亥革命後、参政権で有名な沈佩貞女士は、議院の門衛を蹴り倒したという。
だがそれは彼が自分で転んだのではないかと思う。
我々男が蹴ったりしたら、彼はきっと反撃して蹴り返してくるに違いない。
これは女の得な点だ。まだ他にもある。今奥方たちは金持ちの男と並んで立って、港や式場で写真を撮る:
或いは船や飛行機の進水式や処女飛行式で前に出てシャンペンを割る。
(これは小姐でなければならぬという説もあり、詳しく知らぬが)
これも女の得な点。この外、いろいろな新職業で、只給料が低く、よく言いつけを聞くからとして工場が好んで雇用する女工を除いて、他の場合は大抵、
女であるというだけで良いから、一面では「花瓶」と言われる。
 別の面では「接待するのは全員女性」という光栄な広告もよく見る。
男はこのような突拍子もないような出世をしようにも、男だというだけではダメである。
イヌにでも変じないと無理である。
 これは五四運動後、女性解放を提唱して以来の成果だ。
しかし職業婦人の苦痛の呻(うめき)もよく耳にする。
評論家の新しい女性に対する嘲笑だ。
彼女たちは閨房から社会に出たが、実はまたみんなに玩笑と、
論議のネタになってしまった。
 
 彼女たちは社会に出たとはいえ、やはり他の人に「養」われている為だ:
他の人に「養」ってもらおうとすると、他人の文句も聞かねばならず、
侮辱すら受けねばならぬ。
孔夫子の文句をみれば、彼が「養」い難し、「近づけても、遠ざけても、どうも
具合がよくないと知る。これも今の男、大丈夫たちの一般的嘆息だ。
また女の一般的な苦痛である。「養」と「扶養」の境界を消滅させるまでは、
この嘆息と苦痛は永遠に消えない。
 これは改革のできていない社会では、すべての新しいことがらは、
すべて単に看板に過ぎず、実際は以前と何ら変わっていない。
籠から取り出した小鳥を竿の上に乗せると、地位は変わった様に見えるが、
実は単に人間の玩意に供されているに過ぎず、飲食も人の命令に従うしかない。
俗語に言う:一飯を受ければ、その言いつけを聞く、というのがそれだ。
だから、全女性が男と同等の経済力を持たねば、耳障りの良い名目はみな、
空言となる。
 もちろん、生理上心理上、男女に差があり:同じ性でもそれぞれ差があるが、
地位は同等であるべきだ。地位を同等にしてはじめて真の女子と男子が生まれ、
嘆息と苦痛が消える。
 真の解放の前は、戦である。
しかし女が男と同じように鉄砲を持つべしとか、自分の子供に授乳すべしとか、
男子にもその一半を負担させよとか言っているのではない。
 ただ、目下の暫定的な位置に安住していてはダメで、
不断に思想と経済などの解放の為に戦うべきだと思う。
社会を解放したら、自己も解放できる。
だがもちろん単に従来からの女性だけの桎梏のために闘争することも必要だ、
 私は女性問題を研究していないので、何か書けと言われても、
これくらいの空言しかない。
   10月21日

訳者雑感:
 女子と小人は養い難しの小人という2文字は日本語では大人と小人と書くと、
入場料の掲示などで子供の意味になるので、女性と子供は養い難い、と誤解していた。
近づければ不遜、遠ざければ怨む。と続くとどうやら子供ではないとなる。
子供は不遜な態度は取らないだろう。怨むことはあるかもしれぬが。
改めて新華辞典をひくと、古代身分が卑しいものを指した。それが自称になった。
また、人格が低くて卑しい者を指し、無恥な小人などと言う、云々。
 こう見て来ると、小人といっしょにされた女子は大変面白くないことになる。
しかし自分の母親以外の女性を尊敬するとか大切にするという気持ちは、
古来中国には無かったのかもしれない。
 美女や烈女とか貞節なとか女性を称える形容詞はたくさんあるが、
儒教の影響の強かった時代は、男女平等とか男女同権という発想すら出てこなかった。
魯迅は本文をどこかの新聞か雑誌に発表したものかどうか未詳だと注にある。
女性問題を研究したことがない、というが、やはり女性解放の為にも、
社会そのものを解放せねばならぬと説く。桎梏からの解放である。
あれもダメ、これもダメという封建社会からの桎梏を取っ払わねば、
中国人は救われぬ、と。
        2012/04/07訳

 

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謡言世家(デマの名門)

謡言世家(デマの名門)
 双十節(10月10日の民国建国記念日)に、著名な文学者湯増(易+攵)氏が
「時事新報」に、光復時の杭州の故事を紹介してくれた。
 当時の杭州は、たくさんの駐屯旗人(満州政府の)を殺した。
見分ける方法として旗人は「九」を「鈎」(gou)と発音するので、
999と言わせれば、すぐ馬脚を露わすので、
一刀のもとに斬首した、と。
 これはすごい武勇談の趣だが、惜しいかなデマである。
 中国人の中では杭州人は文弱な方に属す。
銭大王の治世時、人民は衣服をはぎ取られ、只一枚の土器で下部を蔽ったほどで、更に追加の納税まで強いられ、叩かれた小鹿のようにか細く鳴く外は何ら抵抗しなかった。
だがこれも宋代の記述で、デマか本当か判然しない。
但し、宋明の末代皇帝が没落した金持ちたちを引き連れ、
消沈して陸続と杭州に逃れて来たのも事実であり、息も絶え絶えで、剛毅の気魄を持てといってもたやすいことではない。
 今も西湖あたりは多くはもったいぶった雅人が住んでおり:
ヤクザの出入りすら浙東地区のような「切った張った」は少ない。
もちろん軍閥が後ろ盾なら、格別に向う見ずになるが、
当時は実際には敢えて人を殺そうとする雰囲気にはなかった。
人殺しを楽しむような連中もいなかった。
我々はただ、老成して慎重な湯蟄仙氏が都督(長官)になったので、
流血騒ぎにはならないと考えていた。
 しかし戦はあった。
革命軍は旗営を取り囲み、発砲して進入、中でも時に戦になった。
だが包囲も厳しくなく、私の良く知る男は、昼は外に出て歩きまわり、
夜は一人で旗営に寝に帰った。
 そうではあったが、駐屯軍は遂に撃滅され、旗人も降服し、
家屋敷も公のものにされたが、殺戮は無かった。
食いぶちは無くなり、各人は自ら生計を立てた。
初めはまだましだったが、後には大変なことになった。
 どんなに大変か? それはデマが飛んだからだ。
 杭州の旗人はそれまで西湖辺に自適していて、優雅でいい暮らしをしていたが、
食いぶちが無くなると、商売をするしかない。餅菓子を売る者、惣菜を売る者もいた。
杭州人はやさしくて蔑視もせず、商売もそこそこだった。
 だが祖伝のデマが旗人の売っている物に毒があると言いだした。
そうなると漢人は、避けて近づかなくなり、
旗人が自分たちを毒で殺すのではと心配しただけで、
自分たちから旗人たちを害そうとはしなかった。
 結果、彼らの餅菓子と惣菜の商売はできなくなり、
路傍で毒の入れようの無い家具を売る他なくなった。
家具を売り終えると、他の道は途絶え、完敗となった。
これが杭州駐屯旗人の終焉だった。

 笑みの中に刀あり。
平和を愛すると自称する人民も、血を見ずに人を殺せる武器を持っている。
それはデマだ。
一面では人を害するが、もう一面で己も害す。互いに訳のわからないことになる。
古い時代のことは言うまでも無い。
この50年来、日清戦争で負けたのは李鴻章のせいだという。
彼の息子が日本の天皇の駙馬(昔皇帝の娘婿になって出世した者を指す、副馬)
だとして小半世紀罵った。
(実際は李鴻章の甥が駐日大使で日本女性を妾にしたのだが:出版社)。
義和団の時にまた、毛唐は目玉をくりぬいて薬を作ると言って、大量に乱殺した。
 毒を入れるというのは辛亥光復の際の杭州に起こり、最近の排日運動で復活した。
デマのたびに、決まって誰かがその毒を入れた敵の回し者と誣告され、訳も無く殺された。
 デマの名門の子弟は、デマで人を殺すが、デマで殺されもする。
 数字の発音で漢満を見分ける方法は、私が杭州にいた時、
湖北の荊州で始まった由。
それは彼らに1234と言わせ、「6」の時に「上声」で発音したら、即殺したという。
ただし杭州は荊州からかなり遠いのでこれもデマかも知れぬ。
 私も時にそれがデマか本当かあまりはっきり分からない。
        10月13日

訳者雑感:
原題、謡言世家をデマの名門としたが、意味する所は中国全体がデマのメッカと言うこと。
「史記」の「世家」は皇帝ではないが、世の中に大きな影響を与えた「人物とその一族」
を「世家」として取りあげている。
 21世紀の中国もその祖伝を受け継ぎ、
ブログなどによってあっというまにデマが広がる。
重慶の薄書記の解任に際しても、膨大な数のデマが飛んだ。
本当の事が含まれているので、それが本当かどうか見分けるには、
歴史的な時間が必要だ。
大連時代の取り巻き、大連実徳のトップが逮捕されたとか。
90年代の大連時代から懇意だった英国人二―ル・ヘイウッド(41)が重慶のホテルで死んだのは、酒の飲み過ぎとされているが、彼は酒を飲まない男で、実は彼と薄書記夫人との間にビジネス問題でトラブルが起こったために毒を盛られたとか。
右腕だった王公安局長と彼の前任の文局長の息のかかった手下たちとの「出入り」が発端だとか、いろいろある。
 解任発表の前日に温首相が「それまでの重慶の為政者はよくやってきたのに、今の体制は、文化大革命の再来のような事件を招いたので、しっかり反省せねばならぬ」との公式発言によって、一気に「デマの名門」たちも勢いづいたように思える。
 「水に落ちたイヌは打つべからす」と「徹底的に打て」とのいずれかをとるとすれば、
「徹底的に打て」というのが祖伝の技であろうか。


上述の李鴻章の話しなども、罵るときにはよってたかって「悪口」を言いだす。
だから小半世紀も罵られてきたのだが、最近中国の書店には何種類もの「李鴻章」の本が出版され、落日の清帝国を懸命に支えた男として、見直されてもいる。
勿論莫大な賄賂を手にして、悪いこともしたと譴責されているが、
強い軍隊を構築するためとの説も添えられている。外国からの武器購入時に多額の賄賂を取ったが、それは北洋軍を強化するための資金造りだった、という。
トップに登りつめるためには、手元に自由に使える膨大な軍資金が必要である。
金の無い人間は、いかに清潔でも実力が伴わない。だれもついてこない。
 中国での歴史評価は実に困難なことである。
   2012/04/05訳

 






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