火
プロメテウスが人類の為に火を偸んだのは天の掟を破ったとして地獄に落とされた。
が、木をこすって火を得た燧人氏は窃盗罪に問われることなく、神聖な私有財産を破壊もしなかった――当時、木は所有主のない公有物だったから。
しかし燧人氏は忘れ去られた。今中国人は、火神菩薩は祭るが、燧人氏は祭らない。
火神菩薩は火事を管轄するが、点灯は関知しない。火を燃やすのが彼の領分である。
その為、人は彼を祭り、彼ができるだけ悪いことをしないようにとお願いする。
だが、彼が悪いことをしなくなったら祭られるかどうか? どう思いますかあなた?
灯をともすのは平凡なこと。古来灯をともすことで有名になった人はいない。
人類は燧人から点灯を学んでから5-6千年たったが、火事はそれとは全く違う。
秦の始皇帝は火を放って――書を焼いたが、人間は焼かなかった。
項羽は入関後、放火し、焼いたのは阿房宮で、民家ではない(?要調査)。…ローマの某帝は放火して人民を焼いた。
中世の正教僧侶は異教徒を柴のように焼いた。更に油をかけたりした。
彼らは一世の雄で、現代のヒットラーは生き証人だ。祭らずに済ますわけにはゆかない。
まして今は進化の時代ゆえ、火神菩薩も代々先祖を乗越え進化してきたのだから。
例えば、電灯の無い所で、民は国産品愛用年とかいってはいられない。
外国の石油を買って、夜には灯をともす:幽暗な橙色の明かりが紙窓に映る。
なんとケチなことをするのだ!
ダメだ。そんな点灯は許さぬ!
光明が欲しいなら、そんな「浪費」は禁じねばならぬ。
石油は田に運んで、ポンプホースでジャブジャブ噴いて、…大火となって、数十里を
延焼させ、稲、樹木、農家――特に藁葺小屋――を瞬時に灰にして空に舞わせる。
それでもまだ不十分で、焼夷弾、硫黄弾を飛行機から投下し、上海(事変)の1.28の
時の大火の様に何日も幾晩も燃え続ける。それこそ偉大な光明である。
火神菩薩の威風はかくのごときだ。だがそう言うと、彼はそれを認めない:聞く所では、
火神菩薩は元来、民の保佑が本分で、火事が起こるのは民が不注意から起こるのだとして、或いは悪い事をして、放火掠奪を咎める立場にある由。
誰がそんなことを知ろうか?歴代放火の名人は総じてこういうが、人がそれを信じるとは限らぬ。
点灯は只平凡なことで、放火は雄壮だと思うから、点灯するとすぐ禁じられ、放火は祭られる。
(上海に来たドイツの)Hagenbeckサーカス団を見ればわかる:
耕牛を宰いて虎に食らわす。それが近来の「時代精神」なのだ。
11月2日
訳者雑感:
京都愛宕神社は火を司る神様で、ここにお参りせぬと火事が起こるという。
特に7月末と年末は夜通し歩いて山頂にある神社に詣でて、あり難い御札を貰いに参詣する。各町内では行けない人の為に、代表が取りまとめて沢山のお札を貰って下山する。
お伊勢さんには年一度だが、愛宕さんには月参りともいう。
だが、木造家屋のしっぴする京の町家は年中どこかで失火し火事となる。
火事を出した家は、翌年ここに詣でて、二度と火事を起こさないようにしますから
とお詫びし、また新しい御札を貰って下山する。
本来ここにお参りするのは火事を出さないように守って欲しいという願いからだが、火事を起こしてしまったのは、自分たちの不注意からであって、愛宕神社の神様のせいではない、とお詫びに参上せねば、今年もまた火事になって大変なことになる、と怖れるのだ。
魯迅の指摘する通り、民は放火や火災を司る火神菩薩を大事に祭らねばならぬ。
皇帝とか火の神とか、自分に危害を与える神は、しっかり祭らないと大変なことになることを良く分かっている。それはそうさせることで民を支配してきた神々の智恵であろう。
2012/04/09訳
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