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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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1933年 夢の話を聞く


 夢は見る分には気ままなものだが、夢の話をするのはそうやさしくはない。夢を見るのは本当に見るのだが、夢の話をするのは嘘やごまかしを免れ難い。
 新年元旦に「東方雑誌」の新年特大号を見た。巻末に「新年の夢と題して「夢の中の未来の中国」と「個人生活」の問いに対して、140人余が答えている。編者の苦心は良く分かる。きっと言論が不自由なので夢を語るに如かずと考え、特に所謂本当の話という嘘は、夢の話の真実に如かずと考えたものだろう。楽しみにページを繰ったが編者氏の大失敗ということが分かった。
 この特大号を入手する前に、投稿者の一人に遭った。彼は私より先に本を見て、彼の回答が資本家の手で改ざんされたと言った。彼の語った夢は実は決して印刷されたようなものではないと。ここから資本家は人が夢をみるのを禁ずる手は無いが、口に出したら権力の及ぶ限り干渉し、自由にさせることは無い。この点は編者の大失敗だった。
 この夢の改ざんの件はしばらく置いておき、書かれた夢境を見てみると、誠に編者の言う通り、回答者はほとんどが知識分子だ。まず誰もが生活の不安定さを感じ、次に多くの人は将来の良い社会を夢見る。「各人その能力を尽くす」とか「大同世界」など、どうも
「脱線」気味である(末尾の3句は私が加えたもので、編者の言ではない)。
 然し彼は後にいささか「痴」(何かに憑かれたかのように)どこかから拾ってきた学説で、
百余の夢を大きく二つに分類し、良い社会を夢見るのは全て「道を載せる」夢で「異端」だとし、正宗の夢は「志を言う」べし、と硬直に「志」を空洞で空っぽなものにしている。
孔子曰く:「蓋しそれぞれがなぜ自分の志を言わぬのか」、そして曹点に賛成したのはその
「志」が孔子の「道」に合致したためだ。
 その実、編者のいう「道を載せる」夢も大変少ない。文は醒めてから書くので、問題も
「心理判定」に近く、ついには回答者が各自自分の目下の職業、地位、身分に適した夢を持ちださざるを得ず(既に改ざんされたのはこの例に非ずだが)たとえ見た目には如何にも「道を載せる」かのようでも、将来の良い社会を「宣伝」する意思は無い。だから「全員が食える」ようになることを夢見る人もおり、「無階級社会」を夢見る人もおり、「大同世界」を夢見る人もい、この様な社会を建設する前の階級闘争、白色テロ、爆撃、虐殺、鼻にカラシの液体注入、電気椅子…を夢見る人は少ない。もしそれらを夢で見なければ、良い社会が来ることは無いし、どんなに光明を書いてみても究極は単なる一個の夢で、空っぽの夢、言ってみれば人々をこの空虚な夢境に入りこませるのみだ。
 しかしこの「夢」境を実現ししようとする人たちがいて、彼らはそれを説くのではなく、
夢を実現しようとし、将来を夢見て、そういう将来を招来するために今現在努力している。
そういう事実があるからこそ、多くの知識分子は「道を載せる」ごとき夢を言わざるを得ぬのだが、実はそれは決して「道を載せる」のではなく、「道」に載せるもので、簡潔に言うなら、「道に載せる」である。
 どうして「道に載せる」ことができるか?曰く:現在と将来のメシの問題の為にのみだ。
 我々はまだ旧い思想の束縛を受けており、メシの問題を口にするのは卑俗な様に感じる。
だが我々の回答者諸公の考えを少しも軽視しようとするものではない。「東方雑誌」の編者は「読後感」でフロイドの考えを引き、「正宗の夢」は各人の心底の秘密を表しており、社会的作用は帯びていない」としている。だがフロイドは抑圧が夢の根底にあり――人はなぜ抑圧されるか?と考える。これは社会制度、習慣の類と連結しており、単に夢を見るのは構わないが、それで泣いたり、尋ねたり、分析したりし始めると穏当でなくなる。編者はこの段階まで考えが及ばず、この一撃で資本家の赤ペンにぶち当たった。が、「抑圧説」で解析すると、皆はもう逆らおうとは思わないだろう。
 フロイドは多分いくらかの金はあって、食べるのは困らなかったので、ただ性欲のみに注意した。多くの人は正に彼と同じ境遇ゆえ、どっと拍手をした。彼はこの様にも説いているのだが、女児の多くは父親を愛し、男児の多くは母親を愛すのは即ち異性の為だと。
然し、赤子は生まれてすぐ男女を問わず、口先をとがらせ、頭をくねらすのはまさか異性とキスしたい為だろうか?食べものを欲しがっている為だと誰もが知っている!食欲の根底にあるのは実に性欲よりずっと深く、今では口を開けば恋人よとか、口を閉じれば情書を書いても、何もいやらしいとは思わない世だから、メシのことを避けることもない。醒めている時に見る夢だから、本心でないことが混じるのは免れないし、テーマそのものが
「夢境」だし、編者のいう様に我々は「物質的需要が精神的追求より遥かに勝っている」
から、Censors(フロイドの言)の監督保護が解除されたらしいこの際に乗じ、一部公開しても良いようだ。その実「夢の中で標語を貼り、スローガンを叫ぶ」のも積極的でないだけで、ある者は却って表面的な「標語」とは正に相反しているかもしれぬ。
 時代はかくも変化し、メシにありつくのもかくも困難だから、現在と将来を思うと、ある人もただこの様な夢の話をするしかないが、同じプチブルとして(一部の人は私を「封建の残党」とか「土着の資産階級」というが、私自身は暫くこの階級に属すと定め)その点は互いによく理解できるし、何も秘すべきとか良くないというものでもない。
 この外、隠士とか漁師樵(きこり)になりたいと言う、本相は全く異なる名人たちも、
只メシの問題の脆さを予感しているだけで、メシの範囲を広げようとしているだけであり、
朝廷から園林まで、租界から山沢に及び、上記のそれらの志向より遠大なものにしようとしているのだが、ここではもうこの辺で止めておこう。
      1933年1月1日
訳者雑感:
 この当時の中国はまだ正月号の雑誌には「夢」を載せるだけの余裕があったようだ。それを書く人と読む人がいたわけだ。
 本当の事を書くとすぐ政府ににらまれて、監獄に放り込まれるから、夢に託して色々書こうとしたものか。
 「物質的需要が精神的追求より遥かに勝っている」というのがキーワードのようだ。
物質的需要とはつまるところメシの問題で、隠士とか漁師樵になりたいなどという夢を語るのは、まやかしで、彼らもほとんどは「メシの範囲」すなわち財産をたくさん蓄え、そのためにはありとあらゆる手管を使って、朝廷から園林まで、租界から山沢までも自分のものにせんとしているのだ。それが「発財」という元旦の中国人の口にする夢である。
    2012/01/08訳
      
 
 

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中露の文字の交わりを祝す

15年前まで西欧の所謂文明国から開化半ばと見られてきたロシアとその文学は世界の文壇で勝利:15年来帝国主義者が悪魔とみなしたソ連、その文学が、世界の文壇で勝利した。
ここで言う「勝利」とはその内容と技術の傑出していること、そして広範な読者を得て、
かつ読者に多くの有益なものを与えたことだ。
 中国もその例外ではない。
 かつて梁啓超が興した「時務報」で「ホームズ探偵」の変幻を見たし、「新小説」では、
ジュールベルヌの科学小説と称する「海底旅行」の類の新奇も見た。後に林琴南が英国の
Haggardの小説を翻訳し、我々はロンドン娘の纏綿さとアフリカの野蛮性の古怪を見た。しかしロシア文学については何も知らなかった。――数人の人は心の中では多分知っていたが、我々には何も告げぬ「先覚」者たちはいたかも知れぬが、それは勿論例外。だが、
別の面ではすでに感応していた。当時少し革命的な青年でロシアの青年が革命的で、暗殺の名手だということを知らない者がいたろうか?中でも忘れ得ぬのは、ソフィアで、彼女が美しい娘だったこともあるが、今も我国の作品にしばしば「ソフィ」の名が出てくるのはここに源がある。
 当時――19世紀――のロシア文学は特に、ドストエフスキーとトルストイの作品はすでにドイツ文学にも大きな影響を与えていたが、中国には余り関係がなく、当時ドイツ語を勉強する人がとても少なかった為、最も関係が深いのは英米帝国主義者で、一面ではドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、チェホフの選集を翻訳し、他方ではそれをインド人への読本とし、RamaとKrishnaの対話を通じて、我々の青年に教えたため、それらの選集を読もうとする可能性がでた。探偵、冒険家、英国娘、アフリカの野蛮な物語は、
ただ酔いしれて飽食するだけで、その後は満腹の体がむずがゆくなり、我らの青年の一部はプレッシャーを感じ、痛みを感じてあらがおうとし、かゆい所をさするようなことでなく、ひたすら切実な教示を探し求めた。
 ちょうどその時ロシア文学に触れた。
 そしてロシア文学が導師であり友達であることを知った。その中に被圧迫者の善良な魂、辛酸、あらがいを見:また40年代の作品とともに希望を燃やし、60年代の作品と共に悲哀を感じた。我々は大ロシア帝国も当時まさに中国を侵略しようとしているのを知らない訳は無かったが、文学面で大事なことを知っていた。それはこの世界に二種類の人間がいるということ:圧迫者と被圧迫者の!
 今やこのことは皆が知っているし、言うまでも無いが、当時は一大発見でまさに古人の火の発見が暗夜を照らし、食物も煮たことに劣らない。
 ロシアの作品は徐々に中国に紹介されて一部の読者の共鳴も得て広まった。小品はここでは触れないが、大部なものは「露国戯曲集」十部と「小説月報」増刊の「露国文学研究」の大作、更に「被圧迫民族文学号」二冊は露国文学の啓発によって範囲を全ての弱小民族に拡大し、「被圧迫」の文字を明らかに照らし始めた。
 そうしていると文人学士の討伐にあい、文学の「崇高」を主張する者は、下等人を描くのは、鄙俗なペテンだとし、ある者は、創作は処女、翻訳は結婚仲介婆に過ぎぬと言い、重訳などは全く気に入らないとした。確かに「露国戯曲集」以外、当時全てのロシア作品は殆ど重訳だった。
 しかしロシア文学は紹介され広まっていった。
 作家の名はよりたくさん知られるようになり、アンドレーエフの作品で恐怖に会い、アルツイバージェフの作品に絶望と荒唐を見たし、コロレンコから寛容さを学び、ゴルキー
から反抗を感受した。読者大衆の共鳴と熱愛はすでに数人の論客の自私的な曲説の掩蔽できぬところとなり、この偉大な力はついには、かつてマンスフィールドを崇めていた紳士をして、ツルゲーネフの「父と子」を重訳せしめ、「結婚仲介婆」と排斥した作家すらも、
トルストイの「戦争と平和」を重訳した。
 この間当然またも文人学士とゴロツキと警察のイヌの連合軍の討伐に遭った。紹介者に対して、ある者はルーブルの為と言い、ある者は(革命文学に)投降するものだと言い、
ある者はプロレタリア文学を「破鑼」(ポロの音、破れた銅鑼)と嘲笑い、ある者は「共産党」と指弾し、実際書籍発禁と没収は秘密裏に行われたのが多く、列挙するすべもない。
 しかしロシア文学はただただ紹介され広まっていった。
 ある人たちは「ムッソリーニ伝」や「ヒットラー伝」を訳したが、彼らは一冊たりとも
現代イタリアやドイツの白色(赤でない意)大作も紹介できなかった。「戦後」(レマルク)
はヒットラーのナチスの旗には属してないし、「死の勝利」も只「死」で以て自ら驕るのみだ。だがソ連文学は我々にはリベジンスキーの「一週間」、グラトコフの「セメント」、
ファジェーエフの「毀滅」、スラモヴィッチの「鉄の流れ」があり:これら以外に中編短編も多い。凡そこれらは御用文人の表立った非難や暗暗裏の攻撃を受けながらも読者大衆の懐に深く入ってゆき、一つ一つ変革、戦闘、建設の辛酸と成功を知らしめるようになった。
 ただ一月前、ソ連への「与論」について一瞬に変換し、昨夜の悪魔は今朝の良友と変じ、多くの新聞はソ連の良い点を幾つか取りあげ、時には当然ながら文芸にも及んだ:それは「復交」(国民党が32年12月12日にソ連と)したためだ。然し祝賀すべきはそこにはない。自己本位の者たちは、水に溺れ、頭が沈む時にそこらにあるものは何でも掴もうとし、
それがたとえ「破鑼」や破れた太鼓でも掴んで離さない。彼らは決して「潔癖」なんかじゃない。しかし、彼らがしまいには滅亡するか、幸いにして這い上がるか、いずれにせよ
やはり自己本位なのだ。思いつくまま例を挙げると、上海の「大新聞」と言われる「申報」
も、一面では甘い言葉で「ソ連視察団を組もう」(32年12月28日時評)と言いながら、又一面では林克多の「ソ連見聞録」を「反動書籍」(同27日)だとしているではないか。
 祝賀すべきは、中露の文字の交わりが、中英、中仏より遅れたものの、この十年、両国の絶交時も復交時も、我々読者大衆はその為に進退などせず:翻訳も放任や禁圧に関わらず、我々の読者はそのために盛衰しなかった。それが常態となっただけでなく拡大した:
絶交と禁圧下でも拡大した。我々の読者大衆はこれまでづっと自私的な「勢力や利益本位の目」でロシア文学を見てこなかったことが良く分かる。我々の読者大衆は朦朧の中にも
早くもこの偉大で肥沃な「黒土」に何かが生まれ育ち、この「黒土」は確かに何かを成長させているのを我々のこの目に見せてくれた!忍受、呻吟、あらがい、反抗、戦い、変革、戦い、建設、戦い、成功を。
 今や英国のショー、フランスのロランなども皆ソ連の友だ。これもまた我々中国とソ連の暦来不断の「文字の交わり」の途中であり、それを拡大し世界と真の「文字の交わり」を結ぶ始まりである。
 これは我々の祝賀すべきことである。
          1932年12月30日
 訳者雑感:
 仙台から東京に引きあげてきた魯迅はどこか決まった(大学)に入り直すでもなく、ドイツ語の勉強に打ち込んだ。(今の独協の前身)従って、彼には東大卒とか早稲田法政卒などの世間的な卒業資格は無い。ドイツへの留学も計画していたほどだ。
 ドイツ語を勉強したのは 被圧迫民族の文学の翻訳書が一番入手し易かったのがドイツ語の本で、彼はそこからたくさん重訳した。
 ドイツ文学そのものが、手塚富雄「ドイツ文学案内」(岩波)が言うように「強い追求性に力を尽くして取り組み、我々に欠けているところを省み…」という面から、魯迅の当時の「尋ね求めたもの」にたどり着くための大切なものだったであろう。
 手塚は同書の序説でゲーテの考えた世界文学について、「要約すれば、世界の各国がそれぞれ自分自身の文学を持った上で、それらが世界的に接触し合い交流し、そのことによって相互に生産的に刺激し合う状態の成立を望んでいったものである(後略)」と述べている。
 それぞれが自身のしっかりしたものを持った上で、他国のものと接触交流することで、
より生産的なものを作りだすことができるという信念である。
 魯迅は自ら「中国小説史略」を大学で講義し、一冊の本にまとめる作業を通じて、膨大な量の「古小説」を集輯耽読した。それが彼の自分自身の文学の一部となっていたに違いない。彼の小説の中の舞台はやはり自分の故郷や住んでいた北京中心で、そこから遊離することはなかった。「故事新編」などは歴史的故事に材を取ったもので、芥川の作品のようなものだが、芥川ほど成功しなかった。
 彼は中国の文学(文字)がロシアの文学(文字)と交わることによって、「勢力や利益本位の目」から読む他の国の文字ではなく、被圧迫者の立場からの「あらがい」反抗、変革、
建設、成功への戦いの過程を描いた文字を求めた。
 1932年頃に魯迅が憧憬したロシア文学とソ連文学がロシアの「黒土」で育っていたことは確かなことではあった。しかしその後のソ連が自己本位で「勢力と利益本位」のスターリンの政治と修正主義路線によって、あえなく70年で終焉を迎えたことをあの世の魯迅は
どう見ているだろう。
         2012/01/07訳

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「両地書」序言

 この本はこのようにして生まれた――
 1932年8月5日、霽野、静農、叢蕪の三名の署名した手紙を得、漱園が8月1日朝5時半、北京同仁医院で病没したので、彼の遺文を集めて彼の記念集を出したいので、私の元に彼の手紙が無いか問うてきた。この知らせは私の心を突然緊縮させた。なぜなら第一に、私は彼が快癒できるものと希望しており、必ずしも良くないとは知ってはいたし:彼が良くなるとは限らぬことを知りながら、彼のあの枕に伏せながら、一字一字書いた手紙を棄てるとは思いもしなかった。
 私の習慣は、平常の手紙は返信後棄てるが、議論や故事が含まれているものは往往残した。直近の三年になって二回大焼却をした。
 5年前、国民党の清党時、私は広州で常々起こったこと、甲が捕まり、甲の所で乙の手紙が見つかり、乙が捕まり、また乙の家で丙の手紙が探し出され、丙も捕まり、全員行方不明となり、古い昔に行われた「芋づる式」でしょっ引かれるのを知っていたが、それは昔のことだと考えていたが、事実が私に教訓を与え、現代でも古人と同様、人間として生きてゆくのは困難だということが分かった。然し私はやはりいいかげんで軽い気持ちだった。
1930年に自由大同盟に署名したら、浙江省党部が中央に「堕落文人魯迅等」の通報を呈示したので、私は家を棄て逃げ去る前に、忽然心血が騒ぎ、友人からの手紙を全て棄てた。これは何も「叛逆を企てた」痕跡を消すためではなく、手紙が人に累が及ぶはいわれのないことと思い、中国の役所は一度でも関わりを持つとどれほど恐ろしいか誰も知っているから。後にこの難を逃れ寓居を移り手紙も積み上がり、またいい加減にしていたが、31年1月、柔石が捕まり、彼のポケットから私の名のあるものが出てきた為、私を捜索しているとの話が耳に入った。当然私は又家を棄て逃げた。今回は心血が一層明らかに騒ぎ、当然全ての手紙を焼却した。
 こんな事が二回あったので、北京からの手紙は多分残ってないと思ったが、書箱文箱をひっくり返してみたが何も無かった。友人の手紙は一通も無く、我々自身の手紙が出てきた。これは何も自分の物を特に宝のように大切にしたというのではなく、時間の関係で自分の手紙はせいぜい自分の身の上に関わるだけだから放っておいたためだ。その後これらの手紙も銃砲火に2-30日身をさらしたが、一つも欠けなかった。一部欠落はあるが多分当時は気にも留めず、早くに遺失したもので、官災とか兵火のせいではない。
 人はもし一生で大禍に遭わなかったら、他の人たちは特別視しないが、牢に入れられたり戦地へ行ったりすると、彼がどんな平凡な人間でも特別視する。私のこの手紙についてもまさしくその通りだ。以前箱の底に仕舞いこんでおいたものが、今あやうく訴訟されそうだとか砲火にあいそうだというと、特別なものの様に感じいとおしくなる。夏の夜は蚊が多く静かに字も書けぬので年月順に編集し、地名ごとに三集に分け、統一名を「両地書」とした。
 言うなれば:この本は我々には一時は大いに意義があったのだが、他の人にはさほどでもない。中に死ぬの生きるのという情熱も無く、花よ月よの佳句もない:文辞はといえば、
我々には「尺牘精華」や「書信作法」を研究したことも無く、ただ筆に任せて書いたので、
文律に大きく背いており「文章病院」に入れなければならぬものが大変多い。内容も学校騒動、本人の状況や食事がうまいとかまずいとか、天気の晴曇りなどにほかならず、更にもっと悪いのは我々はその頃大きなテントにいて、幽明も弁ぜず、自分たちのことを語るのは何ともないが、天下の大事を推測するようなことに出会うと、とてもいい加減なことになるのを免れないから、凡そ欣喜鼓舞するような言葉は、今から見ると大抵はたわごとに過ぎない。どうしても特色を挙げろと言うなら、多分それは平凡なことだと思う。
こんな平凡なことは他の人には大概起こり得ない。もしあったとしても、必ずしもそれを残さないが、我々はそうではなかったから、それだけが一つの特色と言えるだろう。
 然し奇怪なことに、ある書店が出版したいという。出版するならそれに任そう。それは自由だが、そのために読者に相まみえることになるから、二つほど声明を出し、誤解を免れなければならぬ。其の一:私は今左翼作家連盟の一員で、近頃の本の広告は、大抵作家が一度左に向かうと旧作は即飛昇し、子供時代の鳴き声さえもすべて革命文学に合致する感があるが、我々のこの本はそうではないし、革命の気息は全くない。其の二:人は常に
書信は最も掩飾の無い、本当の面を顕すものだと言うが、私はそうではない。私は誰に書く手紙でも、最初かならず敷衍し、口では是としつつも、心では非としており、この本でも割と緊要な場面では、後から往往にして故意にぼかして書いており、それは我々のいる所は「当地の長官」、郵便局、校長…などが自在に手紙の検閲ができるお国柄だからだ。
ただ、はっきりと書いたものも少なくはない。
 もう一点、手紙の中の人名は幾つか改名した。その意図はいい面、悪い面いろいろある。
それは他の人が手紙の中で本人の名が出ると具合が悪いとか、私自身のためだけでも、又
「裁判所の開廷を待て」式の面倒を起こさぬようにするためだ。
 六七年来を回想すると、我々を取り巻く風波も少なくなかったと言える。不断のあらがいの中でお互いに助け合ったこともあり、投げてしまったものもある。笑罵誣蔑などされても、歯を食いしばってあらがいながら生活して六七年になる。その間、中傷する輩たちもだんだん自分で暗黒の所に没入して行ったが、好意を寄せてくれた友もすでに二人はこの世にいない。即ち漱園と柔石。我々はこの本を自分たちの記念とし、行為を寄せてくれた友人に感謝し、我々の子供に贈り、将来我々が経てきた真相を知ってもらいたい、というのが大体のところである。
       1932年12月16日 魯迅
 
訳者雑感:生前に作家が日記や書簡集を出版するのはどういう背景、心理からだろう。
やはり読者に読んでもらって、作品としてお金を出して読むに値する「文芸作品」として
世に問おうとするものだろう。従ってこの前文も1933年4月に上海青光書局の出版した「両地書」に最初入れられていたものを、1933年12月31日の夜に上海寓居で「題記」を書いて1934年3月に上海同文書店から出版したこの「南腔北調集」に再編入したものだ。
言うなれば、作家自身による「広告」である。「両地書」が何かの都合で再販差し止めされたり、絶版にさせられても、それを出版したという事実を別の所に残して置きたいという、
切なる願いが込められてもいようか。
 この本が当時の上海でどのように受け止められていたのだろうか。嘲笑、罵倒、誣告、侮蔑するものたちがきっと数多くいたことだろう。その輩たちもじょじょに暗黒の場所に
没入して行った。彼らのことはどうでもよい。少しでも好意を寄せてくれる人々に勇気を
与えることができたら、そして子供たちにも自分らの経てきた道の真相を伝えたい、というのがこの雑文集への編入だと思う。
       2012/01/02訳

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「自選集」自序

私が小説を始めたのは1918年「新青年」で「文学革命」が提唱された時だ。この運動は、今ではもう文学史上の旧事になっているが、当時は疑いの無い革命運動であった。
私の作品の「新青年」での歩調は大抵他の人と同じだったから、確かにこれらは「革命
文学」と呼べる。
 然し当時「革命文学」に対して、実は大した熱情は無かった。辛亥革命を見、二次革命を見、袁世凱が帝政を称すのを見、張勛の復辟といろいろ見、懐疑を抱き始め、失望消沈してしまった。民族主義文学家は今年、小新聞に「魯迅多疑」と書いたがその通りで、私はそうした人たちも本当の民族主義文学家ではないだろうと疑っている。どのように変わるかも分からないのだ。だが私はまた、自分の失望に対しても懐疑を抱いているのは、私が見た人たちや事件は極限られたものであり、こうした考えが私に筆を執る力を与えてくれてもいるのだ。
『絶望の虚妄なること、希望と相同じい』
「文学革命」への直接の熱情ではないとしたら、またなぜ筆を執ったのか?考えてみれば、
大半は熱情家たちへの同感だ。これらの戦士は寂寞の中にいながら、考えは間違っていないから、いくらか叫んで応援しようと思った。まずはそのためだ。勿論この間には旧社会
の病根を暴露し、人々に注意を喚起し、なんとか治療したいとの希望も混じっていたが、
この希望達成の為に、前駆者と同一歩調を取るべきで、それで私は暗黒を削って笑顔を装い、作品に少しの明るさを出した。それが後に「吶喊」計14篇となった。
 これらも「遵命文学」と言える。しかし私が遵奉したのは当時の革命前駆者の命であり、
私自身もまたその命を遵奉することを願ってい、決して皇帝の聖旨とかお金や指揮刀の為ではない。
 後に「新青年」の団体は散り散りになり、ある者は出世しある者は隠退、ある者は前進、
私はまた同一陣営の仲間にもやはりそうした変化があることを経験し、一「作家」の肩書を得て、依然砂漠の中を歩き回り、すでに散漫な雑誌に気ままに書くということから逃れられなくなった。小さな感触から短文を書き、誇張すると一種の散文詩を一冊にまとめたのが「野草」だ。まとまった材料を得て短編小説を書いたが、唯の勇兵となり、たいした
布陣もできぬので、技術面では前作よりましになったし、考え方もわりとこだわりをなくしたが、戦闘の意気込みはだいぶ冷めた。新しい戦友はどこにいるのか?これはとてもまずいと思った。そこでその時期の11篇を「彷徨」にまとめ、それ以後は二度とこのようにはならぬように願った。
『路漫漫と果てしなく、其れ修遠(遠くまで伸びている)、吾将に上下して求め索(たずぬ)』
(「離騒」から「彷徨」を取った:出版社)
 計らずもこの大口はその後影も形も無くなった。北京を脱出、アモイに身をひそめ、只
大楼上で幾らか書いたのが「故事新編」と10篇の「朝花夕拾」前者は神話伝説と史実の
演義で、後者は追憶の記述。
 その後は何も書かず、「空空の如し也」
 しいて創作と称せるのは只この5冊のみで、短時間で読み終えられるのだが、出版社は
自選集として一冊選べという。推測するに多分こうすると一つは読者の出費節約、二つには作者の自選だから他の人より特に分かりやすいはずだということか。一番目は私も異存はない。二番目はとても難しい。これまで私は格別注力したとか、特に手を抜いたという作品は無いから、特に高妙と思う物もなく、抜きんでた価値を持つ作品も無い。仕方ないから材料と書き方の異なるものを読者の参考に供する為、22篇を選び一冊とし、読者に
「重圧感」を与えるような作品は務めてはずした。これは現在の私の考えが:
 『自ら苦しんで寂莫と感じたものを、私の若い時のように今まさしく美しい夢をみている青年に伝染させたくないからだ』
 然しこれもまた「吶喊」を書いた頃のように故意に隠瞞したのとは似てはいない。なぜなら、今私は現在と将来の青年はきっとそんな心境にはならないと信じているから。
     1932年12月24日 魯迅 上海寓居にて記す
 
訳者雑感:
 今の青年たちに、魯迅が若い頃なめたような「苦しい寂莫」を伝染させたくないから、
22篇の自選集には、「狂人日記」「薬」など「重圧感」を与えるものははずしたという。
「奉納劇」と「藤野先生」も無い。「奉納劇」は「故郷」と材料とか舞台が近いせいか。
だが「藤野先生」は日本語訳には必ず入れて欲しいと言ったほどで、それを目にした
藤野先生と再会できることも期待していたという話もある。そして戦後にはこの作品が
中国でも有名になり、仙台の東北大学に彼の銅像が建てられたほどだし、そもそも「吶喊」
の序にある「スライド事件」はこの仙台が出発点であり、「棄医就文」への転機となったものだ。だがこの1932年ころの日本の侵略が激しくなる時代に「藤野先生」を入れることは
問題だと考えたものだろう。本当は青年に勇気を与えるものであるのだが。
       2011/12/27訳
 

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罵倒恐喝は戦闘に非ず

罵倒恐喝は戦闘に非ず
 「文学月報」編集部への書信
起応兄:
 一昨日「文学月報」4号拝受し一読。物足りないと感じたのは、他の雑誌の多様さに及ばぬためではなく、以前よりまだ充実できていない点です。ただ今回数名の新しい作家を出してきたのは極めていいことだし、作品の良しあしはさて置き、ここ数年の刊行物にかつて名のうれてない作家は登載されぬ趨勢では、新しい作者は作品発表の機会をなくすでしょう。今この局面を打破し一月刊誌の一号にすぎぬと雖も、ついにこれらの沈悶を一掃したのは良いことだと思う。但し、芸生氏の詩には非常に失望した。
 この詩は一目瞭然、前号のべドヌイの風刺詩を見て書いたもの。然し比べると、べドヌイの詩は自ら「悪毒」と認めながら、最もひどいのでも笑って罵るに過ぎぬ。だがこの詩はどうか?侮辱の罵倒あり、恐喝あり、又意味の無い攻撃あり:その実必ずしもそうまでしなくともよい。
 例えば、冒頭から姓についての冗談。作者が使う別名から彼の思想を推察できる。「鉄血」「病鵑(ほととぎす)」の類は固よりそこから小さな冗談を始めるのは構わない。しかし、
姓氏貫籍は本人の功罪を決められない。それは先祖から受け継いだもので、彼が自主的にどうこうできぬ。というのも4年前、ある人が私を「封建の遺物」と評し、その実それを題材にして、自分はしてやったりと思いあがっているのは、本当に「封建的」である。
この気風はここ数年大変少なくなってきたが、はからずも今また復活し出したのは、確かに退歩と言わざるを得ぬ。
 特に堪えられないのは、結末の侮辱罵倒だ。今一部の作品は、必要でもないのに会話中に罵倒を多用するきらいがある。どうもそうしないと無産者の作品ではないようだ、と。
罵倒が多ければ多いほど無産者の作品のようだ。だが良い労農は、めったやたらに罵ってはいない。作者は上海ヤクザの行為を彼らの身上に塗ってはいけない。たとえ罵るのが好きな無産者がいても、それはただ悪い癖であり、作者は文芸的に正さねばならず、万に一つも二度と展開してはならず、将来の無産階級社会で、一言でも不都合のため、祖宗三代に亘ってごたごたが収束できないことになる。ましてや筆戦でも他の兵戦や拳闘と同様、隙を窺い虚に乗じるのが良く、一撃で敵の死命を制しても構わぬのであって、ずっと騒ぎ続けると「三国志演義」式戦法となり、父母を罵るまでになって、意気揚々と引きあげて、
自分では勝利したと思うなら、それはまったく「阿Q」式戦法だ。
 次にまた「西瓜割り」の類の恐喝。これも極めて間違っていると思う。無産者の革命は、
自己の解放と階級の消滅の為で、人を殺す為ではない。たとえ正面の敵が戦場で死ななくても、大衆の裁判が有り、一詩人が筆で生死を判定できない。今なにやら「殺人放火」の伝聞が多く飛び交うが、これも一種の誣告で、人を陥れることだ。中国の新聞では本当の事は分からぬが、外国の例を見ればわかるし、ドイツの無産階級革命(成功しなかったが)
では、みだりに人殺しはせず、ロシアはツアーの宮殿すら焼き打ちしなかったではないか?
だが我々の作者は革命労農の顔に、人を脅かす鬼の面を描いている。これは粗暴の極みだと私は思う。
 勿論中国の暦来の文壇には誣告で陥れることや、デマ、恐喝、侮辱罵倒は、多くの歴史に見られるし、今に至るも応用してきており、更にひどくなっている。
 だが私はこの遺産はすべて狆ころ文芸家に受け継がせ、我々の作者はそれを抛り棄てねば彼らと「同じ穴の狢」になってしまう。
 しかし私は敵に追従笑いとかへりくだれと言うのではない。戦闘的作者は「論争」に重点を置くべきで:詩人として情として抑えきれぬ時には、憤怒や嘲笑罵倒もダメだとはいえない。だが嘲笑に止め、熱く罵るに止めるべきで、「喜怒哀楽、皆文章となす」ようにし、
敵にそれで大きな痛手を負わせて死に到らし、自分は卑劣な行為に出ず、見る者も汚いと思わぬようにする。これこそ戦闘的作者の本領である。
 たった今以上のことを思い到ったので編者の参考までに送ります。要するに今後の「文学月報」に二度とこのような作品が載らぬよう希望します。
 取り急ぎ用件のみ。 よろしく。
            魯迅 12月10日
 
訳者雑感:
「喜怒哀楽、皆文章と為す」は宋の黄庭堅の「東坡先生真贊」にある由。(出版社注)
無産者文学の作者たちが陥りやすい問題を取り上げ、やみくもに相手を罵倒するとか、
西瓜割りの如くに敵の頭を叩き潰せ式の「威勢」だけの文章を戒めている。
 蘇軾は何回も左遷され、危うく死刑にされそうにもなるほど、敵を攻撃する文章をたくさん書いたし、詩もたくさん作った。詩の言葉をよくよく吟味すると彼と敵対していた相手にはとても大きな打撃を受けるような内容だった。彼は意識してそう書いたのかどうか。
彼は喜怒哀楽皆文章に為す、という考えだからものごとに対して自分の喜怒哀楽の感情を
思いついたままに書きつけたのだと思う。それは別に罵ったり侮辱したりするような内容ではなかった。しかしそれを読んだ相手は自分のことを謗っていると思い、彼を解任し、南方に左遷した。蘇軾は何回も左遷され、海南島に流刑になってもくじけず詩作を続けた。
彼の楽天を魯迅はどう捉えたのか。この雑文に「喜怒哀楽皆文章と為す」を引用した。
     2011/12/22訳
 

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「連環画」を擁護する

 かつてこんな経験がある。ある日、さる宴席で気ままに:映画を使って学生に授業をしたらきっと教師の授業より良いから、将来はそうなるだろう、と。だがこれは話し終わらぬ内にどっと笑いの渦にかき消されてしまった。
 勿論この話には多くの問題があり、例えばまずどんな映画を使うか。アメリカ式の大金をもうけて結婚する式の映画は当然ダメだ。しかし私自身は確かに映像を使った細菌学の講義を受けたし、全て写真で数句の説明があるだけの植物学の本を見た。だから生物学だけでなく歴史地理も可能だと深く信じている。
 だが多くの人はすぐどっと笑いだし、白いチョークで相手の鼻を塗り、ピエロがふざけあっているようにしてしまった。
 数日前、「現代」で蘇汶氏の文を見たら、彼が中立的文芸論者の立場で「連環画」を抹殺していた。勿論それは気ままな発言に過ぎず、絵画の専門的な言葉で討論した物でもないが、青年美術学生の心にとっては多分重要な問題ゆえ、再び少し書いてみよう。
 絵画史で見慣れている挿絵に「連環画」は無い。名人の作品展には「ローマの夕照」や「西湖晩涼」でなければ、下等なものとみなされ、「大雅の殿堂」に飾るものではない。
だがイタリ―のヴァチカンへ行けば――私はまだその福に浴しておらず、紙上のヴァチカンだが――偉大な壁画が見られ、殆ど「旧約」「耶蘇伝」「聖者伝」の連環画で、美術史家はその一段を取り出し印刷して「アダムの創造」「最後の晩餐」と題し、みる者はそれを下等とは思わない。その原因は宣伝の妙にあり、その原画は明らかに宣伝的連環画である。
 東方でも同様。インドのアジャンター石窟はイギリス人が模写印刷して美術史上で光を増した:中国の「孔子聖跡図」も明版すらとうに収蔵家の宝となった。この二つは、一つは仏陀の本生(ジャータカ)で、もう一つは孔子の事跡で、明らかに連環画の宣伝である。
 本の挿絵は、もとは書籍を装飾して読者の興趣を増すためだったが、その力は文字の及ばぬ所を補助するものだったから、一種の宣伝画であった。この画の枚数が極めて多くなると、図像を見ただけで内容が分かり、文字と離れて独立した連環画となった。最も顕著な例がフランスのG.Doreで彼は挿絵版画名人で、最も有名な「神曲」と「失楽園」「キホーテ先生」「十字軍記」の挿絵で、ドイツでは全て単行本になっていて(前の二つは日本にもある)概略を見れば本の梗概が分かる。然るにDoreのことを美術家でないと誰がいうだろうか?
 宋の人の「唐風図」と「耕織図」は今も印本と石刻が入手可能で:仇英の「飛燕外伝図」
と「会真記図」に至っては、翻印本が文明書局から発売された。凡そこれらは、当時も
現在も美術品である。
 19世紀後半以来、版画が復興し多くの作家が数枚の「連作」刻印を好んだ。この連作は、
決して単なる事件ではない。今青年美術学生のために幾つかの版画史上での地位を固めた
作家と一連の実際の作品を下記する。
 最初に挙げねばならぬのはドイツのKollwitz夫人。彼女はハウプトマンの「織匠」の
為に、6枚の版画を彫ったほか、三種の題はあるが説明文のない――
1.「農民の闘争」金属版 7枚
2.「戦争」 木刻 7枚
3.「無産者」木刻 3枚
中国では「セメント」の版画で知られているC.Meffertは新進の青年作家で、かつて
ドイツ語訳のFignerの「狩りをするロシア皇帝」の為に5枚の木版画を彫り、また2種
の連作――
1.「貴方の姉妹」木刻 3枚 題詩一幅:
2.「擁護する門徒」(原作未詳)木刻 13枚
 ベルギーのMasereelは欧州大戦時、ロマンロラン同様、非戦のために国外に逃れた。彼の作品が一番多く、すべて一冊の本になり、書名のみで小さな題目すらない。今ドイツで印刷された普及版は一冊3.5マルクで入手は容易だ。私が見たのは
1.「理想」木刻 83枚
2.「我が祈り」 木刻 165枚
3.「字の無い物語」 木刻 60枚
4.「太陽」  木刻 63枚
5.「仕事」木刻 枚数失記。
6.「一人の受難」木刻 25枚
 米国作家はSiegelの木刻「パリコミューン」を見たことがあるが、NYのJ.Reed Club
の出版。また石版のW.Cropperの描いた本で、趙景深教授説では「サーカスの物語」(正しくはサーカス団の)で、別の訳にするときっと「信だが不順」となりそうだから、原名のまま下記引用する――
 「Alay-Oop」(Life and Love Among the Acrobats)
 英国の作家は作品の値段が高いので余り知らない。
しかし一冊の小冊子に15枚の木刻と200字未満の説明だけで、作者は有名なGibings
の500部限定があり、英国紳士は死んでも重版を肯んじないから、今は絶版になり、一冊
数十元するだろう。それは
「第七の男」
 以上、私の考えは全て事実を挙げて連環画が美術となれるだけでなく、すでに「美術の宮殿」に座っているということだ。これも他の文芸同様、良い内容と技術が求められているのは言うまでも無い。
 私は青年美術学生に、大判の油絵や水彩画を棄てろと勧めるのではない。それと同様に
連環画と本や雑誌の挿絵を重視し、努力するのを望み:勿論欧州の名家の作品は研究すべきだが、中国の古書の挿絵や画本や新しい一枚一枚の花紙(年画の絵)にも注意すべきだ。
こうした研究とここから出てくる創作は、勿論今の所謂大作家が一部の人たちから受けている例のような感嘆や称賛は得られないが、私は信じている:連環画は、大衆が見たいと
思っており、大衆はきっと感激する、と!
           7月25日
 
訳者雑感:
 魯迅の冒頭の話しは、テレビ講座とか放送大学とかを予見していたようだ。仙台で医学の授業に見た細菌学のスライドと「日露戦争の戦争報道」のスライドが強烈な印象として
彼の脳裏に残されていたのだ。それを30年後にこう書いているわけだ。
 彼は子供のころから中国の古小説や物語の挿絵を書き写すのが大好きだったし、それを
一冊の本に仕上げてもおり、金持ちの子弟の級友が欲しいというので小遣い稼ぎに売ったりもしたと自ら書いている。
 ヴァチカンの絵は宗教宣伝の連環画の一部だと喝破しているのはさすがだ。「二十四孝図」などの挿絵や仏教の教えを広めるための地獄絵図や「死無常」などの挿絵が彼の小さい頃に抜けることのないイメージを育てたのだろう。
講釈師の傍らに架けられた絵、紙芝居、文字の助けとして挿絵、連環画は今のアニメの原点だろう。連環画は文革中にたくさん出回った。手のひらにすっぽり入るほどの小型の物が、中国中に広まり、毛語録しか書棚になかった本屋にもこれだけは買うことができた。
それは、内容としてはやはり中国共産党の宣伝臭のあるものではあったが、毛語録では伝えきれないものを大衆と子供に伝えようとしていた。大衆はこれを見たがったし、感激もしただろう。だが、文革の終了後は、その数がめっきり減り、テレビでアニメが放映されると、姿を消した。
 魯迅が冒頭で指摘した通り、先生の授業より面白いことになり、連環画すらもテレビという映像にその主役の座を明け渡したかもしれぬが、やはり紙に印刷した漫画は依然として大きな人気を博している。原作は原点だから。
     2011/12/19訳
 

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「第三種人」を論ず


 三年来、文芸面の論争は停滞し、指揮刀の保護の下で「左連」の看板を掲げ、マルクス主義の中に文芸自由論を見つけ、レ-ニン主義に共匪の皆殺し説「理論」を探し出した論客(胡秋原を指す。彼は真正のマルクス主義者と自任する一方で中国工農紅軍を土匪と蔑視した)以外、殆ど誰も口も開けなかったが、それでもなお「文芸の為の文芸」的文芸が「自由」だというのは、彼がルーブルを貰った嫌疑が全くないからだ。だが「第三種人」即ち「死んでも文学を放さぬ人」もまたある種の苦痛の予感から免れない:左翼文壇が彼のことを「資産階級の狗」と呼ぶのではないかという予感である。
 この「第三種人」を代表して不平を鳴らすのは「現代」の3号と6号の蘇汶氏の文章だ。
(私はまず声明せねばならぬが:便宜上暫く「代表」「第三種人」と書くが、これらは蘇汶
氏の「作家の群」や「或いは」「多少」「影響」という余り断定的ではない言葉を使うのと同様、固定的な名称が不要だというのは、名が一旦固定してしまうと不自由になるからだ)
彼は左翼の評論家はややもすると作家の事を「資産階級の狗」とみなし、甚だしくは中立者も中立ではないとし、中立ではないとなると「資産階級の狗」とみなす可能性があり、「左翼作家」と称すと「左だが何も書かず」「第三種人」は書こうにも書けないという状態で、文壇には何も無くなってしまう。しかし文芸は少なくとも一部は階級闘争の外に出ており、将来の「第三種人」が抱えている真に永遠の文芸となる。ただ惜しいことに左翼理論家は敢えて書こうとしないのは、作家がまだ書く前から罵られる予感を持つからだ。
 この種の予感はありうることだと思うし、「第三種人」を自任する作家が愈々増えるだろう。作者の言うことは今とてもわかりやすい理論で、感情が変わりにくい作家だと思う。
然るに、感情不変となれば、理解できた理論の度合いも感情が既に変わったか、或いは略
変わったものと異なることは免れぬし、ものの見方も全く異なってこよう。蘇汶氏の見方は私からみると全く正確とはいえない。
 勿論左翼文壇ができてから、理論家は間違いを犯し、作家の中にも蘇汶氏のように「左だが書かない」だけでなく、左ながら右、甚だしくは民族主義文学の一兵と化し、書店のオヤジ、政党のスパイとなり、これら左翼文壇嫌いの文学家の遺した左翼文壇も依然存在し、存在するだけでなく更に発展し、自分の短所を克服し、文芸と言うこの神聖な地に向かって進軍する。蘇汶氏は問う:三年かけて克服しようとしたがまだうまくゆかぬか、と。
答えは:はい、まだ克服し続け、30年はかかるかも、と。然るに一方で克服しつつ一方で
進軍するのは、克服完成まで待てぬからで、然る後にあの様な馬鹿なことをするのか。但し蘇汶氏は「笑い話」を言った:左翼作家は資本家から原稿料を取っており、私から本当のことを言えば:左翼作家はまだ封建的資本主義の社会の法律で禁固され殺戮されている。
従って左翼の刊行物は全て破壊され、今では大変寥寥としており、偶々発表されても作品の批評も極めて少なく、たまに出てもややもすれば作家を「資産階級の狗」呼ばわりし、
「同伴人」は不要だとなる。左翼作家は天から下りてきた神兵ではないし、国外から来た
仇敵でもないが、いつも数歩は常に「同伴する人」が必要なだけでなく、路傍に立って見ている観客も招いて一緒に前進しなければいけない。
 だが今問わねばならないのは:左翼文壇は今圧迫され、多くの批評も発表できす、もし
発表できても、この「第三種人」を「資本階級の狗」と指摘するようなことにならぬか?
 思うに、左翼批評家が何も言わぬと宣誓しないと、ただ悪い面からの発想ではその恐れもあり、状況は更に悪化すると思う。だが私はこの予測は実は地球がひょっとして破裂する日がくると心配の余り、先に自殺するようなもので、その心配は不要だろう。
 然るに蘇汶氏の「第三種人」はこの未来の恐怖の為に「擱筆」した由。まだ経験していないことを、心に描いた幻影の為だけで擱筆して「死んでも文学を放さない」作者の包容力は、なぜそんなにも弱いのか?二人の恋人は将来の社会的斥責を予防し敢えて抱き合おうとしないのか?
 その実、この「第三種人」の「擱筆」の原因は左翼批評家の厳酷のせいではない。真の原因の所在はこのような「第三種人」になれぬし、この様な人にもなれぬことだ。第三種の筆も無く、擱筆するかしないかは問題にも成らぬ。
 階級社会に生まれ、階級を超えた作家になろうとし、闘争時代に生まれ、闘争から離れ独立しようとし、現在に生きていながら将来に残す作品を書こうとする。このような人は、
実際は一人の人の心の中に造った幻影で現実世界には存在しない。このような人になるためには自分の手で髪を引っ張って、地球から離れようとしても離れられずに焦っているが、
それは人が頭を揺らすからではなく、敢えて引っ張ろうとしないからだ。
 従って「第三種人」といえども階級を超えられぬし、蘇汶氏もまずは階級の批判を予測し、作品にも叉どうしても階級的利害を脱却できようか:またきっと闘争からも離れられず、蘇汶氏は「第三種人」の名で抗争を提起し、「抗争」の名ではあるがまた作者の願う所ではない:且つまた現在を跳び越えられず、創作で階級は超え、将来の作品の前にまず左翼の批判に留意する。
 これは確かに苦しいことだ。だがこの苦しさは幻影が現実とは成れぬ為に起こったことだ。たとえ左翼文壇の妨害が無くとも、この「第三種人」はあり得ぬし、ましてや作品はなおさらだ。だが蘇汶氏は心中で横暴な左翼文壇の幻影を作り、「第三種人」の幻影が現れぬようにし、将来、文芸が生まれぬ罪をそれに押しつけている。
 左翼作家は実際高尚ではないし、連環画や劇本も蘇汶氏の断じるように見込みがない。
左翼もトルストイ、フローベルを求めている。だが「努力して将来(彼らは、現在は不要だとしているため)に属するものを創造する」トルストイやフローベルを求めない。彼ら二人はともに現在の為に書いており、将来は現在からみた将来であって、現在有意義であってこそ将来も有意義となる。特にトルストイは短編を農民の為に書いても、自分を「第三種人」とは任じていなかったし、当時資産階級のいろんな攻撃もついに彼に「擱筆」させることはできなかった。左翼はほんとうに蘇汶氏の言うように愚かにも「連環画はトルストイを産みだせぬし、フローベルも産みだせぬ」のを知らぬ程ではないが、ミケランジェロ、ダヴィンチの様な偉大な画家は産みだせると思っている。更には劇本や講談から、
トルストイ、フローベルを産みだせると私は信じている。今、ミケランジェロたち画家を
提起しても、非を鳴らすものはいないが、実はそれらは宗教宣伝画で「旧約」の連環画ではないだろうか?且つまた当時の「現在」の為であった。
 要するに、蘇汶氏は「第三種人」とその欺瞞、贋物を出すより、やはり努力して創作するに如かずと主張しており、それは極めて正しいことだ。
「自信に満ちた勇気をもつこと、それで初めて仕事への勇気が出てくる」これはとりわけ正しい。然るに、蘇汶氏と多くの大小の「第三種人」たちは不祥の兆しを予感したため、
左翼批評家の批評によって「擱筆」してしまった。「どうすれば良いだろう?
        10月10日
訳者雑感:
 この文の意図はもうひとつ良く分からない。蘇氏を代表とする「第三種人」なるものが、
当時どういう状況にあったのか。左翼作家たちから罵倒されるのを恐れて筆を置いてしまった。将来のために書くということと、現在の為に書くということ。その答えは最後にあるミケランジェロである答えが見つけられるかも知れぬ。
 第三種人になるなどといわずに、自分たちの良いと思う陣営に立って、その考え方を宣伝し現在生きている人々のために「ものを書く」ことが宗教宣伝画を描いた、それもその当時の現在の為に描いたミケランジェロに習え、ということか。
       2011/12/16訳
 

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「竪琴」まえがき


「竪琴」まえがき(魯迅の翻訳書)
 ロシア文学はニコライ2世の頃以来「人生の為」であち、その主意は勿論探求にあり、
解決にあり、或いは神秘に陥り、頽廃に淪(しず)みもしたが、主流はやはり人生の為。
 この思想は約20年前に一部の文芸紹介者と合流して中国に入って来、ドストエフスキー、
ツルゲーネフ、チェホフ、トルストイの名は徐々によく目にするようになり、彼らの作品も陸続と翻訳され、当時組織的に「被圧迫民族文学」として上海の文芸研究会に紹介され、
彼らも被圧迫者と呼ばれる作家に数えられた。
 凡そこれらはプロレタリア文学とは本来とても遠い存在で、紹介された作品も大抵は、
阿鼻叫喚、呻吟、困窮、辛酸、よくてせいぜい、あらがいであった。 
 ただ、すでに一部の人を不機嫌にさせ、二つの軍馬団の包囲攻撃を招いた。創造社は「芸術のための芸術」の大旗を掲げ「自己表現」を標榜し、ペルシャ詩人の酒杯と「黄書」文士のステッキで、こうした「庸俗」を平らげようとした。もう一つは英国小説の紳士淑女の欣称に供するとか、米国小説家の読者迎合の考えといった「文芸理論」の洗礼を受けて
帰国した者たちは、下層社会の叫喚や呻吟を聞くと、眉をぎゅっと結び、白手袋の細い手を挙げ、自分の思いのままにしたいと:こんな下流なものはすべて「芸術の宮」から出て行け!と排斥した。
 また中国には元々、全国に旧式な軍団がいて、小説は「閑書」とみなす人たちがそれだ。
小説は「ご来場の皆さま」に茶余酒後の暇つぶしに供するものゆえ、優雅で洒脱でなければならず、万が一にも読者の不興を買ったり、消閑の雅興を壊してはならない。この説は、もう古いとはいえ、英米の時流に小説論と合流し、この三つの新旧の大軍が約せずして、同時に「人生の為の文学」――ロシア文学を猛攻した。
 然しなお少なからざる共鳴者がいたので、紆余曲折しながらも中国で成長してきた。
それが本国では突然凋落してしまった。それ以前は多くの作家が転向を企てたが、十月革命で却って彼らは意外にも巨大な打撃を受けた。それでD.S.Merezhikovski 、Kuprin、  Bunin、 Andreev たちの逃亡Artzybashev、 Sologubたちの沈黙 、古くからの作家は
活動シテたが、Briusov、 Veresaiev、 Gorki、 Mayakovski等数名のみとなった。
後にまた Tolstoi が帰って来た。
この外には顕著な新人は現れず、内戦と列強の封鎖下の文壇は、ただ委縮衰退と荒廃を
見るばかりとなった。
 29年ごろにNEPが実行され、製紙印刷出版などの事業勃興が文芸復活の助けとなった。
この時の最重要な枢紐は文学団体の「Serapionshruder 兄弟」だった。
 この派の出現は表面的には21年2月1日からレニングラードの「芸術府」の第一回集会で始まり、加盟者は大抵青年文人でその立場は、一切の立場の否定であった。ジョーシェンコは「党人の観点から、私は無宗旨の人間で、それは大変良いことではないか?自分で
自分の事について言うなら、私は共産主義者でも社会革命家でもなく、帝制主義者でもない。私はただ一個のロシア人で、政治に対して何の企みもない。多分最も近いのはボリシェビキで、彼らと一緒になってボリシェビキ化するのに賛成だ。…但私は農民のロシアを愛す」と言った。これは彼らの立場を大変明白に述べている。
 ただ当時、この文学団体の出現は確かに驚異で殆ど全国の文壇を席巻した。ソ連でこの
様な非ソビエト的文学の勃興はとても奇怪に感じさせた。しかし理由はいとも簡単で:
当時の革命者は革命の遂行に忙しく、ただこれら青年文人が発表した割合優秀な作品を
発表したのがその一で:彼らは革命者ではないとはいえ、身を以て鉄と火の試練をくぐり抜けてきたから、描かれた恐怖と戦慄は読者の共鳴を得やすかったのがその二:その三は
当時文学界を指揮していたボロンスキーが彼らを支持したこと。トロツキーも支持者の一人で、「同伴者」と称した。同伴者とは革命中に内包する英雄主義を含に革命を受け入れ、
共に前進する者だが、徹底的革命の為に戦う者ではなく、死も惜しまぬほどの信念は無いが、いっとき同道する伴侶に過ぎない。この名は当時から今もなお使われて来た。
 然し単に「文学を愛す」というだけで明確な観念形態の旗印のない「S兄弟」たちは
遂に団体としての存在意義を失い、チリジリになり消滅し、後に他の同伴者と同じく、
夫々が個人としての才力で、文学的な評価を受けた。
 4-5年前、中国はかつて盛大にソ連文学を紹介したが、それは同伴者の作品が多かった。
これも異とするに足りず、一つにはこの種文学がわりと早く興り、西欧と日本の称賛を受け紹介されたのが中国にも多くが重訳された機縁による。二つには多分この種の立場を立てぬという姿勢が却って紹介者の称賛を得やすかった故で、彼は自分では「革命文学者」と思ってはいたのだが。
 私はこれまで東欧文学を紹介してきたが、同伴者の作品も数編訳し、今併せて十人の
短編を一冊にまとめた。内三篇は他の人の訳だが、しっかりした訳だと信じている。
惜しむらくは、紙幅の関係で有名な作家全員を収められなかったことだが、曹靖華君の
「煙管」と「四十一」はこの欠点をおぎなっている。
作者の略伝と作品の翻訳或いは重訳の出典は巻末の「後記」に記したから、読者が興味を持たれたら、調べられるとよい。
    32年9月9日 魯迅 上海にて
 
訳者雑感:
 魯迅自身も辛亥革命の前の活動時期から、党員になったり積極的に行動に出るという
ことから一歩身を引いていた。彼自身も同伴者であったし、どの立場にも立たないという姿勢であった。それがこの竪琴の作品の中の同伴者の姿勢と同じだと認識しながらこれを
訳出したのだと思う。  2011.12.9.訳


 

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我々はもうダマされないぞ

帝国主義はきっとソ連に進攻しようとする。ソ連がよりうまく回りだすと、彼らは急いで進攻しようとするのは、一刻も早く滅亡させようとするためだ。
 我々は帝国主義とその手先に実に長い間ダマされてきた。十月革命後、彼らはソ連が如何に貧乏になり、凶悪になり、文化を破壊してきたか言い続けてきた。しかし今、事実はどうか?小麦と石油の輸出が世界を震撼させたではないか?正面の敵である実業党(フランス参謀部の指示を受け、社会主義建設を破壊しようとした:出版社)の首領は只の十年の禁固刑で済んだではないか。(伝えられるほど凶悪ではないとの意か:訳者)レニングラード、モスコーの図書館と博物館も爆破されなかったではないか?セラフィモビッチ、ファジェーエフ、グラトコフ、セプリーナ、ソロコフ等の文学家は西欧や東アジアで彼らの作品を称賛しないものは無かったではないか?芸術については余り知らないが、ウマンスキーに依れば、1919年にモスコーで展覧会が20回、レニングラードで2回(Neue Kunst
in Russland)開かれ、現在の盛んなことは想像できる。
 然しデマゴギーは極めて無恥かつ巧妙で、事実が彼の言葉のデタラメさを証明するや直ぐ身を隠し、別の一団としてやって来る。
 最近パンフレットに米国の財政復興の希望が見えてきたとし、序に言う、ソ連での買い物は常に長蛇の列で、今なお相変わらずである、と。どうやら筆者は並ばされる人たちの不満を代弁し、慈悲の心を施そうとしているようだ。
 この件は、私はソ連が内的にはまさに建設途上であり、外からは帝国主義の圧迫で
多くの物資が十分に回らぬためだと信じるが。但我々も他国の失業者が飢えと寒さの中で
長い列を作っていると聞くし:中国人民は内戦と外国の侮り、水害、搾取の大網の中で、
長い列を作って死に向かっているのだが。
 然るに帝国主義とその奴才連中はまたもやって来ては、ソ連がいかにひどいか悪口を言い、彼はどうやらソ連が一足飛びに天国に変じ、人々が幸福になるのをひたすら願っていたかのようである。今、逆にそうなってしまったので、彼は失望し、不機嫌なのだ。――
まことに悪鬼の涙だ。
 目を見開いて良く見れば、悪鬼の本性が現れ――彼はなんとか征伐しようとする。征伐の一方で、たぶらかしもする。正義・人道・公理の類の話をまき散らす。思い出せば、欧州大戦時に我々の多くの労働者をダマして前線に送り、自分たちの代わりに死なせた。次いで北京の中央公園に無恥かつ愚かにも「公理は戦勝した」との牌坊(鳥居形の)を建てた(だが後に撤去されたが)。今はどうか?「公理」はいずこにありや?これはたった16年前のことだ。我々は今も覚えている。
 帝国主義と我々は、奴才を除き、いかなる利害も我々と相反しないものがあろうか?
我々の腫瘍が彼らの宝物であるなら、彼らの敵は我々の友である。彼ら自身が今まさに崩壊してゆく時、自らを支えきれぬし、末路を挽回できぬので、ソ連の発展を憎むのだ。
デマ・呪詛・怨恨、なんでもやったが効果はないので、ついに手を下して叩く他なく、それを潰滅させないとおちおち眠られぬ。では我々は何をすべきか?我々はまたもダマされるのか?「ソ連はプロレタリア独裁で知識階級は餓死するだろう」――有名な記者が私に警告した。そうだ、これで私はいささか眠れなくなった。だがプロレタリア独裁は、将来のプロレタリア社会の為ではないのか?ただそれを壊そうとさえしなければ、成功も当然早まり、階級の消滅も早まる。その時は誰も「餓死」しないだろう。言うまでも無いが、
一時、列に並ぶのもやむなしで、結局は早くなるのだ。
 帝国主義の奴才はソ連を叩こうとするなら、自分も主人と一緒に叩きに行けば良い!
我々人民と彼らは利害が全く相反する。我々はソ連への進攻に反対する。我々は逆にソ連に進攻せんとする悪鬼を打倒しよう。彼らがどんなに甘い言葉を使って、公正そうな顔を装っていようが。
 これこそが我々自身の生きる道だ!
    (32年)5月6日
 
訳者雑感:1932年当時、魯迅は心底からソ連の社会主義建設を信じていたようだ。中国人の膏血を吸い、土地を奪う資本主義帝国主義は中国の敵だ。彼らが目の敵のように憎み、
一刻も早く進攻して潰滅させよとするソ連は彼らの敵である。敵の敵は味方だという論理。
 そこにしか中国に救いは無いと感じたのだろう。残り3年の命をそこにかけたのだ。
弟の周作人は北京で日本人の妻と家族の生活を棄てきれず、日本の傀儡政府の高官として
過ごすのだが、彼の目には日本の傀儡政府の方が脈があると思えていたのだろう。
 もう一人の魯迅の「語絲」時代の同人、林語堂は36年に渡米してしまう。
ソ連、日本、アメリカとそれぞれに明日の自分の身の置きどころを考えたわけだが、もし
魯迅が36年に死なずに49年を迎えたらどうなっていただろうか。
    2011/12/02訳
 

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林克多著「ソ連見聞記」序

十年ほど前、病気で外人経営の病院に行き、待合室にドイツの「Die Woche」という
週刊誌があったので、それを見たらロシアの十月革命の漫画に法務官や教師が描かれてい、
医者、看護婦すらも眉を斜めに目を怒らせ、皆ピストルを手にしていた。私が見た最初の
十月革命の風刺画だったか、心中こんな凶暴なものなのかとおかしく感じた。後に西洋人の書いた旅行記を何冊か読み、ある者はいかにすばらしいか、またある者はどれ程ひどいか、まちまちで訳が分からなくなった。結局自分でこう断定した:この革命は多分貧乏人にとっては良く、金持ちにとってはきっとひどいことだろうし、旅行者の一部の人は、貧乏な人のことを思うから良いと感じ、金持ちのことを考える人は、きっとすべてひどいと
考えたのだろう。                                                                     
 後に、また別の風刺画を見、英語のだが、ボール紙を切って工場学校育児書等を描き、道の両側に建て、参観者をバイクに乗せてその間を走らせる。これは旅行記にソ連の良い所を書いた人に対するもので、参観時に彼らのペテンに引っかかったという意。政治経済は素人だが、去年、ソ連の石油と小麦の輸出が資本主義文明国の人をあれほど驚かせたのは、私の長年の疑問を解いてくれた。思うに:仮面をかぶった国と殺人ばかりする人民には、決してあのような巨大な生産力を持てぬから、あれらの風刺画は恥知らずの欺瞞だ。
 だが我々中国人は実に小さな欠点があり、即ち、他国の良いことを聞いて学ぼうとしないのだ。特に清党(国民党の共産党粛清)以後は、建設めざましいソ連に触れたがらない。
もし触れると意図する所があって言うのでなければ、きっとルーブルを貰っているとなる。
さらには宣伝と言う二字は中国ではまったくぼろぼろの状態になっている。人々は金持ちの電文や会議の宣言、有名人の談話など飽き飽きしており、発表後すぐ消えてしまうのは、
屁の臭さの長さに及ばぬ。それでだんだん遠くの話しや将来の素晴らしい点を挙げる文章は、すべてペテンとみなし、所謂宣伝もただ自分の利のためにするとんでもない嘘の雅号だと思っている。
 目下の中国にはこの類が常にあふれ、欽定や官許の後押しで、何阻まれることなく至る所へばらまかれるが、読む人は少ない。宣伝は今、或いは後に事実でもって証明すべきで、
それで初めて宣伝と言える。だが中国の今の所謂宣伝は単に後にその「宣伝」がまぎれもなく嘘だという事実を証明するのみならず、更に悪い結果として、凡そ書かれている文章は、おかしいと人々を疑心暗鬼にさせ、ついには、むしろそんなものは見ない方がまし、ということになる。即ち、私自身もこの影響を受け、新聞で新旧三都(南京、洛陽、西安)
の偉観とか、南北二京(南京北京)の新気運とかはやすが、固よりただ表題を見ただけで、
身の毛がよだつし、外国の旅行記すら見る気にならぬ。
 ただこの一年、そんな構える必要なしに一気に読み終えたのが二冊ある。一冊は胡愈之
氏の「モスコー印象記」でもう一冊がこの「ソ連見聞記」だ。細かい文字を読む力が弱いので、読み続けるのに苦労したが、この自分で「メシの為に働かざるを得ない」という
労働者作家の見聞を、終いまで読んでしまった。途中で統計表を解説するような箇所もあり、私もやや無味乾燥に感じたが、それもそう多くはないので終わりまで読み続けた。
その理由は作者が友達に話しているようで、美しい言葉や巧妙な書き方もせず、平坦で
直叙しているし、作者は普通の人で文章も普通で、見聞したソ連も普通の所で、人民も
普通の人で、設定も人情にかない、生活も普通一般の人間らしく、何ら奇異をてらうことはない。つやっぽいことや奇を探し求めると、当然失望は免れぬし、真相を覆い隠すことのない状態で知るためには大変良い。
 またこの本から、世界の資本主義文明国がきっとソ連に進攻しようとする理由が少し
理解できる。労働者農民がみな人間らしくなるのは、資本家と地主にとって極めて不利だから、必ずこの労農大衆の模範を殲滅しようとする。ソ連が普通尋常になればなるほど、
彼らはより恐れる。5-6年前北京で(共産党の影響の強い)広東で裸のデモが起こったことが盛んに伝えられ、後に南京上海でも(共産党の)漢口の裸デモが盛んに宣伝された。
それは敵が尋常ではないことを願った証拠だ。この本に依れば、ソ連は彼らを失望させた。
なぜか?ただ単に妻を共有(共妻)するとか父殺し、裸デモなどの「尋常ならざること」
が無いだけでなく、多くの通常の事実があり、それは即ち「宗教・家庭・財産・祖国・礼教…一切の神聖不可侵」なものが糞土の如く放擲され、ひとつの斬新な真に空前の社会制度が、地獄の底から湧きだしてきて、数億人の群衆自身が自分たちの命運を支配できるようになった。この種の極めて通常な事情は、ただ「匪賊(国民党が革命軍をこう称した)」
がいて初めて成し遂げられた。殺すべきは「匪賊」也だ。
 ただ作者がソ連に行ったのは十月革命の十年後だから、彼らの「我慢、辛抱、勇敢及び
犠牲」で如何に苦闘し、やっとのことで今の結果を勝ち得たかを語ってくれるが、その
故事はたいへん少ない。これは他の著作の任務で、それらをすべて作者に求めるのはできぬ。だが読者はこの点を軽視してはならず、さもないとインドの「譬喩経」の言うように、
高楼を造ろうとして、地上から柱を立てるのに反対するようなもので、さもないと彼が造ろうしているのは、空中の楼閣に過ぎなくなってしまう。
 私が何の警戒もせずに読み終えたのは、上のような理由の為だ。本書に書かれたソ連の良いところを信じるもう一つの理由は、十年ほど前ソ連がいかにひどくて見込みが無いか
と悪口を並べた所謂文明国人が、去年石油と小麦を前にして、ガタガタ震えたことだ。
 更に確かなことは:彼らは中国の膏血を吸い、中国の土地を奪い、中国人を殺すのを見たことで、彼らは大ペテン師で、彼らがソ連の悪口を言い、ソ連に攻め入ろうとすることで、ソ連が良いところだと分かる。本書は実にいっそう私の意見を実証してくれる。
     1932年4月20日、魯迅 上海閘北寓楼にて記す。
 
訳者雑感:1930年頃のソ連に対する魯迅の思い入れは大変なものがある。その思い入れを
促したものは何かといえば、中国人の膏血を吸い、中国の土地をかっさらう日本を含む所謂資本主義文明国が、ソ連の悪口をさんざんまき散らし、ソ連に攻め込んでソ連政府を倒そうとしているからだ。即ち中国を食い荒らす資本主義文明国がにっくき敵と考えている
ソ連は資本主義の敵であり、その資本主義文明国にいいようにされている中国にとっては、
敵の敵は味方だ、という図式である。
 ソ連の建設が石油と小麦を大量に生産し、輸出市場に出てきたため、石油が暴落し、小麦などの食糧価格も下がり、これらを輸出してきたアメリカに大きな打撃を与えたから、
資本主義文明国はガタガタ震えだしたのだった。
 そのソ連は崩壊し、今日の世界は中国という共産党という名の一党独裁の社会主義を標榜しながら資本集積による大量安価生産品の輸出により、米欧諸国の生産体系が混乱を
呈して、失業者が街にあふれて、政府ががらがら崩れそうな状態である。
 ソ連死して中国が資本主義文明国をひっくりかえそうとしている。魯迅がまだ生きていたら、どんな雑文を書いてくれただろうか。
 虎は死んで皮を残す。さらあと10-20年後にこの虎はどうなるのだろうか。
      2011/12/01訳
 

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