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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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翻訳について

今年は「国産愛用年」で「米国小麦」以外の輸入品はすべてボイコットされた。四川では、今路上を歩く人の長い服を切れとの命を奉じておるが、上海の慷慨家は洋服が大嫌いのため、袍子(丈の長い清時代の服)と馬褂(羽織るもの)を思い出した。翻訳も旗色が悪くなり、どれもこれも一律に「硬訳」と「乱訳」と評された。然し私が見る限りでは、これらの「評論家」の中に、その一方で「良い翻訳」を要求する者は一人もいなかった。
 創作は自国民についてだから、確かに翻訳より身近で分かりやすいが、ちょっと注意を怠ると、すぐ「生硬」「乱作」の欠点が顕れ、その欠点は翻訳よりひどい。我々の文化の遅れは否定できぬし、創作力も当然外国人には及ばぬ。作品も比較的薄弱なのは止むを得ぬところで、やはり常に外国に学ばねばならない。だから翻訳と創作は同じように提唱すべきで、片方を抑圧してはいけない。創作を放任して駄々っ子のようにしたら、却って脆弱になる。以前外国品ボイコットの年に、国産メーカーは外国の歯磨き粉の二瓶を薄めて三瓶にし、商標を貼り変えて国産として売ったから、買った人は1/3以上損をした:
又あせも薬も恰好は輸入品と瓜二つで半値だったが、大きな欠点は塗っても効果が出ず、買った人は丸損だった。
 翻訳を重視するのは、それを借りて鑑にするためで、実は創作を催進し励ますためだ。ただ数年前、「硬訳」を攻撃する「評論家」がいて、彼の古いかさぶたの末屑を掻いて、膏薬の中の麝馨と同じで、量が少ないため自分では珍奇と考えたようだ。そしてその気風が伝布し始め、沢山の新しい論者が、今年になって皆軽薄にも輸入品を売り出した。軍人の飛行機大量買い付けに、市民が懸命に義捐するのに比すると、所謂「文人」なる者は、まことにとんでもないほどの昏庸(うとい)人たちだ。
 中国に沢山の善良な翻訳家が現れるのを望むが、それが不可能なら「硬訳」を支持する。
理由は中国にはまだ多くの読者層がいて、全くの人騙しではないものもあり、きっと誰かが何がしかを吸収できるだろうし、カラの皿よりは有益だから。又私自身もこれまで翻訳に感謝していて、例えばショ―の毀誉と現在提起されている題材としての積極性の問題について、輸入されたものの中に早くから明確な答えがあり、前者についてはドイツの
Wittvogelは「バーナードショ―はピエロ」の中でこう語る――
『ショ―氏が無産階級革命の考えがあるか否かは、決して重要な問題ではない。18世紀の
フランスの大哲学者達も決してフランス革命を望んでいなかった。そうではあるが、彼らはすべて必至なこととして社会を変えるあの種の精神崩壊へ引導する勢力であった』
(李大傑訳「上海のバーナードショ―」所載)
 後者としては、エンゲルスがM.Kautsky(Kautskyの母)への手紙に明確な指示をしており、今の中国に対して大変有意義で――
『更に今日のような条件下、小説は大体ブルジョア層の読者向けだから、私の見方として、正直に現実の相互関係を叙述すれば、あの上辺を蔽っている偽の幻影を引っ剥がし、ブルジョア世界の楽観主義を動揺させ、既存秩序の永遠支配に疑念を起こさせれば、社会主義的傾向の文学も十分その使命を尽くせた――たとえ作者がこの時まだ何か特定の解決を出せなくても、或いは作者がどちらの側に立っているか、明白でなくとも』
(日本、上田進原訳「思想」134号所載)      8月2日
 
翻訳雑感:
日貨排斥というスローガンが何回も掲げられた。茅盾の「林家舗子」という小説の映画化にも、江南地方の雑貨店がスローガンの出る前に群衆が争って買いだめに走る姿を映す。
魯迅がここで指摘しているのは、国産品愛用をいくら唱えても、その下をかいくぐる者が一杯いて、結局効き目の無い薬を買わされて苦しむのは庶民であるということ。
 それを翻訳の問題に結び付けて、デタラメの翻訳ばかりが横行している現状をやり玉にあげて、「創作」に(国産品愛用)注力せよという評論家にも一言文句をつけている。
文芸理論面でまだまだ遅れている中国の現状を改善するためには、「硬訳」でもきっと誰かがそれを吸収できるのだから、優れた作品は輸入して翻訳すべきだとして、自らも日本の雑誌からの重訳を紹介している。彼は新聞雑誌からこれはと思うものを翻訳引用して、
必ずや広い中国には誰かがこれを吸収してくれると信じていたのだ。大勢の人が吸収できなくても仕方が無い。何人かが共鳴し吸収してくれればよいと考えて翻訳に励んだ。
    2012/03/08訳
 
 
 
 

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文学社への書簡

編集者殿:
「文学」第2号の伍実氏の「中国のHughes」の冒頭に下記の一段があり――
『…ショ―翁は名流で、我々の自分で名流と任じている人たちが招いたもので、更に惟
名流が名流を招いたので、それで初めて魯迅氏と梅蘭芳博士が千載一遇の機会を得て、
一堂に会した。Hughesということになると、只単に我々の名流の心目中のその種の名流ではないのみならず、皮膚の色に顧忌が加わった!』
 確かに、ショーに会ったのは私一人ではないが、私が一度ショ―に会ったら、大小の文豪から、今まで嘲笑され罵られ、最近も例えばその為に、私と梅蘭芳を一緒に談じた名文となった。然し、あの時は招待者が私を呼んだのである。今回のHughes招待については、
私は通知も受けていないので、場所も時間も知らないから、どうして行けようか?たとえ呼ばれていても、行かないのも多分他の理由がある訳で、口誅筆伐の前に、もう少し考察しなければならぬようだ。今現在何の連絡もないのに、私が行かないと責めることはできぬし、行かぬからといって私が黒人を見下していると断定している。本人は信じているが、読者は事実について不明だが、たいてい信じるだろう。しかし私自身、私が畢竟そんなに権勢や利欲に走るような卑劣な人間になったとは信じられない。
 私を侮蔑し侮辱するのはいつものことだ:奇とするに足りぬし:もう慣れた。が、それはタブロイドや敵の発行物。少し識見を備えれば一目ですぐ分かる。だが「文学」は立派な看板を掲げ、私も同人だ。何ゆえに端無くもデタラメのことをこんなに辛辣な皮肉を書くのか!権勢や利欲に走る卑劣な老人が欠けているから、文学の舞台に踊らせて、観衆を愉快にさせ、且つ嘔吐させようとの魂胆か?私はまだそんな役柄に適した所にまで至ってはいないと信じている。その恐ろしい舞台から飛び降りられると信じている。その時はいかなる侮蔑嘲笑にも互いに矛盾は無い。
 伍実氏は仮名だと思うし、きっと彼も名流で、たとえHughesを招いても名流でなければ坐につけるとは限らぬ。だが彼が上海の所謂文壇でそれらのキツネやネズミとは違うなら、人身攻撃をする時は、少しは責任を負うべきで、彼本人に関する姓名を宣告して、本当の顔と口を開示せねばならぬ。これは政局にも無関係でなんら危険も無い。況や我々は
かつて面識があり、顔を会わせればきっと遠慮し合うかも知れぬ。
 最後にこの書簡を「文学」第3号に発表するよう要求する。  魯迅  7月29日
  
訳者雑感:雑誌「文学」で仮名による人身攻撃。よほど腹に据えかねたとみえる。出版社注では同誌の編集者の一人という。ちなみにHughesは1902―67の黒人作家で、この時訪ソして帰米途路上海に立ち寄り、上海文学社、現代雑誌社、中外新聞社などが招待会を開いた由。同人に対して編集者が仮名で人身攻撃する意味は何だったろうか?魯迅を攻撃のやり玉に挙げれば喜ぶ読者もいた。信じる読者もいたものか。 
 2012/03/06訳

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近頃の読書人はしばしば中国人は大皿に撒かれた散沙のようだと嘆じ、何とかしようとも考えず、こんなに悪くなった責任をみんなのせいにする。しかしこれは大部分の中国人への冤罪である。小民は無学だし、ものの見方も不明な点が多いが、自分たちの利害に関わると知ったら、どうして団結しないということがあろうか。かつては跪香という請願の方法があり(役所の前で跪いて香を焚いて冤罪を訴えること:出版社注)、民変、造反もあった:現在も請願等がある:彼らが沙のようにばらばらなのは、支配者にうまく「治め」られているからで、文語で言えば「治績」されているのだ。
 では中国にはまとまった沙はないのだろうか?あるにはあるが、それは小民ではなく、大小の支配者だ。
 またよく「昇官して蓄財する」というが、この二つは並列ではなく、昇官しようとするのは、只只蓄財のためで、昇官は蓄財の手段にすぎぬ。だから官僚は朝廷に依存しつつも、決して忠義的ではなく、吏卒も役所に依存しつつも、役所を守らず、ボスが清廉な命令をしても手下は決してそれを聞かず、「ごまかし」で糊塗する。彼らは自分のため、自利の沙で、身を肥やせるときはせっせと肥やし、それぞれが皇帝で、尊大になれるところでは尊大になる。ある人達がロシア皇帝を「沙皇」(ツアーリの漢訳)と訳し、この輩に贈ったのは実に的確な尊号である。財はどこから来るか?小民の身から搾取するのだ。小民が団結すると面倒なことになるので、あらゆる手立てを講じて、散沙にしておかねばならぬ。
沙皇が小民を治め、全中国は「大皿に撒かれた散沙」になった。
 しかし沙漠以外にも団結した輩がいて、彼らは「無人の境に入るが如く」に侵入してきた。(沙漠はロシア、それ以外は日本を指す:出版社)これが沙漠上の大事変。この時、
古人は極めて適切な二句の比喩をつくり「君子は猿と鶴、小人は虫と沙」と呼んだ。その君子たちは、空を舞う白鶴でなければ、木に上る尾長猿の如しで、「木が倒れたら尾長猿も
散じる」となるが、他の木もあるので苦しみはしない。地上に残ったのは小民の蟻と泥沙で、踏みつぶしても何の問題も無い。彼らは沙皇に刃向えないのだから、どうして沙皇に
勝った相手に敵対できようか?(ロシアに勝った日本のこと:出版社)
 しかしこの時にどうしても一言云い出す者がおり、小民に厳重な質問を発し:「国民は何を以て自分を処すべきか」とか「国民に問う、何を以て善後策とするや!」と。忽然「国民」を思い起こし、他は何も言わず、彼らにこの質問に答えさせようとするが、それは手足を縛った人間に向かって、強盗を捕えろと要求するに等しくないか?
 但しこれは正に沙皇治績の後ろ盾の下で、猿が鳴き、鶴が啼いた尾声で、己を肥やす尊称の余に、必然到来する最後の一着である。     7月12日
 
訳者雑感; 大皿に撒かれた散沙と言われた小民。沙漠から中国に侵入してきたツアーリの軍とそれに勝った日本。それらを後ろ盾に、蟻の小民を搾取する猿や鶴。イソップ童話になぞらえているようだ。     2012/03/05 啓蟄、雨の朝 訳

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一段下がってみては如何

「文学」第一期の<「図書評論」が論評している文学書部分の清算>は面白くて有意義だ。この「図書評論」は単に「我々の唯一の評論誌」のみならず、我々の教授や学者たちによる唯一の連合軍だ。然るに文学書部分は、訳注に関する評論が大半を占め、その「清算」で指摘している点の他に、実はもう一つ大事な理由があり、それは我々の学術界・文芸界で働く人が、大抵は皆、実力の無いくせにそれよりも一段高い所にいるからだ。
 校正員は排版の格式に通暁し、大変沢山の字を識る必要があるが、今の出版物を見ると、
「己」と「已」「戮」と「戳」「剌」と「刺」を何人もの目が判別できていない。版式は元々
植字工の仕事だが、彼がいい加減にするのでその責めが校正員の肩にかかってくる。彼もそれに構わぬとなると、もう誰も構わなくなる。文を作る人はまず字を識る必要があるが、
文章には往往「戦慄」を「戦慓」、「已経」を「己経」とし:「非常頑艶」は嫉妬で人を殺すこととなり;「年はすでに鼎盛」は60歳余の人だと説くことになる。訳注は、「硬訳」でなければ「誤訳」となり、訓斥と訂正のために9冊の「図書評論」の文学部分の一半を占めているのが動かぬ証拠である。
 こうした間違いだらけの本が出るのは大抵社会的な需要があるとみて、怱々と投機的に
出版するからだが、その任に堪える人が、自己の評価を貶めてまで、この労多くして利の少ない仕事をしないためである。そうでなければ、これらの訳注者は、大学で学問だけに没頭し、教授たちの指示を謹んで聞く人たちばかりだからだ。誤訳をしない人達は、身を清めて遠くへ去り、出版界の上空には何も浮かんでいない。小兵が大将の旗を掲げておれるのは、翻訳の世界を辱めるものだ。
 では訳注できる人はどこへ行ってしまったのか?いうまでも無い。彼は一段上に跳ね上がり、教授や学者になったのだ。「世に英雄なくば、ついに竪子(こども)も名を成す」で、
まだ学生のほやほやが、虚に乗じ、庇護を得て、訳注者に変じた。物事も同じで、訳注者の卵が、高座に座り、昂然と法を説くようになった。デューイ教授は彼の実用主義、バビット教授は人文主義を掲げているが、彼らのところから細々したものを運びこんできて、中国の世界を大声で叱責する学者に変じたのも動かぬ証拠ではないか。
 中国の翻訳界を澄み清めるのに一番良いのは、皆が一段下がってみることである。その時ほんとうに愉快に任に堪えられるや否や。やはり確たる自信はないが。
                         7月7日
 
訳者雑感:魯迅は製本についても多くの注文を出している。天地はどれくらい取るべきか。
余白を必ず設けて、読者が何か思いついて書きつけるに便宜なようにとすると共に、読者の目を大事にした。それで彼をスタイリストと呼ぶ人がいる。挿絵を特に大切にしたのは子供のころに愛読して、その上から丁寧に書き写したものを本にして楽しんでいた由。その後お金に困った時、それを買いたいという裕福な子に売ったという。翻訳の挿絵を描くには、ほんとうにその作品のメッセージを理解していないと描けない。誤訳やいい加減な訳がはびこっていることを嘆いている。 
 またかつてはデューイが中国に来た時に彼の通訳を務めた胡適などが、暫く後に教授や学者になって、割の合わない翻訳をしなくなってしまうような状況を改善せねばならぬと説く。中国の翻訳本を見ると、何種類もの翻訳が出されているが、粗製乱造というか、しっかりした翻訳者が目を通していないような直訳、逐次訳、意訳をよく見かける。
 魯迅は東北で医学を学んだが、卒業はしておらず、学位も号もない。学者とか教授にならず、教育部で十数年間役人をして、講師として北京の大学数箇所で教えている傍ら、日本語やドイツ語などからの翻訳をたくさん出している。
        2012/03/03訳
 

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ことわざ(諺語)

 ことわざは一時代の一つの国民的意思の結晶だが、一部の人たちの意思にすぎぬと思う。「各人が門前の雪をはけ、人の家の屋根の霜に口出しするな」を例にとると、これは被圧迫者への格言で、人に奉公し・納税し・義捐金を出し・分に安んじよ・怠けるな・不平をこぼすな・とりわけ余計なお節介をするな、との教え:圧迫者はその中に入らない。
 専制者の反面は奴隷根性であり、権力を握ったら何でもやりたい放題だが、勢力を失えば即、奴才となる。(呉の)孫皓はとんでもない暴君だったが、晋に降るや、全くの幇間になった:宋の徽宗は在位中、とても尊大だったが、虜になった後、恥辱を忍ぶまでになった。主であった時は、他の人を全て奴隷にしたが、上に主がくると、自分が奴隷になる。これは天地の揺るがぬ定めである。
 だから圧制されているときは「各人は門前の雪をはけ、人の家の屋根の霜に口出しするな」の格言を信奉していたものが、一旦勢力を得、人を凌ぐようになると、彼の行動は打って変わり「人は門前の雪をはかず、逆に人の屋根の霜のお節介をする」となる。
 この20年常に目にしてきたものは:武将は元来兵を訓練し戦う者で、この兵というのは国内を安んじるためか、外敵を排除するためかは暫く問わない。要するに彼の「門前の雪」は軍を治めることなのに、どうしたわけか教育に口をはさみ、道徳の番人のような行動を採る。教育家はもともと学校教育を弁じる者で、彼の業績がどうであれ、要するに彼の「門前の雪」は学校業務だが、どうしたわけか彼は「活仏」にひれ伏して、漢方医を広めようとする。細民は軍に従って、人夫にされ、ボーイスカウトは家ごとに募金をつのる。親分が上で勝手なことをすれば、蟻民はその下でごっつんことぶつかり合う。その結果各人の門前はとんでもない状態になり、各人の家の屋根の上もごたごたになる。
 女性が腕や脛を露出し始めたことが、賢人たちの心を動揺させたようで、かつて多くの人が声を大にして、禁止を主張したことがあり、確か後に明文化して禁じた。所が今年また「衣服は体を蔽えばよく、前も後ろも更に長く垂らすのは布の無駄…時局の困難に鑑み、
今後のことを考えて」四川の営山県知事は公安隊を派遣して、通行人の長い衣服を切るよう命じた。長衣はもちろん無駄なものだが、それを着ないとか、裾を切ることで、「この難局」を救おうと考えるのはなんか特別な経済学のようだ。「漢書」に「口から出る言葉は天の定めた憲法だ」という句があるが、これが正にその謂い也。
 ある種の人たちはきっとこの思想とものの見方しか無くて、彼自身の階級を越えられない。というと何やら諱を犯す階級のことを提起しているようにみえるが、実際そうなのだ。
謡諺がけっして全国民の意思ではないのはこのためだ。昔の秀才は知らぬことは何も無いと自負していた。「秀才は門を出でずとも天下の事を知る」といううぬぼれた大ボラを吹いて、細民もそうだと思い、これがだんだんことわざになり流布した。が「秀才は門を出ても、天下のことを知らない」のだ。秀才はただ秀才の頭脳と目だけで天下の事など何も分かってはいないし、考えも明確にできるわけではない。清末維新の為に、常に「人材」を西洋に派遣して考察させたが、彼らの日記を見ると、彼らが最も奇としたのは、洋館の蝋人形が生きている人とチェスを打てることくらいだ:広東の南海県の聖人康有為は錚々たる人で、11カ国を歴訪し、バルカンまでやって来て初めて、外国でよく「君を弑す」事が起こるのは、曰く:宮殿の壁が低いせいだ、と。   6月13日
 
訳者雑感:魯迅が北京で教育部に奉職していたころ、軍閥が日本軍と戦わないで嘆願に来た学生に向かって発砲して沢山の学生を殺した。それでいて学校の運営に口をはさみ、余計なことばかりして本来の「軍を治めて国内を安定させ、外敵から守る」ことはおざなり。
学校を弁じる教育部の「上」は生き仏を拝み、漢方医を広めようと時代錯誤のことばかりして、これも門前の雪をはかないで、要らぬ世話ばかりやく。
 3.11の原発が爆発したとき、首相として本来の「門前の雪をはく」ことを二の次にして、現場に飛びだし、技術の責任者でもあるかのように振舞い、こまかな電源のサイズなど追及したり、何かの救急処置を命ずるなどまさに「他人の家の屋根の霜に口出しする」ことで、混乱した政府の「上」の採る行動、振舞いは1930年代と2010年代の日本と何ら変わりが無いようだ。
      2012/02/29訳

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経験

古人から受け継がれた経験の中には極めて貴重なものがあり、それは多くの犠牲が払われていて、後の人に大きなメリットをもたらしている。
 偶々「本草綱目」を見ていてふとこれを思い起こした。この本はごく普通だが中身は豊富な宝で一杯だ。風をつかむような記述もあるが、大部分の薬の効用は悠久の経験からやっとここまで知ることができたのである。特に驚くのは毒薬の記述だ。古聖人を恭しく敬ってきたのは、薬は神農皇帝が独自にいろいろ試して出来たもので、彼は一日に72もの毒をためして、すべてその解毒法を見いだして毒死しなかった由。この種の伝説は今やもう人心に影響を与えない。人は皆、すべての文物は暦来の無名氏が一つひとつ徐々に造ったということを知っているから。建築・割烹・漁猟・農耕みな然り:医薬も。こう考えると、
この書は大変なものだということが分かる。だが古人が病気になると最初はこうとかああとか、すこしずつ試すほかなく、毒を食らったら即死。無関係な物なら何の効き目も無い。ある人が遂に効き目のあるものを飲んで好転し、そこでそれがその病気に効く薬と知る。このように累積し、或いは草創した記録が後に膨大な書「本草綱目」の如きものになった。
この本の中には中国人だけでなく、アラブ人やインド人の経験もあり、過去に払った犠牲の大きさは推して知るべし。
 然るに多くの人の経験も、後人に悪い影響を与えた物もあり、俗に言う「各人は自分の門前の雪をかけ、他家の屋根の霜に口出しするな」がその一つ。負傷者を救急に助ける時、注意せぬと、過去にはよく騙されたりした。更には悪い経験の結果、数え唄に「役所の門は八の字に開いているが、理があっても金が無い奴は入るべからず」という。
だから自分と関わりの無いことには遠く離れて、一切関わらないことになる。人間が社会生活を始めたころは、決してこんな風に相関せずでは無かったと思うが、豺狼が道に現れ、実際にそのために多くの犠牲者が出、後には自然にこんな風に道を歩くようになってしまった。それで中国では、特に都会では、路上に急病で倒れた人がいても、車が転覆して、けが人が出ても、人はそれをとり囲んで見たり、面白がって眺めるものすらいるが、手を伸べて助けようとする人は極めて少ない。これは犠牲と引き換えにした悪い点だ。
 要するに、経験から得た物は、良かれ悪しかれ、大変な犠牲が払われたもので、小さなことでも、驚くほどの代価を払うことから免れぬ。例えば近頃新聞を見る人は、何とか宣言・電文・講話・談話の類が四六駢儷体のどんな名論議であっても、見向きもしない。只見向きもしないだけでなく、冷笑の種にしてしまう。そんな文章のどこに「始めて文字をつくり、衣装を定め」云々と同じような重要さがあろうか。しかしこの小さな結果すら、
広大な土地を犠牲にし(満州の意:訳者)多くの生命財産を引き換えにしたものだ。生命とは勿論他人の命で、もし自分の命ならこの経験は会得できない。従って、一切の経験は只、生きている人だけが持てるものである。人が私を風刺して、死を怖がる臆病者とけなせば、自殺するとか命がけで何かするだろうというペテンには決して騙されないし、ここに、こういう文章を書かねばならぬのは、まさしくこの為である。
しかしこれも小さな、小さな経験の結果である。     
 6月12日
 
訳者雑感:去年広東で2歳の女の子が車にひかれて倒れているのに、十何人もの通行人や車を運転していた人たちは、手を差し伸べて助けようとしなかったことが大問題になった。
仏山という都会の商店街でのことだが、以前に老婆が車にひかれたのを助けようとした人が、逆に訴えられて、莫大なお金を払わされることになったのが、多くの人の頭に残っていたとの解説があった。中国で特に都会で道を歩く時は、昔から人間のマスクをかぶった豺狼の餌食、犠牲になったという多くの経験があり、それと引き換えた智恵が根強く残っている。野次馬にはなるが、手を伸ばして助けた時には、大変な犠牲を払わされるという
悪い点を治すにはどうしたらよいだろうか。
 女児は掃除のおばさんが見つけて助けようとしたが、病院で死亡した。きっと他所から出稼ぎにきた農婦だろうが、魯迅の言う、社会生活を始めたころの感情をそのまま保っている田舎で育った純朴な人であろう。
   2012/02/22訳

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「蜜蜂」と「蜜」

陳思様:
 「涛声」の「蜜蜂」の批評拝読。感じた事を二点下記し、専門家の判断を仰ぎたく。
但し私はここで議論をする考えはありません。というのも「涛声」は訴訟する場ではないと思いますから。
 村民が、蜜蜂の群れを焼いたのは別の理由があったからで、階級闘争の為ではないと思います。だが、蜜蜂は虫媒花にとって有害か堂か、又風媒花にとって有害か堂か、私はこれが問題だろうと思います。
 昆虫は虫媒花の受精に役立ち、無害のみならず有益だと、簡単な生物学でもそう説いていて、確かにその通りです。但しこれは常態の場合です。蜂が多すぎて花が少ないと、
状況は異なり、蜜蜂は花粉を採り、飢えを凌ぐために一つの花に数匹ないし十数匹が一挙に入って争うため、花弁を傷つけ、飢えの為、花芯も咬んでしまい、日本の果樹園もこの種の傷害に遭ったそうです。それが風媒花にも向かったのは飢餓の為です。そうなると蜜を採るのは二の次で、花粉を食べてしまうことになる。
だから花がどれくらい咲いたかを見て、蜜蜂の需要を満たすようにすれば、天下太平です。そうしないと「反動」が起こってしまう。蟻はアリマキを養い護っているが、同じ場所に閉じ込めて、他に餌を与えぬと、これを食べてしまう:人間も米麦を主食とするが、飢饉には、草根樹皮をも食べるのです。
 中国ではこれまでずっと養蜂してきて、なぜこのような弊害が無かったか?答えは極めて簡単:少なかったからだ。最近養蜂という商売が増え、これに従事するものが増えた。然し中国の蜜は欧米より遥かに安価なので、蜜を売るより蜜蜂を売る方が儲かると、新聞で鼓吹したため、養蜂で稼ごうとする者が輩出し、その結果、蜜蜂を買う者が蜜を買う者より多くなった。このため、養蜂者の目的は採蜜より繁殖に向かった。だが果樹栽培の方が足並みをそろえて発展していないため、遂には成蜂が多く、花が少ないという現象が起こり、上述のような混乱が発生した。
 要するに、手立てを講じて、蜂蜜の用途を広げ、同時に果樹園農場などを増やさずにおいたまま、蜂の子を売って目先の利益だけを挙げようとすれば、養蜂業はすぐにも道を断たれるだろう。この手紙は是非雑誌に発表して下さい。心ある人びとの注意を喚起したい。
取り急ぎ用件のみ。お元気で!  
 羅憮(ペンネーム) 6月11日
 
 訳者雑感:出版社注では、これは無錫で起こった事件を題材にした小説「蜜場」についての魯迅の別名での手紙である。養蜂業者が大量の蜜蜂を放ったため、被害を受けた農民たちが一斉に火をつけて蜜蜂の群れを焼いたもの。
1933年も2011年も「目先の利益」を求めると言うことは余り変わりが無いようだ。日本
にも「隣百姓」といって、隣が植えた作物をみて、同じものを植えておけば間違いない、
という安易な考えだ。ある作物が高値で売れるとなると、一斉に同じものを植える。
その結果、実る頃には暴落して、畑に棄てたままとなる。昨年中国でも河南省かどこかの
農民ができすぎて暴落した作物を、畑で腐らせてしまうのはもったいないとして、ネット
か何かで、採りに来てくれたら「無料提供」すると発表したら、近郊から車で予想以上の
人が集まって来た。遅れてやってきた群衆は、畑には一つも残っていないので、近くの他
の作物をあさりだし、根こそぎ持って行ってしまった、と報じていた。泣くにも泣けない
と善意から申し出た農婦は「泣き面に蜂」であった。
1933年の蜜蜂は農民の育ててきた作物の花をめちゃくちゃにしたので、農民が立ちあがって、養蜂業者の蜂の群れに火をつけて燃やしたが、今回の群衆は、蜂蜜より凄まじい。
それにしても、蜜が安価のままなのに、蜂の子が飛ぶように売れるというのもおかしな話ではある。大連ではアカシアの花の蜜からおいしい蜂蜜を堪能した。本来蜜蜂は北方の寒い所で養蜂すると、花の咲く短い期間にせっせと蜜を貯めるので採算がとれるそうだ。逆に年中花の咲いている南方では、蜜蜂はあまり蜜を貯めようとしないそうで、無錫辺りは
養蜂に適さないのかもしれぬ。
   2012/02/20訳

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又「第三種人」を論ず

 戴望舒氏が遥かフランスから通信を寄せ、仏A.E.A.R.(革命文芸家協会)がジードの参加を得て3月21日に大会を招集:独ファシストへの強烈な抗議とジードの演説を紹介して「現代」6月号に発表した由。仏の文芸家協会がこの様に義に基づいて声明を出すのはいつもの事で:かなり昔だが、ゾラがドレフェスの為に告訴した如く、アナトール・フランスがゾラの改葬時に講演した等:最近もロマン・ロランの戦争反対表明がある。ただ、今回実に歓欣にたえないのは、目下直面している問題であり、私もまたファシストを憎む一人のためだ。だが、戴氏はこの事実の報告といっしょに、中国左翼作家の「愚蒙」を軍閥と同様に、横暴だとしている。私はこれについて少し意見を述べたいが、誤解しないでもらいたいが、弁解するとか、中国も所謂「第三種人」から、独の被圧迫者と同じように声援を得たいとかいう気は一切ないのである。中国が本や新聞を焚書、発禁或いは出版社を封鎖閉鎖し、作家を囚殺しているのは、実は独の白色テロよりずっと前からあったことであり、且つまた世界の革命的文芸家からの抗議も得ている。今言いたいのはその通信の中身について指摘せねばならぬ数点にすぎぬ。
 その通信はジードの抵抗運動への加入を述べた後に言う――「仏文壇ではジードは
『第三種人』と呼べる。…彼は1891年から今まで終始芸術に忠実な人だった。然し、自己の芸術に忠実な作家が資産階級の『幇間』とは限らぬ。仏の革命作家はこの種の愚蒙な見解は持たず(或いは精明な策略というべきか)、その為に熱烈な歓迎を受け、ジードは群衆の中で発言した」
 これは「自己の芸術に忠実な作家」であり且つ「第三種人」であって、中国の革命作家は「愚蒙」で、この種の人を全て「資産階級の幇間」としているが、今すでにジードに
よって「そうとも限らぬ」ことが証明された。
 ここに二つ、答えなければならぬ問題がある。
第一、中国左翼理論家は真に「自己の芸術に忠実な作家」を全て「資産階級の幇間」としているか堂か。私の知る限り決してそんなことはない。左翼理論家が如何に「愚蒙」でも、
「芸術の為の芸術」が出てきた時、それは一種の社会のルールに対する革命ではあるが、
新興の戦闘的芸術の出現を待って、なおこの古い看板を掲げ、蔭に日向にその発展を阻害する。それこそが反動であり、単なる「資産階級の幇間」にすぎぬ事を知らぬ訳ではない。「自己の芸術に忠実な作家」については決して一律に考えていない。どの階級に属するかを問わず、作家はすべて一個の「自己」があり、この「自己」が彼の元々の階級の一分子で、彼自身の芸術に忠実な人であり、彼の元もとの階級に忠実な作家でもあり、資産階級もそうであり、無産階級もそうである。これは火を見るより明らかで、左翼理論家も分からぬはずは無い。だが、この戴氏は「自己の芸術に忠実」と「芸術の為の芸術」をすり替えて、真に左翼理論家の「愚蒙」を暴こうとしている。
 第二、ジードは本当に中国の所謂「第三種人」か?ジードの本は読んでないので、作品を批評する資格は無いが、私は信じている:創作と演説は、形式は異なるが包含する思想が違うということはない。戴氏の紹介する演説から二段引用できる――
『ある人が私に「ソ連もいっしょだ」と言うかもしれない。その可能性もありうる:但し、目的は全く異なる。新社会建設の為に、それまで圧迫されて来た者たち、発言権の無かった人たちの為にするのであるが、やむを得ず、やり過ぎという面は免れぬ。――』
『私はなぜ且つ如何にしてここで私があの本(ソビエト紀行)の中で、反対したことに賛成するのか?それは独の恐怖政策に対して、最も嘆かわしく憎むべき過去が再演されているためであり、ソ連の社会創設には将来の無限の約束を見たからである』
 これは非常に明白である。手段は同じだが目的が違うとして賛成か反対かを分けている。ソ連十月革命後、芸術を重視する「セラピオン兄弟」という団体は「同伴者」とも称されたが、かれらはそれほど積極的ではなかった。中国の「第三種人」という言葉は今年専門の本が現れ、それで調べることができるが、凡そ「第三種人」と自称する人の発言に、これに似た意見が少しでもあったろうか?無いのなら敢えて断定的に「ジードは『第三種人』
といってはいけない」と言おう。
 然るに正に私の言うようにジードは中国の「第三種人」とは違うのに、戴望舒氏も中国左翼作家と仏の大変な賢愚の差を感じている。大会に参加して、独の左翼芸術家の為に
義憤を発した後、中国左翼作家の愚蠢で横暴な行為を思い起こし、最後に望んで感慨を止められず――
『我が国が独ファシストの暴行に如何なる意見表明したかは知らぬ。正に我々の軍閥同様、
我が文芸者も勇ましく内戦中だ。仏の革命作家とジードが手を携えた時、我が左翼作家は
まだ所謂「第三種人」を唯一の敵とみなしている』
 これに対しては答えるまでも無いのは、事実が具体的にあり:我々はここでも些か意見を発表したことがある。但し仏とは状況が異なり:雑誌ももう久しく「所謂『第三種人』を唯一の敵とみなす」的な文言を見ていないし、もう内戦もしていないし、軍閥の気味は全く無い。戴氏の予測は当たっていない。
 然るに、中国左翼作家は戴氏の意中の仏左翼作家と同じように賢明か?決してそうは思わぬし、そうなれるものでもない。すべての発言が削除されない時なら、「第三種人」に関する討論を新たに提起し、展開する必要が大いにある。戴氏の見いだした仏革命作家たちの隠れた心は、この危急の時に「第三種人」と提携するのも「精明な策略」だろう。だが、単に「策略」に依るだけでは何の役にも立たぬと思う。適切な見解があってはじめて、
精明な行為を出て来るもので、ただジードの講演を読めば、彼は決して政治に超然としていて、軽々に「第三種人」と称せぬことが分かる。歓迎すべきは必ずしも隠れた心を備えることでもない。だが中国の所謂「第三種人」はもっと複雑だ。
 所謂「第三種人」は、元は甲と乙の対立或いは相争う外側に立つ人を指した。実際には、
それはあり得ない。人は太っているのと痩せているのがいる。理論上は太っても痩せてもいない第三種人がありそうだが事実上いない。ちょっと比べてみれば、太めとか細めになる。文芸上の「第三種人」も同じで、たとえ不偏不倚の様でもきっとどこか偏っているし、平時は意識的或いは無意識に蔽っていても、切羽詰まると明らかになる。ジードも左傾したのは明らかで;他の人も数句の内に明らかにそうなっている。だからこの混乱の群中に、ある者は革命と共に前進し共鳴し:ある者はこの機に乗じて革命を中傷曲解しようとする。
左翼理論家はこれを分析する任務がある。もしそれが「軍閥」の内戦と同じなら、左翼理論家は必ずその内戦を続けるべきであり、陣営を明確に分け、背後からの毒矢を抜き取らねばならぬ。           6月4日
 
訳者雑感:この時代に使われた「第三種人」という概念を魯迅は最後のところで説明している。この世の中に太ってもいず痩せてもいないという「第三種人」は存在しない、と。
だが、右でも左でもない、資産階級の為でもなく、無産階級の為でもないという甲乙の外側に立って、文章を書くことができるかどうか?これは戦時中の日本でも同様であって、ドイツと同様な弾圧がおこなわれたとき、ファシズムに賛同して戦争賛美の文章を書く作家とそれに抗議する文章を書いて投獄される作家。その外側にいることは「無言」を通すしかない。
    2012/02/18訳
 

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金聖嘆を談ず

 清の文字の獄について語る際、金聖嘆を持ちだす人がいるが、それは適切ではない。彼の「哭廟」(廟に哭す)は近年の事に譬えれば、前年の「新月」に三民主義に依って自ら弁じたのと何も違わない。単に教授職を得られなかっただけでなく、首を切られるに至ったのは、彼がとっくに官紳たちから悪者をみなされたためだ。事実に即して論じても、冤罪にされる。
 清の中期以降の彼の名声にもいささか冤罪がある。彼が小説伝奇を「左伝」「杜詩」と、
並列させたのは、実は袁宏道輩の唾液の余を拾ったに過ぎないが:彼の批判を経て、原作の誠実な点は往々にして笑い話になり、構成と文章も無理やり八股の作法にのせられた。
この余蔭はたとへ何人かの人たちが「紅楼夢」の類に堕ち、常に伏線を捜し求め、破綻した泥池をさらってほじくりだした。
 古い書物を入手したと自称し、みだりに「西廂」の字句を改めた件はさておき、単に
「水滸」の後半の一部を切り取り、勝手に「稽叔夜」を登場させ、宋江達を皆殺しにすると夢想するのを咎めぬことも可能だ。流寇(流れ者の盗賊)を強く憎んだとはいえ、彼はやはり官紳に近く、民衆の流寇に対する憎しみの一半すら思い到らず:その憎しみは「寇」(奪う)より「流」(他所から襲撃してくる)にあることを。
 民衆はもとより「流寇」を怖れるが「流官」もとても怖がる。民元革命後、私は故郷にいたが、なぜか県知事がしょっちゅう交替した。替るたびに農民は愁苦して「どうしよう」と互いに語った。「また腹ペコの鴨がやって来た!」と。彼らは今でも「欲望に限りは無い」という古訓は知らぬが、「勝てば官軍、負ければ賊」の成語は知っており、賊とは流れ者の王、王とは流れぬ賊也。簡潔に言うと即ち「居座っている寇」だ。中国の民はこれまで、
「蟻民」と自称してきたが、譬えるに便利なように今しばらく牛に昇格させると、鉄騎が
一過すると、毛の生えたまま食われ血も吸われ、蹄から骨までめちゃくちゃにされる。もし避けることができるなら、勿論何としても避けたいと思う。彼らが勝手に野草を食べ、いっときの余命を保ち、乳を搾りとられて「坐寇」に腹いっぱい飲ませ、その後はもうそれ以上鯨飲馬食しなくなると、彼らは天の恵みと思うようになる。
 その違いは只「流」と「坐」にあり「寇」と「王」にはない。試みに明末の野史をひもとけば、北京の民心がよく分かる。李自成が入城した時は彼が出て行った時の凄まじさに及ばぬ、と。
 宋江は山塞を根拠に民家を破壊し、富者から奪い、貧を救ったが、金聖嘆は童貫高俅輩の爪牙の前で、一人ひとり首を俯させて受縛させたが、彼らにはさっぱり訳が分からなかったろう。だから「水滸伝」はたとえ尻切れトンボでも田舎の人たちには「武松が独りで
方臘を生け捕る」のような劇を見たがるものだ。
 これは過去のことで、今は新たな展開があるようだ。四川に民謡がある由で、大意は
「賊は櫛の如く来、兵は篦(へら、すきくし)の如し、官は剃刀の如く来る」のようだ。
自動車や飛行機は大型のカゴや馬車よりずっと高いし、租界と外国銀行は開国以来、新たに添えられたもので、単に毛髪を剃り尽くすだけでなく、筋肉を削り尽くしてもそれだけで満足せぬ。まさしく民衆が「坐寇」の恐ろしさを「流寇」の上に置くのも無理からぬ事。
 事実はこうしたことを教えてくれるが、僅かに残された道は勿論彼らが自分の力に思い到ることである。 
               5月31日
訳者雑感:辛亥革命後、故郷で教職にあった魯迅は県知事がしょっちゅう交替したのを見た。勝てば官軍で、革命軍に(後から)入った連中がポストを求めて次々に各地の知事に就き、しこたま稼いでは別の所に移って行った。郡県制で中央から派遣される知事が各地の県庁所在地などで「行政」「治安」に携わるというより「荒稼ぎ」に専念するという昔からの弊害が起こった。
 過去6年毎年首相が替る国の民として、あまり辛亥革命のころを批判なぞできない。彼らの目的は「荒稼ぎ」だった。この国の首相の目的は何だったのだろう。「行政」に専念して、「良い国にする」というよりは、自分が「首相」という地位に就きたい為だけのように
思われて仕方が無い。
 
 四川の民謡は大変示唆に富む。数年前に中央から派遣されて来たトップとその右腕が、四川の重慶に巣くう「やくざ、ごろつき、黒社会」を一網打尽にしたと大々的に報じられてきた。だが今年に入って、その右腕が汚職の罪でお役御免となり、当人は米国領事館に
亡命を計って果たせず、今北京で取り調べ中の由。
 重慶という昔の香港、戦前の上海に擬せられる「魔都」でのできごとは21世紀も19世紀、戦前と余り変わりが無いことが分かる。旧社会がそのまま残っている。
       2012/02/15訳
 

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「守常全集」題記(李大釗)

守常先生に初見したのは、(陳)独秀先生から呼ばれて「新青年」をどうするかの相談の会の時で、この様にして知り合ったといえようか。その時に既に共産党員だったか堂か知らぬ。要は私の印象は大変良いもので:誠実、謙虚、温和、口数の少ない印象。「新青年」の同人には、暗闘や公開での争いをして、自分の精力を増やそうとするのが好きな者もいたが、彼はずっと後まで絶対そういうことはしなかった。
 彼をどう形容していいか難しい。いささか儒雅の風があり、そしていささか質朴で凡俗さもある。文士の様でもあり、官吏の様でもあり、また商人の様でもあった。このような商人は南方では見たことは無いが、北京にはいて、古書店や文具店の老板をしている。
26年3月18日、段祺瑞たちが、徒手請願の学生を銃殺した時、彼も群衆の中にいて兵隊に捕まり、何をしているかと尋問され、「商売だ」と答えた。兵隊は「じゃ、何をしにここへ来た。失せろ!」と押し出したので命拾いして逃げた。
 教員だと言ったらその時に死んでいたろう。
 然るに、翌年ついに張作霖たちに害された。
 段将軍の殺戮で42人死に、内数人は私の学生で実に心が痛んだ:張将軍の殺戮では十数人のようだが、手元に記録が無いので分からない。が、私が知っているのは守常先生只一人。アモイで聞いた後、楕円形の顔、細い目とひげ、藍色木綿の上衣、黒の馬褂(コート)
がしばしば眼前に現れ、その間に絞首台がちらりと見えた。痛恨はあったが、以前よりは淡かった。私の暦来の偏見で:同輩の死は青年の死ほどの悲惨さは感じない。
 このたび、北平で公然と彼の葬式が挙行された由。数えれば、害されてから七年経った。
極めて当然のことだ。彼は将軍たちによってどんな罪を着せられたのか知らぬ――大抵、
「民国に危害を及ぼした」に違いなかろう。然るにこの短い七年間の事実は、民国は四つの省(旧満州)をむざむざと放棄したのは、李大釗のせいなどではなく、彼を殺した将軍だということは、鉄の証拠で証された。
 公然と埋葬する寛大な計らいは理の当然である。だが、報道によると北平当局は路辺の祭りを禁じ、葬送者を拿捕したという。どういう理由か知らぬが、今回は「治安妨害」を
怖れたのだろう。もしそれが理由なら、鉄のような反証が実際に更に神速にやって来た:
北平の治安を妨害したのは日本軍か、人民かをよく看よ!
 だが革命先駆者の血は今では何の珍しさも無い。私自身についても七年前何名かの為に
激昻した空論を数多く発したが、その後、電気椅子、銃殺、斬殺、暗殺などに慣れてしまい、神経も段々麻痺し、少しも驚かなくなり、無言となった。これは新聞に「黒山の人だかり」が見せしめのための梟首を見物にでかけるという記事も、多分燈篭祭りを見に行く時より興奮しなくなったせいかも知れぬ。余りに多くの血が流されすぎた。
 しかし熱血の他に、守常先生には遺文がある。不幸にして遺文については何の話もできそうにない。彼と私とは「新青年」時代に携わった事が異なり、彼と同一戦線にいた仲間だが、彼の文章には当時まだ留意していなくて、譬えて言うなら、騎兵は必ずしも橋梁敷設に注意する必要は無く、砲兵は騎馬に神経を分散させる必要の無いように、当時自分は間違っていないと考えていた。従って今言えるのは:一、彼の理論は今から見れば必ずしも精確で適切とは限らず:二、そうではあるが、彼の遺文は永遠のものとなろうし、これは先駆者の遺産で革命史上の立派な碑である。
 一切の死んでしまった、或いは生きているペテン師たちの文集はすでに崩落してしまい、
書店も「損覚悟」して7-8割引きで安売りするしかない状態ではないか?それは過去と現在の鉄のような事実から未来を見れば、火を見るより明らかなことだ。
 本編はT氏の求めで書いたが、全集は彼と関係のあるG書局で出版予定だった為、断り切れず書くことになった。暫く後「涛声」に載せた。だが後に、遺集原稿の版権所有者が、
別のC書局に託し、今に至るも出版されず、当面出版の見込みは無い。私はみだりに題記を書いた軽率さを後悔したが、自分の文集には入れて一つの公案として記録する。
       12月31日 附記
 
訳者雑感:2009年の秋、北京大学の構内で李大釗の銅像を見た。通りかかった学生に頼んで写真を撮ってもらった。学生はみるからに外国人の私が彼に関心を持っているのがいぶかしそうだった。今の学生たちにとって李はどんな存在なのだろうかと聞いてみたい衝動に駆られたが、尋ねるのをやめた。
 私たちが学生だった頃、彼の「庶民の勝利」とか「労働者は神聖」という短文は安保条約反対デモとかベトナム戦争反対運動をする学生たちにとって、魂に触れる文章だった。
 それから40年の歳月が過ぎ、社会にいろんな問題が起こっても、デモや反対集会に参加するのは大抵が老年を中心にした30-40代以降の人たちで、20代の学生がそうした運動に首を突っ込むことは少なくなってしまった。これは中国でもそうだし、エリート校たる北京大学の学生も、李のことをもうほとんど知らなくなっていることをとやかく言ってみてもせんないことである。
 今手元の李大釗選集を取り出して、彼の肖像画が魯迅の記述の通りだと感じいっている。
李とか宋教仁とか若くして凶弾に倒れた先駆者を悼む心は大切にせねばならない。
 明治維新前後でも吉田松陰とか坂本竜馬とかある確固とした考えの持ち主は若くして、
投獄されたり暗殺されたりしている。その遺志を継いで維新が為されたことを今では余り
大切にしなくなった。萩や高知以外で、彼らを顕彰するものは希薄である。
魯迅が本文で李の当時の言論が必ずしも精確ではなかったと指摘している。確かにロシア革命の同時代の彼の極めて熱っぽい論調はモスクワの現実とはある程度の距離があったろうし、中国革命の志士たちの疾風怒濤の言論には行き過ぎの面があったことも否定できない。それにしても、その熱は大変なものであった。核エネルギーの如くに。
       2012/02/14訳
 
北京大学の李大釗の像

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