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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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ほんとのドンキホーテと贋者

 西洋騎士道の没落がドンキホーテのようないっこく者を産んだ。彼はほんとは真面目な本の虫である。暗い夜に宝剣を掲げ、風車に挑むのを見れば、確かに掬すべき間抜け面で、
おかしさに憐れを覚える。
 然しこれがほんとうのキホーテだ。中国の江湖派と無頼の輩は、キホーテのような真面目な男を愚弄しながら、その一方でドンキホーテの恰好を演じて見せる。「儒林外史」の中の何人かの公子は、任侠剣仙たちを慕い、その結果この種のニセキホーテに数百両を騙し盗られ、その代わりに血の滴る豚の頭を受け取る。――その豚の頭は侠客の「君父の仇」
というわけだ。
 ほんとのキホーテの間抜け面は本人の愚鈍のためだが、ニセのは故意に間抜け面をして、他の人の愚鈍さにつけいって剥ぎ取ろうとする。
 だが中国の民衆はそれを看破れぬ程愚鈍とは限らぬ。
 中国の現在のニセキホーテたちは、大刀では救国できぬことなど知らぬはずもないが、
彼らはひたすら舞を舞って見せ、毎日「幾百幾千の敵を殺せ」とみだりに叫び、更には
「特製の鋼刀九十九本を敵前の将士に贈った」という者もいる。
 しかし豚を殺す為には叉飛行機義捐金(を集めることも)も忘れられず、そこで「武器が精鋭でない」との宣伝をし、一方では少しずつ退却或いは「敵を奥地に誘い込む」として、その一方でこれをネタに豚を殺す費用をかき集めようとする。残念ながら前に西太后あり、後に袁世凱ありで――清末の海軍興復金で頤和園を造り、民国4年の「反日」愛国
準備金で当時の革命軍討伐の軍需費を増大したが、でなければ今度は新たな手法を発明したと言えよう。
 彼らは「国産品愛用」などで民族産業を振興できぬことを知らぬはずもなく、国際的な
資本家が中国の喉元を押さえ、息もできぬほどなのに「国産品愛用」などと騒いでも、資本家の掌から跳びだせぬ。しかし「国産品年」は宣言され「国産品市場」も成立し、もっともらしくまるで抗日救国は、仮面をかぶった買弁がもっと沢山稼ごうとするかの如し。
その金もやはり豚犬牛馬からはぎ取って来たもの。「生産力拡大」「労資協調で国難に向か
え」の呼び声が聞こえぬか?
 元来が、細民を人とみなさずに来ておいて、細民を豚犬牛馬として「救国の責務」を負えとでも言うのか!結果、豚肉をニセのキホーテに食べさせ、豚頭は切って吊るし「後方で攪乱する」者への戒めとした。
 彼らが「中国の固有文化」が帝国主義を呪い殺せぬことを知らぬわけがない。何千万回
「不仁不義」或いは金光明呪を唱えても、日本に地震を起こさせ、大海に沈没などさせられぬことなど知らぬはずもない。
然し故意に大声で「民族精神」回復を叫ぶのは、何やら祖伝の秘訣を得たごとくだ。その
意思は明白で細民に懸命になって精神修養に励み、修身の教科書をたくさん読ませようとの趣旨だ。これが固有文化なのは本来疑いも無い:岳飛式の不抵抗を奉じる忠であり、国際連盟の旦那たちの命令を聞き、豚の頭を切り、豚肉を食べ、また庖厨を遠ざける仁義は、
身売り契約の信義を遵守し「敵を奥地へ誘い込む」式の和平だ。更に「固有文化」の他に
「学術救国」を提唱し、西哲Fihteの言葉などを引用する了見は、まさしくこれだけに止まらぬ。
 ニセのキホーテのこうした間抜け面はまさに哭き笑わざるを得ず:ニセのアホ、ニセの間抜けをほんとうのアホ、間抜けとみなすとなると、もうこれは本当に笑うべき憐れむべきことで、手の施しようの無い馬鹿である。   
               4月11日
 
訳者雑感:これは日本軍がどんどん侵略攻撃を仕掛けてくるのに、時の政府は「不抵抗」
「奥地に誘い込む」などの方針で、その一方「日貨不買運動」などで自国産業振興を唱えていた時代の文章だ。細民と訳した原語は「小百姓」で、政府の中にいるニセのキホーテたちに豚のように食い物にされる人たちだ。その頭は処刑後に吊るされ「攪乱」をはかる者への戒めとされた。
 3.11の時、一方で日本の公序良俗のすごさをほめたたえたブログも沢山あったが、一方では「いい気味だ」式の「これまで日本にめちゃくちゃにされてきた戦争中」とこの4-5年の反日感情がにょっと鎌首をもたげた者も散見された。
 1933年日本が中国侵略中にも中国内には日本に大地震が起こって、大海の中に沈没しないかとの呪文を唱えていた者がいたことが分かる。元寇のときの日本が元の侵略軍が神風で船ごと沈没するように加持祈祷していたものがいたとの「話」と似通ったものがある。
         2012/02/12訳
 
 
 

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女について

 国難の折り、女性も大変受難しているようだ。一部の正人君子は女性が奢侈を好み、国産品を愛用せぬと非難する。ダンスや肉感など凡そ女性にまつわるものを罪となす。まるで男はすべて苦行僧になり、女もみな修道院に入れば、国難を救えるかの如し。
 だがそれは女性の罪ではなく、正に彼女の可憐な点で、今の社会制度は彼女を各種各様の奴隷に追い込み、更に色んな罪名を彼女の頭上にかぶせる。前漢末、女性の「堕馬髷」
(鞍から堕ちたような髷)「愁眉啼の化粧」(細い眉)が亡国の兆しと言われた。
 だが漢の亡国が女性のせいなものか!ただ人々が女性の装束を見て嘆息するのを見れば、当時の支配階級の状況が、大抵具合が悪くなっていることが分かる。奢侈と淫靡は社会崩壊腐敗現象の一つに過ぎず、けっして原因ではない。私有制社会は元来女性を私有財産とし、商品とみなしてきた。あらゆる国で宗教は多くの奇妙な規則を作り、女性を不吉な動物とし、彼女を威嚇し奴隷の如く服従させ:同時に高等階級の玩具とした。正しく今の正人君子の如く、彼らは女性が奢侈だと罵り、しかつめらしく良風を維持せんとし、と同時にこっそりと肉感的な大腿文化を享受している。
 アラブの昔の詩人は:「地上の天国は聖賢の経書にあり、馬の背にあり、女性の胸にある」
と言ったが正にその通りだ。
 もちろん色々な売淫は決まって女が役割を持つ。然しながら売買は双方のこと。買淫する客がいなければ売淫する娼婦もいない。だから問題は買淫する社会の根源にある。この
根源がある限り、即ち主動的に買う者がいる限り、所謂女性の淫靡と奢侈は消滅しない。
男が私有制の主であると、女は男の所有物に過ぎぬ。多分そのせいだろう。彼女の家財に対する愛惜の気持ちが少し劣るのは。彼女は往往、「敗家の精」(家を台無しにする妖精)になってしまう。況や現在、買淫の機会があれほど多いとなると、家庭の女性も直感的に自分の地位の危険を感じるのである。民国初年に聞いた話では、上海の流行は上級下級の
娼婦から妾に伝わり、妾から奥方・若夫人・娘へと伝わった。これらの「家人」たちも多くは無自覚の内に娼婦と競って――当然ながら彼女等は精いっぱい自分の体を飾ろうとし、男の気をひきつける物すべてを身に飾ろうとした。この飾りの代価は大変高いし、日に日に値上がりし、それは単に物質に止まらず、精神的なものに波及した。
 米国の百万長者は:「我々は共匪(原文には匪の字は無いが、謹んで改訳する)など怖れぬ。我々の妻女が我々を破産させるから、労働者が没収に来ても、間にあわぬ」という。中国も多分、労働者が「間にあう」ことになっては大変だとばかり、高等華人の男女はこの様に急いで。せっせと浪費、享用し、気分よくなりたいため、国産か否か等お構いなし。良俗とかへったくれもない。然るに口では良俗を維持し、節約を提唱しなければという。
         4月11日
 
訳者注:出版社の注には、本編を含む12篇の雑文は1933年に瞿秋白が上海で書いたもの。
その中には魯迅の意見に基づいたものや魯迅と相談して書いたもの。魯迅は字句を訂正し
たものを、別の人に清書してもらった上で、自分の使っていた(別の)ペンネームで雑誌に載せたもので、それを後に自分の文集に入れた、という。
 当時の出版事情というか政府の厳しい検閲などからこうした手法がとられたものか。原稿料はきっと本人に渡して、生計に充てさせていたものだと思う。それらの事を講じても、
瞿秋白は官検に捕まり、殺されてしまった。彼が編集した「魯迅雑文集」は当時の青年たちに、魯迅のエッセンスを伝えて、魯迅の評価を高めたと言われている。
 
 それにしても、中国の女性の奢侈と淫靡さの根源がこうした社会の仕組み、即ち、高等華人たちがたくさんの妾(これは家の外で)、及び第一第二第三夫人(これは家の中で)というものを持ち、なおかつ外で高級娼婦を買っていたから、「家人」たちもそれらと競うために、「家を敗する」ほど奢侈贅沢に走り、物質面のみならず、精神的にも頽廃していったと喝破するのは、魯迅一人ではなく、瞿秋白が発想したものであろう。
     2012/02/10訳
           

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私はどうして小説を書くようになったか

私はどうして小説を書くようになったか?この由来は「吶喊」序文に略説した。ここで
少し補うべきは、文学に心を砕いていた頃の状況は今と非常に違っていたこと:中国では
小説は文学とはみなされず、小説家も文学家とはけっして称せず、従ってこの道で世に出ようとは誰も思わず、私も小説を「文苑」に担ぎあげようと言う気も無く、その力を使って社会を改良しようと思ったに過ぎぬ。
 だが自ら創作しようとは思わず、紹介の方に力を注ぎ、翻訳、取り分け短編を重視し、特に被圧迫民族の作者の作品に注力した。当時は正に排満論が盛んで、青年達はあの叫喚
と反抗の作者に同調し、引き入れた。だから「小説作法」の類は一冊も読まなかったが、
短編小説はたくさん読んだ。一半は自分が好きだったからだが、大半は紹介の材料捜しだ。
また文学史と評論も読み、これも作者の人となりと思想を知りたいと考えた為で、中国に紹介すべきかどうか判断の為。学問の類とはまったく無関係だ。
 求める作品が叫喚と反抗の為、勢いどうしても東欧に傾き、ロシア・ポーランド及びバルカン緒小国の作家の物を特に多く読んだ。かつてインド・エジプトの物も熱心に捜したが得られなかった。当時一番好きだったのはロシアのGogolとポーランドのShienkiewitz
日本は、夏目漱石と森鴎外。
 帰国後、すぐ学校に勤めたので小説を読む暇が無く、そうこうして5-6年経た。なぜまた
始めたか?――これも「吶喊」自序に書いたから言うまでも無い。但し、私が小説を書くようになったのは、自分が小説を書く才能があると思ったわけではない。当時北京の会館(紹興会館)に住んでいたので、論文を書くにも参考書も無く、翻訳するにも底本が無く、やむなく小説らしきものを書いて責めをふせごうとしたに過ぎぬ。それが「狂人日記」だ。
参考にしたのは以前読んだ百篇ほどの外国作品と少しばかりの医学上の知識で、それ以外の準備は何もしなかった。
 ただ「新青年」の編者が何回も催促に来、何回も催促されてやっと一つ書けた。ここで是非とも陳独秀氏(当時の編集長)を記念せねばならぬ。彼が私に小説を書くように催促した最右翼の一人だから。
 当然ながら小説を書き出すとどうしても自分に何らかの主見が無くてはならぬ。例えば、
「なぜ」小説を書くのかというと、やはり十余年前の「啓蒙主義」を懐いており、必ず
「人生の為」且つこの人生を改良しようとするものでなくてはならない。私は以前小説を「閑書」と称し、「芸術の為の芸術」として、「消閑」の新式別称とみなすのを深く憎んだ。
従って、私の教材は、多くは病態社会の不幸な人々から採り、意図として病苦を取り出し、
治療救助の注意を喚起することであった。だから私は努めて文章のまどろこしさを避け、
意思が他の人に十分に伝わる様にできるかぎり、他の尾ひれの様なものを一切つけないようにした。中国の旧劇には背景が無い。新年に子供に与える年画にも主要な数人のみである(今や多くの背景が描かれるが)。私の目的の為にはこの方法が適宜だと強く信じているから、私は風月は描写せず、対話もむやみに長くはしなかった。
 書き終えたら二回は読み返し、すっきりしないと感じたら、何文字か増削し、必ずすらすら読めるようにした:適切な口語が無い時は古語を用い、きっと誰かわかってくれる人がいることを望み、独りよがりや、自分すら分からぬことばはめったに使わなかった。この点については多くの評論家の中で、只一人それを見つけ、私のことをStylistと称した。
 書いたことは、たいてい少しは見たり聞いたりしたことだが、それを全て使った訳ではない。一端を採って改造し、派生させ、殆ど完全に私の意思を発表するのに足りるところまでとした。人物のモデルも同じで、一人の人を専らにせず、往往、口は浙江、顔は北京、
服は山西といろいろ脚色した。私のあの一篇は誰それを罵っており、叉別の一篇は誰をと
とりざたする人がいるが、まったく根拠のないことだ。
 しかしこの書き方には困難も伴い、途中で筆を置くことができない。一気に書き始めるとこの人物は生き生きと動き始め任務を全うする。だが、何か他の事情で、だいぶ時間が経ってから叉書き出すと、性格も変わり情景も先に想定したものと違ってしまう。例えば、
「不周山」は元は性の発動と創造から衰亡を書こうとしたのだが、途中新聞を見、道学者の評論家が情詩を攻撃する文章を読んで、とてもおかしなことだと感じ、そこで小説には、
小人物が女媧の股ぐらに入りこませることになった。が、これは余計なことのみならず、構成の宏大さをぶち壊してしまった。こうした箇所は自分以外は誰も気づかず、我々の大評論家成仿吾氏はこれが最も出色だと言っている。
 専ら一人のモデルを骨幹とすればこうした弊害は無いが、試したことは無い。
 誰が言ったか忘れたが、要は最も手間をかけずに人の特徴を描くに最適なのは、目を描くことだ。これは実にその通りだと思う。丹念に髪の毛を描いてみても例えそれが細密で、
迫真だろうと、何の意味も無い。私はこの描き方を学ぼうとしたが、うまく学べなかった。
 省ける所はできるだけ省き、無理に付け加えたりせず、書けぬ時は無理して書かなかったが、当時は別の収入が有り、売文に頼らず生活できたからで、通例にはならぬ。
 もう一つ、書く時は各種の批評を一律無視した。当時中国の創作界は固より幼稚で、評論界は更に幼稚で、天上に持ちあげるのでなければ、地中に埋めるので、そんな物を眼中に入れたら、たとえ自分で非凡と任じていても、自殺せねば天下にすまぬという事になる。
評論は悪い点は悪いと言い、良い点は良いと言うべきで、それでこそ作者に有益となる。
 だが、私が何時も見る外国の評論文は、彼が私に対して何ら恩怨嫉妬恨みも無い為、評したものが他の人の作品でも大いに参考にできる。しかし勿論私も常にその評論家の派別に留意を怠らぬ。
 以上は十年前のことで、その後何も書いておらず、大きな進歩も無い。編者が何かこの種の物を書けと言うが、どうして書くことができようか。何とか書いてみたが、こんなことしか書けぬ。
       3月5日灯下
 
訳者雑感:
 魯迅はなぜ十年以上も小説を書かなかったか。「故事新編」以外は大半は彼が住んだ所を舞台にした作品で、ここに触れたように、何人かのモデルを綜合して典型を描きだした。
それは「魯迅作品の登場人物」という本で暗示されてもいるほど明白である。彼は心象風景無しには小説のモデルを描けなかったし、実感が伴わなかったのだろう。
 そうした点からみれば、これを書いた1933年の十年前から、それが枯渇したとも言える。
また別に収入があったので、無理やり小説を書くと言う売文生活をしなくてすんだことも一因だろう。雑文だけでは母親や母と一緒にいる妻などの一族を養えなかったはずだ。数箇所の大学の講師を兼任していたが、教育部の然るべき役職に就いてもいた。(給与は大分遅延したが)その後北京から逃げ出さねばならぬ事情となり、アモイ、広州の大学でそれぞれ半年前後教えたが、すぐ辞めて上海の租界に逃れた。さて、それからどういうことをして暮らしたか。おいおい彼の残りの3年の文章とそれ以前に書いた物を編集したものを訳しながら、小説を書けなくなった彼のその後を探ってみよう。
ここまで書いてきて、半日後、当時の中国に日本の朝日新聞のような新聞社があり、
漱石を東大から招いたように、魯迅を北京大学から直接上海の新聞社に招いて小説を連載してくれと頼んだら、彼はどうしただろうか、と思った。うんうん唸りながら毎日原稿用紙とにらめっこしてでも書いただろうか?或いは正岡子規の新聞「日本」のような文章を
書いただろうか?

     2012/02/08訳

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中国女性の足

中国女性の足から中国人の非中庸さを推定し、此れから孔子が胃病だった事を推定する。 
――「学匪」派考古学の一。
 古の儒者は女人を談じなかったが、時にそこに及ぶのを好んだ。例えば「纏足」は、明から清にかけ、考証癖のある著作には往往それが何時始まったかに関する文がある。なぜそのような下等な事を考究したかについては、今はさて置き、要するに大きく二派あり、一派は、古いとする者。もう一派は新しいというもの。古い派は彼らの語気からすると、それに賛成だから、古ければ古いほど良いと考え、孟子の母まで小脚婦人の証拠だと言いだす。新しい派はその逆で、纏足は良くないと考え、早くてせいぜい宋末に過ぎぬと言う。
宋末でも結構古い。しかし纏足しない足はもっと古いし、学者は「古を尊び、今を賤とする」のだから纏を斥け、古を愛すべきである。だが纏足反対の成見を持って偽の証拠を造った者もおり、例えば明の才子楊升庵氏は漢代の人になりすまして「雑事秘辛」を書き、当時の足は「底は平らで、趾(足の指)は斂(収斂の斂、集める)」だったと証明した。
 それをある人がこれを纏足の起源の古さの材料として使い「趾斂」なら纏足だと見られるといったが、それは自ら低能の談義に甘んじるものゆえ、これ以上論評はせぬ。
 私の意見は、以上の両派とも間違っているし正しくもあるで、今や古董がたくさん出土し、漢唐の絵画も見られるのみならず、晋唐の古墳から発掘された土偶も見られる。それらの女性の足は、先の丸い履や四角い履をはいており、纏足していないことが分かる。古人は今人より聡明だから、彼女らは小さな纏足で(1930年代のように)大きな靴をはき、綿をつめて、ゆらゆらと歩いたりなどはしない。
 だが漢代に確かにある種の「利屣(りし:はきもの)」が有り、先は尖り、普段穿かないが、舞をするときにはこれでないといけなかった。歩行に便のみならず、「拳術」のような蹴りの際も裳が邪魔にならず、蹴って裳がずり落ちる事も無かった。だが当時の奥方は舞などやってはおらず、舞うのは倡(舞女)が多かったから倡伎は大抵「利屣」を穿き、久しく穿いていると「趾が斂(よせあつまる)」ようになった。然し伎女の装束は閨秀たちの大成至聖先師で(孔子の意:羨望の意;訳者)今も同じで、いつも利屣を穿き、即ち現在のハイヒールと同じで、儼然たる炎の漢代の「モダンガール」の列につらなり、それで名門の淑女の足先が尖り始めるのも免れなかった。初めは倡伎が尖りだし、後にモダンガールが尖り、次いで大家の閨秀が尖り、最後に「小家の子女」も一斉に尖った。これらの「子女」が祖母になって利屣制度が脚壇を統一する時代に入った。
 民国初年、「不才」(自分の卑称)北京観光せる際、北京の女は男がハンサムか堂か見る時(蓋し今の「モダンボーイ」)足先から頭上に目を走らすと聞いた。だから男は靴下にも注意を払わねばならず、足の格好は言うまでも無いが整っていなければならず、これが世間でいう「足を包む布」をまく理由だ。倉頡が字を造ったということは知っているが、誰がこれを造ったか研究されていない。しかし少なくとも「古より既にこれあり」唐代の
張鷟(さく)作「朝野僉載」に則天武后時代に某男子が足をぎゅっとまいて、人々はそれを笑った、とある。盛唐の世にこのようなことがあったが、それはとても極端だとは言われず、また普及もしなかった。しかし終いには普及した。宋から清までずっと続いたが、
民国元年の革命後、革(かく)されたかどうか知らない。私は考「古」学専攻だから。
然るにとても奇妙なことは、なぜか(作者注:この点は略学者の態度を喪失せる様だが)
女性の足が尖るだけでは不十分で「小さく」し始め、最高の模範はついに三寸以下に、
となった。こうなると利屣と四角い先の履を二足買う必要は無くなり経済的には悪くは
無いが、衛生的には「度を超えた」観を免れず、言い換えれば「極端に走った」わけだ。
 我が中華民族は常日頃「中庸」を愛すと自命するが、「中庸」を行う人はその実、過激を
免れぬことおびただしい。例えば、敵に対して、時に屈服させるだけでは不十分で、「悪を
徹底的に除去し、壊滅させる」ようにする。だが時には謙虚にも「侵略者が攻め入って
来るならそうさせよ。彼らは十万の中国人を殺すだろうが、構わない。中国人はいっぱい
おり、我々はまた次々生まれてくるから」と(当時の政府関係者のコメント:訳者)。
こんなことを言い出すのは本当の馬鹿か馬鹿面を装っているのか分からぬ。
 しかし女の足は一つの鉄証で、小さくしなければそれだけのことだが、小さくするなら
必ず三寸以下を求め、普通に歩けなくとも、ゆらゆら歩む方をとる。辮髪粛清以後、纏足
も本来一緒に解放されたのだが、老新党の母たちは自分が皮靴に綿をつめている面倒さに
鑑み、一時は彼女らの纏足を天足(自然のまま)にさせた。しかし我が中華民族はやはり、
「極端」で、暫くすると老病が再発し、一部の女性たちは別の事を考えだし、細くて黒い
支柱でかかとを支え、地球から足を離そうとした。彼女はどうしても彼女の足をみせもの
にしなければ気が済まない様だ。過去から将来を予測すると、四朝代(宋から清まで四代
纏足が続いたから、仮に今後も朝代が続くとすると)の後にやっと全国の女性の足指は
下肢と一直線になることは多分8-9割確かだろう。
 しからば聖人はなぜ「中庸」を声高に叫んだのか?曰く:それは正に人々が全く中庸
ではないからだ。人は必ず欠ける所あり。それゆえにそれを求めんとするのだ。貧乏教師
は女房を養えぬので、女子も自活すべしという説が合理的と思うし、それに伴い、男女
同権論に賛成する。富翁は息がぜいぜいするほど太ってから、ゴルフを始めようとし、
そして運動の大切さを主張する。平時は頭と腹は一つしかないのに、大切にするのを忘れ、
頭痛や下痢を催してやっとそれに気付き、それを休めることの大切さを実感し、飽食せぬ
ように論じだす。こうした議論を聞いてその人が衛生家だと考えるのは、軽率な間違いだ。
 むしろ彼は不衛生家で、衛生を論じるのはこれまで彼が不衛生だった結果の表れだ。
孔子曰く:「中行と与するを得ざれば、必ず狂狷乎、狂者は進んで取り、狷者は為さざる所
あり!」孔子の交遊の広さを以てしても、事実上ただ狂狷と与するしか法が無く、これは
彼の理想として「中庸」を叫んだ由縁だ。
 以上の推定が間違ってなければ、更に進んで孔子晩年は胃病を患っていた事を推定せん。
「正しく割いてない物は食せず」これは老先生の硬い規則だが、「食は精を厭わず、膾は細
を厭わず」の条はいささか珍奇だ。大富豪でもなく、高額の印税収入のある文学家でもないから、こんな奢侈には思い到らぬし、ただ衛生のため、容易に消化できるようにとの
こと以外、他の解釈はできぬ「生姜は避けずに食す」は明らかに胃を暖める薬として生姜
を取り除かずに食べたのだ。なぜかくも独り胃だけを大切にするのを忘れなかったか?
曰く:胃病のため也。
 家にいるばかりで出歩かぬ人は胃病になり易いが、孔子は列国を周遊し、王侯に運動したから、そんな病気に罹らない証拠だというなら、それは今の事は知っていても、古の事はしらぬ誤りだ。蓋し、当時はまだ米国産のメリケン粉は輸入されおらず、国産の小麦粉は灰と砂が多かったから、今より重い:国道もまだ整っておらず、泥道も凹凸が多く、孔子が歩けたなら問題は無いが、不幸にも彼は二頭立て馬車に乗ってばかりいたから、胃に沈重な小麦粉の食物をつめ、馬車でデコボコ道を行けば、がたごと揺れ頓挫し落ちたりして胃は垂れさがり、大きくなって消化力も減り、時に痛み出し:毎食「生姜」無しには、済まなくなった。従ってその病名は「胃拡張」:当時は「晩年」で、多分周敬王の十年以後だろう。
 以上の推定は簡略だが「行間を読んで」得たもの。もし近功を急ぎ、妄に猜測すると、
すぐまた「多疑(疑い深い)」の誤りを犯す。例えば、2月24日の「申報」は南京伝に言う:「中執委会は、各級党部及び人民団体制に令して、『忠孝仁愛信義和平』の額を中央に懸け、以て啓蒙教導に資すべし」と。これは間違っても各要人がみんなの事を「忘八」だと謗ったのだ、などと推定はしてはならぬ(以上の八字を忘れること:忘八は罵る語):
3月1日「大晩報」のニュースに「孫総理夫人宋慶齢女士は帰国後、上海に寓せしより、
政治的な事には何も口出しせず、惟社会団体の組織について非常に熱心である。本紙記者の報告では、前日ある人が郵便局から宋女士宛てのゆすりの手紙□(原文も欠字)を捜し、既に市当局は郵便局の検査処の検査員を派遣駐在させ調査した結果、それを捜しだし差し押さえて市政府に提出した」。
これを見た後も、決してそれが総理夫人の手紙のためだと推定してはならぬし、常に
郵便局で当局派遣の検査員に検査されていると推定してはならない。
 蓋し「学匪派考古学」と雖も、正に「学」から離れず、「考古」を以て限りとすべしだ。
(古代の事に専念して、現代政治に口出しせぬが良いとの皮肉:訳者)
       3月4日夜
 
訳者雑感:中国人の大切にする中庸とは「なかなかそれを得られぬ」から声高に叫ぶとは、
中国人の口号(スローガン)好きを喝破している。日本人はその口号に惑わされ、あたかもそれが実現しそうだと幻想した。文化大革命時の1968年に日本で学生だった私も、周囲の先生や友人先輩たちが、中国がまるで夢の様な理想社会実現に向けて走り出していると熱っぽく語るのを半ば信じていた。それで一緒になって3週間ほど中国各地を回った。
 40年後の今考えると、当時の口号が如何に空虚なものだったか実感する。
両親との「親しさ」「絆」は共産党や毛主席との「それ」より軽い。だから親が腐敗分子ならそれを告発して、党に忠誠を果たせ、との口号は当時、多くの若者が本当に信じていて、
実際に親子兄弟の間に大きな亀裂を起こした。それほど極端に走るのが止められなかった。
魯迅の引用する「中行と与するを得ざれば、必ず狂狷乎」という言葉が、すでに中行という中庸を保った人を友にするのが難しいことを示している。次善の策として友にするのは、
いずれもけもの偏のついた狂狷か、というのは現実を示唆している。
それにしても孔子がいつも二頭馬者で諸国遊説に回っていて、歩いていない結果胃病になったというのは面白い推定である。何でも細かく刻み、それに生姜を欠かさずに食べたというのが、胃病推定の根拠。脂身のこってりした「東坡肉」が食べられる内は死なない、
というのを中国の老人から聞いたが、蘇軾は左遷流刑で余り長くは生きられなかった。
だが、胃病持ちだった孔子は結構長生きした。魯迅は官憲に追われ、家の中に潜むようにして暮らした時間が長く、内山書店くらいしか自由に出歩けなくなったのが彼の死を早めたとしたら、惜しいことだ。せっせと自由に出歩くようにつとめようか。
        2012/02/05訳
 

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「上海のバーナード ショー」序

現在「人」は身に衣類をまとわねばならない。絹でも毛織でも葛でも何でもいいが、たとえ落ちぶれて乞食になっても、最低ボロズボンは不可欠で:野蛮人も下腹の前後に草の葉をつける。大勢の人前で、自ら脱ぐとか脱がされたりすると、ぶざまだと言われる。
 ぶざまだが、やはり見たい連中もいて、立って見る者、人の後から見る者、紳士淑女は一斉に目を覆うが、指の隙間からのぞき見るのもいて、要するに人の裸をみたがりながら、自分の着ている上下は大丈夫かと気をつける。
 人の話も一緒で、大抵絹か草の葉で包まれていて、これをはがすと、人々は好奇心をそそられるが、また不安にもなる。訊きたいから周りに集まるが、不安で心配だから、自分への影響を減らす名目で、この手の話をする人を「皮肉屋」と称す。
 バーナード ショーが上海に来たが、そのにぎやかさはタゴールよりずっとすごい。
Boris Pilniak や Paul Morandなど言うまでも無いが、その理由はこの点にあると思う。
 もう一つは「専制は人々を冷嘲に変える」というが、これは英国でのことで、古来ただ「道では目で以て(伝える)」しかできない(中国)人たちにはとてもマネできぬ事だ。
時代も変わったから西洋の皮肉屋の「ユーモア」を聞いて、みんなハハハと笑おうとした。
 もうひとつあるが、ここでは触れないでおこう。
 なにはともあれ、まず自分の着ている上下に注意しよう。さて人はそれぞれ希望が違う。足の悪い人は彼がステッキを持つように主張して欲しいと思う。かさかきは帽子をかぶるのに賛成して欲しいし、白粉を塗った人は彼が年寄りの婆さんを皮肉って欲しいと思う。民族主義文学者は彼の力によって日本軍を屈服させようと試みるが結果はどうか?
只ぶつぶつ言う者が多いのをみれば、みな満足してないことが分かる。
 ショーの偉大さはここにある。英系紙、日系紙、白系ロシア系紙はデマをまき散らしたが、ついには全てが攻撃を始めたことから、彼が決して帝国主義に利用されていないことが知れる。中国紙に至っては言うまでも無い。もともと西洋の旦那の手先だったし、手先として永らく勤めてきて只「不抵抗」或いは「戦略関係」から、彼らの軍隊の露払いを務めるに過ぎぬ。
 ショーは上海に丸一日もたたないうちに、これほど多くの話題を提供し、他の文人では、
とてもこうはならなかったろう。これは小さなことではすまないから、この本が重要な物だというのは確かだ。前段の3部門に文人、政客、軍閥、やくざ、狆ころなど色々な相貌をすべて鏡に映し出している。ショーを凹凸鏡だというが、私はそうとも思わない。
 余波は北平にも及び、大英国の記者に教訓を与えた。彼は中国人が彼を歓迎するのが癪にさわった。20日のロイター電で、北平の新聞の多くはショーに関する記事を載せ「これは華人の苦痛への伝統的な不感性を証するに足る」と伝えた。胡適博士は特に超脱していて、「招くとか何も言わぬ方がむしろ最も高尚な歓迎だ」と言った。
(出版社注:ショーの様な特別の客に対する最も高尚な歓迎は、彼のすきなようにさせるのがよい、聞きたい人が聞きに行けば良い云々という彼の北平到着前日の発言を引用したロイター電を指す)
 「打つは打たぬこと、打たぬは打つこと!」(宋代の故事で上記の胡適を風刺した)
 (彼が来たという)この事はまさに大きな一枚の鏡で、とてつもなく大きな鏡のように人々に感じさせる大鏡で、映されたいものも、映されたくないものも、すべてを蔵している実相をそっくりそのままはっきりと映し出した。上海の一部には筆舌の方面で、北平の
外国記者と中国の学者ほどの巧妙さは無かったが、色々なものが出てきている。古くから伝わってきている隈取りは限りがあり、まだ収録されていないか、或いは後に発表されるものも、たいていは多分きっとこの隈取りの中にあるだろう。
                  1933年2月28日灯下、魯迅。
 
翻訳雑感:ショーの来華ということで、中国の各紙、文人学者有名人などがにぎやかに騒ぎ、それぞれの立場、意見、態度があたかも一枚の大鏡に映し出されたようだ。ほとんどの新聞は彼に否定的な立場を見せた。彼は自分で世界遊覧の旅にでたのだが、上海では孫文の夫人たちに招かれていることから、その立ち位置がわかる。
 胡適博士、と博士という肩書をことさらつけて、彼の発言を紹介するのも面白い。胡適の立場は、「招くとか何も言わない方が最も高尚な歓迎」という言葉に現れている。婉曲に
歓迎しないというのが、当時北平と改称された元の首都にそのまま居残った北京大学の文学院の院長だった胡適博士の態度であった。五四運動の先駆けとなった彼のその後の変化が読み取れる。
      2012/01/28訳
 
     
 
 
 
 

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ショーに会うことと「ショーに会った人たち」の記

 私はショーが好きだ。作品や伝記を読んで敬服したからではない。ただどこかで彼の
警句を読んだことと、誰かから彼はしばしば紳士たちの仮面を暴くと聞いて好きになった。
もう一つは、中国にも西洋紳士の摸倣をする人がいるが、彼らは大抵ショーを嫌うからだ。自分が嫌いな人から嫌われる人は、時に好人物だと思う。
 ショーが中国に来るというが、特段会ってみようという気は無かった。
 16日午後、内山完造君が改造社の電報を見せ、一度会ってみてはという。それで決めた。
私を会わせようというなら、会ってみよう。
 17日早朝、ショーは上海に上陸したが、どこにいるか誰も知らない。大分時間が経ち、
結局会えないのではと思った。午後になって、蔡先生から手紙が届き、ショーが孫夫人の家で昼食をとっているから、急ぎ来られたし、とある。
 すぐ孫夫人(宋慶麗)宅に向かった。客間の横の小部屋に入ると、ショーは円卓の上席にいて、他の五人と会食中。すでにどこかで写真を見たことがあり、世界的な有名人だから、稲妻のように文豪と思ったが、実は何の印しもなかった。白いひげ、健康そうな血色、おだやかな容貌、肖像画のモデルにしてもよさそうだと思った。
 午餐は半ば程進んでいた。素菜で簡単な料理で、かつて白系ロシアの新聞に沢山の侍者
がいると憶測記事をのせていたが、ウエイターが一人で料理を運んでいた。
 ショーは余り沢山は食べない。だが初めのころはだいぶ食べていたかも知れぬ。途中で
箸を使いだしたが、ぎこちなくうまくつかめない。しかし段々巧妙になりきちんとつかめ
るようになって、人々を感心させた。そこで得意げに皆の顔を見回したが、誰もその成功
を見ていなかった。
 食事中のショーは皮肉屋とは思えなかった。普通の話しぶりで、例えば:友達が一番だ。
長い間交際できる。父母や兄弟は自分で選べぬから、離れねばならない関係にある。
 昼食後、写真を三枚とった。並んで立つと自分の背の低いのが気になった。心の中で、
30年若かったら、身長を伸ばす体操をしなければと思った。…
 2時ごろペンクラブで歓迎会。車で一緒に向かったが、元来「世界学院」と呼ばれた大き
な洋館で、2階に上がると、すでに文芸の為の文芸家や民族主義文学者や社交界のお歴々、
演劇界の大物などが50人ほどいた。彼を取り囲んで質問し、「大英百科全書」をひもとく
ようだった。
 ショーも少し話した:諸君も文士だからこういうジョークはみな御存じでしょう。役者
は実際に役を演じるわけだから、自分と比べるようにしてただ人の事を書くのだが、更に
明らかにしようとするのです。これ以外私には別に話すことも無い。要するに、今日動物
園の動物を見にきたようなもので、もう見たのだから、これくらいでいいでしょう。云々。
 皆どっと笑い、多分これも皮肉だと思っただろう。
 叉もう一つ、梅蘭芳博士と他の有名人の問答があったが割愛する。
 この後は、ショーに記念品贈呈。美男子の誉れ高い邵洵美君が京劇の泥お面のミニチュアを収めた箱を渡した。もう一つは演劇衣装の由だが紙で包装されていて見えなかった。
 ショーはとても喜んでいた。張若谷君の話では、その後発表された文章には、ショーは
いくつか尋ねたらしいが、張君もなにかあてこすった返事をしたが、ショーは聞こえなかったようだ。私も実際聞こえなかった。
 ある人が菜食主義の訳を聞いた。何名かカメラマンがいたので、タバコの煙は良くないと思い、部屋の外に移った。
 記者との約束があり、3時ごろ叉孫夫人宅へ戻った。4-50人が待っていたが、部屋に入れたのは半分のみで、まず木村毅君と4-5人の文士、記者は中国6人、英国1人、白系ロシア1人、その他カメラマン3-4人。
 後苑の芝生でショーを真ん中にして記者たちが半円陣で囲み、世界遊覧の代わりに記者の口と顔の展覧会を開いた。ショーは叉色々質問攻めに会い、「大英百科全書」がひもとかれたようだった。
 ショーはもう話したくないようだった。だが話をしないと記者たちは決してあきらめないので、話しだしたがしゃべり過ぎると今度は記者たちのメモの量が徐々に減っていった。
 ショーは本当に皮肉屋ではないと思う。あんなにたくさんしゃべれるのだから。
 試験は4時半ごろに終了。ショーも疲れた様子。私も木村君も内山書店に戻った。
 翌日の新聞はショーの話に比べ、遥かに出色のできだった。同時に同じ場所で同じ話を聞いても、書かれた記事はそれぞれ違う。英語の解釈も聞く人の耳に依り内容が違う様だ。
一例、中国政府について、英字新聞のショーは中国人は自分たちが敬服する人を統治者に選ぶべきだと言い:日本語新聞のショーは中国政府はいくつかあると言い:漢字新聞のショーは凡そ良い政府というものは人民からきっと歓迎されないと言う。この点から見ると、
ショーは皮肉屋などではない。一枚の鏡だ。 
 だが新聞のショーに対する論評は大体において悪い。人々はそれぞれ自分の好む、有益な風刺を聞きに行くが、それと同時に嫌いで気分を害する風刺も聞かされる。それで各自が風刺で以て風刺に反駁する。ショーは単なる皮肉屋に過ぎないと。
 風刺競争の点で、やはりショーはとても偉大だと思う。私はショーに何も質問しなかった:ショーも私に何も尋ねなかった。ところが木村君はショーの印象記を書けという。他の人が書いた印象記はよくみるが、あたかもその人の本当の気持ちを窺見たかの如くに書くが、実にその観察の鋭敏さに感服する。自分としては彼の本も読んでいないから、有名人に会って滔滔とした印象記を書けといわれても困ってしまう。
 しかし東京から上海に来て私に書けというから、こんなものを書いて勘弁願うとしよう。
      33年2月13日夜
訳者雑感:
 ショーの会見記事が、英日中でそれぞれ1933年当時の各国の立場を代弁していて面白い。
英国は香港始め上海などに多くの租界と利権を持っていて、中国人が自分たちが敬服する
人をトップに選ぶべきだとし、既得権益をおかされないように中立の立場を装い、
日本は満州はいうまでもなく、華北以南でも北京南京などにいくつかの政府が既にある。
あって良い、その方が中国に適しているという中国分割論。
漢字新聞は出版社注では、「中国が今必要なのは良好な政府であるが、良い政府と良い官吏は一般民衆からは決して歓迎されることは無い」と意味深である。これを私なりに解釈すると、「この政府系の新聞は、現政権は一般人民から歓迎されていないことを重々認識していて、認識しているからこそ、良い政府及びその官吏は常に一般庶民から嫌われることも
しなければならない」とでも言いたげである。一般庶民から歓迎される良好な政府及びそれを運営する官吏など存在するであろうか?
 毎年首相の首が飛ぶ政府は一般庶民から歓迎されないことばかりしたからだろう。
     2012/01/27訳
 
 
 

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どちらが矛盾してるか

バーバードショーは世界遊覧しているのではない。彼は世界の新聞記者の口と顔を歴覧し、口頭試験を受けているのだ――結果、落第したのだが。
 彼は歓迎されたいとも思わないし記者にも会いたくないが、どうしても歓迎し、面談したいと言いつつ、面談の後では何か皮肉を言うことになる。
 彼は身を隠そうとするが、どうしても探し出そうとし、探し出した後、長い記事を載せ、彼は自己宣伝がうまいという。
 話したくないというのに、なんとか話をさせようとする。しゃべらないと、何とかもっとしゃべらせようとし、たくさんしゃべると、新聞にそのまま掲載せずに、彼はとてもおしゃべりだとけちをつける。
 彼は真面目な話をするのだが、それを冗談だとし、彼に向ってわははと笑いながら、彼はどうして笑わないかと怪しむ。
 彼は率直に話すのだが、それを風刺だとし、彼に向ってわははと笑いながら、やはり彼は自分を利口だと思っているとけなす。
 彼は本来風刺家ではないのに、なんでも風刺だといい、つまらぬ風刺で以て彼に逆襲しようとする。
 彼は百科全書でもないのに、そう考えて、天地のことなどあれこれ質問するが、答えに対してはとても不満で、まるで自分の方がとっくに知っているとでも言いたげだ。
 遊覧に来たのに、無理やり道理を語れと迫り、少し話すと、気分を害し彼は「赤化宣伝」に来たとけちをつける。
 ある者は、彼はマルクス主義文学者じゃないと軽視するが、そういう人は会わぬが良い。
 ある者は、彼が労働者になろうとしないと見下すが、労働者なら上海に来られない。
彼を見下す人は会えなかったろう。
 ある者は、彼は革命実践家じゃないと見下すが、もし実践家ならNaulen(コミンテルンから中国に秘密工作に派遣され投獄された:出版社注)と一緒に牢にいる。見下す人は彼の事と取りあげようと思わぬが良い。
 彼は金持ちのくせに、社会主義の話をするが、労働者になろうとせず、遊覧のために上海まで来て、革命を語ろうとし、ソ連のことを話して人々の気分を害する……。
 それでとても憎まれた。
 背が高いことで憎まれ、おいぼれだと憎まれ、ひげが白いと憎まれ、歓迎を喜ばぬと憎まれ、面談から逃げると憎まれ、夫人とむつまじいことすら憎まれた。
 しかし彼は去っていった、人々に「矛盾」に満ちた男と認定されたショー。
 思うに、やはり辛抱して、暫くはこの様なショーを現在世界の文豪としておこう、いろいろけちをつけても打倒できない文豪として。さらには、皆がぶつぶつ文句が言えるようにしておく為には、やはり彼がいた方が良い。
 矛盾に満ちたショーが没落する時、ショーの矛盾が解決される時は、社会の矛盾も解決される時で、それこそほんとに冗談ではないのだ。
         2月19日夜
 
訳者雑感:
 金があって世界漫遊の旅に出たバーナードショー。魯迅は彼と一緒に写真を撮った。本文にある通り、背が高くて白いひげもじゃの男に横にずっと小柄な魯迅がいる。
 上海の記者たちは何とかして彼とのインタヴュー記事を書こうとする。だが群盲象を撫でるで、なんやかやとけちをつけ、文句をつけた。その結果ショーは「矛盾」だらけの男と認定された。金持ちでありながらソ連のことを褒める。その一方で労働者にはならない。
彼が没落した時、彼の矛盾が解決される時は社会の矛盾も解決される、という。これは、何を意味するのだろう。ショーの立場は魯迅の立場に近いと思われる。魯迅はこの時、ショーを自分になぞらえてこの文を書いたのであろうか。
 自分が没落した時、すなわちこの世に要らなくなった時、自分のかかえている矛盾が解決される時、社会も良くなるだろう、と考えていたのか。矛盾に満ちた男として、新聞記者や青年文学家たちに文句をつけられ、攻撃されながら。
     2012/01/23訳
 
 
 

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忘却の為の記念

1.
だいぶ前から何か書いて数名の青年作家を記念しようと考えていた。それは他でもない、この二年来私の心に悲憤が襲い続け、今もなおやまず、書くことで身を揺さぶって、
しゃんとして悲哀から脱却し、自分の気持ちを軽くしたいと思っていた、正直に言うと、彼らのことを忘れたいのである。
 2年前のこの日、1931年2月7日夜、或いは8日朝、我々の5人の青年作家が同時に害された。当時、上海の新聞は皆これを敢えて載せようとしなかった。或いはしたくなかったか、載せるに値しないとし、「文芸新聞」のみが少し言葉をあいまいにした文を載せた。
その第11号(5月25日)に林莽氏が「白莽印象記」を書き:
「彼は多くの詩を書き、ハンガリーの詩人ペトフィの詩を数首訳し、当時「奔流」の編者だった魯迅は彼の投稿を見て手紙を書き一度会いたい旨告げたが、彼は有名な人には会いたがらず、その結果魯迅の方から出向いて行き、彼に文学に打ち込むよう激励したが、家の中でものを書くことはできないと言って、自分の選んだ道を歩んだ。ほどなくして叉捕まった。…」
 ここに書かれている我々の事情は正確ではない。白莽はそんな高慢じゃないし、以前、
我の寓居にも来たことがあるが、私が面会を求めた為ではなく:私もそんな高慢さは無い。
全く面識の無い投稿者に軽率にも手紙でそんな要求をするはずもない。我々が会った理由は、ごく平凡なことで、その時彼が投稿してきたのはドイツ語から訳した「ペトフィ伝」で、私は手紙で原文を見たいと書いたが、原文は詩集の前段にあるもので、郵送できぬから、持参してきたのだ。会ったところ、20歳余の青年、端正な容貌で顔は浅黒で、当時何を話したか忘れたが、自分から姓は徐、象山の出身と言ったのを覚えている:彼に受取人の女性の名前がとても奇妙なのはなぜ?(どれ程奇妙なのかは忘れたが)と尋ねたら、彼女はこういう妙なのが好きで、ロマンチックなので、自分もいささかその名は彼女に似合わないと思っているとの答えだった。これくらいしか覚えていない。
 夜、訳文と原文をざっと照らし、数箇所の誤訳の外、故意の曲訳を見つけた。「国民詩人」という言葉が嫌いなようで、「民衆詩人」と訳していた。翌日、又手紙が届き、私と会ったことをとても悔いてい、彼がたくさんしゃべり、私は少なく、又冷たくて威圧された様に感じた、と。私はすぐ返事を書いて釈明した。初回の時は話しが少ないのは人の常であり、
自分の好き嫌いで原文を改めるべきじゃないと書いた。彼の原書が手元にあるままなので、
私の持っていた別の原書2冊と共に彼に届けて、読者の為にもう何首か訳さないかと書いた。果たして何首か訳したのを持って来、我々は初回より多くしゃべった。この伝と詩は後に「奔流」第2巻5号、即、最終号に載った。
 3回目は暑い日だったと記憶する。誰かが戸をたたくので開けてみたら白莽で、厚い綿入れを着、漫面汗を流し、互いに笑いだした。この時初めて彼は革命者だと告げ、逮捕されさっき釈放されて出て来たので、服と本はすべて没収され、私の届けたあの2冊も含め:着ているのは友人から借りたもので、袷がなく長衣を着るしかないのでこんなに汗を出すほかない、と言った。これが多分林莽氏の言う「叉捕まった」時だと思う。
 彼が釈放されたのを大変喜び、急いで原稿料を渡し、袷を買えるようにはからったが、
私のあの2冊が、まさしく真珠をどぶに棄てるが如くに、警察の手に落ちてしまったのを、
痛惜した。
 あの2冊は元々極普通の本で、1冊は散文、もう一冊は詩集で、ドイツ語訳者に依ると、彼が捜集した作品で、ハンガリー本国にはまだこの様な完全な形のはないのだが、「レクラム万有文庫」に入れられ、ドイツではどこでも一元以下で買えるが、私にとっては一種の宝物で、それは30年前、正に私がペトフィを熱愛していた時、わざわざ丸善書店に託して、ドイツから取り寄せたもので、その時は、本の値段が極めて安価なので、店員が取り扱いたがらず、断られはしないかと初はどきどきした。その後いつも身辺から離さなかったが、事情の変遷により翻訳する気持ちも失せたが、今回、当時の私と同じ様にペトフィの詩を熱愛する青年に贈ることに決し、その本が恰好の落所を得られたと思った。従って、丁重に扱い柔石に託して手渡して貰ったものだった。
あにはからん!租界警察の手に落ちようとは、とてもくやしい!
2.
 私が投稿者との面会を求めないのは、実は決して謙虚なためではなく、面倒なことは省きたいという要素も少なくない。暦来の経験から青年達、特に文学青年達の十人中九人は、
感覚がとても敏感で、自尊心も極めて強く、ちょっと注意を怠るとすぐ誤解される。だから故意に避ける事が多かった。面会が怖いのだから言うまでも無いが、ものを頼むなどということはあり得ない。但し当時上海に只一人自由に談笑し、多少の私事を託せる人は、
あの本を届けてもらった柔石だけだった。
 私と柔石がいつどこで初めて会ったのか忘れてしまった。彼はかつて北京で私の講義を聞いたと言った。そうなら8-9年前となる。私も上海でどういうことから往来を始めたのか忘れた。要するに当時彼は景雲里に住んでいて、私の寓所から4-5軒先で、どうしてだか往来が始まった。多分最初私に、姓は趙、名は平復と告げた。但し郷里の豪紳で気焔の盛んな男の話に及んだ時、その紳士が彼の名を気に入り、自分の息子に付けるから彼にこの名を使わせぬように命じた、といった。私は彼の原名は「平福」平穏で福が有るで、それが郷紳の意に入ったもので「復」の字なら必ずしもそれほど執心しなかったと思う。
郷里は台州の寧海でこれは彼の台州式の骨っぽさを見ればすぐ分かり、更には頗るつきの現実離れの面もあり、時に急に(明の永楽帝の帝位簒奪に反対し十族滅せられた台州のっ先輩である:出版社注)方孝孺を思い出させ、彼もかくありなんかと思わせた。
 彼は寓所にこもって文学に精を出し、創作も翻訳もし、我々は往来が増えるにつれ、意気投合し始め、その後他の数人の同じ意向の青年と朝華社を設立した。目的は東欧と北欧の文学紹介と外国版画の輸入で、我々は皆もう少し質朴剛健な文芸を扶植すべきと考えていた。次いで「朝花旬刊」「近代世界短編小説集」「芸苑朝華」を発行、みなこの線に沿った物だが、只「蕗谷虹児画選」は、上海バンドの「芸術家」即、(蕗谷の摸倣で稼いでいる)葉霊鳳の鼻をあかし、張り子の虎を掃蕩するためであった。
 柔石はしかし金が無いので、二百元借金して発行した。紙を買う外に、原稿の大部分と雑務は彼が引き受け、印刷所への持ちこみ、製図、校訂の類などもやった。だが往々にして不如意のことが多く、話しだすと眉間に皺を寄せた。彼の旧作をみると、悲観的な感がするものが多いが、実際はそうではなく、彼は人間の善良さを信じていた。私がときに、人はどれほど相手を騙すか、どんな具合に友を売るか、どの様に血を啜るか等に話しが及ぶと、彼は額をキラと光らせ、驚いていぶかしげに近眼の目を丸め、私に抗議して:そんなことがあるのですか――そんな酷いことまで?…」と言った。
 だが朝花社がほどなく倒産した。その原因をあまり詳しく書きたくない。要するに柔石の理想のつまった頭が大きな釘にぶつかって、それまでの苦労が水泡に帰し、更に百元借りて紙代を払わねばならなかった。後に私のあの「人心惟危うし」説への懐疑が減り、時に嘆息して「本当にそんなことが?…」と言ったが、やはり人間は善良だと信じていた。
 彼はそれで一方では自分の取り分の残本を明日書店と光華書局へ送り、何文かの銭は回収できぬかと考え、一方で懸命に翻訳して借金返済しようとし、それが即ち商務印書館に売った「デンマーク短編小説集」とゴーリキーの長編小説「アルタモノフの事業」だ。
だがこれらの訳稿も去年の兵火で焼けてしまっただろう。
 彼の現実離れは徐々に変化し始め、遂に女性の同郷者か或いは女友達と一緒に歩くようになった。しかしいつも少なくとも3-4尺は離れて歩いた。これは問題で、ある時路上で、
見かけたが、3-4尺ほど離れた前後左右に若くて美しい女性がいて、私は彼の友達だと思ったほどだ。だが彼は私と一緒に歩く時は、近くに寄り添って歩いた。それはまったく私を扶助するようで、私が自動車や電車に轢かれないようにとの気持ちからだったが、私はこの面でも彼が近眼なのに、他の人のことを心配するので、二人とも互いに気遣った。だから万止むを得ぬ時以外、私は彼と一緒に出歩かなかった。実際彼がとても気遣ってくれるので、私も疲れるのであった。
 彼は旧道徳であれ、新道徳であれ、自分を犠牲にしてでも人を助けられるなら、それを自から選んで背負うのであった。
 彼は遂に変わることを決心し、ある時はっきりと私に告げた。今後は作品の内容と形式を転換すべきだ、と。それに対して私は難しかろうと答え、使い慣れた刀を棍棒に換えるたとえを引いて、どうやってうまくこなせられるか?と。彼は簡潔に:勉強すればできる!
と言った。
 彼の言葉は空談ではなく、本当に一から勉強し始めた。そのとき友達を連れて私を訪ねてきた。それが馮鏗女士だった。だいぶ話しをしたが彼女に対する距離は埋められなかった。少しロマンチックで功を急ぎ過ぎると感じた:そして叉、柔石が最近大作の小説を書こうとしているのは、彼女の主張から発していると思った。
が、私はまた自分自身を疑い、多分柔石のさきほどの断乎とした答えが正に私の実は安逸を貪ろうとするような意思の「かさぶた」にあたったので、知らぬ間に怒りを彼女の方に
転じたのかもしれない――私も実は私が会うのを怖れている神経過敏で自尊心の強い文学青年の高名さに比せられぬ。
 彼女は弱い体質で、美人ではなかった。
3.
 左翼作家連盟成立後、初めて白莽が「拓荒者」に詩を書いている殷夫と知った。ある大会でドイツ語訳の米国人記者の中国遊記を彼に渡そうとしたことがあり、これで彼がドイツ語の勉強ができると考えた為で、他に深い意味は無かったが、彼は来なかったので、また柔石に渡してもらおうとした。
 だが暫くして、彼らは共に捕まり、私のその本もまた没収され、「租界警察」の類の手に落ちてしまった。
4.
 明日書店が雑誌を出版することになり、柔石に編集を依頼し、彼は引き受けた:書店は私の翻訳を出そうとし、彼経由で印税を尋ねてきたので、私は北新書局との契約書の写しを彼に渡した。彼はポケットに入れて急いで帰っていった。それが31年1月16日の夜、
それが彼との最期、永訣となった。
 翌日彼はある会場で捕まり、ポケットに私の出版契約書があった為、警察は私を探しているという。出版の契約書なのは明白なのだが、あの訳もわからぬ所に行って釈明するのがいやだ。「説岳全伝」に説くところの高僧が追っ手の役人がまさに寺の門に着いた時、彼は「坐して化した」こと、「役人東方より来、我西方に去る」の偈を残したのを思い出した。これは奴隷が幻想する苦海脱離の唯一の良法で、「剣侠」の助けを望めぬ身には、最も確かで自在なのはこれしかない。高僧ではない故、涅槃(解脱)の自由は無く、まだ生に未練もあり、逃げることとした。
 その夜、私は友人からの古い手紙を燃やし、妻と子を抱え客桟に逃げた。日ならずして、
私が捕まったとか殺されたとかという噂が外部からしきりに聞こえたが、柔石の消息はとても少なかった。ある話では明日書店へ警官に連行されて編集者か否かと問い詰められ:また北新書局に連れて行かれ、柔石本人か面通しされ、手錠されていた事から、本件が重大なことが知れた。しかし一体どういう容疑か誰も知らなかった。
 囚われている時、彼が同郷人に書いた手紙を2回見た。一回目はこうだった――
「私と35人の同犯(7人は女)は昨日龍華(刑務所)に着いた。昨夜足かせをされた。政治犯は足かせされぬという記録を破ったことになる。本件は累の及ぶのが広範だから、すぐの出獄は難しそうだ。だから書店のことは兄が代わりにやって欲しい。今はまだ大丈夫、暫く殷夫兄にドイツ語を学んでいる。周先生に伝えてください:周先生が心配しないよう、我らはまだ処刑されていない。追っ手と公安が何回も周先生の住所を吐けというが、私がどうして知っていようか。念ずるには及ばず!と。よろしく!
                         趙少雄  1月24日
以上が表、
「ブリキの飯椀を2-3個差し入れて欲しい。
 もし面会できねば、趙少雄宛てに転送するよう頼む」
以上が裏。
 彼の心情は変わりなく、ドイツ語を学ぼうとし、更に勉強しようとしていた:私の事を気にかけ心配している。二人して道を歩く時と同じように。だが手紙の中には誤りもあり、
政治犯への足かせは彼らに始まった訳ではない。だが彼はこれまで役人を多少信用してきていたので、それまでは文明的な処置であったものが、彼らの処分から厳酷になったものと考えていた。実は決してそんなものではなかった。
第2信は打って変わり、文面も非常に苦しく悲惨で、馮女士も顔面が膨れてきたということだが、惜しいことにこの手紙を写さなかった。その頃デマも紛々と乱れ飛び、彼が受け出されたというもの、すでに解かれて南京に向かったというのだが、確かな情報は無かった:そして手紙や電報で私の消息を探ろうとするものが増えてきて、北京にいる母もそれを気にして病気になり、私は一一打ち消す返事を書いた。そうして約20日が過ぎた。
 いよいよ寒くなり、柔石の所には布団があるかどうかしら?我々の所にはあるのだが。
ブリキの飯碗は受け取れただろうか?…  忽然確かな消息が入った。
 柔石と他23人は既に2月7日夜または8日朝、龍華警備司令部で銃殺され、彼の体には
十発の銃弾が撃ち込まれた、と。
 なんということだ! とっくにそうだったのか! ……。
 深夜、客桟(商人宿)の中庭に立つと、周囲はガラクタが堆積され、人々はみな眠っている。我が妻と子も。私は一人沈痛な気持ちで、かけがえの無い友を失ったと感じ、中国も立派な青年を失ったと思った。私は悲憤の中に沈静していったが、積習のゆえ、沈静の中から頭をもたげ、次のような数句を得た:
 
 長き夜に慣れ、(立)春も過ぎ、妻と雛を連れ、鬢に白きものあり、
 夢にまざまざと慈母の涙が浮かび、城頭に変幻する大王の旗。
 朋輩の新鬼となるを忍び看て、怒りは銃剣の叢(むれ)に向けて小詩をもとめ、
 吟じ罷(お)えて、眉を(元に)低くしても書くところ無し、
 月光は水の如く黒衣を照らす。
 
 但し、末の2句は後に正確でなくなった。ついにこれを書いて日本の歌人に贈った。
(当時上海在の山本初枝:出版社注)
 中国ではその当時、それを書くところは無く、その禁令の厳しさは缶詰よりも厳密だった。柔石が年末に帰省し、しばらく滞在して上海に戻ったら、友人から(帰りが遅れたため)大変責められたことを思い出した。彼が悲憤して訴えるに、彼の母親は両目とも失明していて、彼にもう数日いてくれと懇願する、どうして戻れようか?この目の見えぬ母の子を思う心、柔石の母を思う心を知った。
「北斗」創刊時に、柔石について文章を書こうとした。が、書けなかった。それで一枚の
コルヴィッツ夫人の木版画を選び、「犠牲」と名付けて一人の母親が悲しみの中から彼女の子を献じたもので、これだけが私の一人の人間として、心の中で柔石を知ったことの記念とした。
 同時に難に遭った青年文学家4名の内、李偉森には会ったことが無い。胡也頻は上海で一度会って少し話をしただけ。比較的親しいのは白莽、即ち殷夫で私とも交信はあり、投稿もあったが、今捜してみたが一つも無い。きっと17日のあの夜全て燃やしたと思う。が、
当時捕まった中に白莽がいたのを知らなかった。あの「ペトフィ詩集」は手元にあり、ちょっとめくってみたが何も無かった。ただ「Wahlspruch」(格言)の傍らにペン書きで4行の訳があり:
 「生命は誠に尊い、愛情の価値は更に高い:
  だが、自由の為なら、二つながらに抛り棄てられる!」
 叉次のページに徐培根という三文字があり、彼の本名じゃないかと思う。
(実は兄の名:出版社注)
5.
 一昨年の今日、私は客桟に避難してい、彼らは刑場に向かって歩いていた:去年の今日、
私は砲声の中を英国租界に逃れ、彼らはとっくの昔にどこか知らぬ所に埋められていた:
今年の今日、私は寓居にやっと戻り、人々は眠ってしまった。妻も子も。私は沈痛な思いで、大切な友を失ったこと、中国も立派な青年を失ってしまったと感じた。悲憤の中で沈静していったが、またしても積習が沈静の中から頭をもたげてきて、以上の文を書かせた。
 書こうとしても中国には今、書いて(発表)する場が無い。若いころ、向子期の書いた
「旧を思う賦」を読み、彼がなぜ寥寥数行だけを書き、始まったかと思うやすぐ終わってしまうのか、怪しんだことがある。今、やっとそれが分かった。
 若い者が年老いた者の為に書く記念ではない。この30年の間、私の目にした多くの青年の血は、一層一層と沈積し、息もできぬほどに私を埋めてしまった。私はただこのような
筆墨で何句かの文を書くことができるだけである。この泥土に小さな穴を掘って、自分で口を伸ばして瀕死の如くあえぐしかない。何という世界だろう。夜はまさしく長く、路もまさしく長い。私は忘却するに如かず。何も言わぬがよい。但し私は知っている。たとえ私でなくても将来きっと彼らを覚えているものが現れて、再び彼らの事を話す時が来るということを……。
                   (1933年)2月7.8日
 
訳者雑感:
これを翻訳中に仙台青森方面に出かけた。昨夏東北大学を訪ねた時、魯迅記念展示室が地震の為に閉鎖されて見られなかった。今回は仙台の友人と共に訪問した。友人が当時の木造階段教室の建物も教えてくれた。
展示室には清国の駐日領事か誰かの端正な楷書で書かれた中国文の手紙が展示されていて、当時(1900年初頭)は文語の漢文が共通語だったことが分かる。
「吶喊」「自序」に出てくるスライドが数枚展示されていたが、説明書きに「ロシアのスパイを働いたとして処刑された同胞のスライドは無かった」とあるのが印象に残った。
 以前からもそのスライドは見たことが無いという証言があり、本当はどうなのか分からない。実はあったのだが、余りにむごたらしい故、その後廃棄されたものか、或いは実際にそんなスライドは無かったが、魯迅が帰国後、杭州や紹興などで辛亥革命前後に見た「処刑」の場面がオーバーラップして、「自序」の中に入り込んだものかも知れぬ。
 魯迅の小説の中には「薬」「阿Q正伝」など多くの作品に、市中引き回しの上、磔(はりつけ)斬首などの場面が登場する。「薬」の場合は彼が東京にいたころ処刑された「徐錫麟」がモデルだから、彼は見てはいない。しかしそれ以外の小説や雑文の中にも何度も出てくるのは、彼が愛していた人たち、一緒に学んだり、過ごした人々が処刑される光景である。
 この「忘却の為の記念」もその数年前に書かれた「劉和珍君を記念して」も処刑されて二度と会えなくなった教え子たちの為に書いたものだ。そうすることで「忘却」して身をすっきり軽くしたい思いで。鎮魂というより忘却という言葉を使って。
 本文中の「柔石」への愛情が並々ならぬものを感じる。彼の郷里の先輩、明の永楽帝の王位簒奪に反対した方孝孺を彷彿させる「現実離れ」した性善ぶり、他人を信じて疑わない「ひとのよさ」を褒めている。人をあまり信じない魯迅の目からは、まったく別世界の人間のようだ。だが、魯迅が会うことを怖れた所謂文学青年の中で、只一人気さくに物事を頼める相手だった。彼が処刑されたのを痛惜したのは、芭蕉の杜国が罪を得て、渥美に追放され、その後若くして死んだのを悼み、「嵯峨日記」に、「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム」「心神相交わる時は夢をなす」と書くほどであったのに比せられようか。
 現代漢語にも「神の交わり」という言葉がある。現実にともに過ごしたことが無くても、古い昔からつきあってきたような気持ちにさせるいい気持になれる友を指す。
 魯迅も夢で何度も柔石の事を思い出して、夢の中で涙があふれて目が覚めたことだろう。
               2012/01/21訳
 
 

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学生と玉仏


 1月28日「申報」号外が28日北平専電で曰く:「故宮の古物は即刻搬出し、北寧平漢両路は既に命を奉じ、有事に備え団城の玉仏も亦南運」と。
 29日の号外にまた28日中央社電で、教育部電として、北平の各大学への通知を概略して
曰く:「各紙が山海関の緊張報道の際、北平各大学の中に、試験逃れと休暇くりあげの情報が頻発した。いずれも調査の結果確認された。大学生は国民の中堅であり、みだりに驚き騒ぎ、校則を破り、学校当局もこれまで報告もせず、なぜ放任してきたのか?ありうべからざること也。そもそも該当の学校は迅速に学生の試験逃れと休暇くりあげの状況を詳細に報告し、調査処理して後期の始業日を報告のこと」
 30日「堕落文人」(魯迅への罵言)周動軒氏(魯迅)これを見て詩あり、嘆じて曰く:
  寂寞たる空城在り、倉皇として古董遷出す、
  一方では大きな口をたたきながら、面子は中堅頼み。
  驚き騒ぐをいずくんぞ妄と云うや、奔逃、ただ自ら憐れむ、
  嗟嘆すべきは玉仏に非ず、一文の価値すらない。
 
訳者雑感:
 これは日付が無い。出版社注に2月16日上海「論語」第11期に動軒の名で、とある。
団城は北京の北海公園南門の小丘に円形の城壁が築かれ、白い玉仏が承光殿に安置されていて、それは真っ白な玉の彫り物で、高さ約5尺で芸術価値も高い珍宝だとの注がある。 日本軍が山海関を1月3日に陥落したとの報道にうろたえ、驚き騒いだ国民党政府は故宮の古物を南京に搬出するのを決めた。
 これに敏感に反応した、というか便乗したのは学生で、これを口実に試験逃れはするは、
休暇も繰り上げ、故郷に帰ってしまった。国民党政府が日本軍に盗られたら大変だとして、
故宮の宝物を当時の首都たる南京に搬出した。それほどあわて騒いだのは何故だろうか?
 フランスはドイツにパリを落とされたとき、ルーブルなどの美術品をパリから搬出しようと考えた人がいただろうか?この辺りが中国人の民族性を理解する手助けになりそうだ。
結局この宝物はその後武漢重慶を経て、今台北にある。皇帝の封建時代なら、日本の天皇のように三種の神器を持ちださないといけないのだが、故宮の宝物にそうした効力があったのか、それとも単に価値の高い珍宝だから自分の手元に置いておこうとする「欲」からなのか。それを所有していることが、「正統」の証とでも考えているのだろうか。
 魯迅が一文の価値も無いといって玉仏は今どこにあるのだろうか?
 もう一つの疑問は、故宮の宝物の多くは清末に宦官が持ちだして、その代替として贋物にすり替えられた可能性が高いというものだが、贋物も本物のごとく珍品なのだそうだ。
皇帝もその取り巻きたちも贋物とは見抜けなかったほどだから。
    2012/01/12訳
 

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「難に赴く」と「難から逃げる」を論ず


「難に赴く」と「難から逃げる」を論ず
  ――「涛声」編者への書信――
編集者殿:
 私はいつも「涛声」を見て、「快哉!」を叫んでいるのですが、今回、周木斎氏の「人を罵ると自ら罵る」で、北平(京)の大学生が「たとい難に赴けなくとも、最も最低の線として難から逃げてはならぬ」と言い、五四運動時代式の鋒芒が失せてしまったのを慨嘆しているので、私は喉に骨がひっかかったように感じ、いささか発言せねばならなくなった。
私は周氏の主張と正反対で「もし難に赴けぬなら、即難から逃げるべし」と考え「逃難党」
に属しているからです。
 周氏が文末に「北京を北平と改称した効力を疑う」というのは、私も半ば正しいと思う。
当時北京はまだ「共和」の仮面をつけていて、学生が騒いでもなにも妨げず、当時の執政府は昨日上海の十八団体が開いた「上海各界の段公芝老歓迎大会」の段祺瑞氏で、武人だがまだ「ムッソリーニ伝」は読んでいなかったが、案の定やりだしたのです。請願に来た学生にパンパンと発砲した。兵が照準を合わせるのが好きなのは女学生で、これは精神分析学で解釈でき、特に断髪の女学生に対しては風俗維持の学説から解説できる。要するに、
「たくさんの学生」を殺した。然し更に追悼会を開いて:執政府の門前でデモ行進し「打倒段祺瑞」を大声で叫ぶことができた。どうしてか?この時はまだ「共和」の仮面をつけていたからだ。然るに、またやってきた。現在党と国の大教授である陳源氏は「現代評論」で死んだ学生を哀悼しながらも、惜しいことに彼ら彼女らは数ルーブルのために命を落とした、と:「語絲」がちょっと反対意見を出したら、現在の党国の要人、唐有壬氏は
「晶報」に書信を載せ、これらの言動はモスコーの命を受けていると書いた。これはもう北平の気が十分顕著になっている。
 後に北伐に成功、北京は党と国に属し、学生はみな研究室に入る時代となり、五四式のやり方は正しくなくなった。なぜか?それはすぐ「反動派(反政府運動派)」に利用されやすくなったためで、この様な悪い癖を矯正するため、我々の政府、軍人、学者、文豪、警察、探偵は大変な苦心を払った。訓戒、銃剣、新聞雑誌、でっちあげ、逮捕、拷問を使い、
去年請願の徒がすべて「自分で足を滑らせて水に落ちて」死ぬまで続いた。追悼会も開けなくなって、
やっと新教育の効果が顕かになった。
 日本人がもう二度と山海関から侵入してこなければ、天下太平で「先ず内を安んじ、後に攘夷すべし」と思う。だが、恨むべきは外患は来るのが早過ぎるし、頻繁すぎることで、
日本人は中国の諸公のためなど配慮しないから、周氏の指摘と非難を引き起こしたのです。
 周氏の主張は最善は「難に赴く」だが、これは難しい。すでに組織ができていて、訓練を経て、前戦の軍人が力戦後、欠員ができ、副司令(張学良)が召集令を出したら、当然赴くべきだ。だが去年の事実に依れば、移動の汽車すら無料では乗れず、況や日ごろ学んだのは債権論、トルコ文学史、最小公倍数の類にすぎぬから。日本人をやっつけようにも、
とても戦えない。大学生達は中国の兵隊や警官とケンカはしたが「自分で足を滑らせ水に
落ちて」しまった。今中国の兵隊や警官がしばらく抵抗しないというのに、大学生が抵抗できようか?我々はとても多くの慷慨激昂の詩を見たが、いかにして死屍で敵の砲口を塞ぐとか、熱血で倭奴の銃剣を膠着せよと叫んでも、先生、それは「詩」なのですよ!事実はそんなものではない。蟻の死にも如かず、砲口も塞げず、銃剣も膠着できぬ。孔子曰く:
「教えていない民で以て戦わせる、これを棄つと謂う」私は孔老夫子を拝服はしないのだが、これは正しいと思う。私もまさしく大学生が「難に赴く」に反対する一人だ。
 では「難から逃げぬ」はどうか?これも断乎反対。勿論今は「敵がまだ来ていない」が、
もし来たら大学生達は徒手空拳で賊を罵って死ぬか、家に身を隠して死を免れるか?私は前者は堂々としているし将来一冊の烈士伝ができると思う。だが大局は依然として益する所は無い。一人であれ十万人であれ、せいぜい「国連」への報告書に載るのみだ。去年、
十九路軍の某英雄が如何にして敵を殺したかについて、皆は興奮して話題にしたが、そのために、全線は百里も退却した事実、実は中国が負けたのを忘れたのだ。況や大学生は武器も持たぬから、今中国の大新聞が大きく「満州国」の虐政を報じ、兵器の私蔵を禁じているが、我が大中華民国人民が護身用の武器を蔵してみたら、家は壊され人は殺される―
先生、これはこれでまた簡単に「反政府運動派に利用」されるでしょう。
 獅虎式の教育をすれば爪牙を使い、また牛羊式の教育をすれば万一危急の際は可憐な角を使うでしょう。しかし我々はどんな教育をしてきたというのか。小さな角すら使えず、
大難に臨んで只兎の如く逃げるのみ。勿論たとえ逃げても安穏ではなく、どこが安穏な地かも分からない。至るところに猟犬が増殖しており、詩経にいう「躍躍たる狡兎、犬に遭い捕獲さる」がまさしくこれだ。然れば、三十六計もとより「走(にげ)る」を上策とするのみである。
 要するに、私の意見は:大学生を過大評価すべきではなく、彼らを余り重大に責めるべきではない。中国はもっぱら大学生に頼ることはできず:大学生が逃げた後、その後をどうしたら単なる逃走に終わらず、詩境を脱し、実地を踏めるようになれるか、よく考えねばならない。
 先生のお考えは如何?「涛声」に一説として載せてくださいませんか?謹んで採択はお任せし、併せご健康を祈ります。
       羅憮(魯迅の別のペンネーム)1月28日夜
P.S.
 十日ばかり前に北平の学生50余人が会を開いた廉で捕まった由。逃げなかった者がまだいたことが分かるのと、罪名が「抗日を口実に反政府を図った」由、と。これで、「敵がまだ来ていない」といっても、やはり「難を逃れる」のが正しいことが分かります。
 
訳者雑感:魯迅は東京にいるころから同郷の志士たちが革命に立ちあがって義に就き、処刑されてきたのを見聞きしてきた。北京で教えていた時も、請願に向かった教え子たちが、
段祺瑞政府の警官の発砲で多くの命を落としたのを見てきた。彼自身は革命の軍事的行動に参加したことはない。どちらかと言えば警官に追われるたびに、外国の病院や租界のような場所に逃げるのを「上策」としてきた。
 彼にとっては、義に就く人たちの潔い勇気には大変な畏敬の念を抱くと同時に、自分の身に逮捕処刑の危機が迫ったら逃げるに如かず、が第一であった。そして武器も持たぬし、武器の扱いかたすら知らぬ人間(大学生)が戦いに赴くことは「死地」に行くことと同義であった。
 いさましい詩やスローガンを叫ぶのは止めにして、実地をどのように踏んでゆくべきかを考えねばならぬ、と訴えているが、これがその後、多くの学生が北京上海などから延安の根拠地に移っていく流れを作ったとも言える。そこで実地に見たのはやはり人間社会の
どろどろとした権力争いや党の党としての旧い体質などであって、幻滅した学生も多くいたことが公になってきている。しかしそれでも南京や重慶の国民党よりは「まし」だったとは言えようか。根底のところで国民党の体質と共産党の体質にはそんな大きな差は無い。
同じ3千年の長い支配階級と被支配階級とのせめぎ合いで培われた「考え」が支配者たち、党の幹部たちの頭脳を支配していたのは間違いない。
      2012/01/11訳
 

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