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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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世故三昧

世故三昧
 処世とは実に難しいもので、あいつは「世故に通じぬ」というのは褒めた言葉ではない。
だが「世故にたけている」というのも褒めているわけではない。
世故はどうやら「革命は革(あらためる)ざるベからずだが、あらためすぎるのもよくない」というに似て、通じざるべからずだが、たけすぎてているのも良くないようだ。
 然し、私の経験では「世故にたけた」という悪名は、やはり本当には「通じていなかった」為だ。
 今次のようなことを青年に勧めてみるとしよう――

「世の中で不公平なことにあったとしても、決して身を挺して公理公道を説いたりしてはいけない。さもないと災いは君の頭上に降りかかって来、ひどい時には反動分子だ、と非難されてしまう。
冤罪の人や誣告で陥れられたりした人に会っても、彼が良い人だと知っていても、身を挺して彼の為に弁明してはならぬ。
さもないと、彼の親戚だとか、賄賂を貰っているとか言われる:
もしそれが女性だと彼女の情夫と疑われ:
彼が有名人なら、その徒党にされる。
私自身の例だが、まったく見ず知らずの女性の書簡集に序を(若くして亡くなった女性の夫から人を介して頼まれて書いたもの:出版社)書いたら、人はすぐ彼女は、私の妾だと言いだした:
科学的な文芸理論を紹介したら、ソ連からルーブルを貰ったからだと言われた。

親戚とお金の問題は、今の中国ではとても大きな関係があり、事実は教訓を与えてくれているのだが、それに慣れてしまってその関係から脱しきれないのだ。

『然し、人々は実は本当は信じてもいないことを、ただ面白おかしく言うのが好きなのである。
明末の鄭(曼+阝)のように(母を杖で殴打したとのデマで)手足を切断され、体を切り刻まれるような人間のことも、それが自分と関係がなければ、面白おかしく話すのだ。
 そんな時、君が間違いだと言ったら、皆は興ざめし、その結果君自身が、気まずいことになってしまう。

私も経験がある。十数年前、まだ教育部で「官僚」(魯迅の論敵が使ったもの:出版社)をしていたころ、同僚が某女学校の学生はやらせると言い、その場所の所番地もはっきり言うのをよく聞かされた。
ある時たまたまその街を通った。
人間は悪いことはよく覚えているもので、その番地を思い出し、気をつけて探してみた。
だが、そこは小さな空き地に、大きな井戸があるだけのあばら家で、数人の山東人がそこで水を売っていた。他の用向きには決して使えないような建物だった。

彼らがまたこのことを話している時、私が見てきたことを話すと、みなそれまでの、笑い顔をこわばらせ、興ざめして散って行った。
その後私とは二三カ月口をきかなくなった。
私はこういうことがあった後、彼らの興趣を壊すようなことはすべきじゃないと悟った。
「従って、一番いいのは是非曲直を問わず、皆に附和雷同すること:
もっといいのは、口を開かぬこと:
更にいいのは自分の感情をおくびにも出さぬこと…」

 これが処世の精義で、黄河が(洪水で)足元に来ぬ限り、爆弾が身の回りに落ちてこぬ限り、一生挫折せずに暮らしてゆけると保証する。
しかし青年は私の話を必ずしもその通りだとは思わぬかもしれぬ:
中年・老人すら私が彼らの子弟に悪いことを教えると思うかもしれぬ。
嗚呼、それでは折角の苦労も水泡に帰す。

 今の中国は堯舜の盛時の如しと言っても、それは「世故」の話にすぎない。
現実に見聞きすることはさて置き、新聞を見ただけでも、社会にどれほど多くの不公平があり、どれほど多くの人が冤罪で貶められているか分かる。
だがそれに対しては、時々同業・同郷・同族の人たちが冤罪だと訴える外は、
利害関係の無い人の義憤は余り聞かない。
それは明らかに、皆が口を開かぬためである:
自分とは無関係だとし:
自分とは無関係と考えることさえ無い。
「世故」とは「世故にたけている」とあまり自覚しない状態で、それこそ真の「世故にたけている」のである。
これが中国の処世法の精義中の精義だ。
しかし私が青年に勧める話が間違っていると心の中で思う人に対する反撃はここにある。
私を狡猾と考えている。だが私の話には一面では私の狡猾さが現れているが、
それは無能であり、もう一面では社会の暗黒さを示している。

 というのは只単に個人を責めるのがもっとも穏当なやり方で、もし社会を責めるとなると、立ち上がって戦わねばならない。個人を責めるという「世故にたけた」やり方でかつ又、「世」は避けて語らない。これが更に「世故にたける」の真骨頂だ。
 もしそれを自覚しない位になれば、更に深い三昧境から蓋し遠からずである。
だが事は凡そ口に出すと、ただちにカスとなり、もう三昧できない。
「世故三昧」と口にするのは「世故三昧」に非ず。三昧の真諦は行って口に出さぬこと。
私が今「行って口に出さず」と口にしたら、もう真諦は失われ、三昧境から蓋しますます遠くなってしまう。
 一切の善知識は心でその意を知れば可也、唵!(オン:梵語の呪語)
                10月13日

訳者雑感:
「世故にたける」とは魯迅が論敵から何回も浴びた「罵声」だ。それを三昧しようというのがこの文章。芥川の「戯作三昧」を思い浮かべながらの雑感は、魯迅は中国という社会で生きてゆくための処世法の精義だとしているから面白い。
戯作者は興に乗りだすと、寝食を忘れ、忘我の状態でものを書き続ける。
世故三昧者は、行って口にしないことだが、魯迅はそれを文字に残して「カス」にして、青年達に読むように勧めている。
一切の善知識は心でその意を知れば可也、オン!
不立文字、とは禅の言葉だが、世故にたけない僧はあまたの文字を残して死んだ。
    2012/04/03訳



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漫与(杜甫の詞:随意に書く)

漫与(杜甫の詞:随意に書く)
 地質学上、古生代の秋がどうであったかわからない。
だが現在のことなら、そんなに大した差は無いだろう。前年の秋がとても厳しかったから、今年の秋もすごく寒いというなら、地球の年齢は天文学者の予測よりも、更にずっと短いものになりはしないだろうかと心配になる。
世の中の変転は実に早い。この変転する世の中の人で、とりわけ詩人は違った秋を感じ、その感覚を、悲壮的或いは凄くはげしいことばで、ひとびとに伝え、みなでそれに対応できるようにしようとするから、この世にはいつも新しい詩ができる。
 一昨年は実際、悲壮な秋であり、市民は義援金を出し、青年は命をかけ、笛と鼓の音が、詩人の筆から湧きだし、「勉学を止めて従軍しよう」というような状況だった。
然し、詩人の感覚は鋭敏で、彼は国民が徒手空拳なのを知らないわけでもないから、只ただみなが殉難するのを賛美するしかなく、それで悲壮の中に、空虚さが埋伏する。

私が覚えている邵冠華氏の「同胞よ目覚めよ」(「民国日報」掲載)の一段で――
『同胞よ、目覚めよ。
 弱者の心を蹴り飛ばし、
 弱者の脳を蹴り飛ばせ、
 見よ、見よ、見よ、
 見よ、同胞たちの血が噴き出した、
 見よ、同胞たちの肉が裂け出した、
 見よ、同胞たちの死体が架けられた』
 軍鼓が響き前線に向かう。進軍の時は「元気を出させ」るが、二度目には哀となり、三度目には力が尽きる」と(左伝にあるように)進軍の準備の無い所では、まったく意気阻喪させる霊薬のようになる。他のひとびとの緊張した気持ちを弛緩させる。
私はそれを「号喪」(魯迅が民族主義文学の詩を、喪を送る時の哭声と表現;出版社)と呼んだが、これが死を送る妙訣で、喪礼の終わりで、これ以降、生きている人はまた他の境界に入り、安心して暮らせるというわけだ。
 暦来の文章も、「敵」を「皇」と化し、「逆」を「我が朝」と称したが、この様な悲壮な文章は、そのあいだを繋ぐ「蝶つがい」だ。当然ながら作者は一人とは限らない。
しかし詩人の目から見ると、私がこう言うと、それは一種の「狂い吠え」だそうだ。
 だが事実は本当に評論よりも更に情け容赦も無いもので、わずか短い2年の間に、昔の義軍は「匪徒」となり、「抗日英雄」は早々と蘇州に移り住み、義援金にも問題が起
こった。(抗日英雄と称えられた連中が2千万元と言われる義援金を持ち逃げした:出版社)
 九一八記念日に、中国人街に囚人車が武装警官と共に巡回した。この囚人車は決して、敵や漢奸を拘禁する「意図」はなく、専ら「機に乗じて争乱を起こす」「反動分子」の為に、あらかじめ準備した宝坐だ。天も実に陰惨で狂風聚雨の「台風」だと新聞も報じ、天地も中国の為に涙を飲んだが、天地の間の――人間は「平安」にこの日を過ごした。
 それで惨憺な状況ながら「平安」な秋天はまさしく喪家の喪があけた景だ。だがこの景は、詩人とぴったり適合し、私は「覚めよ同胞たち」の同じ作家が書いた「私の黄昏」(9月25日「時事新報」)の愁閑で気持ち良さそうな声が聞こえる。
 『秋は物悲しく:私の黄昏は涙を流し、私の物悲しさは、秋風の波動を受けて、興奮して展開する。同時に自分もまた自分の環境が秋天にもっとも適合していることを見つけ、細やかな秋が自然に発する音波をなでいくつしみ、私は我が運命が私を秋天の人
としたことを知る。…』

 尾行、今中国の流行は、無頼漢がモガの後をつける。探偵が革命者を尾行する事だが、文人学士たちの尾行は大変少ない。仮に数カ月、数年試みてみても、多くのことがどんな事情で変わっても、結局はいちいちごもっともな詩人である。
 
 生きている人間は、当然ながらずっと生きてゆこうとする。たとえ正真正銘の奴隷でも、やはり何とか耐えて生きてゆこうとする。然し、自分が明らかに奴隷だと知りながら、歯を食いしばり、不満を抱きながら、あらがって、その一方では脱出しようとする。
たとえ暫時失敗して、首かせを架けられても、単なる奴隷にすぎない。その奴隷生活に、「美」を捜し求め、賛嘆し、なでいつくしみ、陶酔するのは、まったく未来永劫の奴才だ。
彼は自分と他の人たちを永遠にこの生活に安住させようとする。
それは奴隷群の中にただこの一点の差があるためで、社会に平安と不安の差別をもたらし、文学的にも明らかに麻酔と戦闘の違いが顕著に現れている。
         9月27日

訳者雑感:
 九一八から2年。東北で日本軍に抵抗せよと「掛け声」だけは大きいが、何の武器も持たぬ青年達は尊い命を落とし、抗日英雄たちへの義援金は馬占山たちが敗退の結果、彼らはその金を持ち逃げして欧州に遊び、蘇州に移り住んだりして国民を裏切った。
 そして魯迅がここで完膚なきまでに攻撃している詩人は、奴隷生活を強いられている殆どの国民に、目覚めよとか響きの良い詩を発表して、結局は、この奴隷生活に安住させようとする詩を書いて国民を欺いていると断じている。
      2012/04/01訳

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偶成(ふと偶然に)

偶成(ふと偶然に)
 9月20日「申報」に嘉善地方の記事があり、摘録する。
『本県大窯郷の沈和声と子の林生は、悪名高い匪賊の石塘小弟に誘拐され、
身代金3万元を要求された。
沈家は中流家庭でなかなか解決できずにいた。なんと驚くべきことに誘拐団は、
沈父子と江蘇省境から誘拐してきた他の人質と一緒に、丁棚の北蕩灘で酷刑をした。
背中に布を貼り、生の漆を塗って、少し乾いたところで布の端を皮と一緒に、
引っ剥がす。その痛さは心肺にまで達し、助けを求める哀号は残酷で残酷で、
聞くに堪えない。それを同地区の住民が目撃し、可哀そうでたまらず、
一刻も早く購わないと生還は困難だろう、と惨状を沈家に連絡した。
誘拐団の手口の残酷さは実にひどい』

「酷刑」の記事は各地の新聞でたえず目にするが、読んだ時は「ひどいことを」、
と感じるが、暫くすると忘れる。記憶していられないから。
酷刑のやり方はけっして唐突に発明されたのではない。それは師伝とか祖伝がある。
例えば、この石塘小弟の手口は古くからあり、士大夫は余り読まぬが、
下等人は大抵知っている「説岳全伝」一名「精忠伝」で秦檜が岳飛に「漢奸」だと、
自認させようとして供述を迫る時に使ったものだ。彼が使ったのは、麻の帯と魚の浮き袋。
(そこから採ったにかわ)。生漆は的確とは限らぬと思う。すぐには乾きにくいから。
「酷刑」の発明者と改良者は酷吏と暴君だ。これは彼らの唯一の仕事で、またそれを考える暇もたっぷりある。
民を威嚇して、奸を除くことができる。然るに「老子」(荘子が正しい:出版社)は、うまいことを言っている。
「之を斗斛(升)として量れば、斗斛と共に之を窃む…」
罰される資格のある者も「剪窃」(切り取って盗む)を弄ぶのだ。
張献忠が人の皮を引き剥がしたのも恐ろしい話だが、彼以前に「逆臣」景清の皮を剥がした永楽帝がいた。
 奴隷たちは「酷刑」の教育に慣れ、人に対しては酷刑を用いるべきだとしか知らない。
だが主人と奴隷の考え方は異なる。主人と取り巻きの多くは知識があり、推測もできる。
酷刑が敵対者にどれほど苦痛を与えられるか知っているから、注意深く選び進歩してきた。
奴才たちは愚かで「己を以て人に考えを及ぼす」ことができぬ。さらに推察によって「同じように体感」できない。
只、彼に実権があれば、できあいの手口を使うかどうかは断定できぬが、彼は知識人が推測するほどそんなに残酷と考えていない。
セラフィモヴィッチは「鉄の流れ」の中で、
農民が貴人の娘を殺す場面で、母親がとても悲痛に泣くのをいぶかって、何をそう泣くのかといい、我々は沢山の子供たちが死んだが、少しも泣かなかった、と書いている。
彼は残酷で無く、それまで命の大切さを知らぬので、奇妙に感じたのだ、と。
 奴隷たちはイヌ豚のように扱われて来たのに慣れ、人間もイヌ豚と大差ないということを知るのみだ。
奴隷と半奴隷を使ってきた幸福者は、これまで「奴隷が謀叛」するのを怖れたのは怪しむに足りない。
「奴隷が謀叛」するのを防ぐには、更に厳しい「酷刑」を使い、そのために末路に到る。
今では銃殺はとうに奇とするに足りぬし、梟首(キョウシュ)死体陳列も亦民衆の暫しの鑑賞を博すのみで、強盗、誘拐、騒乱は減らぬ。
誘拐団すら人質に酷刑を使いだした。残酷な教育は人がそれを見ても残酷とは感じぬし、何の理由も無く何名かの民衆を殺しても、以前ならみなが大騒ぎしたものだが、今では、日常茶飯事となってしまった。
 人民は本当に感覚の無い癩象の皮のようになっている。それが更に厚い皮になったから、残酷なことにも平気になり、これは酷吏と暴君すら考え及ばぬ所で、たとえ及んだとしても、もはや何の手だても施せないのだ。
    9月20日

訳者雑感:
 「天津のコンプラドール」にも書いたが、1980年代に天津で一緒にテニスをした先輩、梁文奎さんのお父さんは、1930年代の天津でジャーディンマセソン社の筆頭買弁だった。
それで長男が天津市内で誘拐され、大金を身代金として払ったにも拘わらず、
兄は死体となって送られて来た。
 英語のShanghaiedという言葉はひとさらいにあって、船底に並べられて上海港へ送られるという意味で、それほど誘拐、拉致、人さらいが横行していた。
奴隷たちは愚かで、そうすることを何も感じずにやってしまう。
象の厚い皮膚以上の無神経さで。
 新中国建国後60余年経た今でも、子供たちが人さらいによって、大量に売り買いされている。身代金目的ではなく、売り飛ばして金を稼ぐのだ。
どちらが残酷か以前の問題だ。
       2012/03/29訳

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九一八

九一八
 曇り、昼から大風雨。
この記念日を記念する夕刊にこの風雨のことが出ていた。
明日の朝刊はきっと千篇一律の文が並ぶだろう。
空言は事実に如かず。それらを見てみる――
 戴秀陶が如何に救国するかを語る(中央社)
 南京18日――国民政府は18日朝、記念周開催。
林森、戴秀陶、陳紹寛、朱家驊、呂超、魏懐及び国府職員等四百余名参加。
林主席が開会を宣言し、次いで戴が「如何に救国するか」を語り、
当日は九一八の二周年記念;我々は沈痛しているだけではだめで、
救国という目的を達成する方法を考えねばならぬ。救国の道は大変多い。
道徳救国、教育救国、実業救国など、最近また航空運動及び節約運動もでてきた。
前者は国防と交通面での建設で、今後我らは根本的に国力強化の方法を見いだすべきで、只単に外国から飛行機を買うだけではいけない。
節約運動も消極的に消費を節約する一方で、積極的に生産面に資本投下するべきだ。
この国家危急の秋、我らは各自の持ち場で尽力し、総理の一貫政策に基づき、
総合的に三民主義の実施をはからねばならぬ。

  呉敬恒 記念意義を語る (中央社)
 南京18日、(党)中央は18日朝8時、九一八の二周年記念大会開催。
中央委員の汪兆銘、陳果夫、邵元冲、陳公博、朱培徳、賀耀祖、王祥及び中央委職員、六百余人が参加。
 汪主席が開会宣言、呉敬恒が一致団結して国力を充実させ、九一八の意義を記念する為、道理を説いて大いに宣伝し、愛国の道を正しく示し、警戒意識を高めようと呼びかけ、9時に終了した。

   漢口は静かに黙祷、娯楽禁止 (日聯社)
 漢口18日、漢口九一八記念日は中国人街各戸はすべて半旗を掲げ、省市両党部は午前10時、記念会開催。
 各劇場、酒楼は一律休業。午前11時、全市民5分黙祷。

  広州は民衆デモ禁止  (ロイター社)
 広州18日、各公署と公共団体は今朝すべて九一八国恥記念会を開き、中山記念堂は、午前中記念式典を開催、演説者はいずれも日本の対華侵略を攻撃、全域で汽笛を一斉に鳴らし、民衆に警告した。
 式典中に飛行機からビラをまいたが、民衆の大デモは当局に禁じられてできなかった。
   東京の記念祭は犬馬にも及ぶ
 東京18日、東京は本日九一八記念を開催。午後1時、
日比谷公会堂で戦没軍人の遺族慰霊祭を行い、築地本願寺では軍馬、軍用犬、
鳩などの慰霊祭も行われた。
在郷軍人は午後6時に大会開催。靖国神社は戦没軍人追悼会を開催。

 では上海はどうだろう?まず租界から。
 風雨が消沈さをつのらせた。
 今日全市は激しい風雨にみまわれ、垂れこめた雲と陰鬱な霧のため、
暗澹とした雰囲気に包まれた。
 だが自動車は全市内を行き交い、特に九一八らしい点景も見られず、
去年のこの日に比べ、やや消沈したようだ。
だがこれは中国の民衆がすでに麻痺しているということではない。
或いは中国民衆がもうスローガンや標語などあてにならないと覚り、
只歯を食いしばってやるしかないと考えているためである。
 だから南市、閘北、及び租界区域の状況は異常に平穏で、道路も警察当局が
警官を多く派遣している要所で厳重警戒している外は、何も記す事も無い。
 以上は「大美晩報」(アメリカ人経営)の記事で中国人を祝福している。
 中国人街についてはやはり「大晩報」を見ねばならぬ――

  今日は九一八
     租界厳重警戒、 
       公安局は密告により反動分子の動き防止
 今日は「九一八」日本が東北を侵略占拠した国難二周記念日。
市公安局長 文鴻恩は密告により、反動分子が国難記念日に乗じて、
秘密裏に無知な労働者を集め、扇動惑乱を企て、
秩序を混乱させようとしている、
として文局長はその密告を受けて、即座に各区の部隊に訓令し、
去年の「九一八」の特別警戒に倣った方法を実施した。
 各当該局の各科は今朝10時ごろ、局長室に全職員と警察総隊第三中隊警士を
招集し、「九一八」国難記念会を行い、同時に記念周を開催した。
その他に、監督署長 李光曽に命じ、監督員全員と男女の検査員を中華路・
民国路・方浜路・南陽路・唐家湾・斜橋に派遣し、各区所の警士立ち会いのもと、各要所・大通り及び租界に接している所を午前8時~11時半まで、11時半~3時まで、午後3時~6時半まで三班に分かれて、順次通行人を検査した。
 南市の大吉路体育場・滬西曹家渡三角場・閘北潭子湾などには、
いずれも大量の警官を派遣し、集会デモを禁じた。
 製造局路の西、徐家匯区域内の主要街道(地区)は特別警戒を実施、
事件が発生し、制止不能の場合は、ただちに麗園路の市保安署第二団長に報告し、処置を仰ぎ、工場が林立する場所は警官の駐在を二人とし、赤色車巡羅隊を
城環沿いに巡回させるなど、非常厳戒態勢となった。
 当該局偵察隊長 蘆英は、偵察班長 陳光炎(等数名の名を記すが割愛)に命じ、それぞれ偵察員を率いて密かに曹家湾(等数箇所を記すが割愛)に向かわせ、厳重に反動分子の行動を偵察させ、防犯につとめ、その芽を摘んだ。
 共同租界とフランス租界の両警察署もまた、中国人と外国人双方の取り調べ官を派遣し、捜査に当たり、反動を防いだ由。
 「赤色車」とは囚人車で中国人が運転できるが、中国人から見るとなにやら
「とても荘厳な様子」に感じるという。
 
 2日前(16日)に出版された「生活」(中華職業教育社刊)に「2年前の教訓」
と題したこんな記事を思い出した。
  『第二、我々は誰が友で誰が敵か仇か知っている。
ヒットラーはドイツ民族社会党大会で言った。
「ドイツの仇敵は国外ではなく、国内にいる」と。
北平(北京)整委会主席 黄郛(コウフ)は語った:
「和共抗日(共産党と和して日本と戦う)は実に謬論であり、
剿共和外(ソウキョウワガイ、共産党をたたいて外国と和す)のが救時救党の上策である」我々は言わねばならぬ。「民族の仇敵は帝国主義だけではなく、民族の利益を売りに出す帝国主義のイヌたちである。
 民族が帝国主義に反対するのに本当の障碍はどこにあるか?
過去2年の事実がそれを示していることより明らかなことがあろうか?』

 今もう一度一つの切実な脚注をつけると:
その明らかな証拠は上海中華人界の「赤色車」である!これがこの日の大教訓!
 年々このような状況が時に埋もれてしまうから今夜これを書き、記念文とす。
中国人が皆殺しにされないなら、我々の後に来る者たちのために残す。
     その日の夜、記す。

訳者雑感:
 租界の外の中国人居住区でのデモ防止にかくも厳重警戒をし、赤色車を巡回させる。
「赤色車は囚人車での後の原文は『中国人可坐』はどう訳すか迷った。
租界の中にも同じのがあって、これは主に外人が運転して、囚人を乗せるのだろう。
租界外では外人が運転することはないだろうし、乗せられるのは中国人の囚人だろう。
とすると、ここの意味は中国人が運転できる、可能の可であろう。
その赤色の囚人車が中国人の目からも「とても荘厳な様子」に見えるという。
まさに「帝国主義のイヌ」たちが租界の外でも勢力を伸ばしているのだ。
   2012/03/26訳
 


 





 

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小品文の危機

小品文の危機
一二か月前の新聞に、ある人の死亡記事が出、その人は「小擺設」(シャオバイシャ)
(書斎の棚に置く小さな置物)蒐集の名人で文末に彼が亡くなったら「小擺設」
の蒐集者は中国にいなくなってしまう、と嘆息していた。
 惜しいかな、その時は余り気にとめず、新聞と彼の名を忘れてしまった。
 今の青年は多分「小擺設」が何か知らないだろう。
旧家の出で、かつて筆墨をいじっていた人がいて、余り没落していなければ、
そして使用しなくなった物を古道具屋に、処分してなければ、埃まみれの廃物の中から、小さな鏡屏、精巧な彫り物、竹の根に刻まれた人像、
古玉に彫られた生物、
緑青の銅鋳に三本脚の蝦蟇:こうした物が所謂「小擺設」である。
かつては書斎に陳列されていたころ、夫々に雅号がつけられ、例えば三本脚の蝦蟇は、
「蝦蟇の水差し」と呼ばれていて、最後の蒐集家はきっと皆知っていたが、
今や、彼の栄光とともに消失した。
 こうした物は勿論貧しい人の物ではないが、大官富翁の家に陳列されていたものではない。彼らが求めたのは珠玉で造られた盆栽や五彩の絵の画かれた陶磁器の花瓶だ。
これは只所謂士大夫の「清玩」(文雅な賞玩品)に過ぎない。
田舎に少なくとも数十畝の肥沃な田を持ち、家には数間の幽雅な書斎があり:
たとえ上海に移り住んでいたとしても、暮らしは安閑としていて、
客桟(宿)にも長期の部屋を持っていて、書机一つ、アヘン吸飲用ベッド一つ、
中毒になって心も長閑で、
手の中でそれを撫でて玩び鑑賞する。だがこの境地も、
世界の険しい潮流に押し流され、怒涛の中の小舟の如し。
 然し、たとえ所謂「泰平の御代」でも元来この「小擺設」も大して重要な物ではなかった。一寸四方の象牙板に「蘭亭序」を刻し、今なお「芸術品」と称すが、
万里の長城の壁の上に懸けたり、雲崗の一丈八尺の仏像の足下に供えたら、
小さくて見えない。
熱心な人がほれあれ見て、と指でさしても、見る者を少し滑稽に感じさせるのみだ。
況や、砂嵐が顔に吹き付け、虎や狼が群れを成して襲いかかって来ている時、
扇子の柄の琥珀製の飾りや翡翠の指輪を賞玩するような閑があろうか。
たとえそれらが目を喜ばせたとしても、
必要なのは砂嵐の中に聳え立つ大建築で、
強固で偉大なものが要るのであって、そんな精緻なものでなくて良い。
たとえ意にかなうものだとしても、必要な物は匕首(アイクチ)と投げ槍であって、
鋭利で実際役に立つものだ。雅さは不要なのである。
 美術面で「小擺設」に求める夢はすでに破たんしており、その新聞の記者も、
直覚的に分かっている。
然るに文学面での「小擺設」「小品文」への要求は、今まさに益々旺盛になり、
それを求める人は低い声で訴え、小さな声で吟じることで荒んだ人心を徐々にだが、
和らげることができると考えている。これが即ち、他の人々が一心に「六朝文絜」を、
読もうとし、黄河決壊後でも、僅かに水面から出ている梢にしがみついている
自分を忘れているのだ。
 こういう時には只あらがい、闘うしかない。
そして小品文の生存も只あらがいと闘いに頼る他ない。
晋朝の清談はその時代と共に消えた。唐末に詩風は衰落し、商品が光を放った。
だが、羅隠の「讒書」(ざんしょ)は殆どすべてが抗争と憤激の言葉で、
皮日休と陸亀蒙は自ら隠士とし、人もそう呼んだ。
彼らの「皮氏文藪」と「笠沢叢書」の小品文は、天下を忘れてはいない。
まさにぐちゃぐちゃの泥塘の中の光彩ある鋭気だ。
明末の小品はやや頽廃したとはいえ、すべて風月を吟弄するだけではなく、
中には不満、風刺、攻撃、破壊があった。
この作風は満州の君臣の心の病に触れて、幾多の残虐な武将の刃と、
人を助けようとする文人の筆鋒を費やすことになったが、乾隆年間になって、
これらも圧制されてしまった。その後に「小擺設」が現れた。
「小擺設」には大きな発展は無い。五四運動時、少しは展開があり、
散文小品の成功は、ほとんど小説戯曲と詩歌より上だった。
その中には勿論あらがいと闘いが含まれていたが、
常々英国式の随筆の手法が採られたため、ユーモアと余裕を帯び:
書き方も美しく精緻で、これは旧文学への示威で、旧文学が自ら特長とするものを、
口語文学もできぬ訳は無い、ということを示した。
その後は本来明らかに、あらがいと闘いがもともと「文学革命」に萌芽し、
「思想革命」に至ったのである。だが現在の趨勢は特にあの旧文学と相合する点、
余裕、美文、緻密さ、それらはたとえ「小擺設」として雅人の手なぐさみに供し、
且つまた青年がこの「小擺設」を手で撫でてもらおう、
粗暴から風雅へと変わってもらおうと考えている。
 然るに今やすでに書架も無く:アヘンは公認販売されているが、
吸煙器は禁じられ、容易には吸えなくなっている。
戦地や災区の人々に鑑賞してもらおうなどとは――
誰もがそんなことは奇怪な幻夢と知っている。
 この種の小品は上海ではまさに盛んである。茶話酒談時用に、
タブロイド版に満載だが、実は娼婦と同様、すでに路地で彼女たちの商売はできなくなっており、厚化粧して夜の街に立つほかないのだ。
 小品文はこういう危機に面している。
だが私の所謂危機は医学で言う所の「極期」(Krisis)と同じく、
生死の分かれ目で、このまま死ぬか、そこから回復できるかだ。
 麻酔的な作品は、麻酔者と被麻酔者が同時に滅び尽きる。
生き残れる小品文は、匕首(あいくち)でなければならず、投げやりでなければならぬ。
読者と共に生存のための血路を切り開けるもの:だが当然、人を楽しくさせ、休息もさせ、しかし「小擺設」ではないし、慰撫したり、麻痺させるのでもない。
人を楽しくさせ休息させるのは休養であり労働と戦闘前の準備である。 
8月27日

訳者雑感:
魯迅の雑文に対する姿勢がよく示されている。
晋朝のころの清談、明末から満州政府への抵抗者としての武人と文人の
あらがいと闘争。
魯迅の小品文の真髄は、これらの先輩たちの文章に範を採ったものだろう。
労働と戦闘の前の準備として、読者に「楽しさと休息」をとってもらうために如何に書くか。それに全力を傾注したと思う。
魯迅の雑文は読み始めの人には難しく、古典もよく引用されるので理解できない面が多々ある。
だが瞿秋白が編した雑感集は当時の青年達によく読まれたという。
1920―30年代の、めちゃくちゃになっていた中国をなんとかしなければという熱い思いの青年たちの心に、ちょうど沙にしみこむ海水のように溶け込んでいったのだろう。
そうした青年たちへの「楽しさと休息」をもたらす小品を書かねば、「小擺設」と同じ命運
をたどることになってしまう。
      2012/03/25訳


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「論語一年」

  ――この場を借りて再びショ―を語る。
 「論語」創刊1周年、林語堂先生が何か書けという。
なにやら「学而一章」の題のようで、口語で八股文を書けということのようだ。
止むを得ない、書いてみる。
 正直、彼の提唱したことに私は常々反対してきた。以前「フェアプレー」に対して、
そして今は「ユーモア」に対してである。私は「ユーモア」が好きでないし、
これは円卓会議(中世英国で身分の上下を分けぬ為:出版社)を好む国民が始めた
たしなみで、中国では意訳すらできていない状況だ。
我々には唐伯虎、徐文長がおり:最も有名なのは金聖嘆で
「斬首は痛みの至り也、而して聖嘆はその意ないのに、之を得るとは、大いなる奇也!」と言った。本当かどうか、笑い話かどうか知らぬ:
事実かデマかも分からぬ。只要するに:一つには聖嘆は反抗する謀叛人などではない、
と言明しており:二つには斬首の残酷さで大笑いさせ、おしまいにしているのだ。
我々にはこんな物しかない。「ユーモア」とは何の繋がりも無い。
 作家の名前を長く列してしるが、実際に寄稿しているのは数人というのが、
中国の古くからのやり方で、こういう儀礼の下、毎月2冊の「ユーモア」を発行するのは、なにやら「ユーモア」じみている。
これが私を悲観させ、嫌いにもさせ、「論語」に余り熱心になれなくした。
 然し「ショ―特集号」は良かった。
 他で載せない文章を載せ、他では故意に顛倒させたことをすっぱ抜き、
今でも名士達は不満で、小役人も恨んでおり、食事中も寝ている時も思い出しては
憎悪されている。憎悪者が多いのも効果が大きかった証だ。
 シェークスピアは「劇聖」だが、中国で取り上げる人は少ない。
五四運動時代にイプセンを紹介したら好評だったが、今年ショ―を紹介したらひどいことになり、今なおある人たちは怒っている。
 彼のにが笑いが冷笑なのか意地の悪い嘲笑いか、ニヒルな笑いか分からぬからか?
決してそのためではない。彼の笑いには棘があり、人の痛いところをチクリと刺すからか? 全てそうとも限らぬ。レビノフがこの点を明確にしてくれ:
イプセンは偉大な疑問符だが、ショ―は偉大な感嘆符だという。
 彼らの観客は言うまでも無く紳士淑女たちが多い。
彼らは面子をとても大切にする。イプセンは彼らを登場させ、隠されていた 弊害を暴いたが、結論は出さずに、従容として言うのは「考えるに、 これは一体どうしたことだろうか?」と(疑問符で終える)。
紳士淑女達の尊厳は確かに動揺したが 結局は、得意げに退出し、帰宅してから考える余裕があり、面子が保たれた。 帰宅後に考えたかどうか、どう考えたか、それは問題ではない。だから彼が 中国に紹介された時はとても穏やかで、反対者は賛成者より少なかった。  
ショーはそんな訳にはゆかない。彼らを登場させ、かぶっている仮面ときれいな衣装をひっぱがし、耳をひっぱってきて皆の前で、 「ほらこのウジ虫を見ろ!」とやった。相談する時間や、糊塗する余裕も 与えなかった。この時、笑うことができたのは、彼が指摘したような痛いところを持たぬ下等人だけだった。
この点でショーは下等人に近く、上等人から遠い。  
ではどうすれば良いか?古来からの方法がある。 すなわち、皆でわいわい騒いで、彼はほんとは金持ちなのにあんな振りをしているだけで、「名流」で「狡猾」だと騒ぎ、少なくとも自分たちと 何も変わらぬ人間で、より悪賢いと言い出すのだ。
自分は小さな便所に住んで いるが、彼は大きな便所から這い上がってきたウジ虫であり、彼の紹介者も 実にいいかげんで、憎むべき相手を称賛している、という。
 しかしショーがウジ虫だとしても、偉大なウジ虫だと思う。
まさに多くの感嘆符があるなかで、惟彼だけが「偉大な感嘆符」であるのと一緒だ。たとえば、ここに沢山のウジ虫がいるとしよう。どれもが自らを 紳士淑女、文人学士、高官貴人と思っていて、互いに会釈し、ゆったりと礼を 交わしていれば、天下泰平でそれは全体としても何の身分的高低もなくすべてが 普通のウジ虫だが、一匹が急に飛び出してきて大声で一喝「お前らはすべて ウジ虫だ!」と叫ぶ。
で、勿論それも便所から這い出てきたものだが、我々は それが特別に偉大なウジ虫だと認めざるを得ぬ。 ウジ虫にも大小と善悪がある。
生物が進化している事がダーウインによって示され、我々の遠い祖先と猿は親戚だと
知った。だが当時の紳士達の手口は全く現在と同じで:彼らは皆でダーウインを猿の子孫だとした。羅広廷博士は広東の中山大学で「生物自然発生」の実験がまだ成功していない時、体面は悪いが、我々は暫くの間、人類は猿の親戚と認めることにしようとした。
しかしこの同じ猿の親戚の中でもダーウインはやはり偉大だと言わざるを得ない。
その理由は簡単かつ平凡なことで、彼は猿を親戚とする家系をけっして忌避せず、
人間は猿の親戚だと指摘したからである。
 猿の親戚にも大小と善悪あり。ダーウインは、研究は得意だったが、人を罵るのは
得手ではなく、小半世紀も紳士たちに嘲笑された。彼のために戦ったのは、
「ダーウインのブルドッグ」と自称したハックスレーで、彼は該博な学識と目の覚めるような反論を縦横無尽に駆使し、自分たちをアダムとイブの子孫と称する者たちの
最後の砦を攻陥した。
 現在、人間をイヌと呼ぶのがモダンであるのも悪罵といえるが、イヌといっても、
一律には論じられない。食用の、橇をひくの、軍用として敵を探るの、犯人逮捕の
警察犬、(上海の)張園でドッグレースに出るの、乞食の後について飯をせびるの、
金持ちのペットの狆と雪の下から人を救う勇猛な犬と比べてみてはどうか?
 ハックスレーの如きは、まさに人の世に功のあった良犬だ。
 犬にも大小、善悪あり。
 だがまず弁別が要るのは明らかだ。「ユーモアは洒落と真面目の間に処す」(林語堂)
洒落と真面目の弁別を知らないで、どうやってその間を知ることができようか?
我々は孔子の門徒の看板を掛けて入るが、荘子を私叔する弟子である。
「彼も亦是非あり、此れ亦一是一非で、是と非を弁じようとは思わぬ」
「周の夢を胡蝶とするや、胡蝶の夢を周とすか?」
夢か覚めてかも定かではない。暮らしは混沌としている。もし七穴を穿ったら?
荘子曰く:「七日にして混沌死す」
 これはどのようにして感嘆符をいれようか?
 且つまた笑いも入れられぬ。私塾の教師は子供の憤怒悲哀も許さず、喜びも許さぬ。
皇帝も笑おうとせず、奴隷も笑うことを許されぬ。彼らは笑うことはできる。しかし、
彼らが哭したり怒ったりしたら騒ぎ出すのではと心配になる。況や座したまま印税が
もらえるのに、年中「ただただ騒ぐ声、怨む声、刻薄で狡猾で悪辣な声しかない」とは。
 これでは「ユーモア」は中国にはあり得ないことが知れる。
 これも私の「論語」に対する悲観であって、神経過敏ではないことが分かる。
印税が入るのに猶まだこのような体たらくで、更には爆弾が空から一杯落ちてきて、
河川が野を水浸しにしている所で、いったいどの様なユーモアが望めるか。
多分「騒ぐ声、怨みの声」もあり得ぬだろうし、「盛世の元気な声」も語れそうにない。
将来円卓会議にある人が列席するかもしれない。しかし客主賓の間に「ユーモア」は
使うまでも無いだろう。
 ガンジーは何度も断食をしたが、主人が発行している新聞で彼を鞭打ちの刑にすべき
との意見が載った。これもインドに「ユーモア」の無いことがわかる。
 一番猛烈にそうした主人たちを鞭打ったのはバーナードショ―である。
我々中国の紳士淑女たちも彼を憎んだ。
これはまさにバーナードのいう「意図していないのに、これを得たのは大いなる奇だ」
まさに「孝経」の良い文章が出たのと通じ:「此れ士大夫の孝也」である。
「中庸」「大学」はすでに新しく出た。「孝経」はきっと出てくる:他に「左伝」も要る。
こうした年月には「論語」がどうしてうまくやって行けようか:
25号まででたのはすでにして「亦楽しからずや」である。
    8月23日
訳者雑感:こんなひどいご時世に「ユーモア」など語る余裕は無いはずだ。というのが
魯迅の本音か?      2012/03/24訳




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上海の児童

上海の租界外に伸びた北四川路一帯は、戦争で去年半年以上さびれたが、
今年はまたにぎやかになり、店もフランス租界から戻り、映画館も再開し、
公園周辺にも去年はいなかったアベックが、手をつないで歩く姿が見られるようになった。
 居住区の小路に入るとオマルが置かれ、天秤の食べ物売り、ハエが群がり飛び、子供が、
隊を成してにぎやかに激しく騒ぎ罵りあう。真にさんざめく小世界だ。だが一旦大通りへ
出ると、目にするのは元気に活発に遊び回るのは外国の子で、中国の子は見当たらない。
だがいないのではなく、着ている者もだらしなくしょんぼりとし、他の子に気おされて、
影のようになって目立たないだけだ。
 中国の中流家庭の子供の教育は2種類しかない。
其の1、自由放任で何のしつけもせず、人を罵るのはもとより可。殴るのも不可ではなく、
家の中と門前では暴君、覇王の内弁慶だが、外に出ると網を失ったクモの如く無能になる。
其の2、一日中厳しく教えられ、叱られ叩かれさえして、委縮してしまい、奴隷の如く、
傀儡の様になる。だが父母はそれに美名を与え、「聞き分けのよい子」とし、うまく教育
できたと考えている。だが外に出すと、鳥籠をでた小鳥のようにすぐには飛んだり、
鳴いたりできず、跳躍もできない。
 今中国もやっと児童向けの絵本が出、主人公は勿論児童だが、そこに登場するのは、
大抵横暴で頑迷なのが多く、ゴロツキの様なのまでおり、ひどい悪態をつく頑固なの、
そうでなければ、首を垂れ猫背で見た目は従順だが生気のない所謂「よい子」だ。
 画家の技両の欠落もあるが、やはり現実の児童をモデルにしているせいで、
それを児童もまねる。試みに他国の児童画をみると、英国は沈着、ドイツは豪放、
ロシアは重厚、フランスはおしゃれ、日本は聡明で、いずれも中国のように元気なく、
だらしない気配は無い。国民性は詩文によってだけでなく、絵画によってもよく理解
できるが、余り重視されていない児童画によってよく分かる。
 頑迷、愚鈍は人を没落させ滅亡させる。童年の状況は将来の命運である。
我々の新人たちは恋を語り、小家庭(大家庭へのアンチテーゼとして:訳者注)、
自立、享楽を講じているが、子女のために家庭教育、学校教育、社会改革問題を提起
する人は少ない。昔の人は「子孫のために只牛馬となる」を知るのみで、
これは固より誤りだが、今現在だけを顧みて、将来を思わず、「子孫が牛馬になるに任せ」
ているのはより大きな誤りだと言わざるを得ない。    8月12日
 
訳者雑感:
魯迅は前段の上海の娘たちが危険な境域にいることに警鐘を鳴らしているが、その前に、
児童たちへの教育が旧態依然としていることを取り上げている。
 以前の親たちは子供のために牛馬となってきたのは誤りだが、子供が牛馬のようになる、
というのはより大きな間違いだと説く。
 魯迅は児童画をとても大切なものと考えていたのだろう。牛馬のように成らぬよう、
英独露仏日の五カ国の児童画の評価は何冊かの本を見比べたものだろう。
米国の児童画は手に入らなかったものか。
   2012/03/16訳
 
 
 

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上海の娘たち

 上海で暮らすには、田舎くさい服装はだめでモダンな物を着るに限る。
よれよれの服を着ていると、市電の車掌は次降りると言っても聞いてくれない。
公園の守衛も特に念入りに入場券を調べ、お屋敷やマンションの門番も正門から入れてくれない。
だから人はたとえ、小さな家で虱がいても、洋式のズボンを毎晩寝押しして、
折り目をつけておかねばならない。
 モダンな女性は得をする。商店でよく見かけるのは:なかなか気にいったのを選べなく
とも、店員はじっと待っていてくれる。しかしそれも長すぎるとある種の条件が必要で、
少し艶っぽく、多少の冗談も交せるようでないと、普通は白眼視される。
 上海の生活に慣れた女性は、とうにこの種の自らが持つ光栄を自覚しており、同時に
この種の光栄が内包するリスクも承知している。
だから凡そモダンな女の醸し出す雰囲気は、人目を引きつつ、しっかりと身を守り、愛
嬌を振りまきながら、防御に気を配り、全ての異性にとって慕わしい人の様でもあり、
全異性の敵でもあり、喜びながらも悩み怒っている。こ
うしたしぐさは未成年の娘たちに伝染し、彼女らが店で買い物をする時、首を
かしげ、不満げに少し怒ってみせ、大敵に向かうが如くで、勿論店員も成人女性と同様、
冗談を言ったりするが、彼女もつとにこの冗談の意味を解していて、要するに彼女らは
早熟なのだ。
 然るに、新聞には確かに女の子の誘拐、甚だしきは少女凌辱の記事がよく出る。
人を食う時には絶対童男童女でなければならぬ「西遊記」の魔王だけではなく、この世の
人間の富豪たちもこれまで童女を側に置き、欲を満たし、見栄を張り、神仙を探し尋ね、
不老長寿の薬材としてきた。まさに、普通のご馳走に飽きて、豚の胎子や芽茶だけの高級
茶を欲するのと同じで、この現象は今や商人や労働者にも広がりをみせ、これは人々の
生活が行き詰まった結果で、飢民が草根樹皮を食べていることと比すべきである。
富豪のやりたい放題の変態と同日に語ってはならない。
 要するに中国は少女たちにとっても、大変危険な境域にある。
この危険な境域は彼女らを更に早熟にさせ、精神的にはすでに成人だが体はまだ子供なの
だ。ロシアの作家、ソログーブはこうした少女を描いて、子供ながらも目はすでに大人び
ていると書いた。然し我が中国の作家は違う褒め方で;
所謂「嬌小玲瓏」(小柄で容姿端麗)という。
     8月12日
 
訳者雑感:魯迅がこの文章で何を言わんとしているのだろうか。次の「上海の児童」と
比べながら、一緒に考えてみよう。
只ここで、ズボンに寝押ししてないと門衛が相手にしてくれず、正門から入れない、と
言う点について、松本重治の「上海時代」に彼が長与善郎と会食したとき、松本は魯迅
が仕立て上がりの中国式正服である長衫を着て来たと記している。一つには長与への
敬意を表すためだろうし、彼自身もスタイリストとして折り目の消えたような服装で、
遠来の客と会うことを潔しとしなかったのだろう。
 この時の話題が魯迅が来る途中で葬儀屋の店先に展示されていたとても贅沢な棺桶を
見て、中に入りたくなった云々、という言葉から、長与は「暗い」と感じたと帰国後、
雑誌(名前失念)に寄稿している。それを見た魯迅が、冗談が通じない人だと、
匙を投げている。せっかく仕立て上がりの正装で迎えたのに、である。
        2012/03/15訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「涛声」を祝す

「涛声」がこれほど寿命を保てたのは、考えてみれば少し奇(妙)であった。
3年前と一昨年、所謂作家だと称す人、或いは何々会、何とか文学を標榜していた人は、
去年には皆跡形もなくなり、今年は大抵が名を変え、タブロイドを発行し、ゴシップを売りに出た:ニュースはたいして無いから、デマもまき散らした。かつての所謂作家たちは一緒になって暴露小説を書いたが、今や連合もならず、細々としたものを読者の脳裏に塞ぎこみ、ゴシップの類を彼らの大学問とした。この功績の報奨は、稿料の外にニュース賞もあり「羊頭を掲げて狗肉を売る」は過去のことで、今や「人肉を売」っている状態だ。
 それで「人肉を売」らない雑誌と作家たちは、今度は売られてしまう物となった。それも何ら奇とするに足りぬ。中国は農業国なのに、麦は米国から輸入し、一斤数百文で子供を売り、古い文明国の文芸家も売血する他に道が無く、ニーチェの言ったように:
「私は血で書いた本を愛す」となっている。
 だが「涛声」はまだ存し、これが私の所謂「少し奇妙」の由縁だ。ある意味幸運であるが、また欠点でもある。今の状況からみれば、その存在が勅許或いは黙認されているのは、
往往一部の人たちは納得していない。ある人は私を批判して、魯迅が今なお生きているのを見れば、彼が良い人間ではないということが分かる。これは事実だ。民国元年の革命から今まで、良い人がどれほど殺害されたか知らず、誰もその正確な数を覚えていないが、
この事実が又私を悪くさせ、私が死んだとしても、彼らにそのニュースを大売りさせるだけで、大いにデマを飛ばし、私が殺されたのは実は金か女の問題だなどと言うことを知っているからだ。だから私の名が暗殺対象のブラックリストに載っていればそれで可とし、
梁で首をつるとか、服毒などはありえない。
「涛声」にはよく上半身裸で戦い、死ぬか生きるかという文が出てくるが、この癖は私のとはとても相反しているが、これが幸運にも生き延びている理由ではない。思うに、この幸運と欠点はどうやら古いものを引用して現在を証明することを好み、いささか学究肌を帯びているためだろう。中国人は自らを「四千余年の古い国」と誇るが、大変健忘症で、民族主義文学者すらジンギスカンを自分たちの祖先とみなし、それでは共に古いことを話すのはよろしくないということが分かる。上海の仲買人はこうした物を必要とせず、彼らの興味はただその日の宝くじと近所のもめ事で:眼光遠大なものも、名公がどんな山に遊んだとか、金持ちが誰と親しいかの類に過ぎず:高尚な物も、何とか学会の瑣事や文壇の消息を見るだけだ。要するにすでに命さえも粉々に砕いてしまっているのである。
 このことから「涛声」の売れ行きが必ずしも良くないと分かるが、一面では寿命も伸ばしている。文人学士は清高で彼らは今、更に利口になり、二度と自分の主人にへつらう様な痕跡を残さぬようにしている。彼らはただ暗闇の矢を配し、糞用箒を持って、ひれ伏すべき奴隷を監督し、誰か頭をもたげる奴がいたら、すぐ発砲し、晒しものにし、結果としては多分、誘拐暗殺し、それで民国国民の一律な「平等」を保持する。「涛声」の売れ行きは大したことないので、暫くは命を保っているが、今後どうなるかは何も言えぬ。というのも、「不測の威」は古来あるから。
「涛声」が好きだし、こういうのもいいと思う。だが最近政治を語らず、談じて分に安んじないと、あの私の勧めた「烏印」をつけた雑誌もその効果がなくなってしまうだろう。
となると「祝」も「空祝い」となり、我々は毎号見ることができればそれでよしとせざるを得ない。古人は詩に曰く「喪乱死多門」(災難で多くの死者がでる)本当だ。
       8月6日
  11月25日「涛声」に果たして「休刊の辞」が出、冒頭「11月20日午後、本詩は登記証返還令を奉じ、『民も亦労を止め暫く小康を保つべし』。我々は少し休むとしよう…」
 これはまことに康有為の説く「不幸にして吾言中(あたり)」に似、奇でないとはいうものの、なんぞ奇ならんや。  12月31日夜、補記。
 
 
訳者雑感:
民国元年の前後、魯迅は清朝政府の抑圧者を殺しに行けとの命を受けたが、母親のことを
思い、長男として母を悲しませるわけにはゆかないとしてその命を断った由。本文で彼が触れているように、彼が今なお死んでいないのは良い人となることを断ったからだ。その代わり、革命に身を投じた人たちへの「すまない」という気持ちを死ぬまで持ち続けることとなった。
   2012/03/14訳

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「ある受難」序

 今や「連環画」という名はよく使われるようになったから改める必要はない:だが実は「連続画」というべきで、それは「端の無い環のようなもの」ではなく、初めと終わりのある絵本だからである。中国古来の所謂「長い絵巻」「長江無尽図巻」や「帰去来辞図巻」の様な物もこの類だが、一幅として構成されているにすぎぬ。
 この種の画法の起源は実に大変古い。エジプトの石壁に彫られた名王の功績「死者の書」
に画かれた冥土の情景はすでに連環画である。他の民族も古今から皆あり、細かく述べるまでもない。見る者には大変有益で、一見すれば大概、当時の若干の状況が分かり、文辞とちがい、習熟してなくても理解できる。19世紀末、西欧画家の多くはこの種の画を好み、
一つのテーマを立てて画貼を作ったが、連環とは限らなかった。図画で叙事するのは比較的後で、作品が最も多いのはMasereelだ。これは映画と非常に密接な縁があり、一面では文字に替って図画で物語を描き、同時に連続することで活動写真の代わりをした。
 Masereelは欧州大戦に反対した一人で:本人によると1899年7月31日Flandernの
Blankenberghe生まれ。幼小時はとても幸福で勉強せずに遊んでばかりいた。Gentに求学し、そこの芸術学院で半年弱学び:後、ドイツ・スイス・フランスを漫遊した。パリが大好きでパリを「人生の学校」と呼んだ。スイスでは常々新聞に絵を投稿し、社会の隠れた病を摘発した。ロマンロランは彼をDaumierのGoyaに比した。だが一番多いのは本の中の木刻の挿絵と、すべてを絵で表現した物語だ。パリを酷愛したから作品は往往ロマンチックで、奇詭であり、人情の外に出るものがあり、それで驚異と滑稽な効果を収めた。
只この「ある受難」は写実的で、他の絵巻物とは異なる。
 この物語の25枚には一字の説明も無い。だが見ればすぐわかる:1、卓と椅子の他何もない部屋に一人の懐妊した女がいる。2、出産後他の人に部屋から追い出されるが、雇い主か父親かは分からない。3、彼女は路上を彷徨するしかない。4、とうとう誰かの後をついて行く:生まれた子は捨て子の群れに入り、街で騒ぎを起こす。5、成長して大工の仕事を学ぶが、大事な仕事はまだ子供には無理で、6、とうとう首を切られて、野良犬を追っ払うように蹴りだされてしまう。7、飢餓に迫られパンを盗む。8、すぐ治安警官に捕まり 9、牢に入れられ 10、刑期を終えて釈放され 11、雑踏の路上をさまよう。
12、幸い道路修理の仕事にありつき 13、だが一日中鶴嘴と鋤の仕事に嫌気がさし、
14、機に乗じて悪い仲間に入り、15、誘惑されて妓女に会いにゆき、16、踊る。
17、だが帰途、悔恨し、18、工場で働く決心をし、朝から自習して学ぶ。19、こうした境遇で真に相愛の人に出会う。20、だが労資関係の衝突が起こり、高所に登ってスローガンを叫び、労働者を糾合し資本家と闘う。21、それでスパイに探られ、22、その後兵隊警官の弾圧に会い、23、スパイの離間にあって捕まり、24、受難の「神の子」
イエス像の前で、この「人の子」は裁判を受け、25、当然の結果として死刑とされ、彼は立って兵たちの銃声を待つ。
 イエスは語った。富翁が天国に行くのは駱駝が針穴を通るより難しい、と。だがそれを語ったのは本人で、そのとき彼は受難したのである。欧米の富翁は殆どイエスの信奉者だが、このとき受難したのは貧乏人の番となった。
 以上が「ある受難」の叙述である。
     1933年8月6日   魯迅
 
訳者雑感:
 魯迅は挿絵が大好きだ。子供のころから挿絵の入った「物語」を片端から読んで絵を描いた。それが連環画という物語となった。日本の漫画とはちょっと異なり、吹き出しの会話主体というよりは絵の下段に説明的な叙述があるものが多い。絵は絵で独立しちょうど
外国映画の字幕のようなイメージである。
 この序は上海良友図書印刷公司出版のものに書きおろした魯迅の文で、この序の他には
一文字も無いのだろう。彼の1から25までの叙事は映画の字幕の代わりだろう。
      2012/03/09訳
 

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