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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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7月6日 晴

 午後、前門外に薬を買いに行く。調合後、お金を払う前にカウンターの前で立ったまま一回分飲んだ。3つの理由のためで、1.1日分飲んでいないから
早く飲まねば 2.間違いないか試飲のため 3.暑くて喉が渇いていたから。
 なんとその場にいた客が怪しみだした。何を怪しんでいるのか分からないが、彼は店員に尋ねている。
「あれはアヘンの禁煙薬かい?」
「いや違います!」店員は私の名誉を守ってくれた。
「今飲んだのはアヘン禁煙の薬?」彼は直接私に聞いてきた。
 もしそれを「アヘン禁煙薬」と認めないと、きっと死んでも死にきれないだろうと思った。
 人生いくばくぞ。固執してもせんないことよと、どちらとも取れるような曖昧に頭を動かし、同時に例の「う、うんう…」と答えた。
 これなら店員の好意を傷つけず、彼の熱い期待を些か慰める妙薬となろう。果たして、それから万籟無声、天下太平、おもむろに瓶の栓をしめ街に出た。
 中央公園(今の中山公園)に着き、約束の閑静な所に向かう。(ドイツ留学の)
寿山はもう来ていた。「小約翰―小さきヨハネ」(長編童話詩)の対訳を始めた。これは良い本で、入手したのは偶然のことであった。約20年前、日本の東京の古本屋で、数十冊のドイツ語の文学雑誌を買ったら、そこにこの本の紹介と作者の評伝があり、その時ドイツ語に翻訳されたばかりだった。面白いと思って、丸善書店に出かけて買って訳そうとしたが、その力は無かった。後に常々訳そうと試みたが、いつも他のことで果たせず、去年になってやっと決心して夏休み中に訳して、広告に載せようとしたが、はからずも夏休みは他の時よりも一層難しくなった。今年また思い出し、広げてみたが疑問点が多く、私の力は及ばなかった。寿山に訊いたら共訳OKとの返事。それですぐ始めてこの夏休み中の完了を約した。(魯迅翻訳集に有り)
 晩に帰宅。少し食べて中庭で夕涼み。女中の田さんが今日午後斜め向かいの誰それの婆さんと嫁が大ケンカをした由。彼女の意見では婆さんも勿論ちょっとは問題あるが、嫁はまったく話にならん、と思うがどうか、と私の意見を求める。まず初めから誰の家のケンカかはっきりと聞いていなかったし、どのような姑と嫁か知らぬし、彼女らが何という積年の恨みつらみを持っているかも知らない。今私に意見を求められても実に何の自信もない。まして私は評論家でもないから、ただ「これは私には何とも言えぬ」と答えた。
 だがこの答えの結果はたいへんまずいことになった。
 暗がりで顔も見えぬとはいえ、耳はよく聞こえる。物音はいっさいせず、ひっそりと死んだように静かだった。後になってもう一人の人が立ち去って行った。
 私も手持無沙汰で、おもむろに立ちあがり、部屋に戻り灯をつけて床に横になって夕刊を見、数行でまた無聊になり、東壁のところで日記を書いた。それが「馬上支日記」だ。
 中庭はだんだんと又談笑の声がし、議論が始まった。
 今日の運はとても良くなかった。人は私がアヘン禁煙薬を飲んだと濡れ衣を着せ、田さんは私を……といった。彼女がなんと言ったか、私はしらない。
だが、明日からはもう二度とこんなことはご免だ。
 
訳者雑感:
 10月の大幅値上げで、禁煙薬の販売が好調らしい。魯迅は前門外の薬局で、
調合した薬をカウンターで立ち飲みしたことを客に「アヘン禁煙薬」をすぐにでも飲まないといけないほどの中毒患者と怪しまれた。アヘン戦争から85年ほど経過した北京で、どれほどアヘン吸引者がいたことだろう。そして何とかアヘンを止めたいと薬を探し求めていた人はどれくらいいたことだろう。
 譚璐美著「阿片の中国史」に1930年前後の中国の軍閥と国民党、共産党などの政治闘争に阿片がからんでくることが出てくる。日本軍も大量の阿片を販売することで、軍資金を調達し、戦費や軍用トンネル工事に充てた。すべて国家予算とか税金からだけの収入では支払いできないような性格の出費に回された。
 軍閥も国民党も日本軍も、自分が前面に出て売るわけにはゆかない。青幇とか、紅幇と呼ばれる黒社会を牛耳る組織に「物」を渡して阿片患者に売らせて、
その上がりを懐にする。この手口はどこの国の組織も似たようなものだ。中国が違うのは、それを国家警察とか地域の自警団組織が結託してやることだ。
 「阿片の中国史」で譚氏が延安時代の共産党も一時阿片を生産していたとの
トップシークレットを漏らしながら、建国後50年から3年で阿片をほぼ撲滅できた秘策も書いている。
 「阿片の害が深刻な四川省の場合、50年に実施した禁煙キャンペーン調査で、
省全体の25%が阿片喫煙者であったと判明した」… 中略…彼女は朝鮮戦争から三反五反運動のすさまじい政治運動の嵐の中で、禁煙キャンペーンよりも実際に大きな力となったのは、「阿片にとって、流通手段の遮断は命取りだ」
として、上記の政治運動中に河川の道、塩の道を中心にして、綿密な輸送ルートが、遮断されたことが致命的だった、と解説する。
 「全国に吹きまくる政治運動の嵐の中で、流通ルートが遮断され、結果的に
阿片市場が消滅してしまった面も大きいのである」という。
そして阿片収入に頼った「青幇」のネットワークも壊滅した。…と。
日本でも、もし煙草の流通が遮断されたら、自分で煙草の葉を植えるとかして
密造しない限り吸えないわけだから、喫煙者は激減するであろう。JTが煙草の
販売から撤退し、政府の税収は無くなるし、自販機会社も倒産しよう。
 今も重慶とか中国各地で、警察副所長がそうした黒社会のボスであったという事実が白日のもとに晒されて、新聞に載っても、一般の中国人は怪しからんとは思い、罵るけれども、極あたりまえのできごとのようにみなしている。
警察の副所長という役職は、そういうことをするために(金で)手に入れたものだ、ということも知っている。
 最近は公的機関が淫売婦の呼称を「失足婦女」と改めたと報道されている。
「失足」という言葉はなじみがないので辞書をみたら、
① 歩行中、不注意で転ぶこと
② 重大な間違いを犯し、堕落した人を指す。例「失足少年」(不良青年?)
かつて日本でトルコをヘルスとかサウナにしたようなもので、どこかから文句が出たのだろうが実態は変わらない。
 いずれにしても、公的機関がその存在を認め、その呼称を改めたというのは、公的機関のしかるべきポストにいる人間たちが、それの経営者か経営そのものに関わりを持っていることを暗示しているように取れる。
 80年代にできた「巴山夜雨」という映画で、文化大革命後、農民の娘が重慶から船に乗せられて、遠くの金持ちの年寄りの男のところに売られていく情景をみて、同船の老婆の口から出た言葉は「旧社会に戻ってしまった」であった。
 老婆の口から出た「旧社会」とは、戦前のことだろうが、21世紀の社会も旧社会に似てきたようだ。
 2010/12/21
 

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7月5日 晴。

朝、景宋(許広平)が「小説旧聞鈔」の一部を清書して送ってきた。もう一度目を通して午後にやっと終え、小峰に郵送して印刷へ。今日はとても暑い。
 疲れた。晩は灯火が目に痛いので灯を消して横になっているといい気持ちだ。
門を叩く音がするので急いで開けに出たが人はいない。門の外に出ると子供が暗がりを逃げてゆく。
 閉めて戻ってまた横になるといい気分だ。通行人が(京)劇の一節をうたいながら通る。余韻じょうじょうと「♪ういい――~~~♪」と聞こえてきた。
なぜか知らぬが、ふと今日校訂した「小説旧聞鈔」の強汝詢老先生の議論を思い出した。この先生の書斎は求有益斎というからして、そこで書かれたものの中身は推して知るべしだ。彼は言う。人はなぜ無聊にかこつけて小説を書いたり読んだりするのか、と。それでいて古小説についての評価は寛容で、それは古いからであり、且つ古人が書いて残したものだからだとの由。
 小説を憎悪するのはこの先生に限ったことではなく、この種の高論はどこにも見られる。しかし我が国民の学問の多くは小説からきており、甚だしきは、小説に基づいて脚本にされた劇本に依存しているものが多い。
関羽や岳飛を崇奉する大人諸先生、もし彼らの心目中のこの二人の「武聖」の風采はと聞くと、目を細めた赤ら顔の大漢と、五筋の長いヒゲの白面の書生、
或いは金糸で縁どられた緞子に兜をつけ、背には四本の軍旗を差した(京劇役者の隈どり)イメージから脱することはできないだろう。
 近来、確かに上下一心となり忠孝節義を提唱しているが、春節の縁日で見る
年画(めでたい絵)は、新作のこの種の美徳に関する絵が多いが、描かれた人物はといえば、すべて(京)劇に出てくる役者の老生(立ち役)、小生(二枚目)、
老旦(婦人役)、小旦(娘)、末、外、花旦ばかりだ。
 
訳者雑感:
 中国語を学び始めた頃、中国の老先生が授業中の雑談に彼の少年時代のことを話してくれた。それは、彼が中学時代のことだが、試験中になにかのはずみで、机の下の二重になっている所から、水滸伝がポロリと床に落ちてしまったことだった。
 運悪く、試験監視に机の間を通りかかった先生に見つかって取り上げられてしまった。試験終了後、先生からクラスみんなの前で、試験中はもちろん、普段もこんな小説を読んでいるようでは、先が思いやられる。今後、学校に小説を持って来ることは一切まかりならん、とこっぴどくお説教されたという。
 魯迅の「百草園から三味書屋へ」の中に、魯迅が授業のすきを狙って、あるいは授業の休み時間に、せっせと小説の登場人物の「挿し絵」を薄手の紙に書き写して、それが膨大な量になったこと、そしてお金に困った時に、紹興特産の錫箔の紙銭を売っている大店の息子(同級生)に売って、お金に代えたことなどを書いている。「西遊記」もその内の一冊だった。
 儒教の経典を読み、歴代の史書や詩詞をそらんじるほどに読むことが、中国で科挙に合格し、皇帝の役人として支配階級に仲間入りする道であったころ、試験には一切でない、とされてきた「ひまつぶし」に読む小説を読むことに、少年時代の貴重な時間を無駄遣いしては相ならぬ、というのが「師」の教えだった。それでも魯迅は授業に退屈すると、現代の子供たちがマンガの絵を描くようにして、石印本(石に漢字と絵を彫りつけて和紙のような薄手の紙に印刷した昔の書)を大事に書き写した。彼の記憶はこうした本を書き写したことで一層強くなったものと思われる。日本から帰国して、辛亥革命前後の、挫折し
うっ屈した時期に、「古小説」を次からつぎへと書き写している。それが上述の
「小説旧聞鈔」や「中国小説史略」となって結実した。
 医学をやめて、文学に転じたのは、三味書屋での授業をさぼっての作業にその源泉が見いだせそうだ。
 冒頭の私の老先生に戻ると、やはり彼も試験中にもかかわらず、読み出した
「三国演義」を試験中だからといって、暫くは我慢していたが、やはり試験の合間に、教師の目を偸んで、気分転換に読んだのが今も記憶に残るという。それが中国人の一般教養としての「学問」の基盤であった。
テレビもマンガも無い時代、やはり小説が血沸き肉踊る、少年たちの一番の友達だった。取り上げられた小説が戻ってきたかどうか、教えて呉れなかった。
多分教師も自分も読んだことのある本だからすぐ返してくれたことだろう。
役者の顔については、日本の歌舞伎でもお富さんの与三郎とか石川五右衛門など、隈どりも着物も決まったもので、舞台に出てきたらすぐそれと分かる。
中国の劇でも諸葛孔明や曹操の顔はいついかなる場合も全く同じで、細面の役者が曹操を演じてもそれとはっきり分かるように隈どりする。しかし総じて大きな顔の役者しか演じないようだ。
 2010/12/20
 

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7月3日 晴。

とても暑い。午前中はぶらぶらとなにもせず、午後は横になっていた。
 夕食後、中庭で涼んでいて、ふと動物園を思い出し、夏はあそこがいいけど今は閉まっていて入れないねと言うと、女中の田さんがあそこの門番だった二人のノッポ君の話を始め、高い方は彼女の隣人で、今ではアメリカ人に雇われてアメリカに行ってしまったといい、月給は千元だと。
 これがヒントになった。以前「現代評論」で11種の好著を紹介していた。
楊振声先生の小説「玉君」もその一つだが、理由のひとつが「長い」ことだ。
私はこの理由についてしっくりこなかったのだが、73日すなわち「馬廠で
師を誓い、再び共和に戻った記念」日の夜になってやっと分かった。「長い」ことは確かに価値がある。「現代評論」が「学問理論と事実」を重視していることを自ら自慢しているのは、確かによくぞ言ったり、よくぞやったりである。
 今日私が寝るまで、どうやら誰も国旗を掲揚しない。夜半以降に掲揚されるかどうか、私は知らない。
74日 晴。
 朝またハエが顔を這いまわり目が覚めたが、追い払えず起床するしかない。
品青(人名)から返信あり、孔徳学校には「閭邱辨囿」は無い由。やはりあの「小説からみた支那の民族性」のせいかな。そこに中国の料理のことが出ていて、ちょっと調べてみたかったのだ。これまでこの方面に注意したこともないので、古い書物もただ「礼記」の所謂「八珍」、「酉陽雑俎」の御賜のメニュー、
袁枚名士の「随園食単」ていどしか知らない。元代に和斯輝の「飲饌正要」があるが、古書店で立ってぱらぱらみたが、多分元版だから買えなかった。唐代には楊煜の「膳夫経手録」があり、「閭邱辨囿」に収められているのだが、これが借りられないとなると、この件は諦めるしかない。
 近年、我が国の人と外国人がよく中国料理を褒めるのを耳にする。美味かつ栄養豊富で世界で一番。宇宙でもn番、という。だが、一体どんな料理を指すのか知らぬ。我が国の多くの所では、ネギとニンニクと雑穀の粉の面餅(おやき)をかじっているし、他の所では、酢と唐辛子と塩漬け野菜で飯を食い、もっと多くの人は岩塩を舐めるだけだし、更に多くの人はそれすら舐められない。
内外の人が美味、栄養豊富で一番、n番というのは、勿論こんなものではない。
金持ち、上等人の食べる料理のことに違いない。しかし彼らがこんな風に食べるからといって、中国料理が一番だということはできないと思う。それはちょうど、去年23人の「高等華人」が出たからといっても、他の人たちはやはり
「下等」だということと同じである。
 安岡氏の中国料理論が引用しているのは、やはり「Middle Kingdom by
Williams」で最後の「享楽に耽り、淫風盛ん」篇にあり、以下の通り。
 「この好色の国民は、食物の原料を探すとき、大抵は性欲に効能があると思われる物を第一に考える。外国から輸入の特殊物産で最も多いのはこの種の効能があると思われる物。… 大宴会の多くのメニューのメインは特殊な強壮剤の成分を含有していると思われている奇妙な原料から作られている。…」
 外国人が中国人の欠点を指摘することに、さして反感を持たないが、これを読むと失笑を禁じえない。筵席の中国料理は実に濃厚だが、国民の常食ではない。中国の金持ちは確かに多くは淫昏だが、料理と強壮剤をごっちゃにするまでにはなってない。「紂は不善といえども、かくのごとき甚だしさに如かず」で
中国を研究する外国人は、深読み、過敏のきらいがあり、常々このように
「支那人」より性的に敏感である。
 安岡氏はまた言う――‐
「筍と支那人の関係もエビと同じ。彼の国人の筍好きは日本人以上である。おかしな話だが、多分あのピンと立った姿が想像をかきたてるからかも知れぬ」
 (故郷の)会稽は今も竹が多い。竹は古人にとって貴重で「会稽竹箭」という言葉がある。貴重な理由は戦争用に箭を作るからで、「ピンとした姿」が男根に似ているためではない。竹が多ければ筍も多い。多いから値段も北京の白菜とほぼ同じ。故郷にいたころ、十数年筍を食べたが、思い出してみて、何と言われても、それを食べる時、その「ピンと立っている姿」という発想の影響は少しも無かった。格好からそちらの効能を想像させてくれるのは別にあって、
肉蓯蓉(ホンオモト、一尺ほどの柱状の植物;薬剤)で、それは薬であって、料理には使わない。要するに筍は南方の竹林と食卓で常に目にするが、街頭の電柱や家の柱と同じで「ピン」と立っているが色欲とは何の関係も無い。
 この点を洗い出しても、中国人が真面目な国民だという証明にはならない。結論を得るまでにはずいぶん手間がかかる。しかし中国人は自分のことを研究しようとしない。安岡氏はまた言う「十年ほど前、… 『留東外史』という作者不詳の小説に、実際にあった話として、多分悪意で日本人の性的不道徳を描くためのようだが、全編通読すると、日本人を攻撃するよりは、却って知らずしらずのうちに、支那留学生の不品行を、告白しているところに力点がある方が多いのは滑稽だ」と。これはほんとうで、中国人のふまじめさを証明しようとするなら、まじめくさって男女共学の禁止を叫ぶとか、(裸の)モデルを禁止しようとする事件に如実に現れている。
 これまで「大宴会」に招かれる光栄に預かったことは無いが、中宴会では数回、ツバメの巣やフカヒレを食べた程度。思い出しても宴中も宴後も特に好色の気分が生じたことはない。
 しかし今なお奇妙に思うのは、よく煮込んだり蒸したり蒸し焼きした料理の合間に、ぴんぴん跳ねる酔っ払いエビが出てくることだ。安岡氏説ではエビも性欲と関係ありというが、彼だけでなく、国内でもこの類の話を聞いたことがある。しかし妙なのはこの両極端の交錯で、文明の乱熟した社会に忽然あきらかに毛のついたままの動物を食べ、生血を吸うような蛮風が出現することだ。この蛮風は野蛮から文明に向かうのではなく、文明から野蛮に向かう。仮に前者を白紙に比すと、これから字を書き始めるものとすれば、後者は字で真っ黒になった黒い紙である。一方で礼を制定して楽しみ、孔子を尊敬し、(儒教の)経を読んできた「四千年の文物の邦と声明し」ながら、ちょうど火がよく通った食べごろなのに、一方では平然と火つけ、人殺しを行い、略奪強姦をして、蛮人も自分の同族に対しては決してしないようなことを平気でする。… 全中国が今このような大宴会場になっている!
 中国人の食事は煮すぎて生気の無くなった物や、全くの生ものを食べるのは止めるべきで、火を通しても少し生で鮮血を帯びた肉類を食べるべきだと思う。
 正午。例に従って昼食のため討論中止。
 おかずは干した野菜、とうに「ピンと立った姿」を失った干筍、ビーフン、
塩漬け菜。紹興に対して陳源教授が憎悪するのは「幕僚」と「法廷書記」だが、私が憎悪するのは、飯とおかずだ。「嘉泰会稽志」は石印されたが未出版で、
将来出たら見てみたいのだが、紹興はこれまで何回の大飢饉に見舞われたのだろう。かくも住民をして恐れせしめ、明日にでも世界の終りが来そうなほどに、干物をせっせと貯蔵するのに喜々としている。野菜とみればすぐ晒して干す。
魚も干す。豆も干す。筍も干して原形をとどめぬ。菱の実も水分があり、肉も柔らかでサクッとしているのが特色なのに、風干しにする…。北極探検隊は缶詰ばかりで、新鮮な食物が取れないので、壊血病になると言うが、もし紹興人が干菜を携行したらより遠くまで探検できるだろう。
 晩、喬峰(魯迅の三弟)の手紙と叢蕪の訳したブーニンの短編「小さなすすり泣き」の原稿入手。上海の出版社に半年寝かされていたが、今回やっと取り戻した。
 中国人はどうも自分を研究しようとしない。小説から民族性を見るのもいいテーマだ。このほか、道士の思想(道教ではなく、方術士の:魯迅注)と歴史上の大事件との関係、現今の社会的勢力である孔子の教徒たちはどのようにして「聖道」をすべて自分たちの都合のよいように変えてしまったのか。戦国時代の遊士たちが「人の主」(主君)を説き動かしたいわゆる「利」と「害」とはいったいどんなものであったのか。それと現今の政客とどう違うのか。中国には昔から今まで、どれほど「文字の獄」があったのか。歴来「流言」の製造と散布方法及びその効験などなど…。研究に値する新分野は実に多い。
 
 
訳者雑感:
 大阪の友人と飲んでいた時、話が男だけの話になった。
関西人のたとえ話は漫才的で、ぶっちゃけた話、ずばり単刀直入。最近テレビで「整いました」とかいう「なにやらとかけて、何と説く」式なのも面白い。
毎晩帰りがおそいのでながらくの御無沙汰と奥方からクレームされて、
「わしのはな 関電の電柱や」と説く。(東電ではなく、感電をかける)
そのこころは「家の外で立つ」
かた物と思われがちな魯迅も、この段では男根の話などで暑気払いをしているようだ。文部省に当たる教育部の役人の職を解任されて自由に書ける気分になったのかもしれない。教育部の役人は、真面目腐っていないと務まらないのかも。筆名とはいえこのころは身分も明らかにされていたから、当時の雰囲気で
これを雑誌にだすと、敵からやり玉にあげられ攻撃材料にされただろう。
 日本人の安岡氏が中国人の筍好きは、その姿がピンとしているという連想から来ると言うことに対して、魯迅は、竹はピンとしているが筍はそうではないと故郷の筍の干物を思い浮かべて反論している。
 中国人の筍好きは、竹の姿からではなく、土を割ってむくむくと起き上って来るその動態からの連想が影響しているかもしれない。上述の電柱の譬えではないが、大阪人は電柱でそれを笑い話に譬えるように、中国人に限らず、日本人の筍好きも、栄養云々の前に、その土中から一気にむくむくと生命力を突きあげてくる動きに一種の羨望というか、連想をたくましくしているのかも。
 インドのゴアの鉄鉱石を中国市場に販売しようとしていたころ、若いころは共産主義に共鳴した活動家だったというゴア人が、中華料理の円卓を囲みながら、中国人とインド人のどちらが助平かという話になった時、断然インド人が上だ、と答えたのがおかしかった。その根拠はと聞くと、「中国人はこんなに精力のつくリッチな食事を食べてもインドのようなスピードで人口が増えてない。
インドじゃ、多くの人は菜食だけど人口は増え続けているからさ」という。
 中国でも、人口が増えていたのは魯迅の指摘するように「宴会食」を食べる金持ちではなく、岩塩を舐めて暮らしていた農民の方であっただろうが。ゴアの輸出部長が訪中し始めたころは、一人っ子政策で伸びが鈍化中であった。
  2010/12/18
 

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7月2日 晴。

 午後、前門外で薬を買って、東単の(邦人経営の)東亜公司をのぞいた。日本の本もついでに少しおいてあるが、中国研究の本は大変な量になっている。所持金の関係で安岡秀夫の「小説から見た支那の民族性」1冊だけ買って帰った。薄い本で濃紅と黄色の装丁で12角。
 夕方灯下でそれを読む。引用された34種の小説には、小説ではないものと、一部を数種に分けたものもある。蚊が何回も刺す。12匹だが坐って居られなくて、蚊取り線香をたく。やっと落ち着いて読めるようになった。
 安岡氏はたいへん謙虚に緒言で言う:「こうしたことは只支那だけでなく、日本でも免れ難いことだ」が「度のはげしい事と範囲の広さから、支那の民族性だと誇張しても、憚ることは無い」という。支那人の私からみても、確かに背中に冷や汗が流れてくるのを止められぬ。目次は次の通りで一目瞭然だ。
1.総論 2.体面と体裁を気にしすぎ 3.運命に安んじ、諦めが早い 
4.忍耐強い 5.同情心に欠け、残忍性が強い 6.個人主義と事大主義
7.極端な節約と不正蓄財 8.虚礼にこだわり、虚文を尚とぶ。
9.迷信深い 10.享楽的で淫風が激しい。
 彼はSmithの「Chinese Characteristies」を信じているようで、常にこれを典拠に引く。これは彼らの所では20年前に「支那人の気質」として訳されたが:支那人の我々は注意してこなかった。第一章はSmithの言う「支那人は
とても芝居がかったしぐさをするのが好きな民族で、精神が昂揚してくると、
芝居じみて来て、一字一句、一挙手一投足がすべてそれらしき格好で、本心から出るものより、芝居の場面から取ったものの方が多い、と。これは体面を重んじるせいで、常々自分の体面が十分保たれているかを気にし、敢えてそのような言葉(せりふ)動作をすることになる。要するに支那人の重要な国民性が織りなす複合的な問題を解くカギは、この「体面」である、と。
 すこし周囲を見て内省すればこれが決して辛辣に過ぎることはないと判る。
劇場の舞台の有名な対聯として今に伝わる「劇場は小天地。天地は劇場」がそれだ。中国人はみな本来、目の前の一切のことは劇に過ぎないと考えており、
もしそれに真剣に向きあっているのがいたら、その男を愚か者だと思う。但しこれも、積極的に体面を保つためではなく、心に不平を持ちながら、報復する勇気に欠け、すべては一場の劇だとする発想から、それを了とするのだ。万事が劇なら、不平も本物の不平ではないから、報復におじけることもない。
もし路上で不平を見て、抜刀して助けることができずとも、そのために昔から保ってきた正人君子たる体面を失う事も無い。
 これまで会った外国人はSmithの影響なのか、自らの体験からか知らないが、中国人の所謂「体面」とか「面子」にたいへん注目して研究しているが、私が思うに、彼らはとうに心得を持っていて、応用もしており、更に深く掘り下げて習熟したら、外交で勝利を収めるだけでなく、上等の「支那人」の好感を得ようとするだろう。その際には、「支那人」という三文字を使わないで、「華人」
という言葉にすべきだろう。これも「華人」の体面に関わるからである。
 民国初年に北京に来たころ、郵便局の門の扁額に「郵政局」と書かれていたが、外人の中国の内政干渉の声が高まるにつれて、偶然かどうか知らぬが、数日後にはすべて「郵務局」に代わっていた。外国人が少し郵「務」を管理するといっても、実際は「内政」とは無関係なのだが、この(茶番)劇は今日まで続いている。
 これまで国粋者や道徳家の類の痛哭し涙流るという(大げさな)真心を信じたことはなかった。たとえ目じりから涙が横に流れても、彼のハンカチに唐がらし液か生姜汁がつけてないか調べるべきだ、と思っていた。国家の古物保存とか、道徳振興とか、公理維持とか、学風整頓とか…、彼らは心から本当にそう思っているのかどうか。芝居をしだしたら、舞台上での大見栄と、楽屋での顔とはどうしても違ってくる。だが、観客は芝居とは知りながら、うまく演じていれば、それを悲しんだり、喜んだりできるからその芝居を続けて行ける:
もし誰かが出て来てそれをあばいたりしたら、観客は却って興ざめとなる。
 中国人はかつてロシアの「虚無党」と聞くと、驚き恐れおののいたが、それはちょうど現在のいわゆる「赤化」と同じだった。だがそれは「党」ではなく、
「虚無主義者」あるいは「虚無思想家」というもので、ツルゲーネフが名を付け、神を信じず、宗教も信じず、一切の伝統と権威を否定し、自由意志で生きる人間に戻ろうと言い出したのである。このような人間は、中国人からみると、それだけでもう憎むべき存在である。しかし中国の一部の人、少なくとも上等人は、神、宗教、伝統的権威に対し「信」じて「従」っているかどうか?それとも「おそれ」ながら「利用」しているのではないか?彼らがうまく変化適応しているかどうか、を見ればよくわかる。なにも特別なことはしないし、なにも信じて従ったりしないが、いつも決まって内心とは異なる見栄を張るのだ。
もし虚無党をさがそうとするなら、中国人の中にも実にたくさんいる:ロシアと違うのは、彼らはこう思ったら、それを口に出して言うし、そのように行動するが、我々のは、そう思っても、別の違う事を言い、楽屋ではそうしながら、
舞台の上では別のことをする…。この種の特別な人物を「芝居をする虚無党」或いは「体面上の虚無党」と称して区別しよう。この形容詞とそれに続く名詞は、どう転んでもうまく結び付かないが。
 夜、品青(人名)に出状。孔徳学校から「閭邱辨囿」を借りて貰うよう頼む。
 夜半、もう寝ようと決めて今日の日めくりを破ると、赤い字が目に入った。
明日は土曜なのになぜ赤字かと思った。よく見ると小さな字で二行、「馬廠誓師再造共和記念」(天津の馬廠で師に誓って、最後の皇帝溥儀を担いで復辟を企てた張勛を倒して、共和制に戻った記念日)とある。
 明日国旗を掲揚すべきか否かちょっと考えた。…が何も考えたくもないから、
眠ることにした。
訳者雑感:
 海老蔵の件で日本のテレビは、菅首相の頼りない政権運営より視聴者の興味はこちらの方が上だと敏感に感じ取って、この1カ月近く、連日トップニュース。北朝鮮の砲撃から万一の際は、邦人救出に自衛隊派遣など、突拍子もないことを言い出す首相に殆ど興ざめの状態である。
 海老蔵は舞台の上での見栄を切れなくなるかもしれないなど心配までされ始めている。彼の場合も舞台の見栄と、楽屋、或いは深夜のクラブでの顔は、まったく別のものだし、それはそれで当たり前のことだが、深夜の顔がいかにも「人間離れ」してしまったようだ。
 私も京劇を楽しむようになって以来、中国のテレビには一日中こうした劇(京劇、昆劇、越劇などなど各地にある地方劇も含)を放送していることに感心した。そして、普通の背広姿で、胡弓や琴を演奏する楽団をバックに、化粧も隈どりもしないで、つぎから次へと出場者が有名な劇のさわりの部分を「唱」う
のを聞いて、さらに感心した。歌ってる人も真剣そのものだが、何百人或いは千人近い観客が、それに会わせて首を振りながら悦楽の極みに達しているのだ。
 日本でも歌舞伎や浄瑠璃のセリフを、絶好のタイミングで会話の中に入れる男などが、夏目漱石の小説などには登場してくるが、中国のようにメロディを伴っていないから、そう頻繁には引用されないようだ。というのも、現代の日本人は、芝居の名セリフを会話に引用するのを手あかがついたものだとしてためらったりする。或いは、会話の相手がそれを知らないかもしれないと危惧もする。ところが中国では、なにかというと昔の(今も演じられている)芝居のセリフをすぐ引用する。それは相手も当然知っているという前提に立っているし、それがそのセリフを引用した人の「上等さ」の印しでもあり、相手にもそれを求めてもいるからだ。だが、上述の通り、中国人の言動を大きく束縛もしており、中国人の発想の原点は、自分がこう言う、あるいはそうする、ということは、京劇の登場人物が、その時に類似した場面で、どう話し、行動したかを模範として、演じているような節をちょくちょく見かける。
 彼らの言動を律しているのは、長年培われてきた「劇」中の人物のモラルであり、自分がその人物に置き代わったら、観客からどのように評価されるだろうかを常に気にしながら生きているようだ。だから政治家も「表演」するのに長けており、日本の政治家はとてもとても足元にも及べない。
          2010/12/14

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馬上支日記

 数日前、小峰に会った。話が半農の編集する副刊に「馬上日記」を投稿予定だということに及んだ時、彼はがっかりした様子で、回想は「旧事重提」(後に
「朝花夕拾」に改題)に書き、現在の雑感はその日記に書くのか…、と言った。
言外の意味は「語絲」(雑誌)には何を書くの?と言っているようだ。これは、私の心配性かもしれぬ。そのときひそかに思った:フグを平気で食べるような所で育った私が、なぜこんなことにくよくよするのか?政党は支部を作り、銀行は支店を開く。私が支日記を書いていけないという理屈はない。「語絲」にも何か書かねば。それですぐ実行に移し、支日記とする。
 
  629日晴。
 朝ハエが顔の上をはい回るので目が覚めた。追い払うがすぐまた戻って来る。そして元の所にとまる。叩こうとしたが死なないので、あきらめて起床した。
 一昨年の夏、S州にとまった時、旅館のハエの群れにはほとほと往生した。
食事を運んでくると、それを追いかけて来、まずは彼らが賞味する:夜は部屋中にとまっているので、寝る時もそおっと静かに頭を枕に乗せなければならない。もしゴロンと音など立てようものなら、ハエどもが驚いてブーンブーンと飛び回る。頭はクラクラ、目はくらみ、一敗地にまみれる。夜明けには、青年たちの希望の夜明けが来ると、飛んできて顔にとまる。
 だが、街を歩いて子供の寝ているのをみると、56匹のハエが顔の上を這いまわっているが、熟睡したままで皮膚もぴくりとも動かさない。中国で生きてゆくにはこうした訓練と涵養の工夫が不可欠であると思った。何とか云う名のハエ取り運動を鼓吹するのもいいが、こうした本領を会得するのが切実だ。
(当時は貧しい子供たちに金でハエ取りの競争をさせていた:出版社注)
 何もする気になれぬ。胃がまだ本調子でなく、睡眠不足のせいか。相変わらず所在なく反故をめくっていると、ふと「茶香室叢鈔」的なものが目にとまった。丸めて屑かごに入れてみたが、棄てるにしのびなく「水滸伝」関係のものを択び、書き写すとしよう――。
4頭の虎を退治する話。鴨は何匹かの雄と交尾しないと有精卵を産まない話。
宋江の物語など、割愛する。埋め草の感無きにしも非ず。胃痛、寝不足?)
 
71
 午前、空六(エスペラント語教務主任)が来談:すべて新聞に載っていることの真偽のほどは判らぬ、云々と。だいぶ長いこと居て帰ったが彼と話したことは殆ど忘れたから、話さなかったに等しい。ただひとつ覚えているのは:
呉佩孚大帥がさる宴席で発表した話によると、赤化の始祖を調べた結果それは
蚩尤(シユー)だと判明した(蚩尤は古代伝説の酋長で黄帝に涿鹿の野で戦い殺された:出版社注);  「蚩」と「赤」は同音だから蚩尤は「赤尤」で
「蚩尤」は「赤化した尤」の意:話しが終わると一同は「欣然」となった由。
(民族の始祖、黄帝が蚩尤を退治したのは赤狩りの始めという意味)
 
 太陽が照りつけ、鉢の草花がしおれそうになっているので水をやった。田おばさん(女中)が水は決まった時間にやらないと植物がだめになると言う。それもそうかなとためらったが、又考え直し、決まった時間に水やりをする者はいないし、私もそんなことはしていない。もし彼女の説が正しければ、小さな草花は枯れ死してしまう。たとえ時間通りでなくとも水やりしないよりましだし、たとえ有害でも枯れ死よりいい。それで水をやり続けたが、心の中はもやもやいていた。午後になって、葉が生気を取り戻した。どうやら害はなかったようで一安心。
 
 電球の下はとても暑いので、夜、暗がりのまま呆けて坐っていると、涼風がかすかに動き少し「欣然」となった。もし「超然象外」(唐詩の一節で、雄渾な風格を指すが、ここでは人生社会を超越する意:出版社注)することができれば新聞や雑誌を読むのも清涼な福を得られるというものだ。新聞雑誌については、私はこれまで博覧家ではないが、ここ半年で心に銘ずべき絶品に会った。
遠くは段祺瑞執政府の「二感篇」、張之江督弁「整頓学風電」、陳源教授の「閑話」、近くは丁文江督弁の自称「書呆子(読書馬鹿)」演説、胡適之博士の米国の義和団賠償金問答、牛栄声先生の「後戻り」論(「現代評論」78期)孫伝芳督軍の劉海粟先生と美術書を論ず。しかしこれらも赤化源流考と比べると、月と
スッポン程の差がある。今春、張之江督弁が電報で赤化の疑いのある学生の銃殺への賛意を表明したが、最終的には自らも赤化から逃げられなくなってしまった。とても奇妙なことだが、今や蚩尤が赤化の始祖だということを知り、その疑問も氷解した。蚩尤はかつて炎帝と戦ったが、炎帝は「赤魁(さきがけ)」 
で、炎は火の徳で火は赤色:帝とは首領の意味ではないか?従って3.18惨事は
すなわち、赤で以て赤を討つということになる。たとえどんな面から論じようとも、やはり赤化の名から脱し逃れることはできない。
 このように巧妙な考証は世の中にはさして多くは無い。以前日本の東京にいたころ、「読売新聞」に連載された大作を見たことがある。そこには黄帝すなわちアブラハンとの考証があり、大意は日本で油のことを「アブラ(Abura)」
と発音し、油の色は黄色で「アブラ」はすなわち「黄」。「帝」に至っては、
「罕」(カン)と形が近いとか、やはり「可汗」の音に近いとか、もう記憶が定かではないが、要するにアブラハンすなわち油帝で、油帝とは黄帝というのみ。
篇名と作者はみな忘れたが、後から本になったが、上巻だけで終った。だが、
この考証はやはりねじ曲げすぎており、つっこんで研究する必要もない。
 
訳者雑感:
 この当時、従来からの陰陽五行説で、何事も裏付けを取ったとして、伝説上の黄帝が赤狩りをして中華を開いたのだから、それを錦の御旗にして赤狩りを実行するという論がまかり通ったのであろう。しかし魯迅が奇妙に思ったのは、
赤化の疑いのある学生を銃殺するのを賛成していた本人が、しばらくすると、今度は別の軍閥から「赤狩り」されてしまうという現象が起こったのだ。
 ロシアでも多数派と少数派、過激派と穏健派などでの内部抗争が起こった。
自分に歯向かう敵を倒すには、何でもいいから何かそれらしき「御旗」が必要で、相手を「ルーブルを貰っている者」「赤」と決めつければそれが立派な大羲になる。だが、しばらくすると同じ論法で別の敵が自分を倒しに来る。
   2010/12/11
 

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6月26日晴。

 午前、霽野の故郷からの手紙拝受。中身は少なく、家に病人が出、家族全員は何の防ぎようも無いので、病原菌に襲われる恐怖に陥り……:
末尾に更に何句かの感慨あり。
 午後、績芳が河南より来訪、少し話してすぐ去った。つまらぬものだが食べてくださいと「方糖」二包を呉れた。績芳は少し太ったようだし、忙しそうで、それに正装の馬褂を着ているので、もうじき役人になるのだろうと思った。
 包を開けてみると黄棕色の丸い小さな薄片で、なぜ「方(四角)」というのかと思った。食べてみると冷やっと口当たりも良く、確かにうまい。なぜこれを「方糖」と呼ぶのかわからない。だがこれも彼が役人になる証だろう。
 景宋(許広平の筆名)の言うには、河南のどこかの名物で、干し柿の霜を使って(河南では霜を方と発音する:出版社注)冷やっとした風味。口角におできの類ができたら、これをつけるとすぐ治るそうだ。どうりでこんなに口当たりが良いのは、造化の妙で、干し柿の霜から濾過したからだという。惜しいかな、説明前に半分くらい食べてしまった。さっそく残りをしまい、将来、口角におできが出来た時に備えた。
 夜、しまって置いた干し柿の霜の大半を食べてしまった。というのも口角におできができるケースは少ないし、新鮮なうちに食べるに如かずと思ったからで、一つ食べだすと、次から次へと食べてしまったのだ。
 
 628日 晴、大風。
 午前、外出。主目的は買薬。街中、五色の国旗:軍警が林立している。豊盛
胡同中段に着くと、軍警に小さな胡同に引き入れられた。暫くすると大通りに黄塵が舞い、自動車が通り、又暫くして一輌:また一輌、又次の一輌…。
車中の人間は見えぬが、金縁帽は見えた。車の側に兵が立ち、紅い絹を結んだ刀を背負い:小胡同の人たちは粛然と畏敬した。それから暫くするともう車は来なくなり、我々は徐々にこっそりと抜け出したが、軍警も何も言わなかった。
 西単牌楼大通りまで来ると、街中は五色国旗と軍警が林立していた。ボロ着の子供たちがビラを抱え:呉玉帥歓迎の号外!と叫びながら私の所に寄ってきたが、買わなかった。(当時の北京では号外は買うものだったようだ)
 宣武門口に近づくと、黄色の制服で顔中汗まみれの男が外から入って来て大声で:こん畜生!と怒鳴った。多くの人が彼の方に目を向けたが、通りすぎていったので、誰も注意しなかった。宣武門の城門下で又一人のボロ着の子供がビラを抱え、黙って私に一枚握らせた。受け取って見ると石刷りの李国恒先生の宣伝で、大意は長患いの痔が国手のだれそれ先生のお陰で治った云々と。
目当ての薬局に着いたが、外に一群の人が、口角泡を飛ばす二人を取り巻いて見物している:浅藍色の古びた洋傘が薬局の入り口を塞いでいる。それを推してみたがとても重い。すると傘の下から頭が出て来て「何の用だ?」と聞く。
薬を買いに来たと告げたが、彼は頭を戻してケンカを眺めている。洋傘の位置は元のまま。一大決心をして猛然と突っ込み、店に入った。
 店内にはテーブルの横に外国人が一人いるだけで、店員たちはみな同胞で
清潔な服を着ていた。なぜか私はわけもなく10年後に彼らがすべて高等華人に
なり、私が下等人になってしまうように感じた。それで丁寧に処方と瓶を、髪
を分けた同胞に渡した。
85分」彼は受け取って歩き出しながら言った。
「え、なにー!」ついたまらず下等なくせが出てしまった。薬代は8毛、瓶代は普通5分だ。今回瓶を持ってきたのになぜ5分払わされるの?
この「え、なにー!」は我が国の罵言「他媽的」と同じ効果あり、このような場合、多くの意味を含む。
8毛」彼はすぐ認め、5分引いた。まことに「善に従うこと流れる如し」で
正人君子の風格あり。
 8毛払い少し待つと薬を持って出てきた。この種の同胞に接すには、時に余り下手にでてはよろしくないと思い、ふたを開けて目の前で飲んでみた。
「間違いないよ」彼は聡明で私が彼を疑っていることを感づいていた。
「おおー」私はうなずいて同意した。だがやはり変だ。私の味覚はマヒしておらず、今回とても酸っぱく感じた。彼はいい加減に計ったようで、あきらかに稀塩酸が多すぎるが、それはたいした問題ではない。毎回飲む量を減らすか、水をちょっと足せば、数回余分にのめる。それで「おおー」と言った:「おおー」
は、どちらも可だという中間にあり、真意の所在をあいまいにする返事だ。
「じゃーさよなら」と瓶を持って歩きながら言った。
「さよなら。水は飲まないの?」
「飲みません。さよなら」
我々は礼教の邦の国民だから結局は礼で譲った。
 ガラス戸を開け、つよい日射の下、土埃の中を急いだ。東長安街の左にまたもや軍警が林立している。横切ろうとすると巡査が手を広げ:ダメ!と叫ぶ。
すぐそこまでだと言ってもダメの一点張り。その結果迂回を余儀なくされた。
L君宅にたどりつき、門を叩くと小使いが出、L君は不在で、昼食まで戻らぬという。もうじきその時間だから、ここで待つと言うと、ダメです、との答え。
お名前はと聞くので、とても狼狽し、こんな遠くまで苦労して来たのに無駄骨になったかと残念に思った。十秒ほど考え、ポケットから名刺を取り出し、奥さんにこんな人が来て待たせてもらいたいと言うが、良いかどうか聞いてきてほしいと頼んだ。半刻ほどして戻って来て、やはりダメだと言う。先生は3時まで帰らないから、その頃にまた来てくれという。
 10秒ほど考え、C君を訪ねることにした。強い日差しの土埃の道を急ぐ。
今度は阻むものなく着いた。門を叩き来意を告げると、開門した者が在宅か否かを見て来ますと答え、今回は大いに希望あり。果たして即刻私を客間に案内してくれ、C君もかけて来た。私はまず昼食を所望した。それで私にパンと葡萄酒を出してくれ、主人は面を食べた。結果一皿のパンは私がたいらげ、バターは残したが、4皿のおかずは殆ど無くなった。
 昼食後5時まで閑談した。
 客間の外は大きな空き地で木がたくさんある。子供たちが果樹の下で、
わいわいとはしゃいでいる。C君は、リンゴが落ちてくるのを待っているのだ、という。ルールがあり、落ちてきたリンゴは拾った子のものになる。子供たちの忍耐に興味がわき、こんな迂遠なことを肯んじる子がいるかと思った。辞去しようとしたとき、3人の子が一つずつリンゴを手にしていた。
 帰宅して朝刊を見ると、『…呉は長辛店で一晩すごした。上述の理由以外に、別のこともあり、保定出発後、(秘書長の)張其鍠が彼の為に占いをした結果、
28日に北京に入るのが吉と出、必ず西北(地区)を平定すると出た由。27日の
入京は良くないといい、呉はそれをその通りだと信じた。これもまた呉氏が一日遅れて入京した理由なり』これが今日の半日の運をダメにしたのだと思い、運が悪かったからやはり占ってみるに限ると思い、今夜の吉凶を見てみよう。
だが、占いの法を知らないし、筮竹も亀の甲もないからどうしようもない。
しばらくして新しい方法を発明した。無作為に本を取り出し、目を閉じて頁を開き、指で押さえたところを、目を開けて見てその2句を卜辞とするのだ。
 取りだしたのは「陶淵明集」で決めた通り試してみた。
その2句は「意を寄す一言の外、茲(この)契、誰ぞよく別せん」と。
いろいろ考えてみたが、何のことかさっぱり分からぬ。
 
訳者雑感:
 魯迅にとって薬局に薬を買いに行くというのは、子供のころに自分の背より高いカウンターに質草を預けて、見下されたような格好でお金を手にした後、
父の薬を買いに行った薬局のことが脳裏から離れなかったことだろう。
 大都会北京の薬局で働いている若い同胞たちが、清潔な(白衣?)服を着て、
薬を買いに来た患者に応対する。彼らが「高等な人種」で自分が下等に見えてしまう。最近はだいぶ親切になってきたが、20年前ですらそうした店の店員の接客態度は、売ってやる的な横柄さに何回もカチンときたことがある。普通の商店でそうだから、薬局となるとこれはもう大変なものだった。
             2010/12/09

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馬上日記 6月25日晴


 病。――今頃書くのは余計なことのようだ。というのも発病は十日前で、今はだいぶ良くなった。が余波は続いており、これを日記の書き始めとする。才子の言に従い、三大苦難を挙げると:一に窮乏、二に病気、三に社会的迫害と言う。その結果、愛する人を失い、専門用語では失恋となる。私の書き出しは二に近いが、実はさにあらず。端午の節句前、原稿料が入り暴食したので、消化不良で胃が痛みだしたため。私の胃は運勢(生年月日の干支で占う:出版社注)的に良くなく、これまでも具合が悪い。医者に診てもらおうとした。漢方医は玄妙極りなしというし、内科は良いとは言うが、私は信じない。西洋医は有名な医者は診察料が高く、忙しいから見立てもいい加減。無名な医者は安いがちょっとためらう。事情がこうであれば胃病はそのまま放って置くほかない。
 西洋医が梁啓超の腰の手術(失敗)後、非難ごうごうで腰に関する研究など何もしたことの無い文学家まで「義によってひと言」発した。それと同時に「漢方医は素晴らしい」論もこの動きに応じて起こった。腰の病ならなぜ黄蓍(シ)
を服さないのか?何とか病なら鹿茸を服用すべきだ、と。ただ、西洋医の病院からしょっちゅう死体が運び出されるのも確かだ。かつてG先生に忠告したことがある:病院を開くなら、回復の見込みの無い病人は入院させないようにと:
治って退院する人は誰も気にしない。死んで担がれて出ると、すぐ広まる。特に有名人は尚更だ。私の本意は何とか(西洋の)新医学を広めようとすることから発しているのだが、G先生は私の良心が腐っているように感じたらしい。もちろんそう考えるのがいけないというのではないから、彼の好きなように任せよう。
ただ、私は私の説を実行している病院は大変多いと思う。彼らの本意は新医学を推進しようというところにはない。この国の新しい西洋医はまだ大抵模糊としていて、その原因は一つにはまず漢方医と同じく江湖の秘訣を学び、和水の龍胆丁幾両日份八角:嗽用(うがい)の淡硼酸水、一瓶一元てな具合。診断学
については私ごとき門外漢には判らぬ。要するに、西洋医学は中国ではまだ
萌芽せぬうちに腐敗に近づいているということだ。私は西洋医しか信じないが、近頃それすらもとみに退歩してしまった。
 数日前、季茀(許寿裳)とそんな話になり、私の病については、知人に処方箋を書いてもらえば、何も博士に頼んで余計な出費することも無い、という。
翌日、彼が目下研究中のDr.Hに診てもらう手筈をしてくれた。処方を貰い、当然のことながら、稀塩酸にもう二種、ここに書くまでも無い:私が一番有難かったのはSirup Simpelを添加して甘く飲みやすい。薬局で配合してもらうのだが、又もや問題発生。薬局もいい加減で、無い薬は他の薬に代替するか割愛かという。結果、Fraulein.H(許広平女士)に託して遠くの大きい薬局まで足を運んでもらう仕儀となった。
 かくして(人力)車代を足しても病院の薬代より4分の3も安くなった。
 胃酸は外来の援軍を得て強くなり、一瓶飲み終わらぬ内に痛みは止んだ。数日飲むことにしたが、第二瓶は奇妙で、同じ薬局、同じ処方だが薬味が違う:
前のように甘くないし酸っぱくも無い。自己検診したら発熱も無く、舌苔も厚くない。明らかに薬水が疑わしい。二回飲んだが悪いところは無い:幸い急病でもなく大したことも無いのでそのまま飲み終えた。第三瓶を買いに行った時、少し厳重に質問したら、糖分を少なくしたとの答え。その意味は、大事な薬そのものは間違いないとのこと。中国の事情は誠に稀奇で、糖分が少なくなり甘さが減っただけでなく、酸味も無くなった。確かに「特別の国情」に違いない。(袁世凱が帝政に復古しようとした時の、米人顧問の同意の言)
 現在、病人に冷酷だと大病院を非難する人が多いのは、病人を研究対象にしているからだと思う。大概はその通りで、院内の「高等華人」は病人を下等な研究対象としているのが多い。行きたくなければ、私人の経営する病院に行くしかないが、診察料と薬代はとても高い。知人に処方してもらい買薬すると薬水が前後で違ってくる。
 これは人の問題。仕事の仕方がいい加減だと、何でも疑うことになる。呂端
(宋代の宰相)は、大事は決しておろそかにしないが、小事は多少のことは目をつぶる、というのは我々中国人の雅量を示すに足るが、我が胃病はそのために長引いてしまった。宇宙の森羅万象中、我が胃病など小事に過ぎぬし、問題にもならぬことだろう。
 質問後の第三瓶の味は第一瓶と同じだったので、悩みは解消した。即ち、あの第二瓶には一日分の薬に、2日分の水が入っていたので、味も本来のものに比べ半分薄かったためだ。
 薬にも苦労したが、病は良くなった。略快癒したが、Hは髪が伸びたと攻め、
なぜ早く床屋に行かないのかという。この種の攻撃は聞きなれているので、「反論する勿れ」だが、仕事をする気にもなれず、引き出しを整理した。反故をめくっていると、紙束があり、数年前に書き写したもので:これを眺めて私は日一日と怠け癖がついてきたと思った。今ではとうにこうしたことをしようと思わなくなってしまった。当時はデタラメな標点の多い文章の印刷物を批判攻撃しようとしていた。反故の中にとても奇妙なのが多くあった。屑かごに放ろうとしたが、幾つかは棄てるに忍びぬので、ここに書き写してすぐ印刷し、ともにみてみることにしよう。その他はマッチとの交換の足しにしよう。
 (数例の句読点の付け方の差に依って、文章が出鱈目になることの例示だが
日本人にはそのウイットというか鑑賞は困難な面があり、割愛する。魯迅の意図は口語文普及のため、古文が句読点の打ち方ひとつでもとんでも無い状態だと言う事を示すことにあったと訳者は推測する。カネオクレタノムの類)
 
訳者雑感:
 魯迅の西洋医院を開こうとするGさんへの「忠告」が気になる。
「回復の見込みの無い病人は受け入れないように」という忠告の本意は西洋の医学を広めようとすることから発している、と魯迅は記す。
病気が治癒して退院していく患者が多くても誰も知らないし、気にもしない。
一方毎日死者が担がれて行く光景は、それを見た市民がそれみたことか、西洋医もたいしたことは無いと陰口する。(当時は自動車もなく、大抵は戸板にのせられて出てゆく。訳者が北京の新僑飯店に駐在していた1980年代でも、その前の大病院にはリヤカーの上に戸板をのせて病人を運んでいた。)
 魯迅は「父の病」という作品で、長年の主治医から別の有名な医者を推薦するから、自分は手を引く、と引導を渡されてしまう場面がある。もちろんいろいろ手を尽くしてくれたのだが、最期のところは、自分の手から放したい。それが自分の医者としての外聞、世間体に密接に関わって来る。
 魯迅がGさんに、回復の見込みの無い患者は受け入れぬこと、というのは
とても冷酷なようだが、Gさんの病院が毎日死者を出してしまうようだと、新医学を庶民に広めるための逆効果にしかならぬことを気づかったのだ。
 しかし彼は、魯迅の気づかいをおかしなことを言う者だと、取りあわない。
治る見込みの無さそうな重病人を治すことが医だと堅い信念に裏打ちされたものか、或いはそれが病院経営の収入基盤だと考えてのことか。
 
2007年、大連の住まいの隣にも大病院があり、朝6時ごろ花火の音が数発する。毎日ではないがほぼ隔日で、目が覚める。
運動会でもお祭りでもないのになぜかと訝った。
事情を知る人に聞くと、病院で大往生した死者への家族からの花向けとして花火が打ち上げられるのだそうだ。本人の長い闘病生活を家族が支えてきた。それが終るのだ。冥土への送り火であり、それを天に知らせるのだ。
 周恩来が亡くなったとき、中南海で爆竹が鳴らされた。それは毛沢東がそうしたのだと伝えられた。何人かの中国観察者は、それは毛沢東が周恩来の死を喜んだからだ、と解説していた。
大連の病院の死者への花向けとの解釈に従うと、どうなるであろうか。
  2010/12/07
 

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馬上日記(下馬前の)予序

本文を書く前の序を予序と言う。
 日記を書くのは、自分が後に見るため:世の中、こういう日記を書く人は少なくない。その人が有名になれば、死後出版され:読む人も格別の興を持つ。書いた時は「内感篇」外冒篇(段祺瑞の発表した文への風刺:出版社注)のように恰好をつけることはしないので、ほんとの面目が見られるからだ。これが日記の正統派と思う。
 私の日記はそうじゃない。記すのは来信往来、金銭出納で、真面目も出てこぬし、更には嘘もまことも無い。例えば22日晴れ。Aより来信:B来訪。
33日雨。C校の給与X元受領。Dに返信。一行で終る。しかし他に記事がある場合、紙が惜しいので前日の余白に書く。要するにあてにならぬ。が、Bの来訪が21日か2日かはたいした事ではなく、書かなくても良いと思う。実際書かないのも多い。誰からの来信かを書く目的は返信の為で、いつ返事したか、特に学校の給与は何年何月の分を何割貰ったか、こまごまとしたもの、しっかり覚えておけないのを、チェックの為に記帳せねば、二つともあいまいにせず、債権がどれだけあり、将来もし全額回収したら、どれほどの小富翁になれるか知りたいためで、それ以外、何の野心も無い。
 吾同郷の李慈銘先生は日記に著述し、上は朝廷への文に始まり、中は学問のこと、下は罵詈雑言まで記録した。果たせるから現在その手迹を石印し、一部五十元で売り出した。が、こうした情勢では学生は言うまでも無く、先生方もとても買えまい。その日記に書いてあるのだが、彼が一函に装丁するごとに、人が借りに来て写しが広まった由。まさしくこれは遠い将来の「死後」を待つ必要もない。これは日記の本流ではないが、志ある人が何か書こうとし、褒貶の気持ちがあり、人に知ってもらいたいと思う一方、人に知られたくないなら、これを真似るのも悪くは無い。何かちょっと口語を書いて、百年後に発表する本の中に入れるなどは、まことに間の抜けた話だ。(2025年に発表するという論敵への風刺)
 この日記は(段祺瑞の文のように)「厚く望む」というようなものでもなく、
上述のような簡単なものでもなく、今はまだ書いてないが、これから書こうとするものだ。45日前、半農に会ったら「世界日報」の副刊を編集するので何か寄稿せよ、という。それはいいのだが、何を書くか?これが難しい。副刊の読者は学生が多く、皆経験もあり、「学びて時にこれを習う亦楽しからずや」とか「人心古議ならず」など、文章を書くことの味を十分知っている。人は私を
「文学家」と言うが、決してそうではない。彼らの話を信じないでほしい。その証拠に私は文章を書くのが最も怖いのだ。
 しかし承諾した以上、何か考えねば。いろいろ考えたが、偶にちょっと感じたことを、平素は怠けてすぐ書かないでおくと忘れてしまう。もし馬上(すぐ)に書くと雑感みたいになる。それで決めた:思い到ったらすぐ書きとめ、すぐ寄稿する。それを私の出勤簿としよう。これはまず第三者に見せるための準備だから、多分本当の真面目とは限らず、少なくとも己に不利なことは蔵して置こう。この点、読者の了解を願う。
 もし何も書けなければ直ぐやめにする。だからこの日記はいつまで続くか判らない。    26625日 東壁の下で。
 訳者雑感:
 訳者が大連にいたころ、「馬上(マーシャン)」を自らのあだ名として、皆からとても親しまれた人がいた。彼はとてもマージャンが好きで、誘われたら決して断らない。しかし自ら設営したりするようなことはしなかった。中国の人たちからも慕われ、よく三人で一人足りないからと、中国人の仲間の中にも
入って打っていた。
 日本の会社は大抵5時まできっちり仕事をするのだが、大連の人たちは2時でも3時でも、なに気にすることなく始めていた。多分4時か5時ころにその内の一人に用ができて、一人足りなくなると、彼の携帯に電話がかかって来る。
 その時彼は5時まで会社から出られないので、相手への返事は「馬上」「馬上」
と連呼することになる。彼の方も仕事より楽しいに決まっているから、その発音がマーシャンなのかマージャンなのか聞き分けできないくらいになる。
 日本でこの馬上を使うのが上手いのは「蕎麦屋の出前」だろうか。注文受けた客から、催促の電話。「はいただいますぐ参ります」は正直な方だが、それが
10分か20分か待つ方にはとても長い。
 もう一つ葡萄の美酒夜光の杯 飲まんと欲すれば、琵琶の後の「馬上催」だ。
この馬上は 琵琶を弾く人が馬の上に乗っているという解釈と、出陣の催促の
「馬上マーシャン」という解釈。訳者はどちらが詩としての趣があるかについて、いろいろ考えたことがある。馬上の琵琶か、琵琶が馬上、馬上と促すのか。
冒頭に戻って、マーシャンマージャンではないが、馬上の琵琶が、この調べが終わったら、出陣だよと告げているのだろうか。行軍は熱い日中を避けて、夜行が多かったのだろうか。詩の作者は実際には出陣した訳ではなく、当時流行した辺塞詩のメロディに詩をつけたともいわれている。いろいろ解釈できるのが唐詩の面白さだろう。
 ヴィエトナム戦争のころ流行した反戦歌の中にも、明日月曜になれば戦場行きの船に乗らねばならない、というフレーズが出てくる。最後の日曜の夜に、この歌を聞きながら、「馬上」乗船せよとの船長の命令が、出征兵士の望郷の念、
平和に葡萄酒を飲める世界からの離愁をかきたてる。古来征戦幾人回。
    2010/12/05

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半農の為に「何典」の序を書いた後に

23年前偶然光緒5年(1879)出版の「申報館書目続集」に「何典」の要約を見た。内容は下記:
『 「何典」十回(回章)、過路人 編、纏夾二先生評、太平客人 序。書中、
諸人を引用、活鬼あり、窮鬼あり、活死人なり、臭花娘あり、畔房小姐あり:
閲読したがとても面白い。その論述は三家村の俗語で:無から有を生じ、忙中閑を偸む。内容は鬼話:人物は鬼名:内容は鬼心を開き、鬼顔に扮し、鬼火を釣り、鬼戯を演じ、鬼棚を建てる。曰く:「何の典に出るか」今より後、人は俗語を文とするは、曰く:出所は「何典」のみ』
 いかにも風変わりなので、気に留めて探したが入手できず;古書店に詳しい常維鈞に託したが無い。今年(劉)半農が(北京の古書街)廠甸廟市で偶然見つけ、校点をつけ印刷すると知り喜んだ。その後彼は校正刷りを続々寄せて来、短い序を書けと言ってきた。私が出来るのはせいぜい短序くらいだと彼は知っていた。しかし私は躊躇してそんな才能は無いと思った。多くの事はその方面のプロがやるのが一番で、評点は汪原放だし、序は胡適之を推すし、出版は亜東図書館に頼むのが良い。劉半農、李小峰、私等はその任に非ず、と思ってきた。それなのに何行か書くことになった。何故か?ただ私が何か書こうと決めたからに過ぎぬ。
 始めようとする前に戦になり、砲声流言の中、落ち着いて執筆に取り掛かれず、そうこうしている内、ある文士が何とかいう新聞で半農を罵っているのを知り;「何典」の広告は高尚からほど遠く、大学教授もついにここまで堕落したか、と。それを見て頗る凄然な気持ちになり、別のことを思い出したのは「大学教授もここまで堕落したか」と考えたからだ。それからというもの、「何典」を見ると苦痛になり、一句も書けなくなった。
 確かに大学教授は堕落している。背の高いのも低いのも、白いのも黒も灰色も。ある者は所謂堕落に過ぎぬが、私はそれを困苦と呼ぶ。困苦と呼ぶ一端は身分を失ったことだ。以前<‘他媽的’を論ず>(相手をこっぴどく罵る言葉)を書いたとき、青年道徳家がやみくもに嘆いたこともあり、何をまた身分うんぬんか?となるが、やはり身分について書く。私は、仮面をかぶった紳士を「深く悪み、痛絶せんと思う」が、彼らは「学者ゴロ」の世家ではないという:所謂「正人君子」がとんでも無いと首を横に振るのを見ると、邪な連中と一緒にされたくないということだろう。偏見なしに言えば、大学教授が滑稽なものを書く、或いは甚だしく誇張した宣伝をするのは奇とするに足りない。たとえ口から出る言葉がすべて<他媽的>というような宣伝も奇とするに足りようか?だがここではうまく使っている。私は19世紀に生まれ、所謂「孤桐先生」と同じ部(省)で数年役人をした。官(役人)というのは―上等人―という気分はなかなか退かない。だから教授に最もふさわしいのは教壇に上ることと思っている。そしてそれには十分な給与がなければならぬ。兼任もやむを得ぬ。この主張は多分現在の教育界ではみな一致して賛成する望みが出てきたが、去年何とかいう公理の会で、兼任を攻撃する公理維持家が、今年も自らは何も言わずに内緒で兼任しているが、「大新聞」には一切出ないし、自らも勿論宣伝の必要もないと(黙している)。
 半農は独仏で音韻を何年も学び、私は彼の仏語の本は読めないが、そこには中国語混じりの高低の曲線が書かれているのを知るのみだが、要するに本になっている以上、だれか解る人がいるのだ。だから彼の正業はやはりこうした曲線を学生たちに教えることだと思う。しかし北京大学は(政府から支給が滞り)
まもなく繰り上げ休校となり:彼は兼任も無い。だから私がいかに上等人であろうとも、彼が本を売ることには反対できない。売ると決めたなら勿論たくさん売りたい。そのためには宣伝が必要。宣伝となると勿論、良い本だと言わねばならない。まさか自分が出す本の宣伝につまらないといい、諸氏に一読の値打ちも無いなどと言えようか?
 私の雑感を一読の価値も無いと宣伝したのは陳源だ。――ついでに自分の宣伝もすると、陳源が何を以て私の逆宣伝をしたのか?私の「華蓋集」を見ればすぐ明白となる。主な読者各位、見てください!早く!一冊六角大洋、北新書局発行です。
思い返せば20余年前、革命に従事した陶煥卿は窮した揚句、上海で会稽先生と
自称し催眠術を教えて口を糊していた。ある日彼が私に、何か一嗅ぎすればす
ぐ眠らせる薬は無いかと訊ねたことがある。彼の術があまり効き目のないので
薬に助けを求めているのが分かった。大衆の面前で催眠を試みるのは容易では
ない。彼の求めている妙薬を知らないので助けようが無かった。23ヶ月後新
聞に投書(或いは告示)が出、会稽先生は催眠術を知らないペテン師だと。清
朝政府はこうした手合いよりはしこくて、彼の逮捕状を出す時、対聯にして
『「中国権力史」を著し、日本催眠術を学ぶ』とした。
 「何典」がまもなく出版されるころ、短序の提出時期が迫った。
夜雨がしとしとと降っている。筆を執りふと麻縄を帯にした困窮せるを
思い出し、「何典」とまったく関係の無い思いにかられた。が、序文を書かねば
ならぬ。書くしかない、印刷に回すほかない。私は半農を(革命時に革命者を
呼んだ)「乱党」と比べたりはしない。――現在の中華民国は革命によってでき
たが、多くの中華民国国民はいまだに全てのあの当時の革命者を乱党とみなし
ているのは明らかだ。しかしこの時、従前を回想し、何名かの友達に思いが及
ぶと、自分はやはり無力だと感じるのみ。
 短序はなんとかできた。さまにはなっていないが、ともかく完了。私はこの
時に感じた別の気持ちを書いて発表し、以て「何典」の広告としよう。
 525日夜  東壁にぶつかりながら、記す。
 
訳者雑感:
 魯迅は日本から帰国して、故郷で教職に就いていたが、1912年南京臨時政府
成立し、教育総長になった蔡元培に招かれ、南京に赴いて教育部部員となった。
その後政府とともに北京に移り、教育部簽事という役に就任。これが彼の身分
と収入になった。それが本篇とその前に触れられる簽事を解任され、身分を失
った、を指す。その原因は彼が徹底的に批判を続けた教育総長章士釗に解任さ
れたためで、その後裁判所に訴え、勝訴して復職したが、翌年これまで書いて
きたもろもろの要件で、夏にアモイに去った。
 日本の文部省の役職についた文人が、その直属のトップを徹底的に批判する
という例はあまり見かけないし、中国でも稀かもしれない。しかし2千年の
歴史に書かれたものの中には、親子三代にわたって、「王が先の王を弑す」と
いう表現を、殺されても、殺されても書き続けたという。このあたりが民族的
にとてもかなわないな、と思う。
    2010/12/01
 

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もう一度

 去年「熱風」編集時、紳士たちの所謂「下心のない真面目な」気持ちから、相等削った。そのうち一篇は入れようと思ったが、原稿が見当たらず、欠落せざるを得なかった。今、出てきたので「熱風」再版時に入れて広告し、私のファンにもう一冊買ってもらうのも悪くないが、止めにした。それは実に面白くも無いからで、もう一度載せるより、この雑感第三集に入れて補遺としよう。
 これは章士釗氏に関するもので――
   「二個の桃が三人の読書人を殺した」についてである。
 
 章士釗氏は上海で彼の所謂「新文化」を評して、「二桃殺三士」(文語表現)
がいかに素晴らしく、「二個の桃が三人の読書人を殺した」など最低だと説き、新文化は「是亦やんぬるかな」と帰結した。
是亦やんぬるかな!「二桃殺三士」はよく見かける故事で、旧文化の本に出てくる。だが誰がこれを謀りしか?というと、相国斉晏子」となる。ならば我々は「晏子春秋」を見てみようではないか。
「晏子春秋」は今上海石印本があり、入手は容易。この古典はその本の巻二にある。大意は「公孫接田開疆古冶子(の三人が)景公に事へ、勇力は搏虎を以て聞こえ、晏子は過ぎ趨いしも、三子は起たず」それを晏老先生は無礼と思い、景公に彼らを除くよう説いた。その方法は景公から人をやって彼らに二個の桃を届けさせ、「お三方の攻労に照らして桃をお食べなされ」と告げさせた。
そこで一悶着となった:
 「公孫接は… (原典引用は省略:訳者、下に魯迅の要約あり、興味ある人は原典参照)
 
 書き写すのも面倒だが、要するに、二人は自分たちの功が古冶子に及ばぬと愧じて自殺。:古冶子も一人生き残るのを願わず、自殺。
そこで「二桃殺三士」と相なった次第。
この三士が旧文化の心得があったか堂かは知らぬが、「読書人」とは言えぬ。もし「梁父吟」が説くのも「二桃殺三士」と言うならもちろん了然とするが、
それは五言詩で、増字不能だから「二桃殺三士」とするほかない。それで、
章士釗氏を害し、「二個の桃が三人の読書人を殺した」と解させたものか?
 旧文化も実に難解で、古典も誠に覚えにくい。それゆえ、二個の旧い桃が祟るのも免れぬ:その当時、三人の読書人がそれで落命しただけでなく、今に至るも一人の読書人に醜態をさらけ出させた。「是亦やんぬるから!」
 去年「毎下愈況」(論敵がこれを引用間違いした)問題で、自ら公平と任じている青年から教訓を受けた。というのも、彼が私の「簽事」の役職を罷免したので、彼のことを特に辛辣に皮肉るのか、と。今ここで声明せねばならぬ:
それは19239月のことで、「晨報副刊」に載せたもの。当時の「晨報副刊」の編集はタゴール氏のお伴をした「詩哲」ではなく、まだ人を死に追いやる責任も無く、自分の使命を殺していたので、合間に私の如き俗人の文も載せたのだ:私の方も当時、その後に「孤桐先生」と称されるようになる人に微塵の恨みも持っていなかった。その「動機」は多分口語の流行を少し手伝ったというに過ぎぬ。
 こうした「禍は口から」の秋、自分を少し周到に弁護してみよう。或いはまた曰く、そもそも今回の補遺は「水に落ちた犬を打つ」の嫌いはあるが、「動機」が「不純」だというが、私は決してそうは思わない。勿論つい最前、士釗秘書長は帷幄の設立準備運動で、公に名を借りて私事を済ませ、学生を謀殺し、己と意見を異にする者を捕えた際、「正人君子」は時に相助け、容疑者の逃亡を譏しり笑って「孤桐先生」「孤桐先生」熱っぽく騒いでいたころと比べると、目下は誠に落寞の感を免れぬ。が、私の見るに彼はまだ決して水に落ちてはいないし、租界に「安住」しているに過ぎぬ。北京は従前通り、彼の子飼いの連中が牙をむき出し、爪をといでいる、彼と結託した新聞社が黒白を顚倒し、彼が作った女学校には風波が立ち、依然として彼の世界である。
「桃」の小さな打撃など、あに「水に落ちた犬を打て」と同日に語れようか?!
 何故か知らぬが、「孤桐先生」は「甲寅」で弁じ始め、これも小事に過ぎぬと
言う。それはその通りで小事に過ぎぬ。小さな間違いでどうして又傷つくのか?
たとえ晏子を知らずとも、斉国を知らずとも、中国に損は無い。農民は誰も「梁父吟」を知らないが、農業で救国もできる。ただ私は口語を攻撃する暴挙にでるのは、全くなんの必要もないと思う。口語で文語に代えるのは多少妥当でないとしても、小事に過ぎぬと思う。
 「孤桐先生」の門下に入ったことも無いし、卓上、寝台、床の上すべてがドイツ語の本という光栄を拝見したこともないが、偶然目にした彼の「文語」で彼は法律的に頼りにならぬこと、道徳習慣も一度できたら二度と変わらないということはない、ということがよく分かった。分かったことをその通り口にすると、改革者になる:分かっても言わないで、逆に人を欺瞞するのに使うと「孤桐先生」と「その流派」となる。彼の文語保護の骨子はこれに過ぎぬ。
 もし私の検査検証が正確なら、「孤桐先生」も<閑語>の所謂「一部の志士」
の通弊で「妻子」の為にお疲れのようだ。以後ドイツ語の「産児制限」の本を数冊お求めになるべきだろう。  524
 
訳者雑感:
 「水に落ちた犬を打て」というのは、日本人にはなかなか理解しがたいものがある。武士の情け、哀れな状態に陥った敵には手心を、というのが日本人。
刀を落とした敵に、それを拾う猶予を与えて、再び真剣勝負というのが美学。
ところが中国人の発想では、人に噛みつき、悪さをしてきた犬が水に落ちたら、
這い上がる前に、棒でびしびし叩き、這い上がれないまでに打ちのめせ、というのだ。もし犬が這い上がって来るまで猶予したら、今度は自分が咬まれ、大変な目にあう恐れが強い。
 日本の政治では首相が退任してから彼の在職中の悪事をさらけ出して、二度と立ち上がれなくするような例は稀だ。中国や台湾では、一旦トップの座を追われたら、次の政権からどんな酷い仕打ちを受けるか恐怖で戦々恐々となる。
 日本の首相たちが在職中にそれほどあこぎなことをしてこなかったというのも、根底のところにある。台湾の陳水篇、韓国の歴代大統領の多くは退任後に
自殺に追い込まれる例が多い。今回の北朝鮮の三代世襲も、もし第三者に政権を譲ったら、金家二代のすべてを完膚なきまでに否定破壊されるのを一番懼れているのだ、という見方が説得力を持つのも不思議なことだ。
 2010/11/29

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