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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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7月5日 晴。

朝、景宋(許広平)が「小説旧聞鈔」の一部を清書して送ってきた。もう一度目を通して午後にやっと終え、小峰に郵送して印刷へ。今日はとても暑い。
 疲れた。晩は灯火が目に痛いので灯を消して横になっているといい気持ちだ。
門を叩く音がするので急いで開けに出たが人はいない。門の外に出ると子供が暗がりを逃げてゆく。
 閉めて戻ってまた横になるといい気分だ。通行人が(京)劇の一節をうたいながら通る。余韻じょうじょうと「♪ういい――~~~♪」と聞こえてきた。
なぜか知らぬが、ふと今日校訂した「小説旧聞鈔」の強汝詢老先生の議論を思い出した。この先生の書斎は求有益斎というからして、そこで書かれたものの中身は推して知るべしだ。彼は言う。人はなぜ無聊にかこつけて小説を書いたり読んだりするのか、と。それでいて古小説についての評価は寛容で、それは古いからであり、且つ古人が書いて残したものだからだとの由。
 小説を憎悪するのはこの先生に限ったことではなく、この種の高論はどこにも見られる。しかし我が国民の学問の多くは小説からきており、甚だしきは、小説に基づいて脚本にされた劇本に依存しているものが多い。
関羽や岳飛を崇奉する大人諸先生、もし彼らの心目中のこの二人の「武聖」の風采はと聞くと、目を細めた赤ら顔の大漢と、五筋の長いヒゲの白面の書生、
或いは金糸で縁どられた緞子に兜をつけ、背には四本の軍旗を差した(京劇役者の隈どり)イメージから脱することはできないだろう。
 近来、確かに上下一心となり忠孝節義を提唱しているが、春節の縁日で見る
年画(めでたい絵)は、新作のこの種の美徳に関する絵が多いが、描かれた人物はといえば、すべて(京)劇に出てくる役者の老生(立ち役)、小生(二枚目)、
老旦(婦人役)、小旦(娘)、末、外、花旦ばかりだ。
 
訳者雑感:
 中国語を学び始めた頃、中国の老先生が授業中の雑談に彼の少年時代のことを話してくれた。それは、彼が中学時代のことだが、試験中になにかのはずみで、机の下の二重になっている所から、水滸伝がポロリと床に落ちてしまったことだった。
 運悪く、試験監視に机の間を通りかかった先生に見つかって取り上げられてしまった。試験終了後、先生からクラスみんなの前で、試験中はもちろん、普段もこんな小説を読んでいるようでは、先が思いやられる。今後、学校に小説を持って来ることは一切まかりならん、とこっぴどくお説教されたという。
 魯迅の「百草園から三味書屋へ」の中に、魯迅が授業のすきを狙って、あるいは授業の休み時間に、せっせと小説の登場人物の「挿し絵」を薄手の紙に書き写して、それが膨大な量になったこと、そしてお金に困った時に、紹興特産の錫箔の紙銭を売っている大店の息子(同級生)に売って、お金に代えたことなどを書いている。「西遊記」もその内の一冊だった。
 儒教の経典を読み、歴代の史書や詩詞をそらんじるほどに読むことが、中国で科挙に合格し、皇帝の役人として支配階級に仲間入りする道であったころ、試験には一切でない、とされてきた「ひまつぶし」に読む小説を読むことに、少年時代の貴重な時間を無駄遣いしては相ならぬ、というのが「師」の教えだった。それでも魯迅は授業に退屈すると、現代の子供たちがマンガの絵を描くようにして、石印本(石に漢字と絵を彫りつけて和紙のような薄手の紙に印刷した昔の書)を大事に書き写した。彼の記憶はこうした本を書き写したことで一層強くなったものと思われる。日本から帰国して、辛亥革命前後の、挫折し
うっ屈した時期に、「古小説」を次からつぎへと書き写している。それが上述の
「小説旧聞鈔」や「中国小説史略」となって結実した。
 医学をやめて、文学に転じたのは、三味書屋での授業をさぼっての作業にその源泉が見いだせそうだ。
 冒頭の私の老先生に戻ると、やはり彼も試験中にもかかわらず、読み出した
「三国演義」を試験中だからといって、暫くは我慢していたが、やはり試験の合間に、教師の目を偸んで、気分転換に読んだのが今も記憶に残るという。それが中国人の一般教養としての「学問」の基盤であった。
テレビもマンガも無い時代、やはり小説が血沸き肉踊る、少年たちの一番の友達だった。取り上げられた小説が戻ってきたかどうか、教えて呉れなかった。
多分教師も自分も読んだことのある本だからすぐ返してくれたことだろう。
役者の顔については、日本の歌舞伎でもお富さんの与三郎とか石川五右衛門など、隈どりも着物も決まったもので、舞台に出てきたらすぐそれと分かる。
中国の劇でも諸葛孔明や曹操の顔はいついかなる場合も全く同じで、細面の役者が曹操を演じてもそれとはっきり分かるように隈どりする。しかし総じて大きな顔の役者しか演じないようだ。
 2010/12/20
 

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