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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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新しき薔薇――やはり花なき

 「語絲」(魯迅らの雑誌)が中型になるので、古い題を使うのを止める。
そこで奮発して「新しき薔薇」としよう。
――今回は花が咲くだろうか?
――ううーん、そうとも限らぬようだ。
 つとに自覚していることだが:私は自分を中心にものを考えるようだ。道理といえども、「自分の考える」道理で、情勢というのも私の見る所の情勢だ。
一月前に杏と桃の花が咲いたそうだが、私は見ていないので、杏と桃が咲いたと、思っていなかった。
――しかしそれらはありのまま存在する。――学者はそう言うだろう。
――よし! そうとしよう。――謹んで学者たちにそう答える。
「公理」を説く人は、私の雑感は読む価値も無いという。その通りだろう。私の雑感を読んで、魂消てしまうのだ――もし魂があるとすればだが。私の話がもし「公理」を説く人の口に召すのなら、私も「公理維持会」の会員になっているのではなかろうか?それだけでなく、その他の全ての会員になっているのではなかろうか?私の言葉は彼らと同じになっているのではなかろうか?多くの人と多くの言葉が、一人の人の言葉と同じになっているのではなかろうか?
「公理」は一つしかない。しかしそれはとうに彼らが持ち去って行ってしまった。だから私には一つも残されていない。
 
 今回「北京市内各所の外国旗」が特に目に余るので、学者たちは憤慨し:
「……東郊民巷地区以外では中国人も外国人も生命財産の護符として外国の国旗を借りて来て掲揚してはならぬ」と言う。(恥知らず!と論敵の学者の非難)
 これは確かにその通りだ。「生命財産を守る護符」として「法律」があるのだから。もし安心できぬならもっと穏当な旗:紅卍旗を使えば良い。(仏教慈善団体の旗)これなら国内と外国(租界を指すか)の間に介在して、「恥知らず」と
「恥を知る」の両方を超越していて――確かに良い旗だ。
 
 清末以来「国事を談ずるなかれ」の張り紙が酒楼飯館に貼られ、今なお辮髪とともに無くなっていない。だから時にもの書きを困らせる。
 しかしこのごろ面白いものも出て来た:それは他人が筆禍にかかるのを喜ぶ人のものした文章だ。
 利口な人(論敵を指す)の話も、日ごとに聡明さを増す。318日に害された学生に同情する。彼女はもともと参加したくなかったのに、教職員の慫恿を受けて行ったのだ。
「直接或いは間接的にロシアの金を使った人たちも」情として諒とせねばならに。「彼ら自身はひもじさに耐えられたとしても、妻子を食べさせずにはおられなかったから!」
 甲を押しやって、乙を陥れ、情をもって諒としながら、罪を着せる:特に彼らの行動と主張は、一銭にも値せぬことがよくわかる。
 しかし趙子昴の馬の絵は、鏡に映した自分の形相だという。(論敵が魯迅の文は、鏡に映った自分に罵っているとの避難を引用して)
 
「妻子の飯の為」というと、「産児制限」問題が出てくる。まずはサンガ―夫人が訪中時、「一部の志士」はとても不満で、彼女は中国人の種を滅亡させるものだと非難した。
 独身主義には多くの人が今も反対で、産児制限もうまく行かぬ。赤貧の紳士に勧める最高の方法は金持ちの女性を妻にすることだ。恥も外聞もなく、ひとつの秘訣を教えてしんぜよう:「愛」するがためと口にだすことである。
 「ルーブル」十万元を巡って、今回教育部と教育界に紛糾が生じたが、すべては少しでも自分のものにしようとしたためだ。これも「妻子」の為だろう。
但し、このルーブルとあのルーブルは一緒じゃない。これは庚子賠償金の返還で:義和団の「扶清滅洋」に対する(八国)聯軍の入京せる余沢である。
 あの年代は覚えやすい、19世紀末、1900年、26年後我々は「間接的に」義和団の金で、「妻子」に飯を与えている:もし(義和団の)「大師兄」の魂があるのなら、きっとがっかりするだろう。
 さらに言えば、各国が中国で行っている「文化事業」なるものもこの時の賠償金だ…。        523
 
訳者雑感:
 どの国も公金の取りあいはすさまじいものがある。それをどれだけ分捕ってくるかが、そのポストに就いている人間の政治的力量を示すから紛糾する。
魯迅が括弧付きで引用する「妻子」に飯を与えるため、という言葉は、いろいろなものを内包している。子分、部下、取り巻き、支援者、それ以上に大切なのは、自分の上司、即ち時の大総統、首相などの権力者。それらにどれだけの資金提供ができるかが、彼の次のステップへの原動力となる。そういう社会の仕組みが、公金の分捕り合戦となる。
 仕分け作業も最初は清新であったが、3回目となると自分たち与党が作った
ものを与党内で削りあうのだから、紛糾しないのなら、残された道は妥協しかない。誰と誰が妥協するのか。談合そのものだ。    2010/11/26
 

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花なき薔薇 3

1.
 天津の紙が北京に運べないので、印刷にも戦争の影響が出、旧雑感集「華蓋集」も印刷にまわして2カ月しても校正排字が半分も進んでない。残念ながら先に載せた予告が、陳源教授の「逆宣伝」を引きだしてしまった。―――
  「私は魯迅氏の人格を尊敬しないから、彼の小説が良いとは云わないということはできない。そしてまた、彼の小説を敬服するから、その他の文章を称賛するということもできない。彼の雑感は「熱風」の23篇以外、実に一読の価値も無いと思う」(「現代評論」71 <閑話>)
 これはなんとも公平な話だ!もともと私も「今は昔に及ばぬ」で:「華蓋集」の売れ行きは「熱風」と比べると悲観せざるを得ぬ。更に私の小説を書くのは
「人格」とは無関係とは思いもよらなかった。「非人格」な文字は新聞記事のようなもので、それが教授を「敬服」せしめるとは、中国は毎日さまざまな事が入り乱れて起こるようだ。それゆえ実に一読の価値も無い雑感も、これからも存続するかもしれない。
2.
 ドンキホーテで有名なセルヴァンテスは、乞食のような状態でこれを書いた、
とは中国の学者が言い出した流言に過ぎぬ。彼はドンキホーテが騎士の物語を読んで気が狂って自ら騎士となり弱者を助けにゆく。親族は読んだ本が問題と知り、隣の理髪師に調べてもらい、彼は良書を数冊残し、他は全て焼いた。
 多分焼いたのだと思うが定かではない。どれ程焼いたか忘れた。選ばれた
「良書」の作家たちは、当時この小説の目録を見て、きっと赤面苦笑したことだろう。
 中国では日々なんでも妄りに起こっているようだが、嗚呼哀しいかな!我々は「苦笑」すら、できない。
3.
 他省の人から私の安否を問う速達が届いた。北京の情勢に疎く、流言に惑わされたのだ。北京の流言は、袁世凱の帝位僭称から張勛の復辟、章士釗の「学風整頓」まで、一脈通じていて、歴来かくの如し。今もまた同じ手口だ。
 最初はさる筋が某校を閉鎖し、誰それを逮捕とくる。これは某校の誰それを怯えさせるため。次に某校は既にもぬけのカラになり、誰それは逃走したと。
これはその筋に扇動させるため。
 更にさる筋は甲校を捜査し、乙校にも捜査に入る予定。これは乙校を怯えさせ、その筋を扇動するため。
「平素なんらやましいことがなければ、夜半に門を叩く音がしてもびっくりしない」乙校はやましくなければ、どうして怯えさせることができようか?
しかるに、少し冷静にジタバタしないのが一番だ。まだ次の手もあり、乙校は
昨夜徹夜で朝まで赤化書籍を完全に焚書した、と流すこともする。
 それで甲校は捜査を受けた事実は無いと訂正し、乙校はその種の書籍は絶対に無いと訂正する。
4.
 そこで、「道」を守るべき新聞記者や、穏和な大学の学長までも六国飯店に逃れ、公理を説く大新聞社も看板を撤去し、学校の受付も「現代評論」を売らなくなり:(玉の産地の)「昆岡は火焔に包まれ、玉石ともに焚えてしまった」
 その実、そこまでは至っていないと思う。だが、流言は確かに造謡者の本心から望んでいることで、そこから一部の人たちの思想と行為が分かる。
5.
 中華民国97月、直皖(河北省と安徽省)戦争が起こり、8月皖軍が潰滅、
徐樹(金+争)等9人が日本公使館に避難。このときちょっと面白い事が起こり、正人君子――これは今のそれでは無い――が直派の軍人に改革論者の殺戮を説いたが、成功しなかった。この事は人々の記憶からとっくに消えたが、その年の8月の「北京日報」を見ると、大きな公告が載っており、そこには「某大英雄は勝利後、邪説を粛清し、異端を誅戮すべし、等等、古色蒼然たる名言が残る。
 その広告は署名入りだが、ここで公にする必要もなかろう。だが現在、暗がりに身を潜める流言者と比べると、「今は昔に及ばぬ」感を免れぬ。思うに、百年前は今より良かったし、千年前は百年前より良いし、一万年前は千年前より
良い……、とりわけ中国では多分確かにその通りだ。
6.
 新聞のコーナーに青年への諄々たる教戒が載っている:文字の書いてある紙を大事にせよ:国学を心に留めよ:イプセンはかくかく:ロマンロランはしかじか、と:時代と文言は違うが、その含意はよく耳にしたもので:まさしく幼年時代に老大家から聞いたものと変わらない。
 これもどうやら「今は昔に及ばぬ」の反証。但し世事には例外がつきもので、
前段で述べたことに対して、これも一つの例外とするほかない。  56
訳者雑感:
 「今は昔に及ばぬ」は3千年の中国の歴史で「理想的な社会は、神話伝説の中にあった」とする不思議な発想から出ているようだ。
 孔子がその発売元だったと思う。彼の生きた時代から戦国時代にかけての
諸国入り乱れての内戦状態は、その状態になる数百年前の周建国時を理想として、今は昔に及ばぬ、と戒め、いにしえに復そうとした。復古である。
 復古とは改革を称える邪説や異端を粛清、誅戮すること。2010/11/25

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こんな赤狩り


北京天津間の大小何回かの戦で、赤狩りの為に何人死んだだろう。
執政府前の一斉射撃で請願者47人、負傷者百余人。「暴徒を扇動した」徐謙等
5人も「赤狩り」された。奉天の飛行機(張作霖軍)が北京を三度空襲し、爆弾投下で婦人二人が死に、子犬が負傷したのも「赤狩り」の結果。
 北京天津間で戦死した兵士と、空爆で死んだ婦人二人と負傷の子犬が「赤」だったか否か、まだ法令が出てないので判らない。政府前で殺された47人については法令が出て、「誤殺傷」と云う。首都検察庁の公文書に「今回の請願の
趣旨は正当で不正行為は無かった」とし、国務院会議は「特段の哀悼」の意を表すという。しからば徐謙たちの率いた「暴徒」はどこへ行ったのか。彼らは護符と呪文で銃砲を避けられたのか?
 要するに、狩りはなされた、そして赤はどこへ行ったのか。赤がどこへ行ったかは、さて置くとして、結局「烈士」は埋葬され徐謙等は逃亡し、三人の
ロシアの賠償金返還(検討)委員が欠員となった。6日の「京報」は「昨日
9校の教職員連合代表会議が法政大学で開かれ、査良釗主席はまず前日に返還委員会を改組し、教長の胡仁源氏への引き継ぎ状況を報告し、略云、政府は今回、外務、教育、財政の三省の事務官が委員を引き継ぐとした点に対し、同氏は絶対反対で、それは3人の人格に反対するのではなく、返還額が大変巨額だからで、中国の教育界がそれを大いにあてにしている為で…」と。
 又あるニュースの題目は「五私大も返還委員会に注目」と言う。
 47人の死は「中国教育界」に大変浅からぬ功をもたらした。従って、「特段の哀悼」を捧げるのを誰が良くないと言うのか!?
 これから後、願わくは「中国教育界」には、己と異なる意見を持つ者に対して「ルーブル党」と呼ばわることのなきように。
      46
訳者雑感;
 アメリカは義和団の件で清朝からの賠償金を、返還して協和病院などを作ったという。ロシアもそれにならってか、ロシア革命後、それまで清国との条約で手にしていた特権を放棄し、賠償金の返済を宣言した。日本などはどうしたのであろうか?
今回、請願の惨殺の結果、3人のロシア賠償金検討委員が欠員のなった結果、
教育関係にそのお鉢が回ることになった。これまで[改革]に執拗に反対してきた「中国教育界」のお偉方は、自分に異を唱える改革推進者を「ルーブル党」と決めつけ、ソ連から利用されていると批難してきたが、自分たちもロシアからの返還金を獲得しようと躍起になりだしたのだから、「赤狩り」の結果が、こんなことになるとは思いもよらなかった展開だろう。  2010/11/23
 

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空談

1.
 これまで請願がいい事とは思って来なかった。しかしそれは決して318日のような惨殺を心配していたからではなかった。あのような惨殺は、全く思いもしなかった。私はこれまで「刀筆吏(法廷役人)」の目で中国人を見てきたが、彼らが麻痺して良心を無くしたのを知った。ともに語るに足らず、単なる請願、しかも徒手の相手に、こんな陰毒と凶暴に至るとは思っても見なかった。事前に知っていたのは多分段祺瑞、賈徳耀、章士釗と彼らの同類だけだろう。47人の男女青年は完全に騙され、死へ誘い込まれたと言ってよい。
 ある連中は――何と呼ぶべきか思いつかぬが:群衆の領袖は道義上の責任を負わねばならぬ、と言った。この手合いは徒手の群衆に向かって発砲すべきで、
執政府前は「死地」で、死者は自ら網にかかったと考えているようだ。群衆の領袖はもともと段祺瑞等と気脈を通じているわけでなく、グルでもない。どうしてこんな陰険な毒手を予測できようか。こんな毒手は少しでも人間性を持ち合わせていれば、万が一にも思い到らないものだ。
 もし段祺瑞のあやまちを挙げるなら2点:一は請願が有効だと考え:二は相手を余りにも甘く見すぎたこと。
2.
 只、以上は事後の話。この事の発生前、誰もこんな惨劇が演じられようなど思ってもいなかった。せいぜい例に依って徒労に終わるのが関の山、と。
だが、学のある聡明な人間だけが事前に請願が死地に赴くのを自認するものだと予測していたのである。
 陳源教授の「閑話」に:我々は女志士諸君に以後は群衆運動にあまり参加せぬよう勧告しようとしたが、彼女らはきっと我々が彼女らを軽視していると反論してくるので、余計な口出しはしないでいた。しかし未成年の男女児童は、以後どんな運動にも参加せぬよう望まずにはいられない」(「現代評論」68
どうしてだろうか?各種運動に参加したために、今回のような「銃弾の雨の危険を冒し、死傷の苦を舐める」ことになったからである。
 今回47もの命で購ったのはたった一つの見識のみ。執政府前は「銃弾の雨」
の場で、死にに行くようなもの。成人した人間で自分で望む者のみが許される。
 「女志士」と「未成年男女児童」が学校の運動会に参加するのはさしたる危険は無いと思った。「銃弾の雨」の中を請願に行くのは、青年男子諸君も以後
絶対にしないよう、しっかり覚えておいて欲しい。
 今どんな状態かというと、数篇の詩文と話のネタが増えただけ。数名の名士と当局が埋葬地を相談中で、大請願が小請願に改められた。埋葬は当然で在り妥当なことだが、奇怪なのはこの47名の死者は、老いて死んだものの埋葬地が無いので、なんとか公有地をひねり出そうとしているかのようだ。万生園はとても近いが、四烈士の墳には三つの墓碑に一字も刻まれていない。円明園は遠い。
死者がもし生き残った人の心に埋められなければ、それはもう本当に死んでしまったのだ。
3.
 改革は勿論流血を免れぬが、流血が即改革には結びつかない。血の応用はお金と同じで、ケチってはだめだが、浪費も大きな間違いだ。今回の犠牲者に対し、痛切なる哀傷を感じる。
 但し、こんな請願は爾後止めるがよい。
請願はどの国にもあるが、死に至ることはない。「銃弾の雨」を消除できぬ限り、
中国は例外であることを知った。正規の戦法は相手が英雄の時に用いるべきで、
漢末は人心も相当古風と思われているが、小説(三国演義)の典故の引用するのを許してもらうならなら:許褚は裸で陣に臨み、何本もの矢に当たった。それを(清の評者)金聖嘆は笑って:「誰が裸で行けと命じた?」と述べた。
 現在のようにおびただしい火器が発明された時代、戦は塹壕を使う。これは決して命をケチるのではなく、無駄死にさせぬためで、戦士の命は尊いからだ。
戦士が少ないところではより尊い。貴いと言うのは「家の中に珍蔵」せよということではない。僅かな元手で最大の利息を稼げということで、少なくも売り買いに値せねばならぬ。多くの人の血の流れで一人の敵を淹死させよ、とか、
同胞の死体で穴を埋めで進めなど、陳腐な話だ。最新の戦術から見れば、大変な損失。今回の死者が後の者に残した功徳は、多くの(悪い)連中の人相をあばきだし、思ってもみなかった陰険な腹を暴露させ、戦いの後継者に他の方法で戦うよう教えてくれたことだ。    42
訳者雑感:
 中国の志士たちの純粋な気持ちには、誇張されたスローガンというか、伝統的な劇(昆劇、京劇など)のセリフのようでなくちゃならぬ、という「美」学
がめんめんと受け継がれている。日本では切腹というのが武士の美学だが、例えば「覇王別姫」で虞美人は項羽の前で、項羽の剣を奪って、自ら首を刎ねる。
それが、意味することを観客は、それぞれの人生経験からふり返って考える。
 英雄の捲土重来を願って、重荷になるのを自ら断つ。日本の戦国時代の落城にも、何人もの女たちが自刃した。愛する殿のためである。
 今回の請願で銃弾の雨に惨殺された47の命は、当時誰も想像すらしなかったことだが、請願が政府転覆を企てる動きに発展することを懼れた段政府の予防戦法だったのだ。ここでも「血の海で敵を淹死させよ」とか「同胞の死体で、穴を平らに埋めて進め!」といった冒険主義的勇ましさをスローガンとして、
掲げてきた、「歴史劇」の中のセリフ通りにやろうとする、「劇」に範をとることが、一番安心できると錯覚させる中国の伝統が見られる。
 日本でも、義経を逃すべく、単騎敵の矢玉を受ける弁慶は英雄視されるが、
それを真似ようという人間は、中国ほど多くは無いようだ。
   2010/11/22

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劉和珍君の記念に

1.
 中華民国15325日、国立女子師範大学が18日に段祺瑞執政府前で害された劉和珍楊徳群両君の追悼の日、一人で礼堂の外を徘徊しているとき、程君に会い、彼女は私の方に来て「先生、劉和珍の為に何か書かれました?」と訊くので「いや」と答えた。彼女は、「何か書いてください:劉和珍は生前、先生の文章をとても愛読していましたから」と言った。
 それは私も知っていた。私の編集した雑誌は往々にして初めはあるが終わりは尻切れになるのが多いので、売れ行きは振るわなかったが、こんなに生活が苦しい中でも「莾原」を、年間予約してくれた中に彼女がいた。私もつとに何か書かねばと感じていた。これは死者とは関わりは無いが、生存者としては、多分これくらいしかできない。もし私が「天に魂が在る」のを信じているなら、勿論大きな慰めになるが――今はこれくらいしかできない。
 しかし実は何も言葉が出てこない。ただ、今私がいるのが人間の世界では無いと感じる。40余名の青年の血が私の周りに充ち溢れ、呼吸も視聴も困難な状態で、一体どんな言葉を発せよう。長歌で哭すのは、痛みが落ち着いてからでなければできぬ。そして事件後、数名の所謂学者文人の陰険な論調は、特に私の悲哀を募らせた。私はすでに憤怒を通り越してしまった。私はこの非人間世界の暗黒な悲涼を腹の底から嘗め:私の最大の悲哀をこの非人間世界に示し、そこに住む連中が私の苦痛をみて快哉を叫べば、これを後に死ぬ者からのささやかな供物として、死者の霊前に献じるとしよう。
2.
 真の猛士は、真正面から惨憺たる人生に直面し、飛び散る鮮血を正視する。
これはなんという哀痛か、そしてなんという幸せか。しかるに、造物主は常に凡人のために、時を過ぎさせ、旧跡を洗い流し、わずかに淡紅の血の色と微量の悲哀の中に暫し生を偸ましめ、この似て非なる人間世界を存続させる。
こんな世がいつ終わるのかしらない。我々はまだこんな世に生きている:つとに何か書かねばならぬと思ってきた。318日から早2週。忘却の救主はすぐやって来てしまう。私は本当になにかを書かねばならぬ。
3.
 40余人の害されし青年のうち、劉和珍君は私の学生だ。学生については、これまでいろいろ思い、あれこれ言ってきたが、今、いささかためらいを覚え、
彼女に対する私の悲哀と尊敬を献ずべきと思う。彼女は「これまでいい加減に生きてきた私」の学生ではなく、中国のために死んだ中国の青年である。
 彼女の名を目にしたのは去年の夏の初め、楊蔭楡女士が女子師範大学学長として、在校生6名の自治会役員を退学させた時、その一人だった。面識は無かった。多分劉百昭が男女の武将を率いて強制退去を実行後、ある人が一人の学生を指して、あれが劉和珍だと言った。そのとき初めて名前と実体が一致したが、少しいぶかしく感じた。平素の感じでは権勢に屈せず、大きな権力を持つ学長に反抗する学生は、何はともあれ傑出した鋭い人間だろうと思っていたが、いつも微笑を絶やさぬとても穏和な感じであった。
宗帽胡同に部屋を借りて授業を始めたころ、彼女は私の講義に出て来て、それから会う機会が増えたが、始終ほほ笑み、穏和な子だった。学校が元に復し、往時の教職員は責任を尽くしたとして、次々に退任の準備にかかった時、彼女は母校の前途を憂えて、悲しんで涙を流した。その後、会う事はなくなった。私の記憶ではそれが永別となった。
4.
 18日朝、午前中に群衆が執政府前に請願に向かう事を始めて知った:午後、
凶報を受け、衛兵が発砲し死傷者数百人、劉和珍君がその中にいることを知った。だがこの噂は信じられなかった。これまで何の憚りも無く、悪意の目で中国人を観てきたが、よもやその下劣凶暴さがこれほどとは信じられなかった。
まさかいつも微笑を絶やさぬ穏やかな劉和珍君が、端無くも何故に執政府の前で、血の海に身を投じることになったのか。
 だが即日それが事実だと証明された。証拠は本人の死骸。もう一つは楊徳群君のだ。更に単なる殺害ではなくまぎれも無い虐殺だ。体に棍棒の傷痕がある。
 だが段政府は即時公告し、彼女らを「暴徒」とした!
 続いてデマが飛び、彼女らは人に利用されたのだ!と。
 惨状はもう見るに忍びない:流言は聞くに耐えない。これ以上なんの言葉があろうか?衰亡する民族が黙したままで声のないのが分かった。
沈黙、沈黙だ。沈黙の中で爆発もしないで、沈黙の中で滅亡してゆく。
5.
 しかし私はまだ言わねばならぬ。
 自分の目で見たのではないが:彼女、劉和珍君はその時、欣然と請願に参加したそうだ。もちろん請願だけだし、普通の人間ならまさかこんな罠がしかけられているとは思わないだろう。だが、執政府の前で被弾した。背から斜めに心肺を貫通したのが致命傷となったが、即死ではなかった。一緒に参加した張静淑君が助けようとして4発被弾、その一発はピストルでその場で倒れた。
一緒だった楊徳群も助け起こそうとしたが被弾。弾は左肩から胸の右を貫き、倒れた。彼女は起き上がろうとしたが、衛兵が彼女の頭部と胸部に棍棒をみまい、死亡した。
 いつも微笑を絶やさぬ穏やかな劉和珍君は本当に死んでしまった。これは真実で、死骸がその証拠である;沈着で勇敢、友愛の塊、楊徳群も死んだ。本人の死骸が証拠:ただ一人これも冷静沈着で勇気有る友愛の張静淑君は病院で呻吟している。3人の女性が従容として文明人の発明した銃弾の集中砲火を浴び、転輾としている、これはまた何という心を驚かし、魂を揺さぶる偉大なことか!
中国軍人の婦女子殺戮の偉業、八国連軍の学生征伐の武功、それらすべてが、不幸にも今回の血痕に抹殺されてしまった。
 しかるに内外の殺人者たちは、あろうことかふんぞり返っており、めいめいの顔に血痕の汚れが付いているのを知らぬ…。
6.
 時は過ぎゆき、街は旧のまま太平であり、あの程度の数の命は、中国としては数にも入らず、せいぜい悪意の無い閑人の食後の話のネタを供するに過ぎぬ。或いは悪意の閑人の「流言」の種に過ぎぬ。それ以外の深い意義について考えると、大変な虚しさを感じる。実際、徒手空拳の請願に過ぎないのに、どうしてこうなってしまったのか。人類の血で戦った前史は、丁度石炭ができる過程のように、大量の木を使って、ほんの小さな一かけらが出来てきたのだ。しかし請願はその数に入らぬ。況や徒手空拳をや。
 しかし血痕は残っており、知らぬ間に拡大する。少なくとも親族、師友、愛する人の心に浸漬し、たとえ時が流れて洗われて薄い色に変じても、微漠な悲哀の中に、微笑と穏やかな面影は永遠に残る。陶潜は言った「親戚はなお悲しんでいるが、他の人はすでに歌いはじめた。死ねば何をかいわんや。屍を山に託すのみ」もしこんな風にできるのであれば、十分すぎるほどだ。
7.
 すでに述べたが:私はなに憚ることなく、悪意の目で中国人をみてきたが、今回は多くの点で、その私にとっても予想外のことばかりで、一つは当局がかくも凶暴なこと、もう一つは流言家がかくも下劣なこと、そして最後の一つは、
中国の女性が難に臨んでかくも従容としていたこと。
 私がみてきた中国女子の物事への取り組みは、去年から始まり、少数だが堅固な決意で不とう不屈の精神で対処するのをみて、しばしば感嘆した。今回、弾丸の雨の下の相互救助は、自分の死を憂えぬ事実は、中国女子の勇毅が、陰謀な罠にはめられても、数千年の抑圧にも屈せず、消え滅んではいないということを証明するに足る。今回の死傷者の将来の意義を求めようとするなら、その意義はここにある。
 いい加減に生きてきたものは、淡紅の血色にかすかな希望を見いだし:真の
猛士は奮然と前進する。
 嗚呼、もうこれ以上言葉がでない。これを劉和珍君の記念とする!
         41
訳者雑感:
人類の血であがなわれた前史を、石炭のできる過程に譬えている。大量の血を
流して、ほんのひとかけらの石炭ができてきた、と。しかるにこの虐殺で流された血は、一体どのくらいの粒の石炭に変じられるのか?虚しさしか残らぬ。
当時の北京に暮らしていた99%の中国人は、彼女らが「人に利用された」と
いう流言をまともに信じていないとしても、なにも好き好んで徒手空拳で、請願に参加して、犬死にすることもなかろうに、と茶館や食堂での世間話のネタにしているさまが、目の前に浮かんでくる。義は女学生の側にあるとは、意識していながら、段政権の下ではいかんともしようがない、という閉塞感。それでも中国人は、空に戦闘機が旋回していようと、生きてきた。318日に起きたことなど、しばらくしたら忘却の彼方へと押しやって、生きるしかない。
魯迅も、長歌(弔歌)は痛みが落ち着いてからでなければ書けぬとしながら、
事件後2週間でこれを書いた。「忘却の為の記念」に。
       2010/11/20
 

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惨酷と笑止千万

 318日の惨殺事件は、ふり返って見ると政府のしかけた罠だったこと明白で、純粋な青年たちが不幸にもそれにはまって、三百余人の死傷者が出た。この罠が仕掛けられたのは、「流言」が効を奏した結果だ。
 これは中国のいつもの手で、読書人の気持ちの中には大抵殺意があり、自分と異なる意見を持つ者には死を与えようとする。私が目にしただけでも、陰謀家が他派を攻撃する時、光緒年間には「康(有為)党」、宣統年間には「革命党」、
民国第二革命以後は「乱党」、現在は「共産党」という名を与える。その実、去年一部の「正人君子」たちが他者を「学者ヤクザ」「学匪」と呼んだ時、すでに
この殺意を持っていた。この種のあだ名は「臭い紳士」「文士」の類とは異なり、「ヤクザ」「匪」の字には死への道が蔵されている。但しこれも多分「刀筆吏」
(法廷書記、魯迅の故郷出身者が多いと論敵の魯迅への罵倒語:出版社注)の
法律を歪曲援用せるものかも知れぬ。(論敵が批難することへの予防線)
 去年「学風整頓」のため、当時の学風がいかに乱れ、学匪がいかに憎むべきかの流言が、広く伝播され奏効した。今年も「学風整頓」のため、共産党がどんな活動をし、いかに憎むべきかという流言が流され、奏効した。それで請願者たちは共産党だということになり、三百余人が死傷した。もし一人でも所謂共産党の領袖が殺されていたら、この請願は「暴動」と証明できたであろう。
 惜しいかな一人もいなかった。これは共産党ではなかろう。噂ではやはりいたのだが、彼らは全員逃げたから、更に憎むべし、という。それで、この請願はやはり暴動でその証拠に棍棒一本、ピストル2丁、石油瓶3本が残された。
これらが群衆の携帯したものか否かは置くとして、仮にそうだとしても、死傷した三百余人が持っていた武器がこれだけだとしたら、なんと哀れな暴動よ!
 が翌日、徐謙、李大釗、李煜瀛、易培基、顧兆熊の逮捕状が公表された。彼らは「群衆を動員」したためという。去年の女子師範大学生の「男子学生動員」と同じだ。(章士釗の女子師範大学解散の上程文中の語;魯迅自身の注)
 棍棒一本、ピストル2丁、石油瓶3本を帯びた群衆を「動員」した為だ。このような群衆で政府転覆を図れば、三百余人が死傷し:しかも徐謙たちは人命を児戯のごとくに弄してしまったからには、当然殺人の罪を負うべきだが:
ましてや当人は現場には行かず、或いは全員逃亡したのであろうか?
 以上は政治的なことで、私には真相はわからない。しかし別の面から見ると、
所謂「厳重に逮捕」というのは、どうやら追放という事らしい:所謂暴徒を「厳重に逮捕」というのは、北京中法大学学長兼清王朝善後委員会委員長の(李)、中露大学学長の(徐)、北京大学教授(李大釗)、北京大学教務長(顧)、女子師範大学学長(易):その中の三人はロシア款委員会委員(ロシア革命後、義和団の賠償金など対華特権を放棄するとの宣言を受けてのその利用法検討のための委員会:出版社注):で、一挙に九個の「優美なポスト」が空いたことになる。
 同日にまた新たなデマが飛び、更に五十余人の逮捕状が出る、と:但し姓名の一部はついに本日「京報」に出た。(この中に魯迅の本名あり:出版社注)
このたくらみは、現在の段祺瑞政府の秘書長章士釗流の脳裏に確かに存するのである。国事犯が五十余人の多きを数えるというのは、中華民国の一大壮観:しかも大概多くは教員で、もし一同が一気に五十余の「優美なポスト」を放り出し、北京から逃げて他所で学校を建てたら、中華民国の一大珍事となろう。
 学校の名は「動員」学校とでも称すべきだろう。
          326
訳者雑感:
 魯迅は逮捕状が出た後、外国系の病院に隠れたりしたが夏にはいよいよどうしようもなくなり、北京を逃げ出しアモイ大学に移ることになった。そのアモイも半年弱で翌年1月広州に向かい、10か月程して上海に移る。1年余の間に、北京―アモイ―広州―上海とめまぐるしい移動であった。疾風怒濤という表現がふさわしいか、或いは国民党政府と複数の軍閥間の政治的混乱が46歳前後の彼を襲った。
 日本では大隈重信あたりが政治と大学の両方に関与しているのが有名だが、科挙の伝統というか、本文にも「読書人」に触れているが、政治向きのことをするのが、「書を読んだ人間」の務めであるという根強い意識があるのだと思う。  文中、魯迅が罵倒し、相手も魯迅を罵倒する「章士釗」は、段祺瑞政府の秘書長を務めている。学者は政治にも関与してこそ「男子の本懐」とでもいうものが体中に潜んでいるようだ。
 論語で、人間としての生き方を説くのも、究極の目的は皇帝、或いは当時の諸侯に仕官して「政」に携わることで「志」を実現することであった。
孔子及び彼の弟子たちの開いた学校に集まった書生たちの動機は、自分を買ってくれる人を探すためでもあった。良い値で。
 孔子は弟子に問われて答えた。「売らんかな。我は良き買い手を待つなり」
現今の中国の学校は、良い買い手を見つけやすい大学への受験戦争が激しさを増している。大学の方も買い手が喉から手を出したくなる良き玉を集めるべく、
エリート学生の募集にあらゆる手段を講じて高校の優等生を無試験入学させたりする。政治力のある学長が権力と一緒になって政治を動かしている。学者が政治に関与する国である。政治をしない学者は、研究をしない学者以下かな。
       2010/11/17
 
 
 

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死地

一般人、とりわけ長く異民族とその奴僕鷹犬(手先)に蹂躙されてきた中国人からすると、殺人者は常に勝者で、殺された者は常に敗者だ。目の前の事実も確かにその通りだ。
 318日、段政府が徒手空拳で請願に来た市民と学生を惨殺したのは実に
言語道断で、ただただ我々が住んでいるのは人間世界ではないと思う。だが、北京の所謂言論界はいろいろ論評しているが、紙筆喉舌では執政府前の青年の熱血をもとに戻して、彼らを再び生き返らすことはできない。口先だけの絶叫は、殺された事実と共に、徐々に消え去るのみ。
 しかるに、論評中に、銃刀より痛烈に私を驚かせ、魂消させたものがあった。何人かの論客は、学生たちは自ら死地に赴くべきでは無かった、と考えている。もし徒手の請願は死にに行くようなものだと思うなら、この国の執政府前は死地であり、それはすなわち中国人のまさしく殺されても葬られることの無い所である。心から悦んで奴隷になっても「死ぬまで怨まぬ」ものを除いて。
 だが私は中国人の大多数の意見が一体どうなのかは知らない。仮にこの通りならば、単に執政府の前だけでなく、中国全土、一か所として死地でないところは無い。
 人の苦痛というものはなかなか通じあえない。それゆえ殺人者は殺人を唯一の手段とし、快楽すら覚える。しかし容易に通じぬゆえ、殺人者のみせしめにする「死の恐怖」は、後者を十分には恐れさせきれず、人民を永遠に牛馬に変えてしまうことはできない。
 歴史をみると、改革に関する記事は、決まって、前者が倒れ、後者が継ぐことになっているが、多くはもちろん公義に発している。人々は「死の恐怖」を経験しないかぎり、そうたやすくは「死の恐怖」に怯えないで、これまでやってきたのが大きな理由だと思う。
 但、私は「請願」は、今後は止めるよう切望する。もしこんな多くの血でもって、やっとこの一個の覚悟と決意を得られ、そしてまた記念として永遠に残すならば、今回のことは大変な損失にはならないかもしれない。
 世界の進歩は大抵流血から生まれた。だがそれと血の量には関係が無い。世の中には流血が多いのに、滅亡してしまう民族の先例があるからだ。今回のように、こんな多くの命を失ってもわずかに「自分で死地に赴く」との批判を受けるのみで、一部の人の心の機微が我々に示す通り、中国の死地はとても広大であることが判る。
 今手元にロマン ロランの「Le Jeu de L’Amour et de La Mort」(愛と死の
争い、1924年)があり、その中でカルノ―は、人類は進歩の為に多少の汚点も排除せず、万止むを得ぬ時は罪悪も妨げぬと主張した。
が、彼らはクールボアジェを殺すことを願わず、共和国はその腕で彼の死屍を
持つのを欲しないから、それは重すぎるからとした。
 死屍の重さを知り、持ちたくないという民族には、先烈の「死」は後人の
「生」の唯一の霊薬であるが、その重さを知らぬ民族にとっては圧し潰して、
ともに滅亡する物体に過ぎない。
 中国の改革を志す青年は死屍の重さを知っており、それゆえに「請願」する。
だが、死屍の重みを知らぬ人間が他にいることを知らない。且又、「死屍の重さを知る人」の心までも屠殺する人間がいることを知らぬ。
 死地は確かに目の前にある。中国の為に覚悟をした青年は軽軽に死ぬのを肯んじてはならない。            325
 
訳者雑感:
 中国の青年は歴史の伝統に照らしても、死地に赴くことを厭わないことが、
潔いことだと考えるふしが見受けられる。青年のみならず、4050歳になっても、一度「意気投合」した相手のためならば、自ら死地に赴くことが美学と考えているようだ。司馬遷すらも、自分の信じた者の為にそうすれば恐らく「宮刑」になることも
覚悟してお上に訴えている。その彼が「史記」で取り上げた「刺客列伝」にも、
自分の首を刎ねて、それを秦の始皇帝に会うための土産にする樊於期のことが、
読者に強烈な印象を与える。
 魯迅の「民国以来最も暗黒な日」とした1926318日と同じように、198964日に、おおぜいの青年たちが天安門に集まり、「徒手請願」に赴いた時、
彼らはまさかそれが百年前と変わることの無い「死地に赴く」ことになろうとは、思ってもいなかったであろう。魯迅の指摘するように、後人は「死の恐怖」
を知らぬし、永遠に牛馬に変えられることを肯んじないからだ。
 それを戦車まで繰り出して、追い散らそうとした政権は、青年の焼け焦げた死屍が長安街の陸橋の欄干から吊り下げられた映像が、全世界に放映されたことを頬冠りして、時間が忘却するのを待っている。
        2010/11/16
 

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花なき薔薇の2


1.英国貴族ボルゲン曰く:「中国の学生は英字新聞を読むばかりで、孔子の教えを忘れてしまった。英国の大敵は、帝国を呪詛し、災禍を起して騒ぎ喜ぶこうした学生だ。……中国は過激党の格好の活動場となった。…」(1925630日ロンドン ロイター電)
南京通信伝:「キリスト教市内教会は金陵大学教授、某神学博士の講演を行った。その中で孔子はキリストの信徒だとし、孔子は食事と就寝の前に上帝に祈ったとした。聴衆が何を根拠にそう言えるのか、と質問すると、博士は答えに窮した。その時、教徒数人が大門を閉め‘質問者はソビエトロシアのルーブルに買収されたものだ’と大声を発し、即警察を呼び逮捕した。…」(311日「国民公報」)
ソ連の神通力はまさに広大で、(孔子の父)叔梁紇まで買収し、孔子をイエス以前に生まれさせた。さすれば「孔子の教えを忘れた」ものと、「何を根拠にそう言えるのか?」と質問した者は、当然ルーブルに買収されたに違いない。
2.西瀅教授曰く:「<聯合戦線>には、私に関する流言が特に多いそうで、   私一人だけでも(段政権の懐柔政策として)毎月3千元貰っているそうだ。
‘流言’は口頭で広まるが、紙上には余り出ないのだが」(「現代」65
   当該教授は去年、人の流言を聞いて、彼みずから紙上に公表した:今年は
   自分に関する流言も、彼の手で紙上に公表した。「一人で毎月3千元貰っている」
   というのはいかにも荒唐無稽で、自分に関する‘流言’はとても信じることは
   できない。只、私は人に関するものは理に近いことが多いと思う。
   3.「孤桐先生」が下野した後、彼の「甲寅」はだんだん活気が出てきた由。
   このことから判るのは、やはり官はやっていられない。          
    しかし、彼は又臨時政府の秘書長になった。「甲寅」は相変わらず活気があるかどうか知らない。もしあるなら官もやっていられる、というものだ。
   4.「花なき薔薇」なぞ書いている時じゃない。書いたものは多くはトゲだが、
   平和な心も必要だ。
    北京城内で大殺戮が起きたという。こんな無聊な字を書いている時に、
   多くの青年が銃弾と剣に殺された。嗚呼、人と人の魂は相通じない。
 
   5.中華民国15318日、段祺瑞政府は衛兵の歩兵銃と剣で、国務院前に外交支援の為に集まった青年男女数百人が、徒手空拳で請願するのを包囲し、
   虐殺した。更に逮捕状を出し、「暴徒」という冤罪を着せた。
    かような陰険残虐な行為は、禽獣にも見ることは無く、人類でも極めて稀で
   ロシアのニコライ2世がコザック兵に民衆を殺戮したくらいだ。
   6.中国は、只虎狼の侵食するのを放置し、誰も構わない。それに立ちあがったのは数人の学生のみ。彼らは本来勉学にいそしむべきだが、時局がこんなに
   漂流動揺しており、気が気でなくなった。もし当局にほんの少しでも良心があり、反省自責し、その良心を取り出して対処すべきではないか?
    それがなんと、彼らを虐殺するとは!
   7.もし、このような学生を殺して終わりにしてしまうなら、屠殺者も決して
   勝利者ではないことを知るべし。中国は愛国者の滅亡と同時に滅亡する。屠殺者は財力があるから、末長く子孫を養育できるといっても、来るべき結果は必ず来る。「子子孫孫永遠に」と喜んでなどいられるものか。滅亡は少し先になる
   かもしれぬが、居住環境の最悪の不毛の地で、とても深い坑道の中で、坑夫と
   して最下賤の生業を営むしかない…。
   8.もし中国が滅亡すれば、過去の史実の示す通り、将来は屠殺者の予想外の展開になろう。これは物事の終わりでなく、始まりだ。
    墨で書いたたわごとは、血で書かれた事実を決して覆い隠せない。
    血債は必ず同じもので償われなければならぬ。それが長引けば長引くほど、
   より大きな利息を払わねばならぬ!
   9.以上はすべて空言。筆で書いたものが何になるのだ!
     実弾は青年の血を流した。血は墨で書いたたわごとでは覆い隠せぬのみならず、墨で書かれた挽歌にも酔わない:お上の威力も押しつぶせない。それは
   騙しきれるものではない。打たれても死なないから。
                 318日 民国以来最も暗黒な日に記す。
   訳者雑感:
    5の文中の「外交支援」という訳語に「違和感」を覚える読者が多いことと
   思う。原文は「…請願、意在援助外交之青年男女、至数百人之多」で、国務院の前に請願に来た、青年男女数百人。その意図するところは「援助外交」。
   この援助外交というのは、一体どういうことを指すのか?
    1915年、袁世凱政府に大隈重信が付きつけた「対華21カ条要求」に反対する学生たちのデモが「五四運動」として、大きな潮流となって外交を動かした。
   1926年の318も日本軍との戦いで大譲歩をした国民政府に対して、天安門
   に終結した学生たちの抗議行動を指す。この政府への抗議行動を、魯迅および
   当時の文筆家は「援助外交」という4字で表現したものと見られる。政府が
   あまりにもだらしなく、虎狼のような外国の付きつける「屈辱的な条件」を
   何の抵抗もせずに受け入れること、それが政権の保身のためであって、国民の
   為では決してない、ということが、アヘン戦争以来百年以上続いた史実である。
    学生たちが立ちあがって抗議するのは、外交に弱腰の政府への「援助」なのである。日本も196070年の安保改訂の時に、国会前に終結した学生たちは
   「弱腰政府」への抗議であったわけだが、それは政府に対米交渉をもっと強気に行うように、との支援でもあった。当時の日本は何かというと反米、反米で
   「アイゼンハワー ゴ―ホーム!」「ポラリス入港阻止」などデモ隊の「意」は
   日本政府への支援であった。
    9月の尖閣漁船問題以来、中国各地で発生した「反日デモ」は現政権が、この問題で、対日弱腰外交をしているとのアジによって、インターネットで組織
   動員されたものであろう。沿岸部の大都市の学生たちが動かなかったのは、その省の政府の抑圧によるものか、或いは政府は弱腰外交などしていない、との
   認識がある程度できていたのであろうか。
    学生たちの抗議デモは、政府への外交支援という応援部隊の声援で、この
   声援をうるさく感じ、徒手空拳の若者を銃刀で虐殺に及ぶというのは、余程
   自分の外交に自信がなく、これが自己保身の為で、国家国民の為ではない、と
   いう内心忸怩たるものがあるために起こった悲劇であろうか。
                   2010/11/15
 
 

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花なき薔薇

1.   またSchopenhauerの言葉――「トゲなき薔薇はない。
――が薔薇なきトゲは多い」
     ちょっと趣向を変えて、「花なき薔薇」とすれば、
          見栄えが良くなるかも しれない。

2.      去年はなぜかショーペンハウエルが我が国の紳士に気に入られて、彼の
「婦人論」がよく引用された;私もいろいろな所で数回引用したが、トゲばかりで薔薇はなかった。実に殺風景で紳士諸君に相すまぬことをした。小さいころ見た劇で、名は忘れたが、その一家はまさに結婚式の最中。そこに、魂を取るという「無常鬼」がやって来て、婚儀の式に入り込む。二人が一緒に拝礼し閨房に入り、床に就こうとする…そこに登場して興ざめなこと甚だしい。私はそんな風にはならないようにしたい。
3.ある人は私が「暗闇から矢を射るもの」と言う。私の「暗闇から矢を射る」
  の解釈は、彼らのとは異なる。彼らの解釈では、ある人がキズを負ったが、
  その矢がどこから射られたのか判らない。所謂「流言」はこれに近い。
但、私は明らかにここに立っているのだ。私は矢を放っても、その標的が 誰とは言わない。これははじめから大勢の人と共に、その相手を棄市しようと
するつもりは無いためで、標的にされた者が自分の的に穴があけられたとわかって、面の皮をふくらませてジタバタすれば、私の目的は達成されたのだ。
4.       蔡元培先生が上海に着くと「晨報」は国聞社の電報に依り、彼の談話を発表し、注釈までつけ「まさに長年の心血をそそいだ研究と冷静な観察の結果、大いに国民に教示せしは、知識階級の注意すべきところ」と思う、としている。これは胡適之先生の談話で国聞社の電報コードに問題があるのではないかと思う。
5.  予言者は先覚者であり、故国では受け入れられず同時代人の迫害を受ける。大人物はつねにこうしたものである。彼が人々から恭しく賛美されるようになったら、きっと死ななければならぬ。或いは沈黙するか目の前から消えねばならぬ。
要するにまず第一に当人に質問するのが困難でなければならない。
もし孔子、釈迦、キリストが生きていたら、教徒たちはきっと恐慌を免れない。彼らの行為を見たら、教主たちの概嘆はいかばかりか。だからもし、生きていたら、迫害するしかない。
偉大な人物が化石になった時、人は彼を偉人と呼び、彼はその時、傀儡になるだろう。一流と言われる人の所謂偉大と渺小は、彼が自分の為に
どれだけ利用できるかを指す。
6.  フランスのロマン・ロラン氏は今年満60才。晨報社が文を募り、徐志摩氏が紹介の後で感慨を催し:「但、もしある人が流行のスローガンを持ち出し、打倒帝国主義とか分裂とそねみの現状を示して、ロラン氏にこれが新中国だと報告したら、私はもう彼がどう感じるかわからない」(「晨報」1299号)
彼の住まいは遠いので、すぐこれの真意を問い合わせる訳にもゆかず、「詩哲」(たる彼)からすると、ロラン氏の意見としては、新中国は帝国主義を歓迎すべきとでも思っているのであろうか?
「詩哲」は、(杭州の)西湖に梅花を観に出かけたので、直接問い合わせられぬ。(西湖の)孤山の梅はもう花をつけただろうか。彼の地で中国人が
「打倒帝国主義」と叫ぶのに反対しているのだろうか?
7.    志摩先生曰く:「私は人を褒めることはほとんどしない。だが西瀅のA.フランスに学ぶという文章について言えば、すでにして天津語で言うところの「根がしっかりある」学者で、なお且つ西瀅のこのような点は、私の見る所「学者」といわれるにふさわしい」(「晨報」1423号)
西瀅教授曰く:「中国の新文学運動は芽を出したばかりで、何らかの貢献をしたのは、胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟等々、
すべて外国文学を研究した人。「中でも折り紙つき」の志摩は思想面のみならず、文体でも、詩も散文も中国文学にこれまで無かった一種の風格を持っている。(「現代」63号)
 写すのも煩わしいが、中国には今「根のしっかりある」「学者」と「折り紙つきの」思想家と文人は、どうやらお互いに持ち上げあっているようだ。
8.       志摩先生曰く:「魯迅氏の作品はこういっては大変失礼だが、大して読んでいない。只「吶喊」の二三の小説と最近彼を中国のニーチェだと尊敬する人がほめる「熱風」を数ページのみ。彼のは平常、小品で、私はたとえ読んでも時間の無駄で、読み進めることもなく、読んでも判らない。(「晨副」1433号)
西瀅教授曰く:「魯迅氏は筆を取るやすぐ人を罪に陥れる。…
それで彼の作品は、読んだらすぐ放り込むべきところに放り込む。
――ありていに言えば、それはもうそこから出てくるべきではない――
それで手元には無い。(同上)
写すのも面倒だが、私はすでに中国の今「根のしっかりした」「学者」と
「折り紙つきの」思想家と文人の協力の下に踏みつぶされたようだ。
9.       だが私は「外国文学を研究したことのある」という栄誉を返上したい。
「周氏兄弟」の一人は私に違いない。私が何を研究したというのか。学生時代に何冊かの外国小説と文人の伝記は読んだ。そんなことで「外国文学を研究した」といえようか?
当該教授は――私が「官話」を使うのを許されよ――言った。私はある人が彼を「文士」と称するのを笑ったが、「某紙が連日」私のことを「思想界の権威者と鼓吹する」のを笑わなかった、と述べられた。
現在全く話は違う。笑うだけではすまされない、唾棄するのみ。
10. そうは言っても、自分が攻撃されれば報復し、褒められれば黙す、というのが人情の常。左頬に恋人のキスを受けて、何も言わずに黙っていたからと言って、それに倣って、右頬を敵に咬まれても黙っていろ、と誰が言えようか。
    私が今回、西瀅教授の称賛のおすそ分けの栄誉など要らないというのは、
   「ありていに言えば」実に止むにやまれぬからである。私の同郷出身者には、
   「法廷の書記」(論敵が紹興出身者を貶した言葉)が多いと言われたように、
   彼らは良く知っていて、相手を傷つけるときに、公正さを示すために、関係の無いところで、相手を褒めておくのが手だ。賞もあり罰もありで、第三者の目には公平無私なように見える…。
   「待て!」またしても「人を罪に陥れて」しまった。只、この点だけでも
「たとえ読んでも時間の無駄」あるいは「読んだらすぐ放るべき所に放りこむ」
   ことにさせるに十分だろう。       2月27日
訳者雑感:5番と7番は殆ど無関係のように読み終えてしまう。だがこの二つが、
セットになって魯迅のきっさき鋭いあいくちとなる。
志摩氏と西瀅教授の二人が互いに持ち上げているのは、自分のためにどれだけ利用
できるかどうかに関係している。
 その一方で、彼らの行為行動をみて概嘆だけにとどまらず、痛烈な罵りを繰り返
し、攻撃を止めぬ魯迅は、彼らにしてみれば目に見えぬところに追いやって消して
しまいたい対象に他ならない。
   2010/11/12

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 皇帝の話


中国人の鬼神に対するや、疫病神や火の神の如く凶悪な神にはおべっかを使い、土地神や竃神のように実直なのには、これを欺侮する。皇帝に対してもこれに似た気味がある。君民は、もとは同じ民族で、乱世には「勝てば王、負ければ賊」で、平時は一人が皇帝になり、他の者は平民になる:両者の間の思考には本来大した差は無い。だから、皇帝と大臣は「愚民政策」をとり、民は民で「愚君政策」を持っている。
 昔私の家に老下女がいた。彼女は自分の知っている、且また信じている皇帝への対処法を私に教えて呉れた。彼女の説では:
「皇帝はとても恐ろしく、龍の椅子に坐り、ちょっとでも気に食わないと、すぐ人を殺す。とても手に負えないから、食べ物もおろそかにはできない。食べ終わっても、すぐ又別のものを欲しがるが、おいそれとは探せない。例えば、冬に瓜を食べたいとか、秋に桃が食べたい、と。それが探せないと、すぐ怒って人を殺す。今は、一年中彼にホーレン草をあげるので、食べたいと言えば、すぐ出せるようになり、難しいことは無くなった。但し、もしホーレン草だと言うと、それが安物だと知って又怒りだす。だからみんなは彼に対しては、ホーレン草と言わず、別名の「紅嘴緑インコ」と呼ぶことにしている。
 我故郷では一年中ホーレン草がとれ根は赤くまさしくインコの嘴と同じ色。
 このように愚かな婦人から見てさえどうしようもない皇帝は、いなくてもよいようなものだが、実はそうとも言えない。彼女は必要だと考えていて、しかも彼には権力を傘に自由にさせてやらねばならない。その用途は、彼の力で自分より強い相手を鎮圧してもらいたいから。いつでも人を殺せるというのは絶対条件である。しかるに、もし自分が彼に仕えることになったら、どのように奉仕すればよいか?ちょっと危険を感じるので、彼を間抜けにして、年中辛抱強く「紅嘴緑インコ」を食べてもらうように躾ねばならない。
 しかし、彼の名と位を使って「天子を挟み諸侯に命ずる」のと、私の老下女の意味するところとやり方は同じで、一つは彼を弱くし、更には彼を愚かにするだけに過ぎない。儒家が「聖君」の力によって道を行うのもこのやり方で、
彼に依拠しようとするから、威厳があって重々しく、位も高くせねばならぬ。
又一方で操縦に便なように実直によく言う事を聞くように躾けねばならぬ。
 皇帝がひとたび自分の無上の権威を自覚したら、やりにくくて大変だ。
「普天の下、皇土に非ざるなし」となると、デタラメをやり始め、「自分が得たものゆえ、自分がそれを失っても何を恨むことあらんや」と言い出す始末。それで聖人の徒は彼に「紅嘴緑インコ」を食べてもらうしかない。これが即ち「天」
である。天子の行事はすべて天意をくみとって行うべきで、デタラメはできない。そしてこの「天意」なるものは、またどうしたわけか、只儒者たちだけの知るところという。
 かくして決まりは:皇帝になるには必ず彼らの教えを請わねばならない、ということになるのだ。
 しかるに分に安んじない皇帝がまたデタラメを始める。彼に「天」ではないかと問うと、答えて曰く「我が生は、命が天に在るのではないか」と。
但、天意を体しないばかりか逆天、背天、「射天」におよび、まったくもって、
国家を台無しにしてしまう。天を飯のタネにしてきた聖賢君子たちは、泣くにも泣けず、笑うにも笑えない。
 そこで彼らはひたすら本を著し、説を立て、彼を罵って、百年後には、即ち彼が死んだあとには、その説が大いに世に行われると予言し、自らこれは素晴らしいことだと思い込む。
 だがそれらの本の中に書いてあるのは、せいぜい「愚民政策」と「愚君政策」が、すべて成功しなかったということだけである。 217
 
訳者雑感:これは魯迅の痛烈なそしてコミカルな儒家批判である。儒家たちが、
皇帝をどのように使って、自分たちの飯のタネにしてきたか。辛亥革命により、
清朝皇帝は廃されたが、袁世凱を始め、次々に登場してきた男たちは、共和制はなじまぬとして、自分が皇帝になろうとした。彼らを皇帝にしようと考えたのは、とりもなおさず、飯のタネを失った儒家たちと、儒家色の濃厚な政治家、学者たち(中国では学者が政治的動きをし、政治家になる例も多い)であった。
 現実の軍閥政治家たちに容れられず、実権から追い出された儒家たちは、下野して故郷にもどり本を書く。それは孔子以来続いてきた、理想を古代の実存したと伝えられる「名君」に求め、自分の存命中はできぬだろうが、百年後には、古代のような理想郷が出現すると予言し、紙の上、机の上の論法で、自分をも欺くもので、それはまさに「愚民、愚君政策」の失敗を物語るのみである。
   2010/11/11

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