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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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半農の為に「何典」の序を書いた後に

23年前偶然光緒5年(1879)出版の「申報館書目続集」に「何典」の要約を見た。内容は下記:
『 「何典」十回(回章)、過路人 編、纏夾二先生評、太平客人 序。書中、
諸人を引用、活鬼あり、窮鬼あり、活死人なり、臭花娘あり、畔房小姐あり:
閲読したがとても面白い。その論述は三家村の俗語で:無から有を生じ、忙中閑を偸む。内容は鬼話:人物は鬼名:内容は鬼心を開き、鬼顔に扮し、鬼火を釣り、鬼戯を演じ、鬼棚を建てる。曰く:「何の典に出るか」今より後、人は俗語を文とするは、曰く:出所は「何典」のみ』
 いかにも風変わりなので、気に留めて探したが入手できず;古書店に詳しい常維鈞に託したが無い。今年(劉)半農が(北京の古書街)廠甸廟市で偶然見つけ、校点をつけ印刷すると知り喜んだ。その後彼は校正刷りを続々寄せて来、短い序を書けと言ってきた。私が出来るのはせいぜい短序くらいだと彼は知っていた。しかし私は躊躇してそんな才能は無いと思った。多くの事はその方面のプロがやるのが一番で、評点は汪原放だし、序は胡適之を推すし、出版は亜東図書館に頼むのが良い。劉半農、李小峰、私等はその任に非ず、と思ってきた。それなのに何行か書くことになった。何故か?ただ私が何か書こうと決めたからに過ぎぬ。
 始めようとする前に戦になり、砲声流言の中、落ち着いて執筆に取り掛かれず、そうこうしている内、ある文士が何とかいう新聞で半農を罵っているのを知り;「何典」の広告は高尚からほど遠く、大学教授もついにここまで堕落したか、と。それを見て頗る凄然な気持ちになり、別のことを思い出したのは「大学教授もここまで堕落したか」と考えたからだ。それからというもの、「何典」を見ると苦痛になり、一句も書けなくなった。
 確かに大学教授は堕落している。背の高いのも低いのも、白いのも黒も灰色も。ある者は所謂堕落に過ぎぬが、私はそれを困苦と呼ぶ。困苦と呼ぶ一端は身分を失ったことだ。以前<‘他媽的’を論ず>(相手をこっぴどく罵る言葉)を書いたとき、青年道徳家がやみくもに嘆いたこともあり、何をまた身分うんぬんか?となるが、やはり身分について書く。私は、仮面をかぶった紳士を「深く悪み、痛絶せんと思う」が、彼らは「学者ゴロ」の世家ではないという:所謂「正人君子」がとんでも無いと首を横に振るのを見ると、邪な連中と一緒にされたくないということだろう。偏見なしに言えば、大学教授が滑稽なものを書く、或いは甚だしく誇張した宣伝をするのは奇とするに足りない。たとえ口から出る言葉がすべて<他媽的>というような宣伝も奇とするに足りようか?だがここではうまく使っている。私は19世紀に生まれ、所謂「孤桐先生」と同じ部(省)で数年役人をした。官(役人)というのは―上等人―という気分はなかなか退かない。だから教授に最もふさわしいのは教壇に上ることと思っている。そしてそれには十分な給与がなければならぬ。兼任もやむを得ぬ。この主張は多分現在の教育界ではみな一致して賛成する望みが出てきたが、去年何とかいう公理の会で、兼任を攻撃する公理維持家が、今年も自らは何も言わずに内緒で兼任しているが、「大新聞」には一切出ないし、自らも勿論宣伝の必要もないと(黙している)。
 半農は独仏で音韻を何年も学び、私は彼の仏語の本は読めないが、そこには中国語混じりの高低の曲線が書かれているのを知るのみだが、要するに本になっている以上、だれか解る人がいるのだ。だから彼の正業はやはりこうした曲線を学生たちに教えることだと思う。しかし北京大学は(政府から支給が滞り)
まもなく繰り上げ休校となり:彼は兼任も無い。だから私がいかに上等人であろうとも、彼が本を売ることには反対できない。売ると決めたなら勿論たくさん売りたい。そのためには宣伝が必要。宣伝となると勿論、良い本だと言わねばならない。まさか自分が出す本の宣伝につまらないといい、諸氏に一読の値打ちも無いなどと言えようか?
 私の雑感を一読の価値も無いと宣伝したのは陳源だ。――ついでに自分の宣伝もすると、陳源が何を以て私の逆宣伝をしたのか?私の「華蓋集」を見ればすぐ明白となる。主な読者各位、見てください!早く!一冊六角大洋、北新書局発行です。
思い返せば20余年前、革命に従事した陶煥卿は窮した揚句、上海で会稽先生と
自称し催眠術を教えて口を糊していた。ある日彼が私に、何か一嗅ぎすればす
ぐ眠らせる薬は無いかと訊ねたことがある。彼の術があまり効き目のないので
薬に助けを求めているのが分かった。大衆の面前で催眠を試みるのは容易では
ない。彼の求めている妙薬を知らないので助けようが無かった。23ヶ月後新
聞に投書(或いは告示)が出、会稽先生は催眠術を知らないペテン師だと。清
朝政府はこうした手合いよりはしこくて、彼の逮捕状を出す時、対聯にして
『「中国権力史」を著し、日本催眠術を学ぶ』とした。
 「何典」がまもなく出版されるころ、短序の提出時期が迫った。
夜雨がしとしとと降っている。筆を執りふと麻縄を帯にした困窮せるを
思い出し、「何典」とまったく関係の無い思いにかられた。が、序文を書かねば
ならぬ。書くしかない、印刷に回すほかない。私は半農を(革命時に革命者を
呼んだ)「乱党」と比べたりはしない。――現在の中華民国は革命によってでき
たが、多くの中華民国国民はいまだに全てのあの当時の革命者を乱党とみなし
ているのは明らかだ。しかしこの時、従前を回想し、何名かの友達に思いが及
ぶと、自分はやはり無力だと感じるのみ。
 短序はなんとかできた。さまにはなっていないが、ともかく完了。私はこの
時に感じた別の気持ちを書いて発表し、以て「何典」の広告としよう。
 525日夜  東壁にぶつかりながら、記す。
 
訳者雑感:
 魯迅は日本から帰国して、故郷で教職に就いていたが、1912年南京臨時政府
成立し、教育総長になった蔡元培に招かれ、南京に赴いて教育部部員となった。
その後政府とともに北京に移り、教育部簽事という役に就任。これが彼の身分
と収入になった。それが本篇とその前に触れられる簽事を解任され、身分を失
った、を指す。その原因は彼が徹底的に批判を続けた教育総長章士釗に解任さ
れたためで、その後裁判所に訴え、勝訴して復職したが、翌年これまで書いて
きたもろもろの要件で、夏にアモイに去った。
 日本の文部省の役職についた文人が、その直属のトップを徹底的に批判する
という例はあまり見かけないし、中国でも稀かもしれない。しかし2千年の
歴史に書かれたものの中には、親子三代にわたって、「王が先の王を弑す」と
いう表現を、殺されても、殺されても書き続けたという。このあたりが民族的
にとてもかなわないな、と思う。
    2010/12/01
 

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