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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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7月2日 晴。

 午後、前門外で薬を買って、東単の(邦人経営の)東亜公司をのぞいた。日本の本もついでに少しおいてあるが、中国研究の本は大変な量になっている。所持金の関係で安岡秀夫の「小説から見た支那の民族性」1冊だけ買って帰った。薄い本で濃紅と黄色の装丁で12角。
 夕方灯下でそれを読む。引用された34種の小説には、小説ではないものと、一部を数種に分けたものもある。蚊が何回も刺す。12匹だが坐って居られなくて、蚊取り線香をたく。やっと落ち着いて読めるようになった。
 安岡氏はたいへん謙虚に緒言で言う:「こうしたことは只支那だけでなく、日本でも免れ難いことだ」が「度のはげしい事と範囲の広さから、支那の民族性だと誇張しても、憚ることは無い」という。支那人の私からみても、確かに背中に冷や汗が流れてくるのを止められぬ。目次は次の通りで一目瞭然だ。
1.総論 2.体面と体裁を気にしすぎ 3.運命に安んじ、諦めが早い 
4.忍耐強い 5.同情心に欠け、残忍性が強い 6.個人主義と事大主義
7.極端な節約と不正蓄財 8.虚礼にこだわり、虚文を尚とぶ。
9.迷信深い 10.享楽的で淫風が激しい。
 彼はSmithの「Chinese Characteristies」を信じているようで、常にこれを典拠に引く。これは彼らの所では20年前に「支那人の気質」として訳されたが:支那人の我々は注意してこなかった。第一章はSmithの言う「支那人は
とても芝居がかったしぐさをするのが好きな民族で、精神が昂揚してくると、
芝居じみて来て、一字一句、一挙手一投足がすべてそれらしき格好で、本心から出るものより、芝居の場面から取ったものの方が多い、と。これは体面を重んじるせいで、常々自分の体面が十分保たれているかを気にし、敢えてそのような言葉(せりふ)動作をすることになる。要するに支那人の重要な国民性が織りなす複合的な問題を解くカギは、この「体面」である、と。
 すこし周囲を見て内省すればこれが決して辛辣に過ぎることはないと判る。
劇場の舞台の有名な対聯として今に伝わる「劇場は小天地。天地は劇場」がそれだ。中国人はみな本来、目の前の一切のことは劇に過ぎないと考えており、
もしそれに真剣に向きあっているのがいたら、その男を愚か者だと思う。但しこれも、積極的に体面を保つためではなく、心に不平を持ちながら、報復する勇気に欠け、すべては一場の劇だとする発想から、それを了とするのだ。万事が劇なら、不平も本物の不平ではないから、報復におじけることもない。
もし路上で不平を見て、抜刀して助けることができずとも、そのために昔から保ってきた正人君子たる体面を失う事も無い。
 これまで会った外国人はSmithの影響なのか、自らの体験からか知らないが、中国人の所謂「体面」とか「面子」にたいへん注目して研究しているが、私が思うに、彼らはとうに心得を持っていて、応用もしており、更に深く掘り下げて習熟したら、外交で勝利を収めるだけでなく、上等の「支那人」の好感を得ようとするだろう。その際には、「支那人」という三文字を使わないで、「華人」
という言葉にすべきだろう。これも「華人」の体面に関わるからである。
 民国初年に北京に来たころ、郵便局の門の扁額に「郵政局」と書かれていたが、外人の中国の内政干渉の声が高まるにつれて、偶然かどうか知らぬが、数日後にはすべて「郵務局」に代わっていた。外国人が少し郵「務」を管理するといっても、実際は「内政」とは無関係なのだが、この(茶番)劇は今日まで続いている。
 これまで国粋者や道徳家の類の痛哭し涙流るという(大げさな)真心を信じたことはなかった。たとえ目じりから涙が横に流れても、彼のハンカチに唐がらし液か生姜汁がつけてないか調べるべきだ、と思っていた。国家の古物保存とか、道徳振興とか、公理維持とか、学風整頓とか…、彼らは心から本当にそう思っているのかどうか。芝居をしだしたら、舞台上での大見栄と、楽屋での顔とはどうしても違ってくる。だが、観客は芝居とは知りながら、うまく演じていれば、それを悲しんだり、喜んだりできるからその芝居を続けて行ける:
もし誰かが出て来てそれをあばいたりしたら、観客は却って興ざめとなる。
 中国人はかつてロシアの「虚無党」と聞くと、驚き恐れおののいたが、それはちょうど現在のいわゆる「赤化」と同じだった。だがそれは「党」ではなく、
「虚無主義者」あるいは「虚無思想家」というもので、ツルゲーネフが名を付け、神を信じず、宗教も信じず、一切の伝統と権威を否定し、自由意志で生きる人間に戻ろうと言い出したのである。このような人間は、中国人からみると、それだけでもう憎むべき存在である。しかし中国の一部の人、少なくとも上等人は、神、宗教、伝統的権威に対し「信」じて「従」っているかどうか?それとも「おそれ」ながら「利用」しているのではないか?彼らがうまく変化適応しているかどうか、を見ればよくわかる。なにも特別なことはしないし、なにも信じて従ったりしないが、いつも決まって内心とは異なる見栄を張るのだ。
もし虚無党をさがそうとするなら、中国人の中にも実にたくさんいる:ロシアと違うのは、彼らはこう思ったら、それを口に出して言うし、そのように行動するが、我々のは、そう思っても、別の違う事を言い、楽屋ではそうしながら、
舞台の上では別のことをする…。この種の特別な人物を「芝居をする虚無党」或いは「体面上の虚無党」と称して区別しよう。この形容詞とそれに続く名詞は、どう転んでもうまく結び付かないが。
 夜、品青(人名)に出状。孔徳学校から「閭邱辨囿」を借りて貰うよう頼む。
 夜半、もう寝ようと決めて今日の日めくりを破ると、赤い字が目に入った。
明日は土曜なのになぜ赤字かと思った。よく見ると小さな字で二行、「馬廠誓師再造共和記念」(天津の馬廠で師に誓って、最後の皇帝溥儀を担いで復辟を企てた張勛を倒して、共和制に戻った記念日)とある。
 明日国旗を掲揚すべきか否かちょっと考えた。…が何も考えたくもないから、
眠ることにした。
訳者雑感:
 海老蔵の件で日本のテレビは、菅首相の頼りない政権運営より視聴者の興味はこちらの方が上だと敏感に感じ取って、この1カ月近く、連日トップニュース。北朝鮮の砲撃から万一の際は、邦人救出に自衛隊派遣など、突拍子もないことを言い出す首相に殆ど興ざめの状態である。
 海老蔵は舞台の上での見栄を切れなくなるかもしれないなど心配までされ始めている。彼の場合も舞台の見栄と、楽屋、或いは深夜のクラブでの顔は、まったく別のものだし、それはそれで当たり前のことだが、深夜の顔がいかにも「人間離れ」してしまったようだ。
 私も京劇を楽しむようになって以来、中国のテレビには一日中こうした劇(京劇、昆劇、越劇などなど各地にある地方劇も含)を放送していることに感心した。そして、普通の背広姿で、胡弓や琴を演奏する楽団をバックに、化粧も隈どりもしないで、つぎから次へと出場者が有名な劇のさわりの部分を「唱」う
のを聞いて、さらに感心した。歌ってる人も真剣そのものだが、何百人或いは千人近い観客が、それに会わせて首を振りながら悦楽の極みに達しているのだ。
 日本でも歌舞伎や浄瑠璃のセリフを、絶好のタイミングで会話の中に入れる男などが、夏目漱石の小説などには登場してくるが、中国のようにメロディを伴っていないから、そう頻繁には引用されないようだ。というのも、現代の日本人は、芝居の名セリフを会話に引用するのを手あかがついたものだとしてためらったりする。或いは、会話の相手がそれを知らないかもしれないと危惧もする。ところが中国では、なにかというと昔の(今も演じられている)芝居のセリフをすぐ引用する。それは相手も当然知っているという前提に立っているし、それがそのセリフを引用した人の「上等さ」の印しでもあり、相手にもそれを求めてもいるからだ。だが、上述の通り、中国人の言動を大きく束縛もしており、中国人の発想の原点は、自分がこう言う、あるいはそうする、ということは、京劇の登場人物が、その時に類似した場面で、どう話し、行動したかを模範として、演じているような節をちょくちょく見かける。
 彼らの言動を律しているのは、長年培われてきた「劇」中の人物のモラルであり、自分がその人物に置き代わったら、観客からどのように評価されるだろうかを常に気にしながら生きているようだ。だから政治家も「表演」するのに長けており、日本の政治家はとてもとても足元にも及べない。
          2010/12/14

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