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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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もう一度

 去年「熱風」編集時、紳士たちの所謂「下心のない真面目な」気持ちから、相等削った。そのうち一篇は入れようと思ったが、原稿が見当たらず、欠落せざるを得なかった。今、出てきたので「熱風」再版時に入れて広告し、私のファンにもう一冊買ってもらうのも悪くないが、止めにした。それは実に面白くも無いからで、もう一度載せるより、この雑感第三集に入れて補遺としよう。
 これは章士釗氏に関するもので――
   「二個の桃が三人の読書人を殺した」についてである。
 
 章士釗氏は上海で彼の所謂「新文化」を評して、「二桃殺三士」(文語表現)
がいかに素晴らしく、「二個の桃が三人の読書人を殺した」など最低だと説き、新文化は「是亦やんぬるかな」と帰結した。
是亦やんぬるかな!「二桃殺三士」はよく見かける故事で、旧文化の本に出てくる。だが誰がこれを謀りしか?というと、相国斉晏子」となる。ならば我々は「晏子春秋」を見てみようではないか。
「晏子春秋」は今上海石印本があり、入手は容易。この古典はその本の巻二にある。大意は「公孫接田開疆古冶子(の三人が)景公に事へ、勇力は搏虎を以て聞こえ、晏子は過ぎ趨いしも、三子は起たず」それを晏老先生は無礼と思い、景公に彼らを除くよう説いた。その方法は景公から人をやって彼らに二個の桃を届けさせ、「お三方の攻労に照らして桃をお食べなされ」と告げさせた。
そこで一悶着となった:
 「公孫接は… (原典引用は省略:訳者、下に魯迅の要約あり、興味ある人は原典参照)
 
 書き写すのも面倒だが、要するに、二人は自分たちの功が古冶子に及ばぬと愧じて自殺。:古冶子も一人生き残るのを願わず、自殺。
そこで「二桃殺三士」と相なった次第。
この三士が旧文化の心得があったか堂かは知らぬが、「読書人」とは言えぬ。もし「梁父吟」が説くのも「二桃殺三士」と言うならもちろん了然とするが、
それは五言詩で、増字不能だから「二桃殺三士」とするほかない。それで、
章士釗氏を害し、「二個の桃が三人の読書人を殺した」と解させたものか?
 旧文化も実に難解で、古典も誠に覚えにくい。それゆえ、二個の旧い桃が祟るのも免れぬ:その当時、三人の読書人がそれで落命しただけでなく、今に至るも一人の読書人に醜態をさらけ出させた。「是亦やんぬるから!」
 去年「毎下愈況」(論敵がこれを引用間違いした)問題で、自ら公平と任じている青年から教訓を受けた。というのも、彼が私の「簽事」の役職を罷免したので、彼のことを特に辛辣に皮肉るのか、と。今ここで声明せねばならぬ:
それは19239月のことで、「晨報副刊」に載せたもの。当時の「晨報副刊」の編集はタゴール氏のお伴をした「詩哲」ではなく、まだ人を死に追いやる責任も無く、自分の使命を殺していたので、合間に私の如き俗人の文も載せたのだ:私の方も当時、その後に「孤桐先生」と称されるようになる人に微塵の恨みも持っていなかった。その「動機」は多分口語の流行を少し手伝ったというに過ぎぬ。
 こうした「禍は口から」の秋、自分を少し周到に弁護してみよう。或いはまた曰く、そもそも今回の補遺は「水に落ちた犬を打つ」の嫌いはあるが、「動機」が「不純」だというが、私は決してそうは思わない。勿論つい最前、士釗秘書長は帷幄の設立準備運動で、公に名を借りて私事を済ませ、学生を謀殺し、己と意見を異にする者を捕えた際、「正人君子」は時に相助け、容疑者の逃亡を譏しり笑って「孤桐先生」「孤桐先生」熱っぽく騒いでいたころと比べると、目下は誠に落寞の感を免れぬ。が、私の見るに彼はまだ決して水に落ちてはいないし、租界に「安住」しているに過ぎぬ。北京は従前通り、彼の子飼いの連中が牙をむき出し、爪をといでいる、彼と結託した新聞社が黒白を顚倒し、彼が作った女学校には風波が立ち、依然として彼の世界である。
「桃」の小さな打撃など、あに「水に落ちた犬を打て」と同日に語れようか?!
 何故か知らぬが、「孤桐先生」は「甲寅」で弁じ始め、これも小事に過ぎぬと
言う。それはその通りで小事に過ぎぬ。小さな間違いでどうして又傷つくのか?
たとえ晏子を知らずとも、斉国を知らずとも、中国に損は無い。農民は誰も「梁父吟」を知らないが、農業で救国もできる。ただ私は口語を攻撃する暴挙にでるのは、全くなんの必要もないと思う。口語で文語に代えるのは多少妥当でないとしても、小事に過ぎぬと思う。
 「孤桐先生」の門下に入ったことも無いし、卓上、寝台、床の上すべてがドイツ語の本という光栄を拝見したこともないが、偶然目にした彼の「文語」で彼は法律的に頼りにならぬこと、道徳習慣も一度できたら二度と変わらないということはない、ということがよく分かった。分かったことをその通り口にすると、改革者になる:分かっても言わないで、逆に人を欺瞞するのに使うと「孤桐先生」と「その流派」となる。彼の文語保護の骨子はこれに過ぎぬ。
 もし私の検査検証が正確なら、「孤桐先生」も<閑語>の所謂「一部の志士」
の通弊で「妻子」の為にお疲れのようだ。以後ドイツ語の「産児制限」の本を数冊お求めになるべきだろう。  524
 
訳者雑感:
 「水に落ちた犬を打て」というのは、日本人にはなかなか理解しがたいものがある。武士の情け、哀れな状態に陥った敵には手心を、というのが日本人。
刀を落とした敵に、それを拾う猶予を与えて、再び真剣勝負というのが美学。
ところが中国人の発想では、人に噛みつき、悪さをしてきた犬が水に落ちたら、
這い上がる前に、棒でびしびし叩き、這い上がれないまでに打ちのめせ、というのだ。もし犬が這い上がって来るまで猶予したら、今度は自分が咬まれ、大変な目にあう恐れが強い。
 日本の政治では首相が退任してから彼の在職中の悪事をさらけ出して、二度と立ち上がれなくするような例は稀だ。中国や台湾では、一旦トップの座を追われたら、次の政権からどんな酷い仕打ちを受けるか恐怖で戦々恐々となる。
 日本の首相たちが在職中にそれほどあこぎなことをしてこなかったというのも、根底のところにある。台湾の陳水篇、韓国の歴代大統領の多くは退任後に
自殺に追い込まれる例が多い。今回の北朝鮮の三代世襲も、もし第三者に政権を譲ったら、金家二代のすべてを完膚なきまでに否定破壊されるのを一番懼れているのだ、という見方が説得力を持つのも不思議なことだ。
 2010/11/29

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