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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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竃神(おくどさん)送りの漫談


 あちこちから爆竹の音が聞こえ、竃の神さんたちが次々に天に上り、玉皇大帝に銘々の家の悪口を告げに行くのを知る。だが、神さんは多分何も言わない。
もしそうでなかったら、中国人はきっと今よりもっと大変な目に遇っていることだろう。
 竃神の昇天する日、街では特別な飴が売られる。ミカンくらいの大きさで、私の故郷にもあるが、扁平で厚いオヤキのような形。名前は「膠牙餳」と言われる。(歯にくっ付く飴)竃神に食べさせて歯にくっつかせ、唇と舌をうまく使えなくさせ、玉帝に悪口を言えなくさせるのが始まりだ。我々中国人の気持ちの中の神鬼は、生身の人間より実直で、鬼神に対してこのような強硬手段を使うのだが、生身の人間に対しては、ごちそうで応対するしかない。
 今の君子は、ごちそうになること、特に宴席に招かれるのを避ける。それは当然で、怪しむに足りないし、確かに聞こえが悪い。只、北京の飯店はとても多く、料理屋もとても多い。すべてがハマグリを食べ、風月を談じ「酒が酣になり耳が熱くなって、歌を歌いだすのか?」そうとも限らない。確かに多くの「公論」はこうした所から広まるが、只公論と招待状の間に何も確とした痕跡は見つけ出せないから、議論は立派なものになる。しかし私の考えでは、やはり酒後の公論には情実があると思う。人は木石に非ず。理屈ばかりでは「情面」(人情味)に欠け、偏向が出る。従って酒席に本当の人の気息が現れる。ましてや中国は従来からずっと情面を重んじてきた。情面とは何か?
明代人は解釈して曰く:「情面とは情に面するの謂いなり」。彼が何を言いたいか知らぬが、言いたいことは判る。今の世は不偏不倚の公論が必要だというのは夢想に過ぎない。たとえ飯後の公論でも酒後の宏議(広く議論する)でも、
一応はこれを聞いてみて悪いと言う事は無い。しかしもしそれがどこでも通用する正しい公論だと思うのは間違いだ、―――がこれを単に公論家の罪にすることはできない。世の中に宴席への招待が流行し、それが一方で憚られるというのは、人に虚偽をさせることだが、それは夫々がその咎を分担すべきである。
 数年前のことだが、(第一次世界大戦で、対独参戦問題で黎総統と段が争い、
軍を動員して黎を退陣させた)「兵諫」の後、軍人階級が専ら(北洋軍の根拠地)
天津で会議を開くのを楽しんでいた時、ある青年が私に対して、:彼らのは、何が会議なものですか、酒席や賭博の卓で、ついでに少し話して、すぐ決めてしまうのはけしからん、と憤慨して訴えたことがあった。
彼は「公論は酒飯から生まれないという説」に騙されていて、永遠に憤慨していることになる。彼の理想の状態がどんなものかは知らない。多分2925年になったら現れるかもしれないが、ひょっとして3925年になるかもしれぬ。
 しかし酒飯を大事に思わない真面目な人も確かにいる。もしいなければ中国はもっと悪くなっていたことだろう。午後2時に始めた会議は、問題を討論し対策を検討、あれこれの議論が風雲を呼び、78時まで延々と続き、皆が端無くも不安焦燥を覚え、カンシャクが益々大きくなり、議論も益々紛糾する。
対策も益々渺茫となり、今日は討論が終わるまで閉会しないと言っていながら、ついには皆が大騒ぎしだして解散する。結果は無。これ即ち食事を軽視した報いで、67時の焦燥不安は、腹具合が発する本人と周りへの警告である。皆は食事と公理は無関係という妖言を誤信して一顧だにせず、腹が減っては演説にも精彩を欠き、宣言もドラフトさえできない状態で終る。
 しかし私は、問題が起きたら必ずナントカ太平湖飯店(魯迅の論敵の愛用した高級レストラン)や擷英番菜館などで大宴会を開けと言っているのではない:
私はそれらの店の出資者でもないし、彼らのために顧客を連れてゆくこともできぬし、皆もそんな金持ちでもないだろう。(と論客を風刺している)
 私が言いたいのは、議論と招宴は今もまだ関係があり:招宴が議論に対して今なお有益であるという事:これも人情の常であり、深く怪しむには足りぬ。
 ついでに熱心で真面目な青年に忠告するが、たとえ酒飯無しの会議でも、余り長くてはダメ。おそくなったら、オヤキか何かを買って来て食べてから又やること。そうすればペコペコで討論するよりずっと容易にまとめられる。
膠牙餳の強硬手段は竃神にあげる物ゆえ、私は構わないが、生身の人間に対しては良くない。もし生身の人間なら、酔わせて満腹にするのが一番で、彼はもう自ら口を開かないが、雁字搦めにしようとするわけではない。中国人は人間に対してとる手段は頗る高明で、鬼神に対して却って特別なものがある。
12月)23日の夜に、竃神を弄するのも一例で、奇怪なことだが、竃神は今なおどうも気づいていないようだ。
 道士たちの「三屍神」(道教でいう体内で祟る神で、庚申に昇天し天帝にその人間の罪を告げる:出版社注)に対するや、すさまじいものがある。私は道士になったことは無いから詳細は知らぬが、話では道士たちは、人間の体には三屍神がいて、ある日、熟睡に乗じて、密かに昇天し、当人の罪状を奏上する由。
 これ実に人体中の悪玉で、「封神伝演義」にたびたび出てくる「三屍神が大暴れし、七つの穴から煙を生ず」の神、即ちこれ也。だが、それを防ぐのは難しくない。彼が昇天する日は決まっているので、その日一日眠らずに、乗ずる隙を与えなければ、罪状は腹に押し込められたまま来年の機会を待つしか無い。
膠牙餳すら食べられず、竃神より不幸で、同情に値する。
 三屍神が昇天せず、罪状は腹の中で、竃神も歯が飴でくっつき、玉皇大帝の前ではもぐもぐするだけで降りてくる。玉皇大帝は下界の状況は何も判らない。
何も知らない。それで我々は今年も旧年と同じように天下太平に過せる。
 我々中国人の鬼神に対するや、かくも素晴らしい手法を編み出した。
 我々中国人は鬼神を敬い信じているが:鬼神を人より間抜けとみなしていて、特別な手段を講じて、それらに対処する。
人に対しては当然異なる。だが、やはり特別な方法で対処するのだが、只、そうだとは決して口外しない:もし口にしたら、彼を軽く見ていたと、言いふらされてしまう。自分ではよくやったと思ったことが却って浅薄さを暴露することになってしまうのだ。   
                25日 (本文のは陰暦の行事)
 
訳者雑感:日本では、大晦日に神棚に餅やお神酒を供えるのと同じように竃にも1年のお礼として、来年もよろしく頼みますという気持ちで、お供えする。中国人のように歯にくっ付く飴で云々というような発想は無い。中国からもたらされた当時は、多分中国人の感覚とか発想に依拠しながら、同じような趣旨でお供えしていたのだろうが、百年もすると日本的に変化してしまう。
 それは鬼神に対してであって、人間に対しては中国人の編み出したものを、上手く使いこなしたようだ。或いは、中国からもたらされる前から、自家薬籠中のものにしていたことだろう。
 人に悪口を言わせない、あるいは自分の意見に同意してもらうためには、酒を飲ませ、おいしいもので満腹にさせることが、最短のようだ。
 だが、それをあからさまに口外しては、招かれた方がいい気がしない。あいつは酒と飯で味方にできる。事実はそうであっても、それをいっちゃあおしめえよ。人間社会はあうんの呼吸で、成りたっている。

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比喩ひとつ

 私の故郷では余り羊を食べないから、市内で一日数頭しか山羊を殺さない。北京は正に人口も多く状況はまるで違う。羊肉だけを売る店もたくさん目にする。(回教徒が多いため豚と一緒に売れないし、生きたまま店で屠殺するからと訳者は思うが)真っ白い羊の群れが街中の通りをしばしば道いっぱいに歩いて通るが、全て胡羊で我故郷では綿羊と呼ぶ。
 山羊はなかなか見かけない。北京ではとても名が貴く、胡羊より賢く群れを率い、歩を止めさせることもできる。だから牧畜家も数匹飼ってはいるが、胡羊のリーダーとして飼うのであって、殺したりはしない。
 そういう山羊を一回だけ見たことがある。一群の羊の前を歩き、首に鈴をかけ、知識階級の徽章のようだ。通常、先頭は大抵牧人で、羊はじゅじゅつなぎに連なって、つぎからつぎへと柔和で従順な目をして、彼の後をぞろぞろ進む。私はこういう真面目にピタッとついて進む羊たちを見て、心の中で愚にもつかぬことを羊たちに問いかけたい衝動にかられた。
 「君たち どこへ行くんだい?」
 人の群れにもこのような山羊が結構いて、群衆を率いて、平静穏便に群衆が向かうべき所まで連れてゆく。袁世凱はこの辺のことを少しは心得ていたが、上手にこなせなかった。多分彼は本を読まなかったせいか、こうした奥妙な秘訣を熟知運用することができなかった。彼以後の軍人たちはそれに輪をかけたように愚かで、自分で乱打乱割(国を割って軍閥統治したこと)に明け暮れ、乱の果てに哀号の声が国中に響き、民を残虐に扱うだけにとどまらず、学問を軽視し、教育を荒廃させたという悪名を残す結果となった。
 だが「一事を経ると一智に長じる」で、20世紀も四分の一過ぎ、首に鈴をかけた賢人は、きっと幸運にめぐり合えるだろう、といっても今現在は表面的な小さな挫折は免れないが。
 その時が来たら、人々は、特に青年はみな敷かれた軌道に沿って、騒いだりせず、動揺もせず、一心に「正道」を歩み前進するに違いない、もし誰も
 「君たち どこへ行くんだい?」と尋ねなければ。
 
 君子は言うかもしれない「羊は羊、数珠つなぎで従順に歩かなければ、他にどんな方法があるのか?
豚を見てごらん。ひっぱっても逃げようとし、わめき猪突し、終には捕まって行かねばならぬ所へ連れてかれる。その前に暴れもがいたって無駄なことよ」と。
 これは:どうせ死ぬなら羊の如くに死ぬべきで、それで天下太平、互いに省力と言う事。
このスキームはもちろん大変立派で感心もするが、イノシシを見たまえ。二本の牙で狩りの名手すらも退避させる。この牙は豚小屋を脱出して山野に入りさえすれば、暫くすると生えてくるのだ。
 Schopenhauerはかつて紳士をヤマアラシに譬えた。私はそれはいささか体裁が悪いと思ったが、彼には何の悪意もなく、単なる比喩として使ったに過ぎぬ。
 
「Parerga und Paralipomena」にこんな面白い話がある:
 ヤマアラシの群れが冬に互いの体温で防寒しようとピッタリ集まったが、トゲがとても痛いので
離れてしまった。しかしどうにも寒いので皆が寄り集まったが、やはり痛い。
この二つの苦難の中から、終に互いの適宜な間隔を発見した。その間隔を保つことで一番平穏に過ごせた。
 人は社交の必要から一ヶ所に集まり、夫々が互いの嫌な性質と耐えられぬ欠陥のため、再び離れさせる。
彼らは最後に発見した間隔――彼らが一ヶ所に集まっても程良い間隔が即ち「礼譲」と「上流の風習」である。この間隔を守らぬと英国では「Keep your distance!」と注意する。
 だがたとえ注意しても、多分ヤマアラシとヤマアラシの間だけに有効で、
彼らがこの間隔を守るのは痛いからであって、そう注意されたからではない。例えばヤマアラシの
間に別のものを挟んだら、トゲは痛くないからどんなに注意しても、体を寄せ合うだろう。
孔子は:礼は庶人に下らずと説いた。(礼は庶民には適用されない)
今日の状況に照らすと、庶人はヤマアラシ(紳士の意)に近づくわけにはいかぬ。
ヤマアラシは任意に庶人を刺して、暖をとることができるから。それで傷を受けることに
なるのは当然だが、それは自分だけがトゲの無いことを怨む他ない。相手に適当な間隔を
守らせられないのだから。
 孔子はまたこうも説く:「刑は大夫に上せず」。どうりで人は紳士になりたがる訳だ。
(刑罰は上流階級には適用されない)
 このヤマアラシたちには、勿論牙や角あるいは棍棒で防御はできるが、ヤマアラシらの
社会で決められた「下流」または「無礼」という罪名は必ず背負わされる。
              1月25日
 
訳者雑感:
上海やその周辺で羊専門の店を見つけるのは難しい。だが北京には「東来順」という王府井の有名な羊のしゃぶしゃぶ専門店がある。それ以外にも市内の至る所で、「回民」という看板をかけた「羊肉」を専らとする料理店がある。顔付きは漢族と同じでまったく見分けがつかぬほど同化した回民。それに漢族でも回教に帰依している人口がとても多いという。清真寺と呼ばれる回教寺院が、仏教の寺の格好とあまり変わらない雰囲気で立っている。
 
1925年当時の北京の街路を山羊に引率されて数珠つなぎに歩んで行く食用羊。それを見た魯迅の連想は、袁世凱とその後の軍閥による出鱈目な陣盗り合戦。軍閥の下で身にヤマアラシのようなトゲをつけた紳士たちが、庶民を残虐に扱い、血税を吸い上げる。
その軍閥政府から睨まれて、筆で書くより、足で逃げ回るのに忙しかった魯迅は、外国の病院などに退避したが、とうとう北京にはいられなくなって、アモイに去る。そんな時代背景を思い浮かべながら、この比喩を読む。「礼」も「刑」も儒教の説くものは紳士たちの統治のために都合よくできているのであって、庶民とは無関係なものだということが実感できる。     2010/11/02訳

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古書と口語文


口語文を提唱したとき、誹謗中傷をたくさん受けたが、口語文がやっと定着し始めた時、一部の人たちは言い方を改め:古書を読まねば口語文も上手くは書けない、と言い出した。これらの古文保存家の苦心も理解しなければならないが、彼らの祖伝の方法を憐憫せずにはいられない。少しでも古書を読んだ人なら、この種の老練な手法を会得している: 新しい思想は「異端」であり、
殲滅すべきで、それが獅子奮闘の結果、自分の力で確固として立ち始めたら、それは元来「聖教と同源」だとする。外来の事物はすべて「夷を用いて夏(中華)に変ず」であり、まず初めは必ず排除すべしだが、「夷」が入って来て中華の主となれば、考えを訂正して、元来この「夷」もやはり黄帝の子孫だったとする。(清朝も元来夷だったが、中華の主になったことを指す)
まさしくこれは思いもよらぬ事ではないか。何事であれ、我々の「古」の中に、
包含しなかったものは無いのである!
 古い手を使っていては、長足の進歩は望めず、やはり「数百巻の書を読」まなければ、良い口語文は書けないと言い、無理やり呉稚暉先生を例に担ぎだす。しかし又「ゾクゾクするような事にも興味を示す」し、話しも興が尽きないとする。天下の事は実に奇怪千万だが、呉先生の「話している言葉を文にする」ということを引用するが、その「容姿」をどうして「青二才の作品と同じだ」などと言えよう。「筆の赴くに従い、千言万語」を吐くのである。
そこには当然、「青二才」の知らぬところの古典あり、また若造の知らぬ新典もある。清、光緒末に私が初めて日本の東京に着いた時、呉稚暉先生はすでに蔡鈞公使と大論戦中で、その戦史はとても長く、見聞の広さは勿論、今の青二才の及ぶところではない。従って彼の遣辞と典故の妙は、多くの所で大小の故事に習熟したもののみが理解できることで、青年が見たらその文辞の澎湃(ほうはい:湧き出でる)さに驚嘆することだろう。
この点が名士や学者の思っている所謂長所だろうが、その神髄はここにはない。名士や学者たちがお世辞を並べ褒めそやしているのと丁度反対のところ、そして自分ではわざわざ優れていると顕示したりしないが、名士や学者たちの所謂優れていると思っているところも、無くしてしまうことはできない。その説くところ、書くところは、改革の道筋への橋となるのだが、或いは改革の道筋への橋となろうなどと考えていないかもしれない。
つまらなくて人気の落ちた役者は、何とかより長く舞台生活を続け、不朽の名優になろうと必死になってブロマイドをたくさん配って人気挽回に腐心し、虚栄をはるのが上手くなる。無意識のうちに自分のつまらなさを自覚し、それでまだ朽ち果てていない「古」を一口咬んで、その腸の中の寄生虫になって、後世に残ろうとする。或いは口語文の中に少しでも古い気を見つけ出して、逆に骨董に代わって寵栄(ちょうえい:寵を得て栄える)を増そうとする。
もし「不朽の大業」(文章を書くこと)もこの程度なら、余りにも哀れではなかろうか。しかも2929年になっても「青二才」たちに「甲寅」流の本を読ませようと考えているなら、余りに悲惨なことではないか。たとえそれが「孤桐先生の下野後、… 徐徐に生気が出てきた」としても。
古書をけなすには、古書を読んだ者でなければならないというのは本当だ。その弊害を熟知洞察しており、「子の矛で、子の盾を攻めよ」、まさしくアヘンの害を説くにはアヘンを吸ったことの有る者が、そのことを深く痛切に感じているのと同じである。だがしかし、たとえ「若造」でもアヘン禁止の文を書くのに、まず数百両(重さの単位)のアヘンを吸ってからでなくてはならないとまでは言わない。
古文はもう死んだ。人類は進化しているが、口語文はまだ改革の途上にある。 それゆえ、文章は必ずしも万古不滅の典例規則だけに頼る必要は無い。アメリカの某所では、進化論を禁じたそうだが、実際にはきっとそれは効力が無く、進化は止められないだろう。    125
 
訳者雑感:魯迅の比喩の巧みさに驚嘆する。訳していて初めのころは何を意図しているか、難解で投げ出したくなるときがしばしばである。しかし、かれの比喩に遭遇して、ああそうだったのか、と合点がゆくことがある。
古文保存を主張する名士学者を、つまらなくて人気の落ちた役者に譬え、なんとか生き残ろうとしてブロマイドを沢山配って、最後の悪あがき。果てには
寄生虫となって腸の中で生き残ろうとする。
 1925年ごろ、米国でキリスト教信仰の関係で「進化論」を禁じたことなどを
彼の論敵たちが引用しているのも逆手に使っている。
 新中国になって古い漢字は簡体字になったが、改革開放で富を蓄えた大都市の繁華街の「金看板」(金で屋号の文字を飾ったもの)には、昔の繁体字が復活してきた。腸の中で嵐が過ぎ去るのを凌いだ寄生虫が、体外に出てきたようだ。
   2010/10/30

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面白い話 2.


 だが事はそんな単純ではない。中国の悪人(水準以下の文人と無頼な学者や学匪、論敵が魯迅を罵った言葉:出版社注)は、将来大変な苦しみに遇い、死後は地獄に落ちるようで、ここはひとつ深謀遠慮し、今後注意して余計なことは言わぬ方が安全だ。「閑話先生」は、閑事に口出しはしないというが、決してそうとは限らぬだろう。彼はきっと「頭角を現してきた人の鋭気が抜け切ったころに、従容として彼の‘The Finishing touch’で、仕上げにかかり、ふふふと笑いながら、鉄の棒から磨き上げた刺繍針で、そんな性急なやり方ではダメだ、何とバカなことをするものよと詰り、その逆に、「たゆまぬ忍耐こそが天才たる唯一の証拠」と言う。(晨報副刊 1423号)
 後者は前者に勝るとは、世の常だが、堕落した民族には当てはまらない。衣服で譬えれば、裸から下帯、前垂れをつけ、その上に衣冠をつけるのが順序である。我我の将来の天才は特異で、人が前垂れをして激しく踊っている時に、彼は刺繍の仕事場で、刺繍して――ではなく、針を磨き、人の前垂れが破れた時、彼は花の刺繍のシャツを着て登場する。皆は、「おおー」と驚き、哀れで性急な野蛮人は、前垂れを替えることも知らず、鋭気も抜けてしまう。抜けるのはやむないとして、ふふふと笑う風刺の天才は、遠い将来のこととは言え、その魂を鞭打とうとする叱咤の顔である。
 更に恐ろしいのは、例の2025年に陶孟和教授が発表するというもので、内容については、百年後、我が曾孫、玄孫のみが知るべしだが、幸い「現代評論増刊」に一部が発表されたので、管から覗き見ることで、この新書の概略は判る。「現代教育界の特色」について、教員の「兼任」の多さに触れている。
彼は「私の論は悲観的過ぎ、酷薄で、でたらめだろうか?私はこの批評を事実でもって証明されるなら、それを受けとめたい」と述べている。
 批評は百年後に待つとしよう。その頃は事実が果たしてどうなっているか、知りようもないが。典籍は多分「ふふふと笑う」人の佳作だけが残るだろう。もし本当にそうなら、大半は「英雄の見る所と略同じで」後人はきっと酷薄とは言わぬであろう。推測は困難だが、今これを論じるなら、どうやら「孔子が<春秋>を作ったとき、乱臣や賊どもがとても懼れた」のと大変似ている。人々はこのような盛事に逢わなかったが、蓋しもう既に2,400年云々してきた。 
 要するに百年以内に、陳源教授の本が沢山出版され、百年以後に陶孟和教授の本が1冊出る。内容は知らぬが、現在漏れ来るところから見ると、多分あの
「頭角を現してきた人たち」または「北京中を(兼職で)駆け巡る」教授たちを風刺するものであろう。
 私はいつもインド小乗仏教の教えは何とすごいものか、と感嘆するのだが:
地獄説を作り、和尚から尼、念仏を唱える老婆の口を借りて宣教し、異端者を
恐懼させ、信心の薄い者をこわがらせる。その秘訣は、因果応報は目前にあるのではなく、百年後か、少なくとも鋭気の失せたころという点だ。この時、人はもう身動きもできず、人の言うがまま、鬼涙を流し、生きていた時に頭角を妄出したことを深く悔やみ、しかもこの時になって初めて閻魔大王の尊厳と偉大を悟る。
 こうした信仰は迷信だが、神道の教えるところは、世道を立て直し、人心を正すことにあり、御利益がある。ましてや、生前には悪人を豺虎に投与できなかったし、只、死後にやっと口と筆だけでこれを誅して伐したに過ぎず、孔子が2頭立て馬車で諸国を遊説し疲れ果てて戻ってきて、鋼筆で<春秋>を書いたのも、蓋し亦、この志なり。
 だが時代は変遷し、今になると、私はこの古い手法は、すごく気まじめな人たちだけを騙すことができるのだと思う。この手を使う人も、自分では必ずしも信じていない。況や所謂悪人をや。悪を為した人は、報いを受けるが、平常なんら特に奇妙なことにはならないし、時には婉曲な言い回しで、しばらくは遠慮している。なんでまた、地獄行きを免れようなどと思うものか。これは考えてもしょうがない。従容としていられない我々の世で、大仰なものを担ぎ出して偉そうな顔のエセ紳士のやり方でなく、やるなるすぐやる、来年の酒より今すぐ飲む水の方が大事であり、21世紀の死体解剖を待つのは、いますぐビンタを食らわすに如かず。将来、後人たちが立ちあがったのなら、今の人は決してその時に所謂古人の生きていたような社会ではないのである。もし、やっぱり相も変わらず今のような社会なら、中国はおしまいだ。   
114日 2010/10/28
 訳者雑感:これは極めて難解な雑文である。
房向東著 罵人与被罵 と副題のついた「魯迅生前身後」(青島出版社)に触れられているが、魯迅は生前、すさまじい数の「罵文」を書いた。そしてそれと同じかそれ以上の「罵られた文」を彼自身が読んで「こやし」にした。その
「こやし」が魯迅の雑文を育てたのだろう。
仏教の地獄説話を借りて、1925年前後の所謂「保守主義者、国粋家」たちが
新しい考えで、中国を改革しようとして「頭角を現してきた」人たちを、潰しにかかっている。これはそんな動きをする名流たちへの罵文である。
 
 
 

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面白い話 1

 北京は大きな砂漠のようだと言われるが、若者たちは集まって来るし、老人も去らない。一度他所へ行っても暫くすると戻って来る。どうも北京に未練があるようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まさに感極って発するのであって、
彼はやはり生きており、釈迦の思想を祖述した哲人ショーペンハウエルも、何とか病を治す薬をこっそり飲むことから免れず、「涅槃」にはいることを、そう軽々には肯定しなかったであろう。(彼は死後梅毒治療薬を飲んでいたということが発見されたことを指す:出版社注)
 俗諺に「良き死は、悪しき生に如かず」という。これはもちろん俗人の俗見だが、文人学者流もそうでないとは言えぬ。只違うのは、彼は、常に辞厳義正(厳格な文で義も正しい)軍旗を掲げ、更に又、辞厳義正な逃げ道を準備していることだ。本当だ。もしそうでないと、人生はとてもつまらなくなり、話しにも何にもならなくなってしまう。
 北京は毎日物価が上がり、私の「区区たる事務官の職」も「妄な主張」のために、章士釗先生に免職されてしまった。これまでの遭遇は、アンドレーエフの言葉を借りれば、「花なきところ、詩はあらず」で、ただ物価高騰あるのみ。
 「妄な主張」は元へ戻すことはできないし、もし「晨報副刊」で称賛された「閑話先生」の家に出てくるような妹がいて、「兄さん!」と呼ぶ声が「銀鈴が幽谷に響く如く」に「もう罪作りな文章は書かないで!」と言ったら、私も多分それを機に、馬を返し、別荘に引きこもり、漢代の人が書いたという「四書」注疏と理論の研究に没頭するとしよう。だが残念ながら、このような妹はいないし、「姉の憚媛は云々…, 羽之野に死す」(「離騒」の中の文章、中略)というような凶姉を持つ屈原のような福もない。
 私が「妄な主張」をしたのは、きっと他のことにかこつけて言う事ができなかったためだ。しかしこれは軽視してはいけない。将来きっと災難に見舞われる恐れがある。人をやっつけたら、報いがあるということを知っているから。
 お釈迦様の教訓に話を戻すと、世の中に生きているのは、地獄に落ちる安穏さには及ばないそうだ。人として事を為すのは動くこと(=罪作りなこと)で、
地獄に落ちるのはその「報い」であり、生活することが地獄に落ちる原因だが、地獄に落ちるのは地獄から抜け出す起点であるからだ、という。こう説くと、実に人をして和尚になりたくさせるが、それは勿論「有根」(これは天津語だそうだが)の大人物に限るというが、私は余りこの種の鬼画符を信じない。
 砂漠のような北京に住んでいるのはとても無味乾燥だが、偶には世の中の出来事を見ることが出来、物価高騰以外に、多種多様な芸術創造、流言製造、ゾクッとするのや、面白いのなど何でもありで、これが多分北京の北京たる由縁で、人々が大勢集まって来る由縁だが、惜しいかな、いずれもわずかばかりの手慰みで、実のある友人が私の為に、「辞厳義正」の軍旗を立てるまでになるのは難しいという点だ。
 私はこれまで地獄行きのことは、死んでから考えればよいと思ってきたが、目の前の生活が余りにも無味乾燥なのが怖くなって、時に人を傷つけたりした。又小さな冗談の種を探してきては笑ったりしたが、これも人を傷つけただろう。人を傷つけたら勿論報いを受けるから、その為の準備が必要で、小さな冗談を探してきて笑っていては、辞厳義正の軍旗を掲げられないし、ここには国家の大事というべき話も無いが、「(山海)関外の戦争がまもなく起こる」とか「国軍は一致団結して段(祺瑞)を擁護せよ」とか、某新聞は1号活字でデカデカと刷って、読者の頭をクラクラさせたが、私には何の興味も無い。人間の視界の狭さは、薬では治せない。近頃面白いと思ったのは、ドイツにいた時、素手で泥棒と格闘して名を馳せた人が、北京で三河県の家政婦大隊を率いたつわものの劉百昭校長が、なんと駢儷文で大いに武を偃し、文を修めよと檄したこと。
なお且つ「百昭海邦に学を求め、教部備員、多芸の誉愧は人に如かず、審美の感情は些か自信あり」云々と。これはやはり文武両全の御仁で、これまで実に思いもよらなかったことである。(北京の家政婦は多く三河県からと出版社注)
 第2は、去年は閑事に口出ししていた「学者」が、今年からもう止めると言い出したこと。年末に大福帳を閉めるやり方は、番頭がかけ売りを勘定するためだけでなく、「正人君子」の行為にも適用可能ということらしい。或いはまた
「お兄さん!」と呼ぶ声が、中華民国141231日の夜12時に響いたのかもしれない。
 だがこんな話も刹那の間に消えさり、私自身の考えも変わるのも恨めしい。境遇によって思想や言行は自然と遷移するものだが、それにはそれなりの道理があってしかるべきだ。況や世には沢山の国慶があり、古今内外の名流もたいへん多く、彼らの軍旗はすでに掲げられている。前人の勤勉は後人の楽で、事を為そうとすれば、孔子、墨子を援引できるし、何も為さぬ時は老子を引く。殺されたければ、私は関龍逢だし、殺したくなれば相手は少正卯で、(二人は古代の中国の歴史上の人物で王に殺されたり殺したい相手の代名詞:出版社注)力がある時はダーウイン、ハックスレーを読み、人の助けが欲しくなれば、クロパトキンの「互助論」がある。ブロウニン夫妻は恋愛の模範ではないか。ショーぺンハウエルとニーチェは女性呪詛の名人…、つまるところは、もし楊蔭楡或いは章士釗をユダヤ人ドレフェスに無理やりにでも比すとするなら、彼らの取り巻きたちはゾラらに等しい。このごろ、可哀そうなゾラは、中国人に知られてきたが、そのおかげで、楊蔭楡或いは章士釗がドレフェスに等しいか否かについては大きな疑問符がつく。 
 

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 おせっかい、その2 学問、灰色等について

2.
 昨日の午後、沙灘(北京大学のある所)から帰宅したら、大琦君の来訪を知って、大変うれしかった。彼は入院したと思っていたが、そうでないと分かったからだ。更にうれしいことに、彼が「現代評論増刊」を呉れたことで、表紙に描かれた細長い蝋燭を見ただけで、これは光明の象だと分かった。況や、中の有名な学者の著作、そしてまた陳源教授の「学問の為の工具」があったから。
 これは正論で、少なくとも「閑事」(お節介)に勝る。少なくとも私はそう思う。なぜなら私に多くのことを(考えさせて)呉れたから。
 今分かったのだが、南池子(紫禁城の隣)の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で貸し出しが37倍」になったが、彼の「家翰笙」(同じ陳姓ゆえ、
家と付けてい、陳翰笙を指す:出版社注)は「平素、香を焚かぬ者も、臨時に仏脚を抱く」という十文字で、現今の学術界の大方の状況」を表現した。
 これは私の多くの誤解を解いた。先述せるように、今や留学生は大変増えたが、私は彼らの殆どは外国で部屋を借り、扉を閉めて牛肉を煮込んで食べているものと疑ってきた。それも東京で私が実際に見てきたから。牛の煮込みは中国でも食べられるのに、なぜ遠い外国まで出かけるのか?外国は牧畜が盛んだし、寄生虫も少ないだろうが、煮込んでしまえば、寄生虫が多かろうと構わないだろうに。だから帰国した学者が、最初の2年間は洋服を着、その後は皮袍(中国服)を着て、頭をそらして歩くのを見て、彼は何年も牛肉を煮込んだ男で、どんな事があろうとも、「仏脚」を抱くことを肯んじないだろうと思ってきた。今、そうではないと判った。少なくとも「欧米留学帰国組」は決してそうではない。
 しかし、中国の図書館の本は少なすぎる。北京の30余の大学では国立私立を問わず、我々私人の本の数に及ばぬ由。この「我々」の中には「溥儀さんの師、
荘士敦先生」はじめ、多分「狐桐先生」即ち章士釗も入る。ドイツのベルリン滞在中、陳源教授は彼の2つの部屋は「殆ど全床、全架、全面、すべて社会主義関係のドイツ語の本で埋め尽くされていた」のを、自らの目で見たという。今ではもっと増えているに違いない。実に私を羨望かつ敬服させるものである。
私の留学時、官費は月36元で衣食代と学費を払った後は一銭も残らなかった。数年しても本は壁の一面すら一杯にならなかった。その本も雑書で専門の本ではなく、「全て社会主義関係のドイツ語の本」の類ではなかった。
 だが残念ながら、民衆がこの「狐桐先生」の「寒家」を再度壊しにかかったとき、「彼ら夫妻の蔵書は全て散失したそうだ」その時はきっと何十台もの車で
積み出したことだろうが、見ていないのでわからないがきっと壮観だったろう。
 だから「暴民」を「正人君子」が深く憎むのは理由のあるわけだ。即ち今回、
狐桐先生夫妻の蔵書の「散失」は中国の損失で、30余の国私大学図書館を壊すより重大だ。これに比べれば、劉百昭司長の家蔵せる公金8千元が失せたのは、
小さなことだが、我々が残念に思うのは、章士釗、劉百昭の所に、かくも多くの儲蔵が偏在していて、これらの儲蔵がすべて偸まれたということだ。
 私が幼いころ、世故にたけた先輩が私を戒めて、先行き見込みの無い荷や仕事を引き受けて、自分で自分を苦しめるんじゃないぞ、と教えて呉れた。相手は自分で転んでも、お前を逆恨みし、それにはっきり理由も説明できぬし、弁償することもできない、と。これは今なお私に影響を与え続けており、正月に「火神廟」(瑠璃廠のお宮)の縁日をぶらつく時、玉器の並んだ店には、決して近づかないようにしている。たとえ小さなものでも、不注意にぶつかって壊したら、すぐさまとても大変なお宝に変じて、一生かけても償いきれず、罪の重さは博物館の物を壊す以上になってしまう。
 これを押し広げてゆくと、あの騒ぎもたいして大きくならなかったし、あの時のデモで、「門歯を無くした」(デモの翌日「社会日報」に周樹人(北大教授)
は歯に傷を受け、門歯2本を無くしたという事実と符合せぬ記事のこと:出版社注)の流言もでたが、私は家にいて幸い恙がなかった。しかしあの二部屋の
「社会主義関係のドイツ語の本」及びその他の「狐桐先生」宅の物が陸続と散出せる壮観は、このために「終生みることがかなわなくなって」しまった。
これも実に「一利あれば必ず弊害もあり」で二つとも全きを得る法は無い。
 今洋書を収蔵する富は、私人では荘士敦先生が一番で、公団は「政治学会図書館」を推進しようとしているが、残念ながら一つは外国人で、もう一つは米国公使Reinshの提唱に依るものだ。「北京国立図書館」を拡張するのは、これ以上な事は無いが、やはり米国の(義和団事変の)賠償金返還頼みの由で、
年経費は3万元に過ぎず、月額2千元のみ。もし米国の賠償金返還を使っと言えども大変なことだ。第一、館長は中国と西洋、世界に名の知れた学者でなくてはならない。となると梁啓超先生しかいないが、西洋の学問には余り通じていないから、北大教授の李四光先生を副館長に配し、中外兼通の補完性を保つ必要がある。しかし二人の給与は月1千元余。従ってその後もたいした本は買えない。これも「利あれば弊あり」だが、ここまで考えて来て、「狐桐先生」が独力で購入せる数部屋分の良書が散失の厄に遭ったのが誠に悔やまれる。
 要するに、ここ数年良好な「学問のための工具」が手に入らず、学者が研究するにも、自分で買って読むしかないが、お金がない。「狐桐先生」がこの点に鑑みて、文章を発表されたが、下野されたのは残念也。学者たちはこれ以外にいかなる方法があろうか。もちろん彼らは「閑話」をしゃべる他、何もすることが無いようだ」北京の30余の大学も彼ら「私人の蔵書の多さ」に及ばない。どうしてだろうか?
学問するのも容易なことじゃない。「一つの小さなテーマでも、百十種の本を参考にせねばならぬ」「狐桐先生」の蔵書でも足りない。
陳源教授は一例として「四書」を引いて言う。「漢宋明清の多くの儒家の注疏
理論を研究せねば、「四書」の真の意義は掌握できない。冊数のすくない「四書」
すらも、もし仔細に研究しだしたら、数百数千の参考書を見なければならぬ」
 このことから「学問の道は大海のごとく広大であることがわかる。引用されている「四書」は私も読んだことがあるが、漢代の人が「四書」の注疏理論に就いて云々は聞いたことが無い。陳源教授の推奨される「あの風雅を提唱する
封藩大臣張之洞先生が「束髪の小生」たちのために書いた「書目問答」で述べているごとく、「四書」は南宋以後にできた書の名である。
 私はこれまで彼の話を信じてきたが、今後「漢書芸文志」「隋書経籍志」の類を調べても、只「五経」「六経」「七経」「六芸」があるのみで、「四書」は無い。
況や漢代の人が作った注疏と理論をや。しかし私が参考にしたのは一般書に過ぎないので、北京大学の図書館にはあるのだろうが、寡聞にして知らないが、そうだとしても「抱こう」としても「仏脚」すらも無いのだ。これで思うのは、
あの「仏脚を抱けた」人や「仏脚を抱くことを」肯んじる人は、確かに真の福なる人で、本当の学者だということである。彼の「家翰笙」が憤慨して言うのは,多分「春秋」は賢者を責む、の意だろう。
     完
 
 もう書く気が失せたからこれで終る。要するに「現代評論増刊」を概略読んだら、十人十色、正に広告の作者名蘭を見る如し。李仲揆教授の「生命の研究」
胡適教授の「訳詩三首」、徐志摩先生の訳詩一首、西林氏の[圧迫]、陶孟和教授の2025年になって全体を発表するという、我々の玄孫の時代に全部を拝読できる大著作の一部やら…があり、めくって行くとどうしたわけか、私の目にはいるものは灰色になってき、放り出してしまった。
 今の小学生は七色盤で遊んでいる。七種の色を円盤に塗り、止まっている時はきれいだが、回転すると灰色になる。本来は白だろうが、上手く塗らないと灰色になる。沢山の著名学者の大著の大雑誌は、奇妙な様相を呈しており、うまく回らない。もし回すと灰色になってしまう。これも正にその特色だろうが。
      192613
 
訳者雑感:
 北京の宝物や財産はこの書籍も含めて、義和団の変とか学生のデモ騒ぎ、軍閥の乱の際に、紫禁城を筆頭に、それぞれの邸宅からも「賊」によって持ち出された結果、どこかに散逸してしまった、と言われている。しかしその大部分は、紫禁城内で或る程度の権力と睨みをきかすことのできた有力者や宦官たちによって、密かにどこかへ持ち出されて、外国人に売り飛ばされたりした由。
ドイツ語の「社会主義関係の専門書」は「賊」に持ち出されたものか、或いは
持ち主がこのどさくさにまぎれて「どこかへ隠した」ものだろうか。何十台もの車(大八車か)を用意できるのは、それ相当の人間しかできまい。
   2010/10/21
 

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1926年 おせっかい

1.        
陳源教授は今年から閑事には関わらないと決めたそうだ。この宣言は「現代評論」56期の「閑話」にある由。私はこれを見てないので、詳細は知らない。
もし本当なら例の常套句で「残念ですね」というしかないし、また自分のいい加減さを訝る他ない。年齢もそんな年になって、新暦の除夜と元旦の境に、こんなに大きく変わることができる人がいようとは知らなかった。近頃私は年の瀬について神経が鈍くなっているようで、何も感じない。実は感じようとしても、それに耐えられないのだ。みんな五色の国旗を掲げ、大通りは彩坊が何軒かに飾られ、「普天同慶」(おめでとう)の4字が書かれて、年越しとなる。みんな門を閉め、門神を貼り、爆竹をパンパンと鳴らして年を越す。
もし、言行が年越しと共に変われるなら、年年変わり続けて止まらないのではなろうか。勢い、ぐるぐると回転することだろう。だから、神経が鈍いのは、落後者と言われそうだが、弊あれば必ず利ありで、小さな利点もあるだろう。
 だが、考えてみるにいくつか不明な点がある。
 世の中に余計なことがあるから、人はそれに関わる。今の世の中は、余計なことは無いように思う。人が関わるのは自分と関係があるからで、それは即ち、人類を愛することからきており、自分が人間であるからだ。もし、火星で張龍と趙虎がケンカしたことを知ったからと言って、大いに問題とし、酒宴を開き、
張龍支持とか趙虎否認とか言い出すのは、全く余計なお世話だ。しかし火星のできごとを知ることができ、少なくとも交信でき、もしくは将来交通も開けたら、彼らは我々の頭上でケンカをすることになろう。我々地球上でのことになると、どこであれ何事でも我々に関係してくる。それでも一向構わないというのは、それを知らないか、構うわけにはゆかないかで、それが「余計な事」だということではない。例えば、英国で劉千昭がアイルランドの老女を雇い、
ロンドンで女性を拉致しても、閑事のようだが、実はそうではないので、我々のいるところに影響してくることになるのだ。というのも留学生がどんどん増えているでしょう?もし何か適当な場があれば、きっと例として取り上げられることになろう。正に文学上でシェークスピアやセルバンテス、Reinschを引用するように。
 (間違いです。Reinschは米国の駐華公使で文学者ではない。どこかの文芸学術の論文で彼の名を見たので、不注意にも引用しました。訂正します。読者が諒とせられんことを願う。)
 動物でも我々と無関係ではいられない。ハエの脚にはコレラ菌、蚊の唾沫には2つの伝染病菌があり、誰の血液に入るか分からない。
 「隣の猫が子を産んだ」というのに関ずらわるというのは笑い話と思う人が多いが、実はほんとに自分に関係が出てくる。吾住居の中庭に4匹の猫がしょっちゅう鳴いているが、この奥さん方がまた4匹飼ったら、34月後には8匹の猫がいつもやって来てやかましく騒ぎ、今の倍うるさくなる。
 だから私は一種の偏見があり、世の中に所謂「閑事」はなく、そんな沢山のことにかまけているだけの精神力が無いから、少しのものだけに限定するのだ。
なぜか?自分に最も関係するもの、大は人類の為、同類、同志のため、小は同級生、親戚、同郷のため、少なくとも多分何かのお陰だと思っている、顕在意識では思っていなくても、実は了然としているが、故意に痴呆で知らないふりを装っているのだが。
 しかし、陳源教授は、去年は閑事に関わったとおっしゃる由。もし、私の上述のことが間違っていなければ、彼は実に超人だ。今年から世事を問わない由、それは大変残念なことだが、正しく「この人が出てこなければ、如蒼生何(物事は始まらない)」だ。幸いもうすぐ新暦の年越しだ。除夜の亥の刻が過ぎたら、また心機も一転することあるやもしれぬとの望みもある。
訳者雑感:陳源教授は、魯迅の雑文の中に何回も登場する。18961970年、「現代評論」派の主要メンバー。英国留学後、当時北京大学教授で、種種の問題で、魯迅の論敵だった。
 魯迅は「文章を書くのは自分を守るため」とも言っている。相手が間違っていると思ったら、それを雑文で批判する。禅宗の和尚の中には「不立文字」として、生涯一文も残さないものがいた。自分を守るに文章は不要だったのだろう。座禅を通じて瞑想し、考えたことを文字にする必要を感じなかった。
 それに比べて、魯迅はこの雑文で、除夜を境に「新年からは閑事に口をださない」ということができるだろうか、と陳源教授を真っ向から批判している。魯迅は座禅をして何かを「思い到ったら」それを自分の意見として書かずにはおれなかった。それだけ「世の中に閑事は無く、そんな沢山のことにかまけているだけの精神力が無いから、少しのことだけに限定する」というわけにはゆかない、できる限り沢山のことに関わろうとする人間への愛に満ちていたのだ。訳者などは、身近のことで精いっぱいで、他人の文章をおかしいと思っても、批判しても始まらないと諦めてしまっている場合が多い。人間への愛が淡泊なせいだろう。
 それにしても、魯迅が陳源教授を批判して、いい年の大人が、新年から「要らぬお節介はしない」とかを簡単にできるとは、超人に違いないとこき下ろしているのも面白い。
101日から「禁煙」を誓った超人は経済的要因が援護射撃してくれている。       2010/10/20
 

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華蓋集続編 はしがき

 丸1年もせぬに、雑感の量は去年1年分になってしまった。秋から海辺に住み、目に入るのは只雲と水。聞こえるのは風と波の音。殆ど社会と隔絶。環境が変わってなければ、多分今年もこんな無駄話を書かなかったろう。灯下に事もなし。旧稿を編集印刷し、吾雑感に興味のある主顧に供せんとす。
 ここで述べたのもやはり何も宇宙の奥義とか人生の真理などは無い。私の遭遇したこと、考えたこと、言いたいこと、それが浅薄であろうと、全て書きとめた。些かの誇りをこめて言うなら、悲喜それぞれを、歌い哭すように、その時はこれによって憤りを解き、情を抒したもので、今これを誰かと競って、所謂公理とか正義を争奪しようなどと、さらさら思わない。相手がそうなら、私は断じてこうする、ということはある:どうしてもその命に遵じないのとか、
決して頭を下げない、といのもある:荘厳で高尚な仮面を引っ剥がすのもある。
その他には、何もたいしたことは無い。名実ともに「雑感」のみだ。
 1月以来、大抵の物は入れた:只一篇のみ削った。それは多くの人に関係しているので、夫々の同意を得るのが容易でないから、勝手に発表できないためだ。
 書名は?年は改まったが、情勢は相変わらずで、やはり「華蓋集」とする。
しかし年月は改まったので、「続編」の2字を加える。
   19261014日 アモイにて 魯迅記す。
訳者雑感:
 北京にはいろいろなことで居られなくなって、8月末アモイに移る。林語堂の
紹介で、9月からアモイ大学で「文科国学系」の教授となる。それまでの雑文で
批判の矛先は主として「変革に反対する頑固な国学家」だったことと、彼がアモイで教えたのも国学であること。講義は「中国文学史」と「中国小説史」。
後に「中国小説史略」の名で出版されている。日本から帰国して以来、革命騒ぎの中で、黙々と書きうつしてきた「古文書」を整理し、古代からの小説とよぶことの可能な文学作品を、原典を載せながら彼の解釈を加えている。
 この「はしがき」の通りとすれば、社会と隔絶した環境で、只管これらの
原稿の準備に精魂こめていたと推測される。
 余談だが、その「小説史略」はすでにある日本人が書いたものを底本にしているなどと、批難されたりしたが、編集の方法などは参考にしたかもしれぬが、
彼の解釈、解説は彼でなければ書けないことだと思う。そしてその日本語訳を
出すために、増田渉が上海の魯迅を師と仰ぎ、一語一句これはどういう意味かと訊ねたのに対しての日本語での添削が残っているのが面白い。
 そして立派な装丁で日本語訳が出版された時、彼はたいそう喜んでもいる。
私の推測だが、これで、万一彼の自国語の出版物が「焚書」されても。訳本は残るので、安心したであろう。喪失してしまった漢籍が日本で発見された

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