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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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7月3日 晴。

とても暑い。午前中はぶらぶらとなにもせず、午後は横になっていた。
 夕食後、中庭で涼んでいて、ふと動物園を思い出し、夏はあそこがいいけど今は閉まっていて入れないねと言うと、女中の田さんがあそこの門番だった二人のノッポ君の話を始め、高い方は彼女の隣人で、今ではアメリカ人に雇われてアメリカに行ってしまったといい、月給は千元だと。
 これがヒントになった。以前「現代評論」で11種の好著を紹介していた。
楊振声先生の小説「玉君」もその一つだが、理由のひとつが「長い」ことだ。
私はこの理由についてしっくりこなかったのだが、73日すなわち「馬廠で
師を誓い、再び共和に戻った記念」日の夜になってやっと分かった。「長い」ことは確かに価値がある。「現代評論」が「学問理論と事実」を重視していることを自ら自慢しているのは、確かによくぞ言ったり、よくぞやったりである。
 今日私が寝るまで、どうやら誰も国旗を掲揚しない。夜半以降に掲揚されるかどうか、私は知らない。
74日 晴。
 朝またハエが顔を這いまわり目が覚めたが、追い払えず起床するしかない。
品青(人名)から返信あり、孔徳学校には「閭邱辨囿」は無い由。やはりあの「小説からみた支那の民族性」のせいかな。そこに中国の料理のことが出ていて、ちょっと調べてみたかったのだ。これまでこの方面に注意したこともないので、古い書物もただ「礼記」の所謂「八珍」、「酉陽雑俎」の御賜のメニュー、
袁枚名士の「随園食単」ていどしか知らない。元代に和斯輝の「飲饌正要」があるが、古書店で立ってぱらぱらみたが、多分元版だから買えなかった。唐代には楊煜の「膳夫経手録」があり、「閭邱辨囿」に収められているのだが、これが借りられないとなると、この件は諦めるしかない。
 近年、我が国の人と外国人がよく中国料理を褒めるのを耳にする。美味かつ栄養豊富で世界で一番。宇宙でもn番、という。だが、一体どんな料理を指すのか知らぬ。我が国の多くの所では、ネギとニンニクと雑穀の粉の面餅(おやき)をかじっているし、他の所では、酢と唐辛子と塩漬け野菜で飯を食い、もっと多くの人は岩塩を舐めるだけだし、更に多くの人はそれすら舐められない。
内外の人が美味、栄養豊富で一番、n番というのは、勿論こんなものではない。
金持ち、上等人の食べる料理のことに違いない。しかし彼らがこんな風に食べるからといって、中国料理が一番だということはできないと思う。それはちょうど、去年23人の「高等華人」が出たからといっても、他の人たちはやはり
「下等」だということと同じである。
 安岡氏の中国料理論が引用しているのは、やはり「Middle Kingdom by
Williams」で最後の「享楽に耽り、淫風盛ん」篇にあり、以下の通り。
 「この好色の国民は、食物の原料を探すとき、大抵は性欲に効能があると思われる物を第一に考える。外国から輸入の特殊物産で最も多いのはこの種の効能があると思われる物。… 大宴会の多くのメニューのメインは特殊な強壮剤の成分を含有していると思われている奇妙な原料から作られている。…」
 外国人が中国人の欠点を指摘することに、さして反感を持たないが、これを読むと失笑を禁じえない。筵席の中国料理は実に濃厚だが、国民の常食ではない。中国の金持ちは確かに多くは淫昏だが、料理と強壮剤をごっちゃにするまでにはなってない。「紂は不善といえども、かくのごとき甚だしさに如かず」で
中国を研究する外国人は、深読み、過敏のきらいがあり、常々このように
「支那人」より性的に敏感である。
 安岡氏はまた言う――‐
「筍と支那人の関係もエビと同じ。彼の国人の筍好きは日本人以上である。おかしな話だが、多分あのピンと立った姿が想像をかきたてるからかも知れぬ」
 (故郷の)会稽は今も竹が多い。竹は古人にとって貴重で「会稽竹箭」という言葉がある。貴重な理由は戦争用に箭を作るからで、「ピンとした姿」が男根に似ているためではない。竹が多ければ筍も多い。多いから値段も北京の白菜とほぼ同じ。故郷にいたころ、十数年筍を食べたが、思い出してみて、何と言われても、それを食べる時、その「ピンと立っている姿」という発想の影響は少しも無かった。格好からそちらの効能を想像させてくれるのは別にあって、
肉蓯蓉(ホンオモト、一尺ほどの柱状の植物;薬剤)で、それは薬であって、料理には使わない。要するに筍は南方の竹林と食卓で常に目にするが、街頭の電柱や家の柱と同じで「ピン」と立っているが色欲とは何の関係も無い。
 この点を洗い出しても、中国人が真面目な国民だという証明にはならない。結論を得るまでにはずいぶん手間がかかる。しかし中国人は自分のことを研究しようとしない。安岡氏はまた言う「十年ほど前、… 『留東外史』という作者不詳の小説に、実際にあった話として、多分悪意で日本人の性的不道徳を描くためのようだが、全編通読すると、日本人を攻撃するよりは、却って知らずしらずのうちに、支那留学生の不品行を、告白しているところに力点がある方が多いのは滑稽だ」と。これはほんとうで、中国人のふまじめさを証明しようとするなら、まじめくさって男女共学の禁止を叫ぶとか、(裸の)モデルを禁止しようとする事件に如実に現れている。
 これまで「大宴会」に招かれる光栄に預かったことは無いが、中宴会では数回、ツバメの巣やフカヒレを食べた程度。思い出しても宴中も宴後も特に好色の気分が生じたことはない。
 しかし今なお奇妙に思うのは、よく煮込んだり蒸したり蒸し焼きした料理の合間に、ぴんぴん跳ねる酔っ払いエビが出てくることだ。安岡氏説ではエビも性欲と関係ありというが、彼だけでなく、国内でもこの類の話を聞いたことがある。しかし妙なのはこの両極端の交錯で、文明の乱熟した社会に忽然あきらかに毛のついたままの動物を食べ、生血を吸うような蛮風が出現することだ。この蛮風は野蛮から文明に向かうのではなく、文明から野蛮に向かう。仮に前者を白紙に比すと、これから字を書き始めるものとすれば、後者は字で真っ黒になった黒い紙である。一方で礼を制定して楽しみ、孔子を尊敬し、(儒教の)経を読んできた「四千年の文物の邦と声明し」ながら、ちょうど火がよく通った食べごろなのに、一方では平然と火つけ、人殺しを行い、略奪強姦をして、蛮人も自分の同族に対しては決してしないようなことを平気でする。… 全中国が今このような大宴会場になっている!
 中国人の食事は煮すぎて生気の無くなった物や、全くの生ものを食べるのは止めるべきで、火を通しても少し生で鮮血を帯びた肉類を食べるべきだと思う。
 正午。例に従って昼食のため討論中止。
 おかずは干した野菜、とうに「ピンと立った姿」を失った干筍、ビーフン、
塩漬け菜。紹興に対して陳源教授が憎悪するのは「幕僚」と「法廷書記」だが、私が憎悪するのは、飯とおかずだ。「嘉泰会稽志」は石印されたが未出版で、
将来出たら見てみたいのだが、紹興はこれまで何回の大飢饉に見舞われたのだろう。かくも住民をして恐れせしめ、明日にでも世界の終りが来そうなほどに、干物をせっせと貯蔵するのに喜々としている。野菜とみればすぐ晒して干す。
魚も干す。豆も干す。筍も干して原形をとどめぬ。菱の実も水分があり、肉も柔らかでサクッとしているのが特色なのに、風干しにする…。北極探検隊は缶詰ばかりで、新鮮な食物が取れないので、壊血病になると言うが、もし紹興人が干菜を携行したらより遠くまで探検できるだろう。
 晩、喬峰(魯迅の三弟)の手紙と叢蕪の訳したブーニンの短編「小さなすすり泣き」の原稿入手。上海の出版社に半年寝かされていたが、今回やっと取り戻した。
 中国人はどうも自分を研究しようとしない。小説から民族性を見るのもいいテーマだ。このほか、道士の思想(道教ではなく、方術士の:魯迅注)と歴史上の大事件との関係、現今の社会的勢力である孔子の教徒たちはどのようにして「聖道」をすべて自分たちの都合のよいように変えてしまったのか。戦国時代の遊士たちが「人の主」(主君)を説き動かしたいわゆる「利」と「害」とはいったいどんなものであったのか。それと現今の政客とどう違うのか。中国には昔から今まで、どれほど「文字の獄」があったのか。歴来「流言」の製造と散布方法及びその効験などなど…。研究に値する新分野は実に多い。
 
 
訳者雑感:
 大阪の友人と飲んでいた時、話が男だけの話になった。
関西人のたとえ話は漫才的で、ぶっちゃけた話、ずばり単刀直入。最近テレビで「整いました」とかいう「なにやらとかけて、何と説く」式なのも面白い。
毎晩帰りがおそいのでながらくの御無沙汰と奥方からクレームされて、
「わしのはな 関電の電柱や」と説く。(東電ではなく、感電をかける)
そのこころは「家の外で立つ」
かた物と思われがちな魯迅も、この段では男根の話などで暑気払いをしているようだ。文部省に当たる教育部の役人の職を解任されて自由に書ける気分になったのかもしれない。教育部の役人は、真面目腐っていないと務まらないのかも。筆名とはいえこのころは身分も明らかにされていたから、当時の雰囲気で
これを雑誌にだすと、敵からやり玉にあげられ攻撃材料にされただろう。
 日本人の安岡氏が中国人の筍好きは、その姿がピンとしているという連想から来ると言うことに対して、魯迅は、竹はピンとしているが筍はそうではないと故郷の筍の干物を思い浮かべて反論している。
 中国人の筍好きは、竹の姿からではなく、土を割ってむくむくと起き上って来るその動態からの連想が影響しているかもしれない。上述の電柱の譬えではないが、大阪人は電柱でそれを笑い話に譬えるように、中国人に限らず、日本人の筍好きも、栄養云々の前に、その土中から一気にむくむくと生命力を突きあげてくる動きに一種の羨望というか、連想をたくましくしているのかも。
 インドのゴアの鉄鉱石を中国市場に販売しようとしていたころ、若いころは共産主義に共鳴した活動家だったというゴア人が、中華料理の円卓を囲みながら、中国人とインド人のどちらが助平かという話になった時、断然インド人が上だ、と答えたのがおかしかった。その根拠はと聞くと、「中国人はこんなに精力のつくリッチな食事を食べてもインドのようなスピードで人口が増えてない。
インドじゃ、多くの人は菜食だけど人口は増え続けているからさ」という。
 中国でも、人口が増えていたのは魯迅の指摘するように「宴会食」を食べる金持ちではなく、岩塩を舐めて暮らしていた農民の方であっただろうが。ゴアの輸出部長が訪中し始めたころは、一人っ子政策で伸びが鈍化中であった。
  2010/12/18
 

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