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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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騙りいろいろ

騙りいろいろ

                  鄧当世

「文壇」の醜聞は23年来、色々あばかれた。コピペ、剽窃、原稿売り、偽称などだ。まだ突き止められていないのは結構あるが、見慣れてしまっていてもう誰も気にしない。

有名人の題辞書きは、上手いものばかりとは限らぬが、本の著者や出版社が彼と知り合いである事を示すだけで、内容と関係は無くとも騙りとは言えない。疑うべきは「校閲」だ。

校閲の役は当然、有名人、学者、教授だ。だがこれらの先生たちがその学問に関する著作は無い。従って真に校閲したかどうかは問題ではない:真に校閲したとしても、それが本当に信頼できるかどうかが問題だ。だが更に校閲の後で、それに論評を与えるような文章を目にすることは大変少ない。

もう一つは「編集」だ。編者は大抵有名人で、その名で読者に信頼性を感じさせる。が、これも大変疑わしい。本に序や跋があれば、その文章、思想から本当にその人が編集したかどうかが判断できるが、書店に陳列されている本を開くと、往々目次だけで、(序がないから)糸口もつかめぬ。これでどうして信用できようか?大部(たいぶ)の各種刊行物の所謂「主編」はこのような有名人が天上から地下まですべてに通暁し「無為にして為さざる無し」で、我々が更に推測を加える必要はないというわけだ。

もう一つは「特約寄稿者」だ。雑誌の創刊時の広告には、往々たくさんの特約寄稿者の有名人が並び、時に凸版で直筆サインも付け、信憑性を示す。これは疑えない。が、1年半ほど経つと、ほころびが出る。所謂特約寄稿者の作品は一つも無くなる。元々特約など無かったのか、又はあったが、寄稿しないのかは知るすべもない:だが所謂直筆サインは、他所からコピーしてきた物か、全くの偽造だ。もし寄稿原稿から採ったなら、なぜサインだけで、原稿が無いのだろう?

これらの有名人は「名」を売ることで「名義料」を貰っているか?貰っていたら自ら名を売ることを同意しているわけで、さもなければ「盗まれて売られた」と言えよう。

「世を欺き、名を偸む」も之あり、名を偸んで売るのも之あり、この世は実に何でもあり。損をするのは読者だけ。       3月7日

 

訳者雑感:1930年代の上海の出版界の「騙り」の3種が良く分かる。

校閲、編集、特約寄稿。この3つは、その前に記述されたコピペ、剽窃、原稿売り、偽称より悪質であると訴えている。貧乏作家が糊口のためにコピペなどしたことが暴かれると世間は一斉に非難するし、彼は文壇から追放されるだろう。

しかし魯迅は、巨悪は校閲編集などで稼ぐ「有名人、学者、教授」だと喝破している。

その手口は2010年代のどこかの国も同じようだ。

       2013/03/29

 

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運命

運命

倪朔尓

映画「姉妹花」で貧しい老婆が娘に言った:「貧乏人は結局貧乏さ。我慢しなよ!」

宗漢氏は感慨をこめて「貧乏人の哲学」と名付けた。(「大晩報」参照)

これは人を貧に安んじよとさとしたもので、「運命」を根拠にしている。古今の聖賢で、この説を説く者は多いが、貧に安んじない貧乏人も「いつも」多かった。「智者の千慮も必ず一失あり」で、この「失」は棺を蓋うまで、運命は「結局」分からないということ。

運命の予言者がいなかったことはない。人相見から八字占い(誕生日の数字)などどこにもいる。だが顧客に対して、死ぬまで貧乏だと断じる者はめったにいない。いたとしても、皆の学説が一致することは無く、甲は貧乏と占い、乙は金持ちになるという。これで貧乏人も将来の運命を確信できなくなる。

運命を信じなければ「分に安んじる」ことはできないわけで、貧乏人が宝くじを買うのは「貧に安んじない想い」である。これは国にとって益なしとは言えぬ。だが「一利あれば必ず一弊あり」だ。運命は不可知だが、貧乏人が皇帝になろうと思うのは構わない。

これが中国に「推背図」を出現させた。宋人の説では、五代(唐の後)の頃、多くの人はこの図を見て、我が子の名を付け、将来の吉兆に応じられるようにと珍蔵した。宋大宗の時に、百冊ほどランダムに抜き取って(順序をバラバラにして)別のものと一緒に流通させたので、読者は順番がみな異なっているので、どれが正しいのか分からなくなった。

それでもう珍蔵しなくなった。9.18(満州事変)の頃、上海では「推背図」の新印本が大量に売りだされた。

「貧に安んじる」というのは真に天下泰平の要で、もし究極の運命を決める方法がなければ、どうしたって人々の心を落ち着かせることはできない。現在の優生学は本来科学的であり、中国にもこれを提唱する人がおり、以て運命説の貧窮を救済せんと願っている。

しかし歴史はあいにくそうとはならず、漢の高祖の父親は皇帝ではなかったし、李白の子も詩人ではない:立志伝ではくどいほど西洋の誰それは冒険に成功し、誰それが裸一貫で大金持ちになったと講じている。

運命説では少しも治国平天下の助けにはならぬことは歴史的にも明白だ。もしそれでもなお、其れを道具にするというのであれば、中国の運命は本当に「貧窮」極まりなくなり、まったくつまらないことになる。    223

 

訳者雑感:駅前には宝くじ売り場に多くの人々が並んでいる。特に年末宝くじの売り出しとなると、長蛇の列だ。彼らは決して貧乏人ではない。何千円、何万円もの籤を買う。

これは「今の状態に安んじない想い」から出ている。これは江戸時代の町民たちの富くじに対する熱狂的な場面を映画などで見てもよく分かる。貧しい長屋住まいの職人たちが、なんとか一発籤を当てて、富を得たい。運命を変えたいとの熱望である。これをお上はうまく利用して、胴もとになり、売上高から一部手数料を引いて払い戻す。

「結局」貧乏人の払ったお金がごく少数の人の手に渡るが、残りの90%以上の貧乏人はいつまでも貧乏のままである。

現在の中国はどうであろうか。

貧乏人はいつまでも貧乏のままで、高学歴で共産党員になって、特別収入を手にすることができるポストに就けるものが富を独占している。公務員は公の為に務めるのではない。

公務員になる動機が、公の為でなく、私の為であることを続けてゆくと、どこかで破綻が生じるだろう。フランス革命が起こった背景にはこうした富の独占と気候変動により、大凶作が起こって、貧乏人が食えなくなった背景がある。

PM2.5が空から襲い、死んだ豚が何万頭と黄浦江に浮かんで、飲む水が危くなってきたが、飢えに苦しむほどの食糧不足ではない。

何がトリガ―になるか。運命は不可知である。もう一度革命が起きるかもしれない。

      2013/03/28

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年越し

年越し

 張承禄

今年の上海の旧正月は去年よりにぎやかだった。

書面と口頭での呼称は時に異なり:或る者は「廃された暦」として之を軽んじ:

或る者は「古い暦」と言って之を愛す。だがこの「暦(こよみ)」とのつきあい方は同じだ:

帳簿の決算、祀神、先祖の祭り、爆竹を鳴らし、麻雀を打ち、年賀に出かけ、「おめでとう」!という。

旧正月も休まぬ新聞も、感慨ひとしおだが:感慨するだけで、事実には勝てない。英雄的な作家も、以前は年がら年中発奮させ、悲憤させ、記念させて来た。しかし記念させただけで、事実には勝てなかった。中国には哀しい記念が多すぎるが、これは例に従って黙すべし:喜ぶべき記念も少なくないが、「反動分子の機に乗じての騒乱」を怖れるために、皆は喜びを発揚できぬ。何回もの禁止と淘汰を経て、色んな佳節がすべて絞死させられた。

ただ僅かに残ったのは「廃された暦」や「古い暦」だけだが、それだけが自分の物だと思うと愛しさが増す。それは格別の慶賀で――これは「封建の名残」ということで軽軽にできぬことだ。

一年中、人を悲憤させ、辛い労働をさせる英雄たちは、自分たちは少しも悲憤や労働を知らぬ人間だろう。実際、悲憤者と肉体労働者は時に休息と楽しみが必要である。

『古エジプトの奴隷たちは、時に冷然と一笑することができた。これは全ての笑いを蔑視したものだ。この笑いの意義を知らぬ者は、主人と奴隷生活に安んじ、辛い労働も少なく、悲憤することを失った奴隷だ』(『』内は黒い傍点付き)

私は旧暦の年越しをしなくなって23年経ったが、今回は三夜連続で爆竹を鳴らし、隣の外国人も「静かにしてほしい」と言わしめた:これは爆竹とともに、私の一年中の楽しみとなった。     215

訳者雑感:今年北京はPM2.5で天安門の毛沢東の肖像画も見えなくなり、人々も呼吸困難になるほどで、旧正月の爆竹を禁じたが、多くの人はそれでも爆竹を鳴らした。

日本なら、お上から「禁止」されたら、ほぼ百パーセントそれを守るが、中国ではお上の通達は建前であって、自分は自己流でやる。必ずしも守る必要は無いと考えるようだ。

以前にも触れたが、辛亥革命の1911年の後、政府は旧暦を廃止した。魯迅もそれから23年旧暦で年越しをしなくなったと書いている。カレンダーは一応新暦だが、そのどこかに旧暦のこよみが付いているか、自分たちで「書きこんで」いつが旧正月か分かるようにしてある。彼もそれまでは旧正月をあまり祝わなかったようだが、今回の雑文を信じるとすれば、今回は三夜連続で爆竹を大いに鳴らし、隣の外人がうるさくてたまらぬと音をあげるのを聞いて、よけいうれしくなったと書いている。

爆竹は魔除け、厄除けで、悪いことが起こらぬように、魔を追い払うためのものだ。

中国を痛めつけている外人という魔を追い払いたいのか?それと結託している主人とその奴隷を含め。         2013/03/26

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「かくの如き広州」読後感

「かくの如き広州」読後感             越客

数日前「自由談」の「かくの如き広州」を見たら、彼の地の新聞を引用し、商店が玄壇と李逵(道教の元帥と水滸伝の人物で虎を制した)の大きな像を建て、目に電球をはめ、向いの虎の看板を圧倒していたと、記事の書きぶりは生彩を放っていた。勿論その目的は、広州人の迷信深さに対する諷刺である。

広州人の迷心深さは確かに大変で、各地から来た人達の雑居する上海の巷で、パンパンと爆竹を鳴らすのや、大門の外で香燭を燃しているのは9割がた広東人で、これが革新党を嘆かせる。広東人の迷信は大変真剣で、魂魄がこもっており、かの玄壇と李逵の大きな像にしても、百元以上かけねば造れないだろう。漢は明珠を求め、呉は大象を徴する等、中原人はこれまで広東に宝を探しにやって来て、今なお全部むしり取られていないようで、造り物の虎に対してすら、かくも大きな力を出せるわけだ。そうしないと、命をとられるというのだから、その迷心の真剣さが見てとれる。

だが中国人で迷信の無い者があろうか?ただその迷信がたいしたことないから、他の人は注目しない。例えば、向いに虎の看板が立つと、大抵の商店は気分を害す。

しかし江浙地方ならさほど目くじらを立てない。一銅元で紅紙を買い「姜太公ここにあり、百無禁忌」とか「泰山石敢当」という(魔除け)文字をちょっと貼って、安身立命する。

迷信にはちがいないが、しみったれていて、ちっとも生気がない。気息奄奄、「自由談」のネタにもならぬ。

いい加減な迷信は真剣なものに及ばない。鬼(死んだ人の霊)にお金をあげねばならぬということを信じるなら、北宋人のように地中に銅銭を埋めることに賛成である。

しかし今のように紙製のお金を燃やすのは、人をだますのみならず、自分をもだまし、鬼をもだますものだ。中国にはいろいろあるが、すべて空名と造り物ばかりで、これはふまじめ由縁のためである。

広州人の迷信は、法とするわけにはゆかぬが、その真剣さは法とすることができるし、敬服に値する。 24

 

訳者雑感:十数年前、島根県の加茂岩倉からおびただしい数の銅鉾が発見された。それ以前にも荒神谷で銅剣がびっしり埋められているのが発掘された。

これらは死者の霊に捧げた者であろうか?

中国では毎年清明節や中元に、十字路の近辺でおびただしい量の紙銭を燃やす。両手に厚さ30センチほどの金銀の色紙に金錠・銀錠の絵を書いたものを持ってきて、何十組かが、競い合うように燃やしながら、全部燃えるように棒で書きまわせる。これが魯迅のいう紙製のお金だ。これを燃やさないとあの世の先祖は困るのだという迷信。爆竹花火も然りで、先祖がどちらから戻って来ても迷わぬように十字路で燃やすのだという。

PM2.5で市民が呼吸困難に陥っている時も、この迷信は止められないようだ。

2013/03/25

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北方人と南方人

北方人と南方人

             欒廷石

これは「京派」と「海派」の議論を見た後に思い到ったことで―――

北方人の南方人を見下すのはすでに伝統になっている。これは風俗習慣の違いからではなく、最大の理由は暦来の浸入者の多くは北からで、まず中国北部を征服し、北方人を引き入れて南征したから、南方人は北方人の目にも被征服者と映ったからだと思う。

 (晋が呉を滅ぼした時、呉の名将の子の詩人)陸機・陸雲兄弟が晋に入るや、北方人士は歓呼の中にも、明らかに見くびるような態度だった。その証を挙げるのは面倒ゆえ、今は取りあげぬ。だが、羊衒之の「洛陽伽藍記」を開けば、そこでは常に南方人を見くびっているのが容易に見てとれる。同類とは決して見ていない。元代には四等に分けられた。

一はモンゴル人、二は色目人、三は漢人即北方人、第四等にやっと南人で、南人は最後に投降したからが。最後に投降したのは、こちらから言えば、矢尽き、援軍絶えたから休戦したという南方の強さであるが、向こうから言えば、順逆を識らず、王の師に長期間抵抗した賊である。前朝の遺民も無論投降したが、奴隷の格も一番低く、最下層に置かれ、皆が蔑視した。清朝でも同じことが繰り返され、今なお余波が残っている:もし今後、こうしたことが二度と繰り返されなければ、それは正に南人のみの至福にとどまらないだろう。

 無論南人にも欠点はある。権貴の南遷は、腐敗頽廃の気風を帯びており、北方は逆に、クリーンであった。性情も異なり、欠点もあれば長所もあるのは、北方もその二つを持っていることは同じだ。私の見る所、北人の長所は重厚で、南人は機敏である点だ。しかし重厚の弊は愚で、機敏の弊は狡さだから、某氏指摘の如く:北人は「飽食して終日、こころを用いる所無し」:南人は「群居して終日、言は義に及ぶこと無し」で、これは有閑階級については、その通りだと思う。

 欠点は直せるし、長所は相学ぶことができる。人相見の本に曰く:北人の南方相、南人の北方相は貴い。これはけっして妄言ではないと思う。北人で南方相は、重厚で機敏、南人の北方相は機敏で重厚なことは、言うまでもない。昔人の所謂「貴い」はその時の成功に過ぎないが、今日では有益な事業を成し遂げることだ。これは中国人の小さいけれど自らを新たにする道だ。

 しかしながら、文を書くのは南人が多く、北人はその影響を受けるだけだ。北京の新聞に口舌の滑らかな、それでいて要領を得ぬ自己満足的な文が67年前から増えたではないか?これがもし北方固有の「無駄口」と結婚して生まれて来たものなら、不祥の新劣種に違いない!       130

 

訳者雑感:

 「権貴の南遷は、腐敗頽廃の気風を帯びていた」とは魯迅の指摘する通りだ。

気候条件が厳しく、概して質朴な北人は比較的清廉で、武ばった感じが「重厚」だろう。

その北の権力を持った貴族が南の「地方長官」として赴任してくると、南人を見下しながら、南方の気候風土の良さと、1年に2回も農作物の獲れる肥沃な土地から、目一杯の税収を取りたて、蓄財・発財(金もうけ)に走る。そこらへんを上手く機敏に立ちまわって、南人も自らの発財にせっせと励み、長江以南から広東一帯に「大資産家」が増加し、彼らから沢山の科挙合格者・状元が輩出した。文章を作るのが上手く、重厚な北人を彼らの文章で圧倒的な影響を与えて来た。そう言われてみると、辛亥革命以後の文人・政治家の中で文章の上手いのは大抵が長江沿岸から福建広東出身者である。

康有為・梁啓超はじめ孫文・毛沢東・朱徳・劉少奇・鄧小平などなど。

       2013/03/22

 

 

 

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「京派」と「海派」

「京派」と「海派」

           欒廷石

北平(北京)の某氏が某紙に「京派」を揚げて「海派」を抑える発言してから、議論がかまびすしくなった。最初、上海の某氏が某紙に不満を載せ、別の某氏の以前のコメントを引用し、作者の貫籍と作品は関係ないとして、北京の某氏に反撃した。

けれどもこれで北京の某氏を心服させるには至らず、所謂「京派」と「海派」は元々、作者の本籍を指すのではなく、一群の人達が集った地域を指すのであるから、「京派」が皆北京人でもないし、「海派」も然りだ。梅蘭芳博士は、京劇の正宗京派だが、本籍は呉下だ。

しかし貫籍の都会と鄙びた所の差で、本人の功罪を決められぬし、居所の文雅と固陋の差は、作家の感情に影響を与える。孟子曰く:「居は気を移し、養は体を移す」はこの謂い也。

北京は明清の帝都で、上海は各国の租界であり、都は官が多く、租界は商が多いから、在京文人は官に近く、上海に住めば商に近く、官に近い者は官で名を成し、商に近い者は商で利を得、それで自らも糊口する。

要するに、「京派」は官の手助けをし、「海派」は商を手伝うに過ぎない。ただ、官から食を得る者の姿は隠れているから、対外的には傲然としていられるが、商で食を得るものは、その姿も顕かで、どこへ行ってもごまかしが効かぬから、そこのあたりの所以を忘れると、すぐにその清濁を決められてしまう。官の商を見下すは、固より中国の旧習で、「海派」は「京派」の眼中から転げ落とされる。

それで北京の学界は、これによって栄光を勝ち取り、それが五四運動の策動であった。今も歴史的な輝きを保っているとはいえ、当時の戦士は「功成り名を遂げ、身を退いた」者あり、「身分の安定した」者あり、更には「出世昇官」した者あり、懸命に悪戦苦闘して「官に就けるなら、殺人放火何でもやる」(鶏肋編)の感を起こさせた。

「昔人すでに黄鶴に乗りて去り、この地空しく余す黄鶴楼」で、一昨年の大難の時でも、北京の学者たちが考えていたのは、自分たちの古文化を守ることで、唯一の大事と考えて、古物を南遷したが、これは北京が有していたのは何かを説明しているではないか?

だが北京はまだまだ多くの古物、古書があり、古都の民もいる。北京の学者文人たちは、大抵講師か教授を本業とし、理屈から言っても、研究創作の環境は「海派」より実際優越しているから、私は学術・文芸の大著作を目にすることができることを望んでいる。

130

 

訳者雑感:魯迅は紹興で育ってから、南京―東京―仙台―東京で学び、杭州―紹興の学校で教師や校長になり、辛亥革命後1912年から南京政府の教育総長となった蔡元培に招かれ教育部の官になり、同年5月に政府が北京に移ったため、北京で官と講師をしながら文学活動を行った。26年にアモイに移るまで約14年北京にいた。まさしく五四運動の渦中にいたわけで、その頃の状況を「官に就けるなら殺人放火なんでもやる」という「あさましい」連中の情状をつぶさに目にしただろう。

その後、アモイに去り、そこもすぐ引き払って広州に行き、又半年で上海に移った。

死ぬまで商に近い上海租界で過ごしながら、雑文を書き続けた。

日本軍に攻撃されて、北京の文人学者たちが真っ先に考えたのが、古物の南遷であった。

空爆で古物が消滅するのを一番怖れた。しかし、多くの学者文人は「官」も兼ねていたから、「官」の身分を棄てて、北京を離れようとはしなかった。魯迅の弟の周作人に代表されるように、日本に協力する形で、それまでの「官」の身分を保持しようとした人達が沢山いた。彼らの多くはいろいろなしがらみもあったであろうが、国民党が支離滅裂に陥り、共産党にも期待できないとして、日本の傀儡政府の下で「官」に甘んじた。というよりは、「殺人放火なんでもやって、やっと手に入れた官」の身分を捨てたくなかったのだろう。

今回選出された李首相のコメントに「公職につくものは(自分の)利潤追求に走らず、

国のために尽くせ」というのがあったが、これは殆どの「官」がそうでないことの証だろう。

宋代の文天祥とか国難の時には、国の為に尽くす英雄が出てくるものだが、2013年の中国には国の為に尽くすような「官」は出てこないのだろうか?

今さらまた「雷峰に学べ」などといった古い文句を引っぱりだしても効き目は無かろうに。

2013/03/19

 

 

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評論家への評論家

評論家への評論家

倪朔尓

世の中は実に速く変わる。去年以前は評論家と評論家ではない人もみな文学を論評し、不満な人も多かったが、良いという人もいた。去年来、文学者とそうでない人も変身し、評論家を評論するようになった。

だが、今回は良いと言う人は余りいない。最も徹底している者は、最近は真の評論家はいないと言う。いるとしても、彼らのいい加減さを笑い物にした。なぜか?彼らは往々ある決まった尺度で、作品の良しあしを決めるからだ。

だが我々はこれまで文芸評論史上で、一定のものさしを持たない評論家に御目にかかったことがあろうか?

みな持っている。美の尺度、真実のそれ、或いは進歩的なそれというものだ。

一定のものさしを持たぬ評論家がいるとしたら、それはとてもおかしいことだ。

雑誌を発刊するに際し、一定の尺度をもたぬというが、それこそが尺度で、目くらましの手品師の使うハンカチだ。例えば、編者が唯美主義者だとすると、彼は、自分は定見を持たないというが、只書籍の批評だけでも、好き勝手なことができる。

所謂「芸術の為の芸術」的作品が、自分の満足ゆくものだと、すぐそれを持ちあげる評論を書き、読後感を載せ、天にまで持ち上げ:そうでないものには、エセ急進的な感じで、あたかも大変革命的な評論家のような言辞を使って、地上にたたきのめす。

読者はこれに惑わされる。が、一個人的としてもし記憶が良ければ、こんな両極端にはならず、彼は一定の尺度を持つべきだ。彼の尺度を我々は責められぬが、それが正しいか否かは批判できる。

 しかし、評論家的評論家は、張献忠が(科挙の)秀才選抜試験をした時の例を引く:まず2本の柱に縄を張り、受験者を通らせ、縄より背の高い者を殺し、低いのも殺して、蜀(四川)中の英才を皆殺してしまったことだ。このように比してみると、定見を持つ評論家は張献忠と同じだから、読者を心の底から憎悪させられる。

だが、文章作品への評論家の尺度は、背を量る縄と同じだろうか?

こういう例を持ち出すのは誣告であり、評論でもなんでもない。

              117

訳者雑感:魯迅は当時の中国に評論家がいないことを難じている。

褒めるとなると天にまで届くばかりに持ちあげ、けなすとなると、地に叩きのめす。

雑誌社の社長と編集者が「自分たちのための尺度・色眼鏡」で量って、意に沿わぬ者は、ことごとく非難し、罵る。評論でもなんでもないものしか残らぬ。嗚呼。

日本でも往々そうであったが、大分改善されてきたと思う。中国は魯迅の時代から既に80年以上たったが、どうであろうか?
         2013/03/18

 

 

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漫罵

漫罵

倪朔尓

評論家に不満な論評の中に、もう一つ、所謂評論家が、「漫罵」が好きだから、彼の文章は評論では無いという点がある。

この「漫罵」は「嫚罵(あなどる)」とも「謾罵(あざむく)」などとも書き、同じ意味かどうか知らない。それはしばらく置いておく。今問題は、どういう事が「漫罵」かだ。

ある人を指して:あいつは売女だ!という時、彼女が良家の出ならそれは漫罵だが:

もし彼女が実際に売笑で暮らしているならそうではない。真実だ。詩人は金ではなれない。

金持ちは算盤が上手いだけだ。事実がそうであるから、これは本当の事で、それを漫罵だというなら、詩人はやはり金では買えないし、幻想が現実の小さな釘にぶつかったのだ。

金が有っても、文才は持てぬというのは、「子だくさん」が児童の性質をよく知っているとは限らぬということより、ずっと明白である。「子だくさん」は夫婦が子供を産み育てるのが上手いことを証明できるだけで、児童について妄言する権利はない。それでも何か言うというのは、羞恥心が無いだけだ。これは漫罵のようだが、そうではない。そうだとしたら、世界の児童心理学者は、すべて沢山子供を産んだ父母だということになる。

子供は食べ物ですぐケンカするというのは冤罪であり、実は漫罵だ。子供の行動は天性のものだが、環境によっても変わるから、孔融は(兄に大きい)梨を譲れた。ケンカするのは家庭的影響で、成人も家の財産争いや、遺産争奪をするではないか?子はそれを真似する。

漫罵はもとより沢山の良い人を陥れて来たが、「漫罵」をうやむやにやめてしてしまうと、却って一切の悪い種を庇護することになってしまう。     117

 

訳者雑感:

「文章は自分のが良く、女房は人のが良い」という中国の成語がある。文の邦ゆえ、自分の書いた文章が一番良いと考えており、それを罵る評論家への反駁が「漫罵」という形で論争が増幅していった。そんな評論を「漫罵式評論」と呼んだという。女偏や言弁の意味は、あなどる、見くびる、あざけるというニュアンスがある。漫画の漫は水が流れるに、

水浸しになる、広がる、漫遊するとか、いろんな意味に使われる。漫画や漫談漫遊はいいが、漫罵式評論はいただけない。だが、魯迅はそれをうやむやにやめてしまうと、悪い種を庇護してしまうから、彼はその後も、ひどいことを書く連中に対して罵り続けた。

        2013/03/17

 

 

 

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女の方が、ウソツキが多いとは限らない

女の方が、ウソツキが多いとは限らない

趙令儀

侍桁氏は「ウソについて」でウソをつく原因の一つは弱さにあり、その証拠として:「そのため、なぜだかしらぬが女は男よりウソをつくのが多い」という事実を挙げている。

それは必ずしもデタラメではないが、事実ともいえない。我々は確かに男達が女のつくウソの方が、男より多いというのを聞くが、実証も統計も無い。ショーペンハウエルは女を痛場したが、彼の死後、彼の書籍から梅毒を治す処方が見つかった:そしてもう一人のオーストリアの青年学者(Weiningerを指す:出版社)、彼の名を失念したが、大作をものして、女とウソは不可分と説いたが、其の後、彼は自殺した。彼自身は、多分神経を患っていたのだろう。

「女の方が男よりウソつきが多い」というよりは、「女は人から<ウソをつくのは男より多い>と言われることが多い」という方があたっていると思う。が、数字的なデータはない。

例えば、楊貴妃は安禄山の乱後、文人がウソをばらまき、玄宗が政治を抛りだしたこと、その他の悪いことはすべて彼女のせいだとし、「夏殷の衰えたるは、褒妲を誅せしよりとは聞かず」と敢えて言える人は何人いるだろう。妲己、褒姒も同じではないか?女が自身と男のために罪に服すのは、ほんとうに古い昔からなのだ。

今年は「婦人と国産品(擁護)の年」で、国産品振興も婦人から始めた。暫くせぬ内にすぐ御叱りをこうむることでしょう。国産品も必ずしもそのために売れ行きが良くなるとは限らぬからですが、一度提唱し、また罵っておれば、男たちの責任も尽くした訳です。

確か、某男士が、某女のために不平を鳴らす詩を作って曰く:「君王は城に降伏の旗をたてたのを、妾は深宮でどうして知ることができましょう?20万人が一斉に甲を解き、一人の男児も更に無し!」快哉だ快哉!

18

訳者雑感:

玄宗が楊貴妃にうつつをぬかして、以前のように政治に注力しなくなった。

これが、安禄山の乱以後の歴史だと「教科書」にも載るほどなのは、その後の儒者歴史家たちの「ウソ」だという指摘は面白い。儒者の立場からは、この事を鑑に、以後の政治に取り組むべしとの「教訓」を書いたのだろう。

 魯迅が指摘するように、女は其の事によって、後の儒者たちから「男と政治」をダメにしたという「濡れ衣」を着せられて、「自身と男のために罪に服させられた」のだ。

 従って、女がウソを多くつくというよりは、女の方がウソつきだと言われる方が多い、というのは、ウソつきというレッテルを貼って、悪女にされることが多いということ。

 戦後でも、江青など4人組が毛沢東を操って「文革」をとんでもない「大災禍」にしたということになっている。これも一面その通りだと思うが、彼女のついたウソは、彼女がウソつきだといわれたことより、すっと少ないだろう。

2013/03/16

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未来の光栄

未来の光栄

張承禄

今やほとんど毎年外国文学者が訪中し、到着すると決まってひと悶着を起こす。

以前はバーナード・ショー、その後、Dekobra(仏)がいる:ただV.Couturierについては、誰も話題にしたがらず、或いは話題にできなかった。

Dekobraは政治を談じることなく、問題を起こしそうにないと思われていたが、食事と色香でもてなされた結果、なんと「外国文人ゴロ」の悪名を得、我が論客たちによって、議論紛々となった。彼は多分そういう所へ小説のネタを探しに行ったのだろう。

生まれつき、鼻も低くて小さく、欧州人のように高くないのは仕方がないが、数角のお金さえあれば、映画を見に行ける。探偵映画はあきたし、恋愛ものも見尽くしたし、戦争ものもうんざり、コメディもつまらぬから、「猿人ターザン」や「密林の怪人」「アフリカ探検」などなど、野獣と野蛮人を登場させるようになった。しかし蛮地でも必ず蛮人の娘の曲線美を挿入する必要がある。我々もそれを見たいなら、批難されても、また見たいという未練が残り、「性」がそれを商売する人にとっても、とても大事なことが判る。

西欧で文学が壁にぶつかっているのは映画と同じである:所謂文学といえども何がしか、グロテスク・エロチックなものを探してきて、顧客を満足させねばならぬ。その為、探検旅行をする。目的はその地の主への挨拶や宴席ではない。だが素っ頓狂な質問を受けると笑って御茶を濁す。実はそんな事は知ってもしないし、知るまでもないのだ。Dekobraは、こうした手合いの一人に過ぎない。

しかし中国人はこの類の作品に、各種の所謂「土人」といっしょに登場する。新聞に載ったDekobra氏の日程ルートをみればすぐ分かる――中国・南洋・南米。英・独の類はしごく平凡なのだ。我々は描かれていることを覚悟し、描かれる光栄がより多くなることを覚悟し、そして将来、こういうことが有ったことを面白いと感じる人がいることを覚悟せねばならない。

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訳者雑感:魯迅はとても映画が好きだったようで、内山書店近くの住まいから車に乗って、繁華街の映画館にちょくちょく出かけた。「ターザン」物は何回か見たと日記にある。紹興で子供のころに見た「奉納劇」や「地獄極楽の芝居」などの影響か。三つ子の魂だ。

彼は日本人の映画評論家岩崎昶の「現代映画と有産階級」を中国語に訳しているほど映画に関心が強い。(「二心集」の同題の翻訳参照:201111月)

戦前の上海は映画の全盛期だったかもしれない。魯迅のいうように数角(数十銭)さえあれば、外国映画も見ることができた。だが、戦争物・恋愛物など飽きられてしまうから、映画をビジネスにしている人たちは、世界各地にでかけて「探検」映画を作った。そこには1930年代の(未開な)中国人の生活や場景が一杯描かれている。今、中国の書店にはそうした「老電影」から抜粋した「昔の上海の写真集」などが沢山積まれている。

2013/03/11

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