魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
評論家への評論家
倪朔尓
世の中は実に速く変わる。去年以前は評論家と評論家ではない人もみな文学を論評し、不満な人も多かったが、良いという人もいた。去年来、文学者とそうでない人も変身し、評論家を評論するようになった。
だが、今回は良いと言う人は余りいない。最も徹底している者は、最近は真の評論家はいないと言う。いるとしても、彼らのいい加減さを笑い物にした。なぜか?彼らは往々ある決まった尺度で、作品の良しあしを決めるからだ。
だが我々はこれまで文芸評論史上で、一定のものさしを持たない評論家に御目にかかったことがあろうか?
みな持っている。美の尺度、真実のそれ、或いは進歩的なそれというものだ。
一定のものさしを持たぬ評論家がいるとしたら、それはとてもおかしいことだ。
雑誌を発刊するに際し、一定の尺度をもたぬというが、それこそが尺度で、目くらましの手品師の使うハンカチだ。例えば、編者が唯美主義者だとすると、彼は、自分は定見を持たないというが、只書籍の批評だけでも、好き勝手なことができる。
所謂「芸術の為の芸術」的作品が、自分の満足ゆくものだと、すぐそれを持ちあげる評論を書き、読後感を載せ、天にまで持ち上げ:そうでないものには、エセ急進的な感じで、あたかも大変革命的な評論家のような言辞を使って、地上にたたきのめす。
読者はこれに惑わされる。が、一個人的としてもし記憶が良ければ、こんな両極端にはならず、彼は一定の尺度を持つべきだ。彼の尺度を我々は責められぬが、それが正しいか否かは批判できる。
しかし、評論家的評論家は、張献忠が(科挙の)秀才選抜試験をした時の例を引く:まず2本の柱に縄を張り、受験者を通らせ、縄より背の高い者を殺し、低いのも殺して、蜀(四川)中の英才を皆殺してしまったことだ。このように比してみると、定見を持つ評論家は張献忠と同じだから、読者を心の底から憎悪させられる。
だが、文章作品への評論家の尺度は、背を量る縄と同じだろうか?
こういう例を持ち出すのは誣告であり、評論でもなんでもない。
1月17日
訳者雑感:魯迅は当時の中国に評論家がいないことを難じている。
褒めるとなると天にまで届くばかりに持ちあげ、けなすとなると、地に叩きのめす。
雑誌社の社長と編集者が「自分たちのための尺度・色眼鏡」で量って、意に沿わぬ者は、ことごとく非難し、罵る。評論でもなんでもないものしか残らぬ。嗚呼。
日本でも往々そうであったが、大分改善されてきたと思う。中国は魯迅の時代から既に80年以上たったが、どうであろうか?
2013/03/18記
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