魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
騙りいろいろ
鄧当世
「文壇」の醜聞は2-3年来、色々あばかれた。コピペ、剽窃、原稿売り、偽称などだ。まだ突き止められていないのは結構あるが、見慣れてしまっていてもう誰も気にしない。
有名人の題辞書きは、上手いものばかりとは限らぬが、本の著者や出版社が彼と知り合いである事を示すだけで、内容と関係は無くとも騙りとは言えない。疑うべきは「校閲」だ。
校閲の役は当然、有名人、学者、教授だ。だがこれらの先生たちがその学問に関する著作は無い。従って真に校閲したかどうかは問題ではない:真に校閲したとしても、それが本当に信頼できるかどうかが問題だ。だが更に校閲の後で、それに論評を与えるような文章を目にすることは大変少ない。
もう一つは「編集」だ。編者は大抵有名人で、その名で読者に信頼性を感じさせる。が、これも大変疑わしい。本に序や跋があれば、その文章、思想から本当にその人が編集したかどうかが判断できるが、書店に陳列されている本を開くと、往々目次だけで、(序がないから)糸口もつかめぬ。これでどうして信用できようか?大部(たいぶ)の各種刊行物の所謂「主編」はこのような有名人が天上から地下まですべてに通暁し「無為にして為さざる無し」で、我々が更に推測を加える必要はないというわけだ。
もう一つは「特約寄稿者」だ。雑誌の創刊時の広告には、往々たくさんの特約寄稿者の有名人が並び、時に凸版で直筆サインも付け、信憑性を示す。これは疑えない。が、1年半ほど経つと、ほころびが出る。所謂特約寄稿者の作品は一つも無くなる。元々特約など無かったのか、又はあったが、寄稿しないのかは知るすべもない:だが所謂直筆サインは、他所からコピーしてきた物か、全くの偽造だ。もし寄稿原稿から採ったなら、なぜサインだけで、原稿が無いのだろう?
これらの有名人は「名」を売ることで「名義料」を貰っているか?貰っていたら自ら名を売ることを同意しているわけで、さもなければ「盗まれて売られた」と言えよう。
「世を欺き、名を偸む」も之あり、名を偸んで売るのも之あり、この世は実に何でもあり。損をするのは読者だけ。 3月7日
訳者雑感:1930年代の上海の出版界の「騙り」の3種が良く分かる。
校閲、編集、特約寄稿。この3つは、その前に記述されたコピペ、剽窃、原稿売り、偽称より悪質であると訴えている。貧乏作家が糊口のためにコピペなどしたことが暴かれると世間は一斉に非難するし、彼は文壇から追放されるだろう。
しかし魯迅は、巨悪は校閲編集などで稼ぐ「有名人、学者、教授」だと喝破している。
その手口は2010年代のどこかの国も同じようだ。
2013/03/29記
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