魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
漫罵
倪朔尓
評論家に不満な論評の中に、もう一つ、所謂評論家が、「漫罵」が好きだから、彼の文章は評論では無いという点がある。
この「漫罵」は「嫚罵(あなどる)」とも「謾罵(あざむく)」などとも書き、同じ意味かどうか知らない。それはしばらく置いておく。今問題は、どういう事が「漫罵」かだ。
ある人を指して:あいつは売女だ!という時、彼女が良家の出ならそれは漫罵だが:
もし彼女が実際に売笑で暮らしているならそうではない。真実だ。詩人は金ではなれない。
金持ちは算盤が上手いだけだ。事実がそうであるから、これは本当の事で、それを漫罵だというなら、詩人はやはり金では買えないし、幻想が現実の小さな釘にぶつかったのだ。
金が有っても、文才は持てぬというのは、「子だくさん」が児童の性質をよく知っているとは限らぬということより、ずっと明白である。「子だくさん」は夫婦が子供を産み育てるのが上手いことを証明できるだけで、児童について妄言する権利はない。それでも何か言うというのは、羞恥心が無いだけだ。これは漫罵のようだが、そうではない。そうだとしたら、世界の児童心理学者は、すべて沢山子供を産んだ父母だということになる。
子供は食べ物ですぐケンカするというのは冤罪であり、実は漫罵だ。子供の行動は天性のものだが、環境によっても変わるから、孔融は(兄に大きい)梨を譲れた。ケンカするのは家庭的影響で、成人も家の財産争いや、遺産争奪をするではないか?子はそれを真似する。
漫罵はもとより沢山の良い人を陥れて来たが、「漫罵」をうやむやにやめてしてしまうと、却って一切の悪い種を庇護することになってしまう。 1月17日
訳者雑感:
「文章は自分のが良く、女房は人のが良い」という中国の成語がある。文の邦ゆえ、自分の書いた文章が一番良いと考えており、それを罵る評論家への反駁が「漫罵」という形で論争が増幅していった。そんな評論を「漫罵式評論」と呼んだという。女偏や言弁の意味は、あなどる、見くびる、あざけるというニュアンスがある。漫画の漫は水が流れるに、
水浸しになる、広がる、漫遊するとか、いろんな意味に使われる。漫画や漫談漫遊はいいが、漫罵式評論はいただけない。だが、魯迅はそれをうやむやにやめてしまうと、悪い種を庇護してしまうから、彼はその後も、ひどいことを書く連中に対して罵り続けた。
2013/03/17記
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