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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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冗談は冗談に過ぎない(下)

                    康伯度

口語討伐のもう一つの新軍は、林語堂氏だ。彼が討伐せんとするのは、口語の「却って分かり難い」点ではなく、口語の粗雑な点で、劉氏のように「質朴に返して真に帰す」ようにしようとの考えも全く無く、意を達するのは、只「語録式」(口語的な文語)しかないとの考えだ。

林氏が口語を使って武装して登場したころ、文語と口語の闘争はすでに終わっていて、劉氏のようにではなく、自らも混戦を通って来たため、この為、懐旧の思いと、末流になったことを慨嘆する気持ちを免れぬ。彼は閃くやいなや、宋明の語録を「ユーモア」の旗の下に置き、元々は大変自然であった。

この「ユーモア」は「論語」45期に「一枚のメモ的な書き方」で、彼は木工師に桐油と石灰を混ぜたパテを要求しようとして、語録体のメモを書いたが、他の人が、彼は「口語に反対している」と批判するのを心配して、口語と文選体と桐城派の三種で書いたが、全ておかしなことになり、結果は、「ボーイ」を使って、木工師にパテを求めることになった。

「論語」は流行した雑誌だから、ここでは面倒な引用は省く。要するに:おかしくないのは語録式の一枚のみで、他の3種は全て要を得ない。だが、この4つの異なる役割は、実はみな林氏一人が演じたもので、一人は主役(シテ)即ち「語録式」で他の3人は道化で、鬼の面を付けた怪相を演じ、主役とはまさに非凡に融合した。

 だがこれは「ユーモア」ではなく「おふざけ」で、市井の壁に描かれたカメで、背中に彼の嫌いな人物の名を書くやり方と同じだ。しかしそれを目にした人は往々、是非を問わず、書かれた者を嘲笑うだけだ。

 「ユーモア」或いは「おふざけ」は結果を出そうとするもので、もしそれを読む人の心がその意味を知らなければ、単なる「おふざけ」になってしまう。

 事実は文章に如かずということもあり、例えばこの語録式メモは中国でも、この種は断絶していない。閑が有れば上海の露地に行けば、時々露店で目にする。一人の文人が、男女の労働者のために代筆しているが、彼の文章は林氏のメモのように簡単には理解できぬが、明らかに「語録式」だ。これが今新たに提起された語録式の末流だが、誰も彼の鼻を白く塗りにゆかない。(道化役の意)

 これは具体的な「ユーモア」だ。

 だが、「ユーモア」を賞識するのは、実に難しい。かつて生理学的に、中国で尻を叩く事の合理性を証明したが:尻が排泄と坐る為だけなら、これほど大きくならなくても良い。

足底ももっと小さくても十分体を支えられるではないか?我々はもうかなり以前から人肉を食わなくなっており、肉もこんなに多くなくて良い。では、専ら叩くために供されるのか?ある時、人にそう言ったら、大抵の人は「ユーモア」と思った。だがもし本当に叩かれた人、或いは自分がそれに遭遇したら、きっとその反応は、そうではないと思う。

 しかたない。国民の皆が意に適わぬときは、きっと最後は「中国にはユーモアが無い」ということになってしまうのだろう。

       718

 

訳者雑感:出版社の注によると、この当時提唱されていた「白話文(口語文)」は、民衆の生活から離脱していて、読んでもよく分からないものだったという。古文の方がよほど分かりやすいという状況にあった。

そういう状況で、林氏などが「語録体」という文語を提唱して、「ユーモア」を取り入れようといろいろなものを発表した。しかし、国民がそのユーモアを味わえるような状況にはない。即ち、国民みなが意に適わぬ生活を余儀なくされているから、それを楽しめるような段階に至っていないから、単なる「冗談」「おふざけ」にしかすぎなくなっていた。

最後の尻の肉の役割についての「ユーモア」は、余裕のある時の読みものとしては面白いものだが、現実にしごかれて尻を叩かれた人、それが1934年の中国の現実であってみれば、その反応はおのずと違うだろう。

2013/06/02

 

 

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<付録>   文公直から康伯度への書簡

伯度様:

今日貴方が「自由談」に寄稿した大作拝読。西方人の侵略のお先棒を担ぐ急先鋒(漢奸)はなお多く、貴方も欧式文化の流行は、その「必要」があるからだとのお考えと知りました。私もこれにどう話を進めたらよいか分かりません。中国人は役に立たないとはいえ、話す事はできます。どうしても中国語を無くそうとして、田舎者にもミスターと言わせるようなことは、中国文化上「必要」とは言えません。華人の話しかたに照らして言えば:

張甲は「今日は雨だ」と言い、李乙は:「ああ、涼しい」と言う。もし論理的な主張を大事にするなら、「今日は雨が降る」と張甲が言った。「涼しくなった、――そうです」と李乙は言った。となるが、これが中華民国全族に「必要」かどうか? 一般的に言って、翻訳の大家の欧化文は中国と西方の文化の交流を阻害してしまい、原文を読める人までも、翻訳を分からなくさせています。そして貴方の言われる「必要」が加わって、これからは、中国で読める西方の書物もなくなってしまう。陳子展氏の提唱する「大衆語」は、疑う余地のない真理です。中国人は中国語を話すべきというのは絶対正しいです。

だが貴方はどうしても欧化文法が必要という!なるほどお名前からして「康伯度」(コンプラドール)で真に「買弁心理」を十二分に表している。劉半農氏は言う:「翻訳は外国語の読めぬ人が読めるようにするため」:これは確かに動かぬ定理だ。それなのに、貴方はその半農を凄まじく罵る。中国人全てにとって、欧化文法を「必要」なものにしなければならない、と考えておられる!

今とても暑いですから、休んで下さい!帝国主義が華人を絶滅させる毒瓦斯は数えきれないほどあります。貴方は買弁になろうとするなら、ご自由にどうぞ。ただ、全民族を売らないでください。私は転倒式の欧化文の分からぬ愚人です!貴方の盛意ある提起をみて、貴方は殆ど我邦の人ではないのではと疑います。今特に、なぜこうした文化の毒瓦斯をまかれるのか、をお尋ねしなければならないという責任を痛感します。帝国主義者の指図を受けているのですか?要するに、449百万人(陳氏を除く)の中国人は貴方の主張を学ぼうとはしません!注意下されば幸いです。

    文公直  725日     87日「申報」「自由談」

 

康伯度、文公直に答える

公直様:中国の文法を少し欧化しようというのが私の主張で、決して「必ず中国語を取り消そう」と言うのではなく、また「帝国主義者の指図を受けて」もいないのに、貴方が私を即「漢奸」の類の重罪を着せ、自分は「449百万人(陳氏を除き)の中国人」を代表して、私の首を切ろうとしている。私の主張にも間違いが有るかもしれませんが、即死罪を判定するのは、時流に乗っているかもしれぬが、やり過ぎのようにみえます。況や、449百万人(陳氏を除き)の中国人」の意見は必ずしも貴方と同じとは限らないと思うし、貴方も同意を求めていないから、代表を詐称しています。

 中国文法の欧化は決して外国語に改めると言うのではないのですが、こうした粗浅なことをこれ以上貴方と談じようと思いません。私は暑いのは平気です。だが無聊なためです。

しかしやはりもう一度言うと:私が中国文法には些か欧化の必要ありと主張します。この主張は事実から来るのです。中国人は「話す事は問題なくできる」その通りだが、前進しなければ、すべて昔のままではいけません。目の前の例を挙げると、貴方の数百字の手紙の中に、「…に対して」を2回使用しているが、これは古文とは無関係で、後に直訳の欧化文法から始まったもので「欧化」という2字すら欧化された言葉です:更に「取消」と言う言葉を使っているが、これは純粋な「日本語」です:「瓦斯」はドイツ語そのものを日本人が音訳したもので、すべて適切に使われており、且つ「必要」です。例えば「毒瓦斯」を中国固有の「毒気」と書くと、不明確で、瓦斯弾の物とは限らない。従って「毒瓦斯」と書くことが確かに「必要」である。

 貴方は自身の姿を鏡で見ないで、無意識のうちにご自身も欧化文法を使っていることを証明しており、鬼子(日本人を含む外人)の名詞を使っているが、貴方は決して「西洋人侵略者の手先の急先鋒(漢奸)」ではないから、このことから、私もその一味では無いことを証明したいと思う。さもなければ、貴方は口汚く罵ってみても、それは真っ先に自分の口を汚すことになります。

 思うに、事を弁ずるに、威嚇と誣陥(根拠なしに陥れる)は無用で、筆を執る人は、直ぐ疳癪を起こして、私の命をとろうとするのは、さらにおかしなことです。貴方はやたらにわめき騒ぐことは止めて、静かに自分の手紙を見なおして、ご自身の事を考えてみてはいかがですか。

 返信まで、 暑さに御留意ください。

     弟康伯度、 脱帽してお辞儀。

           87日「申報」「自由談」

 

訳者雑感:以前にも書いたことがあるが、元や清という異民族に支配された時に、支配階級の話す「モンゴル語や満州語」の語法に引きずられて、多くの「新型語法」が生まれた。

モンゴル語はさておいて、満州語は日本語に近い語法で、SOVになるので、彼らの話す漢語は「我+飯+吃(食う)」となり、我と飯の間に何かを入れないと通じにくいので把握の把という字を入れるようになった。我把飯吃了でそれまでの我吃飯了と逆になった。

 そうした話し言葉では外国語法を取り入れながらも、書き言葉としての漢語は昔のままの状態が「最も簡潔で要領を得ている」として保存されて来た。我々の先輩たちが、話し言葉は通じなくても、「筆談」で意思が通じたのはこのためだ。

 魯迅は中国で最初の口語小説を書いたが、それから20年近く経っても、やはり多くの国粋主義者たちは、中国語の欧化を排斥してきた。特に文章にするとき、会話文の『』の後に、Obama saidとかsaid Obama.という形式を例にとり、孔子曰く:を『』の後に置くのは反対だというのが、劉氏の意見であった。

「今日は雨が降る」と張甲が言った。というのは、確かに中国語的ではない。だが、欧化した語法と新しい語彙を沢山採り入れなければ、前進しない。進歩が無い。この辺の争いが伝統を守ろうとする人達と魯迅達との戦いであった。

 イギリス人の友人と話していて、日本語と英語の共通なところは、大陸から沢山の語彙を各時代ごとに沢山輸入してきた結果、一つのこと、ものに沢山の外来系の名詞が付けられ、覚えきれないほどだという点だった。

例えば牛肉の牛はOx,Cow…などに加え、食べる対象としてはBeef…などのフランス語。

フランス語以外にもドイツ語、スペイン語、ラテン語などたくさん受け入れており、イギリスの子供にとって、それらのニュアンスの違いを学ぶのが大変だという。

日本語も牛(ぎゅう)といい、うし、とか牛舎、牛肉というが、ビーフもとりいれて立派に日本語として通じる。韓国語も入れているし、イタリアとかスペイン・ポルトガル語由来の言葉も多い。

 文化は辺土に存す。

大陸から風で吹き寄せられた多くの言葉と文化が、日英両国に存すようだ。
2013.5.31

 

 

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冗談は冗談でしかありえない

冗談は冗談でしかありえない

                 康伯度(コンプラドールの漢字訳)

劉半農氏が忽然病死され、学術界は又一人の人材を失った。惜しいことだ。しかし私は音韻学に詳しくないので、毀誉のいずれも発言する資格は無い。だがこれで別の事を思い出したのだが、現在の口語文が、「良い物は残し、それ以外は棄てる」される前に、彼は早くから当時の口語文、特に欧化した口語文に対しての、偉大な「真正面からの痛撃」者だった。

 彼はかつて手間を極力省きながらも、有力な妙文を書いた:

 『今一つ簡単な例を挙げると:

  子曰く:「学びて時に之を習う、亦悦しからずや?」

  これはとても古臭くてよくない!

 「学びて時に之を習う」子曰く、「亦悦しからずや?」

  これはいい!

 「学びて時に之を習う。亦悦しからずや?」子曰く。

  これは更によい。なぜ良いか?欧化しているからだ。

 だが「子曰く」は「曰く子」までは欧化しきれていない』

 この一段は「中国文法通論」にあるが、それは真面目な本で:

作者は「新青年」の同人で、五四時代「文学革命」の戦士だったが、今又古人になった。

中国の古くからの慣習では、死は常々その人の価値を上げるから私は新たに提起しようと思い、且つまた彼もついに「論語」社の同人になり、時に「ユーモア」を免れなかったが:

元々「ユーモア」を持ってはいたが、それらの「ユーモア」は、常々、「おふざけ」という暗渠に落ち込んでいたのも免れなかった。

 実例は上記の通りだが、その論法は頑迷な人や、市井の無頼が、青年が洋服を着て、外国語を勉強するのを見て、冷笑して:「惜しいかな、鼻は低いし、顔も白くない」というようなことをいうのと、何ら変わらない。

 勿論劉氏が反対するのは「極端な欧化」だ。だが「極端」の範囲とは何か?彼が挙げた前の3つの語法は古文には無いが、話し言葉にはありうるし、人と話す時は、みな通じる。

ただ、「子曰く」を「曰く子」とするのは、けっして通じない。しかるに、彼は欧化文反対の文から実例を探せないので、やむなく、「子曰く」を「曰く子」などというような欧化はできないと言ったのだ!それでは、これは「的もないのに矢を射た」ことではないか?

 欧化文法が中国の口語に入って来た大きな理由は、何ももの好きのためではなく、必要だったからである。国粋学者は外国人の気風を毛嫌いするが、租界に住んで、「Joffre路」Medhurst路」などという怪しげな地名を書き:評論家も好き好んでするわけではないが、精密に表現しようとすると、固有の口語だけでは不十分だから、外国の句法を使うしかない。分かり難いものは、お茶漬けのように一気に飲みくだせないのは本当だが、その欠点を補うは精密さだ。胡適氏が「新青年」に書いた「イプセン主義」は、近頃の文芸論文に比べると、確かに分かりやすいが、我々は却って粗で浅く、おおざっぱという感じを受けないだろうか?

 欧化された口語を話す人を嘲笑うなら、嘲笑うだけでなく、もう一度外国の精密な論著の紹介を試み、勝手気ままな改変や削除をしなければ、きっともっと素晴らしい規範を作ってくれるだろう。

 冗談で敵に対応するのもひとつの戦法だが、相手に致命傷を与えるようにしなければ、冗談は単なる冗談で終わってしまう。   718

 

訳者雑感:魯迅のペンネームは論敵の林黙が魯迅の文章を「買弁」の書いたものだと批難したことを逆手にとって、Compradorコンプラドールの漢音訳である。

国粋主義的な文人が、外国の語法や文法を採り入れるのに大反対している状況に対して、文章の精密さを求めるためには、外国(欧化)の語法を採り入れねばならないと主張する。

中国の近代化の過程で、おびただしい数の外国の言葉・概念が輸入された。それを従来の文語文に直して通じさせようとするのは、「粗で浅く、おおざっぱ」になってしまう。

精密に・厳格に伝えようとしたら、やはり勝手気ままに、昔からある文語に引きなおすのではなく、精密に外国語の「意味・ニュアンス」をとらえて、厳密に訳語を作りださねばならない。

欧化を推進し日本語訳経由でおびただしい数の日本語漢字語句を採り入れて来た。共通の言葉が沢山あって、中国語学習者には便利ではあるが、手紙とか怪我などは全く意味が異なる点を注意せねばならない。電視とか電脳などは日本が輸入しても良いではないかと思う。テレビは良いとしてもコンピューターとかパソコンより字数を減らせる。

作愛など英語からの直訳語は、SVOの語法の中国語の発想の方が、日本語より近いものがあり、V+Oの外来語は登山・読書と同じ感覚で、日本も輸入したら良いと思う。

2013/05/28

 

 

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水性

                         公汗

連日の猛暑が20日近く、上海の新聞に連日のように川で水浴中に溺死の記事が載る。これは水郷ではめったにないことだ。

 水郷は川が多く、水に対する知識も多く、泳げる人も多い。泳げぬ者は軽々に川に入らぬ。この水泳の要領は、俗語に「水性を知る」という。

「水性を知る」を(論敵が魯迅に与えた呼称である:訳者)「買弁」の口語で詳解すると、

1.火が人を焼死させること、水もまた人を溺死させることを知るが、水は柔和に見えるから、近づきやすく、その罠にはまりやすい。

2.水が人を溺死させるが、人を水に浮かばせることもできるから、今その操縦法を講じて、水が人を浮かび上がらせる面を利用する。

3.それで、その操縦法を学び、習熟すれば「水性を知る」ことは完全になる。

 しかし都会の人は、浮かべないだけでなく、水が人を溺死させることをすっかり忘れたようだ。平時に何の準備もせず、水に入る時にも、予め水深を測りもせず、暑くてたまらぬ時、服を脱いで跳び込み、不幸にして深い所だと即死ぬのは当然だ。しかも助けようとする人は、都会では田舎より少ないように感じる。

 都会人を助けるのは難しいことで、救助する人は固より「水性を知る」べきだが、助けられる人もそれなりに水性を知っていなければならぬからだ。力を抜いて、救助者に自分の下あごを託し、浅い所へ引っぱって行ってもらうこと。性急に救助者の体に這い上がろうとすると、救助者がそれほど上手くないと、自分も沈んでしまうしかない。

 従って、川に入る時、先に水泳を学ぶ時間を作るのが大切で、何も公園のプールに行く必要はなく、岸の近くでやればよい。但し玄人の指導を受けること。そして色々な事情で、水泳を学べぬ人は、竹竿で水深を測り、浅い所だけにする:一番安全なのは水を掬って、川辺で浴びること。一番重要なことは、泳げない人は溺死する危険があることをしっかり認識し、覚えて置くこと。

 今さらこんな常識を宣伝せよと主張するのは、発狂したようだし、或いは「花辺」の為に(銀貨の為:出版社)のようにみえるが、事実は断然そうではないことを証明している。多くの事は進歩的評論家に気を使って、こうしたことに目をつぶり、大言壮語ばかりしていてはダメである。      717

 

訳者雑感:魯迅は身辺に起こったことを新聞の記事から丹念に拾っている。

上海に来た人々が、魯迅の故郷のような「水郷」からではなく、川の少ない内陸から来て、泳げぬ人が猛暑の7月に川で水浴中に溺死が多発したことについて、「常識」としての水の性質を説明・宣伝している。発狂した訳でもなく、これで「銀貨」を貰う為でもない。大言壮語の論文より、身近な人命に係ることを取り上げたのだろう。

      2013/05/22

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損得勘定

            莫朕

清代の学問の話しをすると、数人の学者は色めき立ち、当時の学問の発達は前代未聞だったという証拠は真に十分あり:経典解釈の大作が山の如くあり、小学(文字・訓詁・音韻等)も大変進歩し:史論家は跡を絶ったが、考史家は却って増え:とりわけ考証学は、宋明代の人がまったく読めなかった古書を読めるようにしてくれた…。

 だがこう言いだすと、又些かためらいもあり、英雄(ヒットラーを指す)が私のことを、(計算高い)ユダヤ人だと言いはしないかと心配だが、しかし、決してそうではない。

学者と清代の学問の話しをするたびに、同時に思うのは:「揚州十日」と「嘉定三屠」(いずれも清軍の大屠殺の状況を記したもの:出版社)だが、こうした小さな事柄は今は提起せずとも構わないのだが、全国の土地を失い、人々が皆たっぷり250年間奴隷と成って、こうした幾つかの栄光の学術史と交換したのだが、この売買は得したのか、損をしたのか。

 残念ながら私は数学者ではないので、結局のところは明確にできない。しかし直覚的にやはり多分損だと思うし、庚子(義和団の乱)の賠償金(の返還分)で、何人かの学者を養成したことより、累積欠損はずっと大きいと思う。

 しかしこれは俗見に過ぎぬかもしれぬ。学者の見解は得失の外に超然としている。超然としているが。利害の大小の分別は全く無いわけではない。大は尊孔(孔子を尊敬する)より大はなく、肝要なことは尊儒(儒教を尊ぶ)より肝要なことはないから、尊孔と尊儒に配慮してくれれば、どんな新しい王朝に頭を下げても構わぬ。新王朝に対する法の説き方は、「どうか、中国民族の心を征服してもらいたい」ということになっている。

 そしてこの中国民族の心の中にも、まことに徹底的に征服され、今日まで、戦禍、悪疫、水害、干ばつ、台風やイナゴの害を受けながらも、孔子廟の修復、雷峰塔の再建、男女二人歩きの禁止、四庫全書の珍本の発行などという体面保持に精を出している。

 私もこの災害は短い時間のことに過ぎぬかもしれぬと思うし、記録されねば、将来誰も提起しないだろうが、栄光ある事業は永遠だということは知っている。だが何故か知らぬし、ユダヤ人でもないのだが、損得を云々するのが好きで、みんなと一緒にこれまで提起されなかった損得の勘定をしたいと思う。――しかもなお且つ、今こそまさにそれをする時なのである。(今でしょ:訳者今日風に追加) 717日      

翻訳雑感:安部首相が先の日中戦争以降の戦争を「侵略」かそうでないか?侵略の定義が定まっていないということで、物議をかもしている。「どうか、中国民族の心を征服してもらいたい」というのは胡適が言いだしたことで、出版社注によると、1933318日、胡適は北平(北京)の新聞記者との談話で:日本が「中国を征服できる只一つの方法は、即ち、徹底的に(武力)侵略を停止し、どうか、中国民族の心を征服するように」というもの。(同年322日「申報」北京通信)

 武力による侵略ではなく「心を征服する」とはどういうことだろう。

最初に攻め込んできた時は「武力」を使うしかないだろうが、ある程度時間が経過したら、武力による侵略を停止し、その民族の心を征服しなければならない、と侵略してきた新王朝に説くのだ。

 これは満州族が侵略してきたとき、最初は大屠殺が幾つかの地方で起こったが、暫くして、辮髪という満州族の風習を受け入れなければ、首が飛ぶというやり方で、民族の心を征服していったことに象徴されると思う。200年後太平天国の時に、彼らは辮髪を切って、長髪賊と呼ばれていたわけだが、太平天国に加担しなかった殆どの漢族は、後生大事に辮髪を守りとうした。これはもう完全に清という新王朝に心を征服されてしまったのだ。

義和団の乱では、「扶清滅洋」を旗印に、清を助け、外国人を排除せよと立ちあがった。

それから11年後の辛亥革命の時ですら、辮髪を切るのは大変な抵抗があり、辮髪の無い男は、女たちから軽蔑・侮べつされた。

 12世紀に同じ満州族である女真族が北方半分を侵略し、金という国を建てたが、南には南宋が抵抗を続け、長い間対峙した。当時杭州にいた詩人たちは多くの「反金」「北方領土を取り戻せ」という詩を残している。

中国の歴史では、女真族の金が北方中国を侵略したとはいうが、満州族は「民族の心」を征服した結果、250年間という長期に渡り中国を統治したので、満州族が中国を「侵略」したということは余り聞かない。勝てば官軍なのだろうか。

 中国の歴史家の中にも、先の大戦で日本が勝利したら、という仮定の話をする人もおり、日本と中国全土及び朝鮮半島台湾などを一つの国として統治することになったら、欧米や当時のソ連よりずっと強大な大国となっていただろう。そうすれば、欧米の「彼らの正義」と対抗できる「東アジアの正義」を主張でき、今よりずっと豊かで良い生活ができたかもしれない…と。そうなったら、日本を侵略者とは呼ばなくなるだろうが。

歴史はそうならなかったから、やはり侵略と言われるだろう。

自分は認めたくなくても。

  2013/05/21

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セミの世界

               鄧当世

中国の学者の多くは、色んな知識は聖賢の、少なくとも学者の口から出た物だと考えている:火と生薬の発明応用なども民衆とは無縁で、すべて古の聖王の手になるものだと:

燧人氏(火)、神農氏(生薬)だと。だから人によっては「色んな知識は諸動物の口から出たものというのも、これ亦奇なり」と思うのも、別に奇とするに足りぬ。

 況や「諸動物の口から出た」知識は、我が中国では真の知識ではないものが多い。

とても暑くてたまらず窓を開くと、ラジオを持っている家から音が聞こえてきて、「民と楽を同(とも)にする」(孟子)である。イーヤー、エーヤーと唱歌(京劇の曲をうたう)。

外国の事は知らないが、中国の放送は朝から晩まで戯曲の唱で、時に甲高く、時にかすれ声で、好きなら一刻たりとも休まずに聞き続けることができる。扇風機をつけ、アイスクリームを食べながら、「水位が急上昇」して所とか「干ばつで全滅」の地方と全く無関係なだけでなく、窓の外で脂汗を流して、一日中、懸命に生きている人々とも全く別世界だ。

 私はイーヤーと声を長くひき、甲高くうたう声を聞いて、忽然フランスと詩人、ラフォンテーヌの有名な寓話:「セミと蟻」を思い出した。やはりこのような炎天下に、蟻が地上で苦労して働き、セミは枝で高吟し、蟻の俗っぽさを笑う。が、秋が来て日ごとに涼しくなり、セミはこの時、衣食が無くなり、乞食になり、準備を済ませていた蟻に教訓を垂れられる、とは学校で「教育を受けた」時に先生が話してくれた。当時はとても感動した。

今でも覚えている。

 が、覚えてはいるが、「卒業即失業」という教訓のために、物の見方は蟻とかけ離れたものになった。秋風はもう暫くしたら吹き始め、日ごとに涼しくなってくるが、その時になって、無衣無食となるのは、多分今脂汗を流している人達の方だ:

洋館の周りは、固より静かだが、それは窓を閉め、音とともに暖炉の暖気も留め、中では多分、相変わらずイーヤーや「霧雨よ、ありがとう」の流行歌だろう。

「動物の口」から出た知識は、我が中国には適さぬことが多いのではなかろうか?

 中国は自国の聖賢と学者がおり、「労心者は人を治め、労力者は人に治めらる:

人に治めらる者は人を食させ、人を治める者は人を食す」とは何と簡潔明白か。

先生がもっと早くこれを教えてくれていたら、私も上述したような感想で紙筆を浪費することは無かったろう。これも中国人が中国の古書を読まねばならぬ一つの良い証拠だ。

       78

訳者雑感:何も付け加えることもないほど、愕然とさせられる寓話だ。

日本人はラフォンテーヌの寓話を信じて生きて来た。水呑み百姓と言われながらも、秋冬に備えて炎天下で汗を流してきた。それが1930年代だけでなく、中国3千年の歴史の中で、古書が示す通り、「人を治める者が人を食してきた」という。「労心者」という概念は、我我日本人には「先憂後楽」する「徳の高い為政者」というイメージだが、魯迅の説によれば、最後には人を食すとなるのか!     2013/05/16

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再び重訳を論ず

             史賁

 穆木天氏が「重訳及びその他を論ず」下篇の末尾では、私の誤解を釈こうとしているのを知った。私は誤解しているとは思わないし、違いは軽重の転倒だけで、私はまず翻訳の良しあしが第一と主張し、直接訳か重訳かや訳者の動機にはこだわらない。

木天氏は訳者が「自分を知り」、自分の長所を用いて、「一度苦労したら永く逸品として残る」本に訳すことを求めている。そうでなければやらない方がましだと。これは言ってみれば、イバラを植えるより、更地のままにしておいて、他の良い園丁に永く観賞できる良い花を植えてもらうのが良いということ。だが「一度苦労したら永く逸品として残る」ものは、あるにはあるが、そうはめったになく、例えば文字についても、中国のこの四角い文字は決して「一度苦労したら永く逸品として残る」符号ではない。況や更地も永くは留保できず、空き地であればイバラやカラスムギが生える。最も肝要なことは、人間が手をかけ、植培し、除去することで、翻訳界を「雑草」から守ることだ。それが評論である。

 しかし我々はこれまで翻訳を軽視して来、とりわけ重訳を軽く見て来た。創作については評論家がよく口にするが、翻訳については、数年前偶々もっぱら誤訳を指摘する文章が出たが、最近は特に少ない:重訳については更に少ない。評論の仕事上、翻訳の評論は創作より難しい。原文を読むのに訳者以上の力を要すのみならず、作品についても訳者以上の理解が要るからだ。

木天氏の指摘するように、重訳は数種の訳を参考にすると、訳者にはとても便利で、甲の訳に疑問がでた時、乙の訳を参照できる。直接訳はそうはゆかず、分からぬ所に出くわしたら、何ともしょうがない。世界で、異なる言葉を用いて、一句一句同じ意味の作品を書いた作者はいないからだ。重訳が多いのもこれが一因だろう。偸とか懶(おこたる)とかと言っても良いが、多くはやはり語学力不足のせいだ。この種の何冊か参考にした訳にあうと、評論家は更に難しくなり、少なくとも各種の原訳を読まねばならぬ。

陳源訳「父と子」や魯迅訳「毀滅」(きめつ)はこの類に属す。

 翻訳の道は寛げた方が良いし、評論の仕事も重視した方が良いと思う。もし理論面だけを厳しくして、訳者に慎重に訳させようとすると相反する結果になり、良心的な人が慎重になり、乱訳者は却って無茶な訳をし、悪い翻訳がややましな訳より多くなってしまう。

 最後に余り重要ではないことだが、木天氏は重訳に懐疑的なため、ドイツ語訳を見た後、彼自身が訳した「タシケント」すら、フランス語の原訳は抄本だと思ってしまったが、実はそうではないのだ。ドイツ語訳の本は厚いが、それは2冊の小説を合冊した為で、後半はセラフィモヴィッチの「鉄の流れ」だ。(フランス語訳の量がドイツ語訳の半分の為)

従って我々の見る漢訳「タシケント」は抄本ではない。    73

 

訳者雑感:

魯迅は仙台から東京に戻り、「域外小説集」を出した。彼は南京の学生時代にドイツ語を勉強し、東京でもドイツ協会の学校でドイツ語の勉強を続けていた。そして東京からドイツへ留学しようと計画していた。母からの帰国要請がなければ、そのままドイツへ行っていたかもしれない。

 周恩来は日本で勉強したが、官費の支給される大学に合格できず、傷心のまま天津に戻り、そこから第一次世界大戦後のフランスに行き、共産主義活動を本格化するが、それまでの彼は詩人文学家で、多くの詩を残している。

 魯迅が周恩来のような政治の世界に入ったかどうかは何とも言えぬが、彼が母親の要請を無視して、ドイツに行ってドイツで生活したら、また別の方向に進んだかもしれない。彼は日本語と同様、ドイツ語も堪能で、ドイツ語からの重訳も沢山手掛けている。東欧の被抑圧民族の作家の作品などもドイツ語から重訳している。今では東京でドイツ語の書物を扱っている書店は英語に比べてとても少ないが、魯迅のいたころは手軽な価格で入手できたのであろう。

 彼が指摘するように、デンマーク語などできる中国人が限られていた時代、(今もそんなにいるとは思えぬが)ドイツ語訳と日本語訳を見比べながら、中国語に翻訳するというのは、原文の「粋」は伝えられないが、作者の伝えたいメッセージは正確に伝えることができたであろう。最近の中国の書店には教養的な外国文学者がたくさん並んでいるが、主に小中学生向けのきれいな絵の表紙であるが、最近直接訳しなおしたものか、重訳なのか?

或いは抄本(簡略化したもの)なのだろうか?

      2013/05/13

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重訳を論ず

               史賁(ふん)

 穆木天氏が21日の「火炬」で、作家がつまらぬ旅行記を書くことに反対し、それよりギリシャ・ローマから現代の文学の名作を中国に紹介した方が良いという。これは大変良い忠告だと思う。だが彼は19日の「自由談」で、間接訳に反対し「それは狡猾な方法」だとして、多少許せる条件はつけているが、これは彼のその後の説と矛盾するし、誤解させやすいので、私の意見を少し述べたい。

重訳は確かに直接訳より容易である。第一に、原文の中で、訳者が自からの力ではとても及ばぬと愧じ、とても表現しにくい原文の良さを少し消してしまう。訳文が原文に及ばないのは、広東語を北京語に訳すのも、或いは北京語を上海語に訳すのも、ぴったりその通りに訳すのは難しいのと同じだ。重訳は原文の良さに対するためらいを減らしてしまう。

そして忠実な訳者は難解な所に往々注解をつけ、一目瞭然だが、原書にあるとは限らない。このため直接訳はよく間違いが起こるが、間接訳の方が却って間違いが無い場合がある。

 その国の言葉をよく知っている人が、その国の文学を訳すのが一番良い、この主張は間違っていない。但し、そうだとすると中国でギリシャ・ローマから現代文学の名作の翻訳を出すのは難しい。中国人が知っている外国語は英語が最多で、次が日本語で、もし重訳しないとなると、我々は英米と日本の文学作品は読めるが、イプセンやIbanez(スペインの作家:黙示録の騎士)のみならず、有名なアンデルセンやセルバンテスの「ドンキホーテ」も読めなくなる。これは何と憐れな眼界(考え方・視界)か。勿論中国でもデンマーク、ノルウエー、スペイン語に精通している人がいないわけではないが、彼らはこれまでも翻訳をしていないし、我々が今有るのは、英語からの重訳で、ソ連の作品すら大抵、英仏語からの重訳だ。

 従って、翻訳について今は暫時、厳密なルールは要らないと思う。重要なのは訳文の良しあしで、直接訳か重訳かに重きを置く必要は無い:投機的か否かも問うべきではない。原訳文の趨勢に深く通じている重訳本は、原文をあまり深く理解していない忠実な直接訳より良い場合があるし、日本の改造社訳の「ゴーリキー全集」は一部の革命者が投機的だとして排斥されたことがあったが、革命者の訳が出た後、前者の方が却って優良だということがわかった。ただもう一つ条件があり、余り原訳文趨勢のわかっていない速成の訳は許すべきではない。

 将来各種の名作の直接訳が出たら、重訳が淘汰されるべきときだが、その訳は旧訳より良い物でなければならず、単に「直接訳」だというだけで、護身の盾にしてはならぬ。

         624

 

訳者雑感:吉川幸次郎の唐詩選などに英文の翻訳詩が紹介されている。

日本人は同じ漢字を眼にして、分かったようなつもりでいるが、英米人の目から見た唐詩の理解と、日本人の昔からの漢文読みくだしで理解してきたものとの深さの違いが分かる。

原文の良さをそのまま外国語にうつすことは至難の業だ。だが、その作者の考えの深さをしっかり理解した上での翻訳ということは、例えば吉川幸次郎のように、英語訳をしっかり会得したうえで、もう一度見直してみるというのもとても良いことだと思う。

論語とかもきっと英訳と仏独訳などを見比べたら、いろいろ出て来ることだろう。

    2013/05/10

 

 

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正に時が来た

                張承禄

 「山梁雌雉、時哉時哉!」(論語、郷党:山梁の雌雉が……)物は自からその時がある。

 聖経、仏典が一部の人に否定されてから十余年経ったが「今、その正しさを覚り、昨日の非を覚った」(帰去来の辞)で、現在、まさに復興の時だ。関羽と岳飛は清朝時代、数次にわたって神明に封じられたが、民国元年の革命で閑却された:新たに持ち出されたのは、袁世凱の晩年だったが、袁世凱とともに又棺に蓋をされた:そして2回目は今だ。

 こういう時は、当然文語を重視し、古文を引用、雅致を標榜し古書を読むようになる。

 小家の子弟は、たとえ外が大風雨でも、勇猛に前進し、懸命にあらがった。彼には、安穏に過ごせる帰るべき古巣が無いから、前に進むしかないからだ。身を固め立業の後は、家譜を修め、祠堂を造り、厳然と旧家の子弟を以て自居するが、これは畢竟は後の話だ。旧家の子弟なら、雄を自慢し、奇を好み、時勢にあわせ、食事もし、固より外出するとは限らないが、小さな成功によって、或いは小さな挫折で、彼はすぐ委縮する。一度縮むと、さらにひどく縮んで、全く家に引きこもってしまい、さらに悪いのは彼の家を固陋廃屋にしてしまう。

 この邸宅の蔵の旧貨は、壁角の埃いっぱいで、もう除去できないほどだ。しかし坐食の余閑には、いろいろ物色して、破れた書物を修理し、古い壺をなで、家譜を読み、祖徳を懐い、若干の歳月を費消する。もし究極的な無聊なら、さらに続けて破れた書物を修理し、古瓶をさすり、家譜を読み、祖徳を懐い、甚だしきは汚れた壁の基礎をはがし、空虚な引き出しを開き、自分でもわけのわからない宝物を発見しようとして、この救いようも無い貧窮から抜け出そうとする。この両種の人には、小康と窮乏は異なり、悠閑と急迫も違うので、場の収め方の緩急も異なり、こういう時には、骨董の中だけで生活しようとするから、その主張と行為に違いは無くなり、声も気勢もとても盛んなようになる。

 それで青年に影響を与え、骨董の中に自分の救星を探しだせると思う。小康者を眺めては、それを閑適と思い、急迫者を眺めては、専心的で、これは、道理にかなっているべきだとする。それに倣う人がいるのは当然だとする。しかし、時間は情を留めてくれない。

彼は最後には空虚になり、急迫者は妄想であり、小康者は冗談だと思う。主張者は何の特別な技両も、卓見も無ければ、骨董は香案(焼香の机)に供すか厠に抛るべきと説くが、その実、すべては一時しのぎの自らを欺き、人を欺くだけにすぎず、前例を調べてみると、随所でその通りなのがわかる。        623

 

訳者雑感:本文は難解だ。論語の引用句を吉川幸次郎の「論語」で調べたら、吉川さんもこれはいろいろ解説があるが、訳がわからない、と匙を投げている。

魯迅は何を言いたかったのか:辛亥革命で閑却された関羽岳飛の神名を、袁世凱がこれを復活させたが彼の死とともに蓋をし、その十数年後の今1934年に復活させようとしている。

 それは旧家の蔵の宝物を探し出して祀ることだ。そんなことをしていては中国を改革することはとてもできない…と嘆じているようだ。

 2年ほど前に天安門広場に巨大で太ったぶざまともいえそうな孔子の像が建てられた。

だが、ほどなくして、何の説明も無いまま、撤去された。

これはなにやら関羽岳飛を担ぎ出しては、また蓋をした1920年代のころに似ている。

計画経済という仕組みを放り出し、市場経済という名の国家資本主義の仕組みに移行する段階で、マルクスに代わるものとして、孔子を担ぎ出してみたが、どうやら良くないということで、撤去したのか。

 それにしても世界各国の大学内に「孔子学院」という名の語学校を一杯設立しているが、これは孔子の教えをどうこうしようという趣旨ではないようだ。単純な看板に使っただけ。

英語の辞書にはConfuciusKung-Fu-tszeのラテン語化とある。孔夫子のことだが、その次にConfuse, Confusionという単語が続いており、なんだか混乱してしまう。

誰が何時頃、英語にしたのだろう。

   2013/05/08

 

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「此の生或いは彼の生」

                                                 白道

「此の生或いは彼の生」

今この5つの漢字を書いて、読者に:どんな意味?と問う。

「申報」の汪懋(ぼう)祖氏の文章では「……の例のように‘この学生かあの学生’と言おうとすると、文語で「此の生或いは彼の生」と書くだけでよく、その省力さはどんなものだ……」と、それですぐ思いつくのは、これは即ち‘この学生かあの学生’と言う意味となる。

そうでないと、その答えは多分いろいろ遅疑を生む可能性がある。この5字は少なくとももう2つの解釈が可能で:

1.この秀才とあの秀才(生員:科挙の合格者で秀才という)

2.この世とあの世。

文語を口語に比すと、確かに時には字数が少ないが、意味が曖昧模糊となる。文語を読むと、往々我々の知性を増幅できるだけでなく、我々の既有の知識によって、注解補足せねばならない。精緻な口語に直して初めて理解できる。もし初めから口語を使えば、字数は増えても、読者にとっては「その省力さはどんなものだ」といえる。

私は文語主張の挙げた文語を例に、文語が用を果たさぬことを証明した。

     623

訳者雑感:

「狂人日記」で初めての口語小説を書いた魯迅は、口語を攻撃して、文語を大切にしようと主張する文学家を徹底的に批判した。

その一方で彼の作品の至るところで「古文・古典」からの引用が見られるが。

今回やり玉に挙げられたのは、汪懋祖氏の「中小学校で文語運動を」という文章で、その趣旨は「文語の学習は尋常の言葉より難しいが、…うまく応用すれば省力化でき、読者も作者も印刷工も経済的で、もし耳だけで目を使わぬなら、文語は使えないが、目を使うなら文語は良い。(後略):出版社注」ということだ。

 漢字は象形文字から出発しているので、目から判読するのにとても適していて、速読できる点は、ローマ字等より優れているが、その意味を正確に理解するまでに長時間かかることが難点である。

 日本語でも「赤とんぼ」の歌の「おわれてみたのはいつの日か」という歌詞を漢字で見るまで、負われてという意味でなく、追われてと思った人が沢山いる。これは多くの歌詞が文語で作られたためだろう。文語の75調で作られたものは、日本人の耳になじみ易く、覚えるのに適していて、口語の歌詞はしばらくするとすぐ忘れてしまうのも事実だ。

御経とか歌詞とか詩歌は文語調が残るのかもしれぬ。それで魯迅の脳内には彼が子供のころに覚えた文語の古典が一杯残っていて、それが紡ぎだされてくるのだろう。

習ったことのない古文が出て来ることはないだろう。      2013/05/06

 

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