魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
運命
倪朔尓
映画「姉妹花」で貧しい老婆が娘に言った:「貧乏人は結局貧乏さ。我慢しなよ!」
宗漢氏は感慨をこめて「貧乏人の哲学」と名付けた。(「大晩報」参照)
これは人を貧に安んじよとさとしたもので、「運命」を根拠にしている。古今の聖賢で、この説を説く者は多いが、貧に安んじない貧乏人も「いつも」多かった。「智者の千慮も必ず一失あり」で、この「失」は棺を蓋うまで、運命は「結局」分からないということ。
運命の予言者がいなかったことはない。人相見から八字占い(誕生日の数字)などどこにもいる。だが顧客に対して、死ぬまで貧乏だと断じる者はめったにいない。いたとしても、皆の学説が一致することは無く、甲は貧乏と占い、乙は金持ちになるという。これで貧乏人も将来の運命を確信できなくなる。
運命を信じなければ「分に安んじる」ことはできないわけで、貧乏人が宝くじを買うのは「貧に安んじない想い」である。これは国にとって益なしとは言えぬ。だが「一利あれば必ず一弊あり」だ。運命は不可知だが、貧乏人が皇帝になろうと思うのは構わない。
これが中国に「推背図」を出現させた。宋人の説では、五代(唐の後)の頃、多くの人はこの図を見て、我が子の名を付け、将来の吉兆に応じられるようにと珍蔵した。宋大宗の時に、百冊ほどランダムに抜き取って(順序をバラバラにして)別のものと一緒に流通させたので、読者は順番がみな異なっているので、どれが正しいのか分からなくなった。
それでもう珍蔵しなくなった。9.18(満州事変)の頃、上海では「推背図」の新印本が大量に売りだされた。
「貧に安んじる」というのは真に天下泰平の要で、もし究極の運命を決める方法がなければ、どうしたって人々の心を落ち着かせることはできない。現在の優生学は本来科学的であり、中国にもこれを提唱する人がおり、以て運命説の貧窮を救済せんと願っている。
しかし歴史はあいにくそうとはならず、漢の高祖の父親は皇帝ではなかったし、李白の子も詩人ではない:立志伝ではくどいほど西洋の誰それは冒険に成功し、誰それが裸一貫で大金持ちになったと講じている。
運命説では少しも治国平天下の助けにはならぬことは歴史的にも明白だ。もしそれでもなお、其れを道具にするというのであれば、中国の運命は本当に「貧窮」極まりなくなり、まったくつまらないことになる。 2月23日
訳者雑感:駅前には宝くじ売り場に多くの人々が並んでいる。特に年末宝くじの売り出しとなると、長蛇の列だ。彼らは決して貧乏人ではない。何千円、何万円もの籤を買う。
これは「今の状態に安んじない想い」から出ている。これは江戸時代の町民たちの富くじに対する熱狂的な場面を映画などで見てもよく分かる。貧しい長屋住まいの職人たちが、なんとか一発籤を当てて、富を得たい。運命を変えたいとの熱望である。これをお上はうまく利用して、胴もとになり、売上高から一部手数料を引いて払い戻す。
「結局」貧乏人の払ったお金がごく少数の人の手に渡るが、残りの90%以上の貧乏人はいつまでも貧乏のままである。
現在の中国はどうであろうか。
貧乏人はいつまでも貧乏のままで、高学歴で共産党員になって、特別収入を手にすることができるポストに就けるものが富を独占している。公務員は公の為に務めるのではない。
公務員になる動機が、公の為でなく、私の為であることを続けてゆくと、どこかで破綻が生じるだろう。フランス革命が起こった背景にはこうした富の独占と気候変動により、大凶作が起こって、貧乏人が食えなくなった背景がある。
PM2.5が空から襲い、死んだ豚が何万頭と黄浦江に浮かんで、飲む水が危くなってきたが、飢えに苦しむほどの食糧不足ではない。
何がトリガ―になるか。運命は不可知である。もう一度革命が起きるかもしれない。
2013/03/28記
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