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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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数冊読んでみては

数冊読んでみては

       鄧当世

つまらぬ本を読むと本の虫になり、本棚にもなると、昔から批判する人がいた。

しかし時は絶え間なく進み、読書に反対する思潮も益々徹底してきた。一切の読書に反対する人も現れた。彼はショーペンハウエルの例の言葉を引いて、他人の著作を読むのは、自分の脳内に作者の馬を走らせるに過ぎぬ、という。

これはつまらぬ読書をする人にガツ―ンと一発食らわせたが、探求するよりダンスした方がましだとか、から騒ぎして、むやみな議論をしかける天才に紹介するに値する金言だ。

ただ明確にせねばならぬは:この金言を後生大事に抱く天才は、まさに彼の脳内をショーペンハウエルの馬にかけめぐられる、むちゃくちゃに荒らされることだ。

今、評論家がごたくを並べるのは、良い作品が無いためで:創作家も文句を言うのは、立派な評論が無いからだ。張三(Aさん)は李四(Bさん)の作品は象徴主義と言い、それで、李四も自分を象徴主義と思い、読者もそう思う。果たして何が象徴主義なのか?

これまで、それが明らかにされず、ただ李四の作品を証としてきた。だから中国の所謂象徴主義と他国のSymbolismとは異なる。前者は後者の訳というが、メーテルリンクは象徴主義作家で、それで李四は中国のメーテルリンクになったという。この外、中国のA.フランス、中国のBabbitt、中国のキリポーチン、ゴーリキー…など一杯いる。だが本当のフランスたちの作品の訳は、中国にはとても少ない。まさか、すべて「国産品」があるから、必要無いじゃないかというわけではなかろうが?

中国文壇で数人の国産文人の寿命はとても長い:洋貨(輸入されたもの)の文人はとても短い。名前を覚えたと思ったら、すぐ過去のものとなる。イプセンの全集を出す企画があったが、これまで3冊目すら出ていない:チェホフとモーパッサンの選集もどうやら、竜頭蛇尾に終わりそうだ。だが我々が強く憎み非難する日本は「ドンキホーテ」や「千夜一夜」の全訳があり、シェークスピア、ゲーテ…みな全集がある:トルストイのは3種もあり、ドストエフスキーのは2種ある。

つまらぬ読書は己を害す。口を開くと人を害すというが:読書せぬのも良いとは限らぬ。

少なくともトルストイを批評しようとするなら、何冊かの作品を読まねばならぬ。

もちろん、今国難の時に、そんな本を訳すヒマなどあろうか?だが、提案は、只ごたくを並べ、不満たらたらの大人物たちに対してであり、今正に難に赴き「臥薪嘗胆」している英雄に対してではない。というのも、たとえ読書はしないで遊んでいるだけで、決して難に赴かない連中が多いからである。

514

 

訳者雑感:1930年代に日本が翻訳したロシア東欧を含む欧州の文学作品の目録と中国のそれとを比べてみたいと思った。今中国の書店の一角には世界の名作が訳されて並んでいる。

どちらかと言えば、小中学生向けの教養本のようで、表紙からそんな印象を受ける。

飽食の時代に、20年代30年代のような疾風怒濤の社会改革とか人生、いかに生きるべきかというような問題を越えて、読み物、教養的なイメージが強い。

平和と言えば平和だが、音楽関係でもレコードやカセットテープの時代をほとんど経ぬまま、一気にCDになって、娯楽中心となったように、西洋文学も今の中国にとっては、何の益体も無いものに感じられるかもしれない。ロシアの共産主義が崩壊してから、何をよりどころにすればよいのか?模索は続く。

       2013/04/17

 

 

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偽名の新手口

偽名の新手口

           白道

 杜衡と蘇汶氏は今年、文壇の2つの秘密を暴露し、それは又悪風でもあるのだが:

一つは評論家が枠にはめることで、もう一つは文人の偽名だ。

 だがまだ口外していない秘密を保留している――

 枠には書店の編集用のゴムの枠があり、大きくもなり小さくもなり、四角くも丸くもなるが、その書店の出版する書籍はこちらの枠でも「OK」だし、あちらの枠も「OK」だ。

 偽名を使うと、別人になれるのみならず、別の「社」にもなれる。この「社」はさらに、撰文、作論も可能で、某氏の作品だけが「OK」で、某氏の創作も「OK」と言えるわけだ。

 例えば「中国文芸年鑑社」編の「中国文芸年鑑」のまえがきの「鳥瞰」の如くだ。その「鳥瞰」法に依れば:蘇汶氏の議論は「OK」で、杜衡氏の創作も「OK」となる。

 しかし、我々は実はもうこの「社」を見つけることができない。

 この「年鑑」の発行所を調べると:現代書局で:雑誌「現代」の巻末の編者は:
施蟄存、
杜衡とある。

 Oho!

 孫悟空の神通力は広大で、鳥獣虫魚を変えられるだけでなく、廟宇も変えられ、目を窓に変え、口を廟の門に変えられるが、しっぽは置き場が無いので、一本の旗竿に変え、廟の後門に建てたわけだ。しかし、どこにたった一本の旗竿しかない廟宇があろうか?

それは二郎神に見破られ、綻びが顕れた。

 「万止むを得ぬ場合を除き」「私は望む」(いずれも蘇汶が偽名反対の文中で使った句)1個の文人も「社」に化けてはならぬ。自己宣伝するためなら、それは真に「卑劣に近い」

       5月10日

 

訳者雑感:

 新聞各紙に新刊書の「書評」が出る。これらは新聞の読者に「お勧め」するのが目的で、大抵は「褒めて一読に値する」云々で、「けなして読むに値しない」というのは稀である。

そんな書評は載せる価値が無いかのようだ。新聞社はどういう基準で書評を書く人を選んでいるのだろうか?

 話しは中国に移るが、何でもありの中国では、魯迅の指摘するように、物書きが出版社を起こして、その編者になり、自分の作品を載せて売りだす。偽名を使って。腹話術の如く、Aの声でBの作品を褒める。だが最終的にはしっぽをつかまれ、馬脚をあらわす。

それでもそういうことまでして売りだそうとする人が後を絶たない。今も。

      2013/04/16

 

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刀の「式」について

刀の「式」について

        黄棘

今月6日の「動向」誌に、阿芷氏が楊昌渓氏の大作「鴨緑江畔」とファジェーエフの「毀滅」がよく似ていると例を挙げて指摘している。これはきっと「英雄が目にしたものは略同じ」とは言えないであろう。丸ごとそっくり引用したのが明らかだ。

だが丸ごとそっくりにするにも要領が必要で、楊氏はちょっといまいちのようだ。例えば、「毀滅」の冒頭は――

「石段に壊れた日本刀のカラカラと音をたてながら、ライフェンは後庭に向った…」

「鴨緑江畔」の冒頭は――

「金蘊生が庭園に入って行った時、彼の壊れた日本式の刀は石段でカチャカチャと鳴った」

人名が違うのは当然:音も違うのも関係ない。最大の問題は、彼が「日本」の次に「式」の字を加えたことだ。これも或いは道理かもしれない。日本人でもないのに、どうして「日本刀」を下げることができるか?きっと日本式に自分で作らせたものだろう。

だが色々考えてみた:ライフェンが下げていたのは、襲撃隊の物で、敵を襲撃してその武器を奪取した。自分たちの武器は完備していないので、捕獲したらそれを使う。従って彼が下げていたのは正しく「日本刀」で「日本式」ではない。

文学家が小説を読むのは、剽窃の準備も兼ねているのは、密接な関係があると言えるが、このような粗雑さは、あに嘆ずべけんや!         57

 

訳者雑感:原文は「日本指揮刀」だが、日本語には指揮刀という言葉は余り使われないと思うので、日本刀とした。漢語辞典には、演習作戦遂行時に使う刀とあり、映画などでおなじみの例の「突撃!」の掛け声とともにふり上げる刀のことだ。

 話しは飛ぶが、陸游の有名な詩の「山重水復疑無路 柳暗花明又一村」山が重なり、水()また水(川)で、路は無いかと疑い(心細くなる)が、柳の暗がりの中に花明りが(見えるから)村があるのだと(心強くなる)という詩がある。

 これについて、198118日の「人民日報」に金暁東氏が下記のように述べている。

『人はよくこの句を「絶境に生を見つけることを比喩したり(中略)後の人が「山窮水尽疑無路」と改作したことがあって。こうすると確かに誦ずる時は調子が良いが、細かく分析して見ると原文より劣ると思う。(中略)山窮まり水尽き、絶境に入って進む道も無い。

そうであれば何で「疑い」の必要があろうか。又当然、「柳暗花明又一村」などと言う事も言えないわけである。(後略)

 中国の人々は先賢の名詩を口ずさんでいるうちに、暗誦しやすい言葉や調子の良い音に変えてしまうようだ。李白の「静夜思」の「牀前看月光 疑是地上霜」というのも、今の中国の殆どの詩集には「牀前明月光」とあり、看が明になっている。

また、次の句も「挙頭望山月」を「挙頭望明月」と明月が2回使われている。日本の多くの「唐詩選」の解説書には、明の時代に日本に輸入されたものが原文で正しく、今中国で普及しているのは「正しくない」としている。

 だが、多くの一般中国人にとっては、明月の方が親しみやすく、吟じやすいのだろう。

平野彦次郎の「唐詩選研究」119頁には、「看月光、まだ月を見ないで、ただ月の光だけを見たのである。この三字は一に「明月光」と書してある。王堯衢(ク)は「看の字は誤れり。若し看の字を用ひば、後の望の字何の力かある」と評しているが、近藤元粋はこれを駁して「看は心なし。望は心あり。意は全く別なれば差支なし」といっている。

 平野は同書の55頁で「唐詩選は果たして偽書なりや」の第六 結論で「李于鱗の手定した原稿を、于鱗の歿後、その親友たる王元美が携えていて、之に依って出版したのが、唐詩選である」と記している。明から清にかけて唐の時代の詩文を選ぶ過程で、手定した人が、いろいろな版本から、拾い集めてきたことと関係があるだろう。

 最後に、日本刀を日本式刀と訳して平気でいる「粗雑さ」は今中国各地で日本的なものを総称して「日式XX」という感覚に引き継がれているようだ。日式カラオケ、日式料理、日式マッサージetc。いずれも本者ではないよ、とでもいうかの如く。

      2013/04/15

 

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小品文のラストチャンス

小品文のラストチャンス

                        崇巽

去年は「ユーモア」の当たり年で、「論語」の他にも、あちらでも、こちらでもユーモアがあふれ、あの人はユーモア家、この人もユーモア家という状況だった。だが今年に入って、それが崩れ、これもダメ、あれもダメで、全ての罪はユーモアに帰され、文士たちはピエロに比された。ユーモアを罵るのは、まるで入浴して洗うように、ひと風呂浴びればきれいになれるかのようだ。

「天地が大きな劇場」なら、文士の中にもピエロはおり――しかも黒顔(京劇で黒く塗った仇役)た。ピエロはピエロの歌を唄うのが常だが、黒顔がそれを唄うと、とても怪しげだが、大きな劇場ではこうしたことが起こる。これは真面目な人をおふざけ連中と一緒になって嘲笑わせ、情熱家を憤死させ、情にもろい人を悲しませる。唄うのが玄人じゃないから、人の笑いをとれぬか?そうではない。彼らは本物のピエロよりおかしいのだ。

その憤怒と悲しみは、黒顔がピエロの歌を変えた為、事態はまだ完了していないからだ。

連続劇をやるには多くの俳優が必要で:男役、女形、端役、ピエロ、豪傑役、それに黒顔。

そうでないと長続きしない。何かの理由で、黒顔がピエロの歌を変えねばならぬ時、慣例に従い、必ずピエロが黒顔の歌を唄うのだ。単に歌だけでなく、黒顔はとことんピエロに扮し、ピエロは胸をそらせて黒顔のしぐさをまねる。舞台にはたくさんの白鼻(道化)と黒顔のピエロが増え、天下(舞台)は滑稽であふれかえる。だが滑稽なだけで、ユーモアは無い。

ある人曰く:「中国にはユーモアは無い」これは正にひとつの脚注である。

 更に嘆かわしいのは、「ユーモア大師」と贈り名された林(語堂)氏は「自由談」で古人の言を引いて曰く:『夫れ飲酒して猖狂するは、或いは沈寂して声を発さぬ(面倒なことに一切関わらない)は、自己保身のみをはかる者。今の世の中、癩病のスッポンは、そうした自己保身者に亡国の罪を負わせる。そうならば、「今日の烏合、明日の烏散、今日武器を逆さにたてながら、明日は横暴に振舞い、今日は君子となり、明日は小人、或いは今日は小人、明日また君子となる」ごとき輩は、無罪である』引用したけれども、やはり小品から離れていないが、「ユーモア」や「閑適」からは程遠い。これも脚注だ。

 しかし、林氏は新着の各紙で「人間世」に対する攻撃を系統的な偽名でのペテンと断定

するのは間違っている。証拠としては論旨が違っており、作風も異なっているからだ。

その中には固より、かつては驥尾に附していたが、結局「名人」には登竜できなかった者が、黒顔に扮し、実は正真正銘のピエロの即興(芝居)を演じているのだが、中には熱心な人の直言もある。世態はかくも紛糾しており、小品といえども正に分析と攻戦を待っており、これはひょっとすると「人間世」にとってのラストチャンスかもしれない。426

 

訳者雑感:「中国にユーモアは無い」というのが魯迅の持論だとは、出版社の注で、魯迅の「南腔北調集」の「論語一年」でそう書いている。彼がユーモアが無いというのは、有って欲しいとの願望を述べたものだろう。滑稽とか笑い話、ピエロはそこらじゅうにいるが、ユーモアを語る者はいない。今の中国はどうだろうか。

    2013/04/14

 

 

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清明時節

清明時節

孟弧

清明節は墓参りの時節で、ある人(溥儀)は(山海)関の内に入って来て、先祖の墓にお参りしようとし、ある人(国民党要人)は陝西省の(周文王)の墓を詣でた。それで激論が天を沸かせ、歓声が地を動かした。お墓参りで国を亡ぼすこともできるし、国を救う事もできるようである。

墓がかくも重要なら、墓の発掘はもう大変なことだ。

元代の国師パスパは発掘の威力を強く信じた。彼は宋陵を発掘し、人骨に豚とイヌの骨をまぜて埋め、宋室を奈落の底に落とそうとした。幸いにも義士がそれを盗み持ち出したので、彼の目的は達せられなかったが、結局、(南)宋は滅んだ。

曹操は「摸金校尉」(金を探す役人)の職位を設け、盗墓を専門に行わせたが、彼の子が皇帝になり、彼に「武帝」と謚(送り名)させ、大そうな威勢を示した。これを見ると、死んだ人の安危と生きている人の禍福の間にはどうやら何も関係なさそうだ。

曹操は死後の盗掘を怖れ、72個の疑塚を造り、手出しできぬようにした。後に詩人曰く:「片端から72の疑塚を掘れば、きっとどこかに君の屍(しかばね)あり」そして後の論者は又曰く:「曹操は狸で、安(いずくんぞ)知らん、その屍は72塚には無いことを」これではまことにどうしようもない。

 曹操は狸ではあるが、必ずしも疑塚を造ったとは限らぬと思う。だが古来、塚墓の盗掘はとても多く、塚の中の主(ぬし)の名は確かな者は少ない。洛陽の邙山(ぼうざん)は清末に盗掘された墓が極めて多い。有名な巨卿の墓には大抵一片の墓誌銘と陶器の破片しかない。大抵は、もともと貴重な殉葬品が無かったのではなく、とうの昔に盗掘され、持ち出されたが、それが何時のことかは知るすべもない。要するに葬られてから清末に盗掘されるまでの間のことに違いない。

 墓の中は誰なのか、掘ってみないと分からない。たとえ主(ぬし)の名が伝えられていても、大抵あてにはならぬ。中国人は古来、大人物にちなんだ名勝を造るのが大好きで、(山東省の)石門に「子路止宿処」が有り、泰山に「孔子、天下を小とした処」が有り:一つの小さな山洞には、大禹が埋められており、幾つかの大きな土饅頭には、文王武王と周公が葬られている。

 墓参で本当に救国できるなら、それは正しい墓にお参りすることが大切で、文王武王の陵にお参りするなら、他の人の土饅頭にお参りしてはいけない。そして更に言うなら、自分が周の子孫かどうかを調べねばならない。そのためには考古の仕事が必要で、塚を掘って、文王武王周公旦が葬られたか否かの証拠を調べ、遺骨があれば「洗冤録」の方法に従って、血を滴らせればよい。だが、これは又墓参で救国という説とは相反し、孝行な子孫を傷つけることになる。止むを得ぬから、目をつぶって、何も気にせずに、やみくもに拝むしかない。

「その鬼(自家の先祖の霊)に非ずしてこれを祭る、諂(へつらう)也!」(論語)

墓参救国の術はただ単に霊験あらたかでないばかりか、つまらぬ笑い話に過ぎない。

   426

 

訳者雑感:2009年頃、河南省で曹操の墓というのが発見され、新聞が大騒ぎした。これは72個の塚の一つかどうか知らないが、河南省以外の新聞はこれを整備して「曹操の陵」として観光開発しようと企んでいると非難している論調もあった。古来中国人は歴史上の大人物にゆかりのある名所旧跡を「こしらえる」のが大好きとは、魯迅の指摘する通りだ。

 天皇家の歴代の古墳は、陵の閑静さを壊すということから、発掘を禁じてきている。

明日香や平城京周辺の伝某天皇陵というのは、本当にその天皇のものかどうか疑わしい。

それを発掘調査で別の物と言う事が証明されたら、全体の信憑性が一気に崩れる。

伝えられた物を「そのまま次世代に」伝えていくのが安全安心なのを1300年間守ってきた。

易姓革命が無かったから前朝の墳墓を暴くことはしなかったし、中にたいした財宝は無いのではということが関係したかもしれない。

 文中の「洗冤録」は宋代の宋慈の書いたもので、屍体を検験する法を述べており、「血を滴してそれが骨の中に入れば血のつながりが証明され、でなければ繋がりは無い」という非科学的なものの由。(出版社注)

 それで思いだしたのだが、シンガポールで世話になった張さんが亡くなって、立派なお墓ができたので、親族一同とお参りした。その時長男が話してくれた言葉によると、10年後には屍を洗って骨だけを再葬するとのこと。洗骨というのは、かつて横浜で死んだ華人たちは、屍を郷里に運べないので、横浜の墓地に埋葬し、屍が腐蝕した後、これを洗骨して、それを郷里に運んだそうだ。

 最後の論語の言葉は、当時の国民党の要人たちが、周の文王たちの陵墓にお参りして、何とか救国に手を差し伸べて欲しいという「儀式」を痛烈に「打ちのめしている」。

周の子孫という証明もない連中が、周の文王たちが葬られているという何の証拠も無い土饅頭にお参りするという「滑稽さ」つまらぬ笑い話しに過ぎぬ、と。

 一方で、天皇すらA級戦犯を合祀後は、一切参じることを止めた靖国神社に「尊崇の念」を表する為に「首相」という立場でどうしても参じたいというのは、なにかおかしさを感じる。西郷や乃木などが合祀されていないのに、戦後の裁判で処刑されたか自殺した人を合祀するのはおかしいと思う。(西郷は別社で祀られているとの説もるが)

      2013/04/11

 

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朋友

朋友

           黄凱音

 小学時代、級友のする「耳中で字を聴く」や「紙人形の出血」などの小さな手品をみて、とても面白いと思った。縁日でこういう手品を教える者がいて、銅銭何枚かで一つの手品を会得できるようになって、興味が失せた。城内の中学に通うようになって、大がかりな魔術を興味津津で見たものだが、後にそのトリックを聞いてからは、もう二度とテントに近づかなくなった。去年上海に来てやっとヒマつぶしの場を得た。映画鑑賞だ。

 だが暫くして、映画の作り方を紹介する本を見て、千丈もの懸崖は、実は数尺に過ぎぬことや、奇怪な禽獣も紙でできていることを知った。それ以来、映画を神奇と感じぬようになり、往々ただそのアラが気になり、自分でもつまらなく感じて、三番目のヒマつぶしの場を失った。時々、その本を見たことを後悔し、作者は作り方を書くべきではない、と恨みさえした。

 暴露者は、隠された秘密を暴くのが人に有益だと考えているが、ヒマな人はヒマつぶしのために、欺かれることに甘んじ、自ら欺くことに安んじる。そうしないともっとつまらなくなる。これが手品がこの世に長く存在している所以であり、幽暗を暴くのは、人を欺く者から憎まれるだけでなく、欺かれる者からも憎まれる。

 暴露者はただ有為の人達には有益だが、ヒマな人達はそれを亡ぼそうとする。救いの道は、隠された一切の秘密を知っていても、声色ひとつ変えず、人を欺くのを手助けし、そして自らも欺かれるのを甘受する人達を欺き、つまらぬ手品をひとつひとつ演じるに任せ、何回も同じことを続けてゆく。周りにはこうした人が見ているのだ。

 手品師は時に、拱手して「……家を出れば、頼りになるのは朋友さ!」と言う。

このセリフは何がしか手品のからくりを知っている人に対して、からくりを暴かないで、と頼んでいるのだ。

 「朋友は、義を以て合う者也」(「論語・郷党」)だが、我々はこれまでこんな風に解してこなかった。      422

 

訳者雑感:表題の「朋友」は「トモダチ」と訳そうかと考えた。中国では2度会えばもう「老朋友」だという。「老朋友」になったら、決して相手を欺かないというのが行間にある。

家から外にでたら、世間を渡るに朋友だけが頼りだ。だから飯の種の手品のからくりを暴露しないでね、と頼む。義を以て合うというより、敵対行為はしないでね、と頼むのだ。

 3.11の時の米軍の展開した行動を「トモダチ」オペレーションという。これは英語でいうところの「困った時の友が本当の友」を実際の行動に移したものだ。

 米国と米国人は自国と自国民の利益を最優先にするが、こうした「大災害」で困っている相手を助けるのが本当の友達だと信じており、それを助けるのが自国の最大の利益だと信じている。「情けは人のためならず」

        2013/04/06

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洋服の没落

洋服の没落

韋士繇

数十年来我々は気にいる服が無いと常に恨んできた。清末、革命の色彩を帯びた英雄は、辮髪だけでなく、馬褂と袍子(清朝時代の服)をも恨んだ。それが満州族のものだったからだ。老先生が日本に遊暦し、彼の地の衣装を見て、大変喜び、「思いがけず今日、漢の官儀を見た」と題する文を雑誌に書いた。彼は古い衣装の復活に賛成した。

だが革命後、採用したのは洋装で、これは皆が維新をして、敏捷さと、腰骨を真っすぐにしようと考えたためだ。青年英俊の徒は、自から洋装するのみならず、他の人が袍子を着るのを厭悪した。当時ある人が、なぜ満州の衣装を身につけるのかと樊山老人に問責した。彼は答えて曰く:「君はどこの服を着ているのかね?」青年は:「外国のだ」という。樊山は云う:「私も外国のだ」と。

この問答は一時、とても広まり、袍褂党の気分を爽快にさせた。が、内には革命反対の意味を少し帯びていて、最近の衛生や経済的な問題とは大きな違いがあった。後に洋服と華人は次第に反目するようになり、袁世凱朝が袍子馬褂を常の礼服としただけではなく、五四運動後、北京大学が校風を整え制服を決めんと学生に謀った所、袍子馬褂に決まった!

今回の洋服を採用せぬ理由は、まさしく林語堂氏の説くように、衛生的でないからだ。造化が我々に与えてくれた腰と首は、もともと曲がる様にできていて、腰や背中を曲げることは中国では常態で、逆が来てもなお順受すべきだが、順が来たら当然順受するわけだ。

我々は人体研究を最もうまくやってきており、それを自然に使ってきた人民である。首は最も細いので、首切りを発明し:膝関節はよく曲げられるから、跪(ひざまづく)を発明し:臀部は多肉で、致命傷にならぬから尻叩きを発明した。かくして自然に反する洋服は、次第に没落した。

この洋服の遺跡は今ただモボ・モガの身にのみ残り、偶々頑固な男女に見られる辮髪・纏足の如くだ。だがなんと催促隊が登場して来て、背後からそっと硝酸をかけるのだ。

どうしたらよいだろう。

古い制度を復活するにしても、黄帝から宋明の衣装は簡単には分からない:舞台装束を学び、礼服玉帯、白底の黒靴で、バイクに乗って外国料理を食べるのは実に滑稽だ。

だから色々ためつすがめつし、結局は袍子馬褂に落ち着いた。外国の服ではあるが、多分脱がないだろう。――これも実に奇怪なことである。    421

 

訳者雑感:

魯迅は東北で級友ととった学生服の写真を残している。和服は着ただろうか?

上海でバーナードショ―と一緒に写真に残っているのは伝統的な長衫だ。

背の低い魯迅が背の高い西洋人と同じ洋服だと貧相に見えるから、スタイリストの魯迅としては、洋服は避けたというか、余り持っていなかったと思われる。

松本重治の「上海時代」に彼が長与とともに会食したとき、魯迅がおろしたての長衫を着て来たと記す。日本からの賓客に会う時もこれで通したようだ。

普段はカーディガンのような編みもので、自然に逆らわない、体にやさしいものを着た。

西洋の新しい学問などは積極的に取りあげたが、洋服は嫌いだったようだ。

この辺に、すぐ洋装に切り替えた明治の日本人とは違うものを感じる。

文革中やその後に中国を訪れた時、我々が背広にネクタイをして真夏でもそれをはずさないのは、自然に逆らっている。体に良くないことを無理強いしていると言われた。

それがいまやっと洋服ネクタイをするようになった。もう長衫を着ている人は殆どいない。

平成の日本では着物を着る男はまだ結構いる。新し物好きだが、伝統も棄てないでいる。

   2013/04/06

 

 

 

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法会と歌劇

法会と歌劇

孟弧

「時輪金剛法会募金縁起」にこういう句あり:『古人、災禍に遭う、上は己を罰し、下は身を修め…。今、人心ひたひたと衰え、佛の加護に依らねば、この大災難を除けぬ』と。

今も覚えている人もあろう。これは真に自分も他の人も皆半分の値打ちもないし、治水やイナゴの退治も全く役に立たず、「己の業を消すか、他人の禍を淡く」したいと思うなら、

パンチェンラマ大師に請うて、佛菩薩の保佑をお願いする他ないと感じさせる。

信仰の篤い人たちは確かにいる。でなければどうして巨額の募金が集められようか!

だが結局「人心ひたひたと衰え」中央社17日杭州電に云う:「時輪金剛法会は、今月28日杭州で開催され、梅蘭芳、徐来、胡蝶を招き、会期中、5日間歌劇を演じると決定」梵歌の圓音は、ついに軽歌曼舞の「加護」する所となった。なんと意表をつく催しではないか!

 蓋し、昔から、我が仏を説くに、天女散花あり、今、杭州の法会に我が仏は多分親臨するとは限らぬから、梅郎が天女に扮してもらうのも、無論問題無い。但、モダンガール達はどういうことなのか?よもや映画スターと絶世の美女が歌って「この大災難を消滅」できるというのだろうか?

 多分、人心がひたひたと「衰退」する前から、拝佛する人は、このような遊芸を喜んで視て来たのだろう。予算に限りが有り、法会を盛大に開けぬ時は、和尚等がみずからシンバルを鳴らし、唱歌し、善男善女を満足させたが、道学(儒教)の先生方は首を振った。

パンチェン大師は只、会を「認可」しただけで「毛毛雨」を歌わぬのは、もともと佛旨にかなってはいるのだが、はからずも、同時に歌劇を唱いだすとは。

 原始の人と現代人の心にはきっと大きな差があるだろうが、数百年前であれば、差が有ったとしても微量だろう。祭礼で戯曲を演じ、縁日に美人がでるのは正に「古(いにしえ)より既に之あり」の芸だ。無量の福を積み、視聴の娯楽を極めるのは、現在も未来も、すべてよろしい。これがこれまで、佛事を興行させる力だ。さもなくば、太った和尚の念仏では、参加者が必ずしも心踊らず、大災害も消える望みも無くなる。

 だがこの種の手法は、老婆心ながら、やはり「人心がひたひたと衰退」している証だ。これは人を懐疑させる:我々自身には「大災難を除去」する力が無くなってしまった。

これからはパンチェン大師か梅蘭芳博士か、或いはミス徐来、ミス胡蝶に頼るほか無いではないか、と。          420

 

訳者雑感:

今日本各地のお寺で、法会に能狂言や歌舞伎だけでなく、人気歌手のコンサートやロックバンドなどの演目がある。これが究極の拝佛への招待だろう。

寺に来てもらう事が第一だ。庭園や建物だけを見に来る観光客ではなくて、檀家としてその寺に仏壇を納め、毎年お布施をしてくれる信徒がいなくてはお寺は維持できない。

京都の新撰組が駐屯していた壬生のお寺の狂言はとても面白い。「大江山」とか「土蜘蛛」など見ていてはらはら・どきどきする。舞台下にもんどりうって飛びこむ山場など見物客は拍手喝采する。

この雑感を書いたころの上海・杭州では、パンチェンラマというチベット仏教の大師を招くだけではなく、京劇名優の梅蘭芳や、美人女優歌手を招いた「法会」が開かれた。

「1928-37年は民国の黄金の十年」だったといわれている。袁世凱から段祺瑞の混乱が終わり、蒋介石が国民政府の首席となり、いろいろ問題が起こったが、3711月南京が陥落するまでは、この雑感のように現代の日本と同じように、杭州の有名なお寺にパンチェンラマとか俳優を呼んで、「大災難を除去」できるよう「法会」を営むことができたのだ。

南京陥落後、本格的な戦争が始まったら、もはやそんなことすらできなくなってしまった。

魯迅は3610月本格的な日中戦争の始まる前に死んだ。彼がもしあと10年生きていたら、どのような雑感を書き、どのように「日本と国民党」に対応しただろうか?

          2013/04/03

 

 

 

 

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古人もさほど純厚ではなかった

古人もさほど純厚ではなかった
                                 翁隼

老人は往々:古人は今人より純厚で、心も優れ、長寿であったという。かつてはそれを信じていたが、最近揺らいできた。ダライラマは総じて一般人より、心は優れていたが「不幸にして短命」だった(33年に死去:出版社)。だが、広州で開かれた敬老会に多数の老翁、老婦が集り、百六歳の老婦が針仕事もできると写真で証していた。

古今の心の善悪の比較は難しいので、詩文に教えを求む他ない。古(いにしえ)の詩人は「温厚柔敦」で有名だが、「傑よ、なぜ死んだのか、予(私)も汝と偕に亡ばん!」

と言った。何と激しいことよ。もっと奇怪なのは、孔子が「校閲」した後も、削除せず、「詩三百、一言以て之を蔽えば、曰く:思い邪(よこしま)無し」と言い、聖人もこの詩を激しいとは思わなかったようである。

また、現存する最も普遍的な「文選」は、青年作家の語彙を豊かにするため、建築物の描写をするには、ぜひともこれを読まねばならぬというが、取りあげられた作家を調べると、半分以上はまっとうに死んでいない。これは心がよくないためだ。昭明太子の選を経て、固より語彙の祖師になったようだ。当時も多分中にはとても過激だという人がいた。

さもなければ、この人のことは伝わらなかった。試みに唐以前の歴史的文苑伝を開いてみると、大抵は意旨を承って、檄文を草し、頌を作った人、それらの作者の文章が今日まで伝わったものは大変少ない。

こうして見ると、古書全体を復刻するのは危険である。最近偶々石印版「平斎文集」を見たが、作者は宋人で、古くないとも言えぬが、その詩は手本にならない。

「狐鼠」を詠じて云う:「狐鼠は一窟を擅(ほしいままに)し、虎蛇は九逵(き)を行き、天に眼あるを論ぜず、但、地に皮なきを管(気に)す…」

又「荊公」を詠じて云う:「養せしが禍根となり、身始めて去り。依然として鐘阜(南京)は人に向いて青し」(王安石が育てた部下が後に禍根となり彼を排斥した:出版社)

これは当路の人を指斥する口調で、今の人にはなじめない。「八大家」の欧陽修は過激な文学者とはいえぬが、「李翺(こう)文を読む」に云う:「嗚呼、位に在って、自ら憂うことを肯んじず、また人をして皆を憂うことを禁ずるのは、嘆かわしい!」と、大変立腹している。

しかし後人の選択を経て、純厚になってきた。後人は古人を純厚にできたのだから、古人よりさらに純厚だということが分かる。清朝にかつて欽定「唐宋文醇」と「唐宋詩醇」があり、それを皇帝が古人の純厚さの手本としたが、もう暫くしたら、誰かが復刻し、以て「狂瀾(怒涛)を既倒に挽かん」とすることだろう。 415

訳者雑感:古人もその時代時代の疾風怒濤の中で、過激な文章を書いて来たのだが、後の人が、それらを除いて、穏当で上品なものだけを選んで今日に伝えて来た。古人が純厚だったのではなく、後の人が師と仰げるように持ちあげて来たのだろう。同時代の人からみたら、過激な文章を沢山書いて、敵対者を非難してきた。生き残るために。

   2013/04/01

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「18才未満御断り」

18才未満御断り」

         宓子章

56年来、外国映画はまず西洋の侠客の勇敢さをアッピールし、後に野蛮人の非文明性、そして西洋娘の曲線美と続いた。だが、目が肥えて来ると、数本の足では物足りず、沢山の足が登場した:だがそれもすぐ飽きて、ヌードがお目見えした。これが「ヌード活動写真大会(原題:自然回帰)」となった。正々堂々「肉体美と健康美を表現」しているのだが、18才未満御断り」で、彼らはこの「美」の鑑賞の資格は無いということになった。

どうしてか?その宣伝文句は――

「とても賢い子が聞いた:お姉さんたちはどうしてふり向かないの?」

「厳正な父親が:なるほど映画館が18禁にしたわけだ、と」

これは勿論この作者のフィクションで、この映画は初映から18禁だったから、子供は見ることができなかった。だが本当に見させたら、そんなことを聞いただろうか?

思うに、そーかもしれぬが、この質問の意味は、(西廂記の人物の)張生が唱ったような、「あれ、どうしてこちらを向いてくれませぬのか?」とは別物である。しかし映画に登場する女性の態度は不自然で、子供たちを奇怪な感じにさせる。中国の子供はたぶん早熟で、性感も敏感だろうが、心は成人の「父親」ほど穢れてはいない。もし穢れているとしたら、20年後の中国社会は本当に心配だ。だが、実際はそうではない。だからあの会話は次のように改めるがよい:

「これは病みつきになってしまう。悪い映画だ!」

だが実際こんなふうに言える「父」はたぶんいないだろう。彼はどうしても「己の心で、人の心を度(はかる)そうとし、度した後で、その心を人の体に押し込んで、己のものではないふりをして、人の心は己ほど潔白ではないという。ヌードの女性がみな「こちらに振り向いてくれない」のは専らこの類の人間へ対応しているためだ。

彼女らはまさか白痴で「父」の目が子供よりいやらしいのを知らないのだろうか?

けれども中国社会はやはり「父」の類の社会で、劇が始まると「母」の類が献身し、「子」の類は誹りを受ける。たとえとても重大な局面になっても、「木蘭従軍」「汪踦衛国」といった(娘が男装して戦う物語)「女子と子供」を前面に立たせて、その場を糊塗する。

「吾国民は其れ、何を以て其の後を善くするや?」        45

 

訳者雑感:1934年の上海の租界の外側(租界では上映禁止)でドイツの「自然回帰」という映画が上映され、その宣伝文句が上述の内容で、所謂18禁とされた次第。この映画が日本でも上映されたかどうか?ドイツはこうした関係の文化輸出は積極的である。このころ、ヒットラーは33年に首相になり、34年に総統兼首相となっている。

蒋介石の国民党は、植民地支配者の英米仏からの武器購入が(日本などとのからみもあり)難しいので、もっぱらドイツから輸入していた。敵の敵は味方である。日独伊三国同盟までのドイツは中国への武器輸出で、日本の利害と相反した行動をとっていた。

第一次世界大戦でドイツとその植民地を攻撃した日本とは敵対関係にあった。

それで、中国への武器輸出は自由自在で、ジャーナリストも南京に駐在していて、

例の1937年の南京陥落の時の映像付きの報道を世界に発信したのはドイツ人記者だった。

時めぐり、今中国が新しい軍備を拡張しようとしている時、フランスが比較的先行していたが、やはり制約が多いため、自由に買えないどころか、台湾に出す方が忙しいほど。

それで、今回習主席のロシア訪問にあわせ、大量の軍備を輸入する契約に調印したと発表した。ロシア側はまだ確認していない。この辺は両国の微妙な関係があろう。

戦後すぐはもっとも頼りになる兄貴分だったが、中ソ対立で仲がこじれ、敵対関係の様相も帯びていた。今、アメリカとの緊張が高まる中で、同じくアメリカと関係悪化中のロシアから大量の武器を手に入れて、自国で研究開発の助けにしたい。その辺の思惑を重々承知のロシアは、結局どういう対応になるだろうか?大量契約を世界に公表して、武器商人復活となると、周辺諸国が心配するだろう。アメリカの反発も気になる。

    2013/03/30

 

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