魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
「かくの如き広州」読後感 越客
数日前「自由談」の「かくの如き広州」を見たら、彼の地の新聞を引用し、商店が玄壇と李逵(道教の元帥と水滸伝の人物で虎を制した)の大きな像を建て、目に電球をはめ、向いの虎の看板を圧倒していたと、記事の書きぶりは生彩を放っていた。勿論その目的は、広州人の迷信深さに対する諷刺である。
広州人の迷心深さは確かに大変で、各地から来た人達の雑居する上海の巷で、パンパンと爆竹を鳴らすのや、大門の外で香燭を燃しているのは9割がた広東人で、これが革新党を嘆かせる。広東人の迷信は大変真剣で、魂魄がこもっており、かの玄壇と李逵の大きな像にしても、百元以上かけねば造れないだろう。漢は明珠を求め、呉は大象を徴する等、中原人はこれまで広東に宝を探しにやって来て、今なお全部むしり取られていないようで、造り物の虎に対してすら、かくも大きな力を出せるわけだ。そうしないと、命をとられるというのだから、その迷心の真剣さが見てとれる。
だが中国人で迷信の無い者があろうか?ただその迷信がたいしたことないから、他の人は注目しない。例えば、向いに虎の看板が立つと、大抵の商店は気分を害す。
しかし江浙地方ならさほど目くじらを立てない。一銅元で紅紙を買い「姜太公ここにあり、百無禁忌」とか「泰山石敢当」という(魔除け)文字をちょっと貼って、安身立命する。
迷信にはちがいないが、しみったれていて、ちっとも生気がない。気息奄奄、「自由談」のネタにもならぬ。
いい加減な迷信は真剣なものに及ばない。鬼(死んだ人の霊)にお金をあげねばならぬということを信じるなら、北宋人のように地中に銅銭を埋めることに賛成である。
しかし今のように紙製のお金を燃やすのは、人をだますのみならず、自分をもだまし、鬼をもだますものだ。中国にはいろいろあるが、すべて空名と造り物ばかりで、これはふまじめ由縁のためである。
広州人の迷信は、法とするわけにはゆかぬが、その真剣さは法とすることができるし、敬服に値する。 2月4日
訳者雑感:十数年前、島根県の加茂岩倉からおびただしい数の銅鉾が発見された。それ以前にも荒神谷で銅剣がびっしり埋められているのが発掘された。
これらは死者の霊に捧げた者であろうか?
中国では毎年清明節や中元に、十字路の近辺でおびただしい量の紙銭を燃やす。両手に厚さ30センチほどの金銀の色紙に金錠・銀錠の絵を書いたものを持ってきて、何十組かが、競い合うように燃やしながら、全部燃えるように棒で書きまわせる。これが魯迅のいう紙製のお金だ。これを燃やさないとあの世の先祖は困るのだという迷信。爆竹花火も然りで、先祖がどちらから戻って来ても迷わぬように十字路で燃やすのだという。
PM2.5で市民が呼吸困難に陥っている時も、この迷信は止められないようだ。
2013/03/25記
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
P R