魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
古人もさほど純厚ではなかった
翁隼
老人は往々:古人は今人より純厚で、心も優れ、長寿であったという。かつてはそれを信じていたが、最近揺らいできた。ダライラマは総じて一般人より、心は優れていたが「不幸にして短命」だった(33年に死去:出版社)。だが、広州で開かれた敬老会に多数の老翁、老婦が集り、百六歳の老婦が針仕事もできると写真で証していた。
古今の心の善悪の比較は難しいので、詩文に教えを求む他ない。古(いにしえ)の詩人は「温厚柔敦」で有名だが、「傑よ、なぜ死んだのか、予(私)も汝と偕に亡ばん!」
と言った。何と激しいことよ。もっと奇怪なのは、孔子が「校閲」した後も、削除せず、「詩三百、一言以て之を蔽えば、曰く:思い邪(よこしま)無し」と言い、聖人もこの詩を激しいとは思わなかったようである。
また、現存する最も普遍的な「文選」は、青年作家の語彙を豊かにするため、建築物の描写をするには、ぜひともこれを読まねばならぬというが、取りあげられた作家を調べると、半分以上はまっとうに死んでいない。これは心がよくないためだ。昭明太子の選を経て、固より語彙の祖師になったようだ。当時も多分中にはとても過激だという人がいた。
さもなければ、この人のことは伝わらなかった。試みに唐以前の歴史的文苑伝を開いてみると、大抵は意旨を承って、檄文を草し、頌を作った人、それらの作者の文章が今日まで伝わったものは大変少ない。
こうして見ると、古書全体を復刻するのは危険である。最近偶々石印版「平斎文集」を見たが、作者は宋人で、古くないとも言えぬが、その詩は手本にならない。
「狐鼠」を詠じて云う:「狐鼠は一窟を擅(ほしいままに)し、虎蛇は九逵(き)を行き、天に眼あるを論ぜず、但、地に皮なきを管(気に)す…」
又「荊公」を詠じて云う:「養せしが禍根となり、身始めて去り。依然として鐘阜(南京)は人に向いて青し」(王安石が育てた部下が後に禍根となり彼を排斥した:出版社)
これは当路の人を指斥する口調で、今の人にはなじめない。「八大家」の欧陽修は過激な文学者とはいえぬが、「李翺(こう)文を読む」に云う:「嗚呼、位に在って、自ら憂うことを肯んじず、また人をして皆を憂うことを禁ずるのは、嘆かわしい!」と、大変立腹している。
しかし後人の選択を経て、純厚になってきた。後人は古人を純厚にできたのだから、古人よりさらに純厚だということが分かる。清朝にかつて欽定「唐宋文醇」と「唐宋詩醇」があり、それを皇帝が古人の純厚さの手本としたが、もう暫くしたら、誰かが復刻し、以て「狂瀾(怒涛)を既倒に挽かん」とすることだろう。 4月15日
訳者雑感:古人もその時代時代の疾風怒濤の中で、過激な文章を書いて来たのだが、後の人が、それらを除いて、穏当で上品なものだけを選んで今日に伝えて来た。古人が純厚だったのではなく、後の人が師と仰げるように持ちあげて来たのだろう。同時代の人からみたら、過激な文章を沢山書いて、敵対者を非難してきた。生き残るために。
2013/04/01記
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