魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
偽名の新手口
白道
杜衡と蘇汶氏は今年、文壇の2つの秘密を暴露し、それは又悪風でもあるのだが:
一つは評論家が枠にはめることで、もう一つは文人の偽名だ。
だがまだ口外していない秘密を保留している――
枠には書店の編集用のゴムの枠があり、大きくもなり小さくもなり、四角くも丸くもなるが、その書店の出版する書籍はこちらの枠でも「OK」だし、あちらの枠も「OK」だ。
偽名を使うと、別人になれるのみならず、別の「社」にもなれる。この「社」はさらに、撰文、作論も可能で、某氏の作品だけが「OK」で、某氏の創作も「OK」と言えるわけだ。
例えば「中国文芸年鑑社」編の「中国文芸年鑑」のまえがきの「鳥瞰」の如くだ。その「鳥瞰」法に依れば:蘇汶氏の議論は「OK」で、杜衡氏の創作も「OK」となる。
しかし、我々は実はもうこの「社」を見つけることができない。
この「年鑑」の発行所を調べると:現代書局で:雑誌「現代」の巻末の編者は:
施蟄存、杜衡とある。
Oho!
孫悟空の神通力は広大で、鳥獣虫魚を変えられるだけでなく、廟宇も変えられ、目を窓に変え、口を廟の門に変えられるが、しっぽは置き場が無いので、一本の旗竿に変え、廟の後門に建てたわけだ。しかし、どこにたった一本の旗竿しかない廟宇があろうか?
それは二郎神に見破られ、綻びが顕れた。
「万止むを得ぬ場合を除き」「私は望む」(いずれも蘇汶が偽名反対の文中で使った句)1個の文人も「社」に化けてはならぬ。自己宣伝するためなら、それは真に「卑劣に近い」
5月10日
訳者雑感:
新聞各紙に新刊書の「書評」が出る。これらは新聞の読者に「お勧め」するのが目的で、大抵は「褒めて一読に値する」云々で、「けなして読むに値しない」というのは稀である。
そんな書評は載せる価値が無いかのようだ。新聞社はどういう基準で書評を書く人を選んでいるのだろうか?
話しは中国に移るが、何でもありの中国では、魯迅の指摘するように、物書きが出版社を起こして、その編者になり、自分の作品を載せて売りだす。偽名を使って。腹話術の如く、Aの声でBの作品を褒める。だが最終的にはしっぽをつかまれ、馬脚をあらわす。
それでもそういうことまでして売りだそうとする人が後を絶たない。今も。
2013/04/16記
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