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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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評論家への希望

 23年前の雑誌は、只数篇の創作(とりあえずこう書く)と翻訳のみだったから、評論家の登場を望む声が強く、今、評論家が現れ、だんだん増えてきた。
 文芸が幼稚な時は評論家が良い物を発掘し、文芸の炎を煽ごうとする好意はありがたいことだ。また、今日の作品の浅薄さを嘆くのも、作家が更に深く掘り下げて呉れるのを期待するのだし、今の作品には血も涙も無いと嘆くのも、著作界が軽薄に戻らぬように心配しているためだ。遠まわしな批判も多いが、文芸に対する熱烈な好意であり、それはそれでありがたいことだ。
 只、12冊の西洋の古い評論に基づき、或いは頭の固い先生方のつまらぬ意見を後生大事にし、中国固有の天地の大義を持ち出して、文壇に踏みこんで来たりするのは、評論家の権威の濫用だと思う。手近な例で言えば、コックの料理を或る人がまずいと品評しても、彼は、包丁と鍋を評論家に差し出して、ではご自分で料理してください、と言うべきではない。しかし、彼には幾つかの要望があることだろう。料理を食べる人が「ゲテモノ好き」でなく、舌が二三分もの厚さでなければ、など等。
 私の評論家への要望はずっと小さい。人の作品を分析評価する前に、自分の精神を分析し、自分自身、浅薄卑劣、荒唐無稽で誤謬がないかどうかみてくれというのは、容易なことではないから望むべくもない。私の望みはほんの少しの常識に過ぎない。例えば裸体画と春画の区別、接吻と性交、死体解剖と死体凌辱、留学と僻地への追放、筍と竹、猫と虎、虎と洋食堂の区別を知る事。
さらに言えば、英米の老大家の学説を主として批評するのはもちろん自由だが、世界は英米両国だけではないことを知ってほしい。トルストイを見下すのは勝手だが、少しは彼の行いを調べ、彼の著書を何冊かを実際に読んで欲しい。
 何人かの評論家は、翻訳を批評するとき、往々にして歯牙にもかけぬほどにその労を認めず、なぜ創作をしないのかと謗る。創作の貴いのは翻訳をしようとする人は知っているが、翻訳者に留まっているのは、翻訳しかできないか、翻訳を偏愛しているためだ。だから評論家が、もし、事に従って論じず、こうしろああしろと言うのは、職権を逸脱しているし、こうした行為は教訓を垂れることで、批評ではない。またコックに譬えれば、料理を食べる時は、味がうまいかどうか言えば十分であり、料理以外になぜ衣裳や家を作らないのか、と責めるのは、いかな怠け者のコックでも、このお客は「痰が詰まって頭がおかしくなっている」と訝るに違いない。      119
 
訳者雑感:魯迅の所謂創作と呼べる作品は、他の作家に比べてとても少ない。一方翻訳は大変多く、彼の雑感日記を含む「選集」と「翻訳集」は殆ど同じくらいだ。英米だけに偏らず、独仏東欧そして日本の作品が多い。

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小さなことから大を見る

北京大学の講義料徴収反対運動は、花火のように咲いてぱっと消えた。そして、馮省三という学生一名を退学処分させた。
 これはとても奇妙なことで、一つの運動の発生から消滅まで、只一人の学生だけが関わったというが、もし本当にそうなら、一個人の胆力がいかに大きかったか、そしてその他の多くの人のそれは無に等しかったというのか。
 講義費は撤回され、学生は勝ったが、誰かあの犠牲者の為になにかを祈ったということは聞かない。
 小さなことから大を見ると、長い間、解せなかったことが浮かび出てきた。
三貝子公園(今の動物園)の良弼(清朝の高官)と袁世凱を刺殺せんとして殺された四烈士の墓には、その中の三基には石だけの墓碑があるが、(あれから10年も経た)民国11年になっても、なぜ誰も一字も彫らずに放って置くのか。
 凡そ祭壇に犠牲を捧げ、血を瀝(したたら)した後は、この犠牲の肉を皆に
取り分けるだけで終わらすというのか。    1118
 
訳者雑感:シンガポールで張さんの家に下宿していたとき、一族の廟で祭りがあるから、連れて行ってやろうと言われた。祭壇の前に、大きな羊が丸ごと生贄として犠牲にされていた。皆が寄り集まって来て、その周りで昼を食べた後、
めいめいに羊の生肉の塊が分けられた。それぞれが家に持ち帰って、家族で食べるのだ。魯迅はこの最後の文で学生たちに何を呼び掛けようとしているのか。
彼は他の作品で、辛亥革命で命を落とした先駆者たちのことを書いている。その一方で、無名のままで犬死にした沢山の人たちは人々の記憶からも遠ざかり、
やがては名前すら彫られず消えてゆく。文学者のできることはそれを記録して、
後世に伝えることだ、と別の場所で書いている。
 毛沢東の遺体は酸素断ちして記念館にある。周恩来の灰は海に投ぜられて、
跡形も無い。
 日本の法事では、折詰めの巻きずしや魚などを持ちかえって、家族で食べることが一般的だ。もし中国の風習をその通りにしようとしたら、羊とか豚とか犠牲にできるだけの数を飼育しなければできない。宗教的なこともあったろうが、日本人は中国の犠牲としての生贄の動物を殺す代わりに、魚などで済ますことにしたのだろう。折詰めなど、まさしく箱庭の発想だが、死者、犠牲者の冥福を祈る方法も日中間に大きな差がある。
                 
 

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おかしな音訳その2

 自称「国学家」の訳音に対する嘲笑も、古今の奇聞に違いない。これは彼の愚昧さを露呈するだけでなく、悲惨そのものだ。
 もし、彼の言うようにするにはどうすればよいだろうか?3つの方法しか無いと思う。上策は外国の事物は取り上げない。中策は外国人の名はすべて洋鬼子とする。屠介納夫の「猟人日記」、郭歌里の「検察使」はいずれも「洋鬼子著」とする。下策は外国人の名は王羲之、唐伯虎、黄三太の類とし、進化論は唐伯虎が提唱し、相対論は王羲之の発明、米大陸発見は黄三太とする。
 もしだめなら、自称国学家の理解不能な新訳語とするが、そうすると本当に国学の領域に侵入することになる。
 中国で「流沙墜簡」と言う本が出版されて10年になる。国学を論じるなら、これが最初の国学研究の本と言える。長い序文は王国維先生の作で、彼は国学研究者と言える。彼の序文に「古簡の出る所は凡そ三か所。(中略)その三つとは、和闐東北の尼雅城、及び馬咱托拉抜拉滑史徳の三か所」
 これらの音訳は屠介納夫のような雅さは無いが、分かりやすい。だが、どうしてこうせねばならぬか?というのもこの三か所はこう呼ばれているからだ。偽の国学家がカードや飲酒にうつつを抜かしているとき、本物の国学家が書斎で読書しているとき、シェークスピアの同郷のスタイン博士は甘粛新彊の砂漠で、漢晋時代の簡牌を掘り出した。掘り出しただけでなく、本にした。だから本当に国学を研究しようとするなら、翻訳をしなければならなくなる。本当に研究しようとするなら、私の三策を行う訳にはゆかない。口が裂けても(外国の翻訳を)提起しないとか、華夏(古代中国)にすでにあったとか、或いは、
春申浦畔に獲た(上海の河畔で見つけた)などと改作は無用である。
 問題はこれだけではない。本当に元朝史を研究するには、屠介納夫の国の言葉を知らねばならぬし、単に「鴛鴦」「蝴蝶」だけでは敷衍できない。だから、
中国の国学は発達しないならそれまでだが、もし発達するなら、私の直言を許してもらえれば、断じて租界にいる自称国学家の「足を置く能はざる所」である。
 ただ、序文の所謂三か所中、「馬咱托拉抜拉滑史徳」はどこで切ればよいか最初分からなかったが、読んで行くと、2番目は馬咱托拉で、3番目は抜拉滑史徳と判明した。それ故、国学研究を明確にするには、外国文字を取り入れ、新しい句読点を使うべきである。   116
 
訳者雑感:
 チリの中小銅鉱山の地下から33人が地上に戻って来た。その喜びの合唱は、
チ チ チ リ リ リだった。漢字では智 智 智 利 利 利だと毎日かどこかの新聞が報じていた。これなどはいい音訳だと記者も褒めていた。
司馬遼太郎が「草原の記」で、匈奴に関してフン族の後裔であるHungary
中国語で匈牙利(XiongYaLi)と表記するのはHungと離れていると疑問を感じたと記している。私もそう感じたこともあり、古代の音の残っている、広東語の辞書を引いたら、兄、胸と同じ音で、Hungとあった。
 そう言えばHawaiiを夏威夷と表記してXiaWeiYiというのも変だなと感じていたことがあったが、広東語辞典にはHaとある。ハワイとか外来地名の翻訳は、
それを最初に受け入れた広東人たちが漢訳したから、こうなったのだろうか。
そう言えば香港は北京音ではXiangだが、広東音ではHiangである。
 広東人の耳は音に忠実で、Bombay, Burmaとつい最近まで英語ではBの音
で表記されていたのが、ムンバイとかミャンマーに改められたが、中国語では
その前から、孟買(MengMai)緬甸(MianDian)と漢訳されていた。2番目の字は忠実ではないが、最初の音は忠実と言える。
 広東人は早くから海外との接触も多く、世界中に移民してその地で暮らしては、祖国にお金と便り、それに知識をもたらした。彼らは自分たちは、唐の時代に北方から(追われて)移ってきたとの自負から、自らを唐人と称し、その街を唐人街と誇りを持って呼んだ。
 広東人がせっせと忠実に漢訳したものを、民国になって、租界でカードをしたり、飲酒に溺れる自称国学家たちが、外来の科学、文学などの翻訳に対して、拒絶反応的な態度を取り、忠実に外来の文化を受け入れるのを阻んだことで、
魯迅たちの新文学運動の邪魔をしたのが、この雑文の背景にあると思う。
 新しい考えを紹介したら、「そんなものは3千年前の中国にあった云々」では
進歩は無い。人権とか言論の自由という考え方も、まだまだ浸透してないだけでなく、根強い拒絶反応にあっているのが今日の情勢と言える。
      2010/10/15
 
 

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おかしな音訳

1.        
簡単なことがいつまでも整理されずに放置されている点で、中国ほどひどいところは無い。外国人名の音訳など、本来至極当たり前で、普通のことだ。常識がほとんどないという人でなければ、つまらぬことに時間を費やすこともなかろうに、上海の新聞、名前は忘れたが、「新申報」か「時報」のいずれかに、暗闇から石を投げるものが嘲笑して言う。新文学家になる秘訣は、先ずは「屠介納夫(ツルゲーネフ)」「郭歌里(ゴーゴリ―)」といった類の人の知らない字を使う事だ。
 凡そ昔からの音訳の名前:靴、獅子、葡萄、蘿卜(大根)、仏、伊犁などは、みな奇ともせず使っているのに、ただやみくもに新訳字について異を称えるのは、もしも上述のことを知っていてそういうならおかしなことだし、知らないで文句を言っているなら哀れむべきだ。
 その実、現在の翻訳者の多くは、昔の人に比べ、よほど頑固になっている。
南北朝時代の人が訳したインド人の名前は、阿難陀、実叉難陀,鳩摩羅什婆…、
決して中国人の名前にこじつけたりしなかった。だから今でも彼らの訳から原音を推測可能である。光緒末年に留学生の本や新聞に載ったのだが「柯伯堅」なる人物が外国で現れた云々とあり、注意せずに読むと彼は柯府(有力者の家)
の旦那、柯仲軟の令兄かと間違えそうだ。幸い写真があり、そうではないと分かる。実はロシアのKropotkinだ。その本にもう一人「陶斯道」という名があり、それがDostoievskiTolstoiなのか分からない。
 この「屠介納夫(ツルゲーネフ)」「郭歌里(ゴーゴリ―)」は「柯伯堅」の
古雅さに劣るが、外国人の氏姓に「百家姓」にある字をつけなければというのが、現在の翻訳界で常習化し、六朝時代の和尚より本分に安んじているというほどになっている。然るに、別の人は闇から石を投げて、嘲笑っているのは、なんとまあ、「人心は昔のように純朴ではない」とでもいうのか。
 現在の翻訳家は昔の和尚に学び、人名地名は音に準じて訳し、いたずらに変な嵌めこみに気を使わず、改正してゆくべきだ。即ち、「柯伯堅」は今「苦魯巴金」と改訳されたが、第一音はKKuではないから「苦」を「克」に改めるべきだし、KKuの音は中国音でも区別ができる。
 しかし中国では不注意にも去年Kropotkinが死んだ時、上海「時報」は日露戦争の敗将Kuropatkinの写真を載せ、この無政府主義の老英雄と取り違えてしまった。1922114日。
 
 
 
 
 

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童謡の反動歌 

童謡の反動歌 
1.       童謡   胡懐琛
 「お月さん! お月さん!
 もう半分はどこへ行っちゃったの?」
「偸まれちゃったの」
「偸まれてどうなったの?」
「鏡になったのさ」
2.        童謡の反動歌  子供
 お空の半欠けお月さん
「割れた鏡が飛んで行った」っていうけど、
もとは偸まれて地上に降りて来たんだって。
わあ面白いな、面白いな。それで鏡になったの?
だけど丸いのや、四角、長四角、八角、六角の菱花や蓮花の鏡は
見たことあるけど、半月の鏡は見たことないよ。
つまんないね!
この子は新しい思潮の影響を受けて、どうも難癖をつけたがる嫌いがあるが、人心は古びず、おおいに気分が良い。一方原詩にも欠点が見られ、もし第2句を半欠けの片方はどこへ行ったの、とすれば完璧になる。胡さんは添削にたけておられるから、愚見を無視はされないだろう。
陰暦仲秋の5日前、某生記。十月九日
                  2010/10/09
訳者雑感:
原詩の作者と魯迅の関係を知らないと、理解しがたい。出版社注に依れば、作者の胡氏は1886-1938の国学家、鴛鴦蝴蝶派の作家で、「新文学の提唱者は、中国文学の改造を唱えているが、ここ数年なんの成果も挙げておらず、更には反動化している、云々」という文章への反撃である由。鴛鴦蝴蝶派というのは、鴛鴦に表現されるような内容の文芸を主体としたもの。胡氏が当時の新文芸提唱者の代表胡適の詩を勝手に改作したものを発表したことも皮肉っている。
 
話は劉暁波氏のノーベル平和賞に飛ぶが、彼が魯迅に学んだ点が2-3あると思うので、それを記す。
    大学の教師をしていながら、6.4運動の時に帰国して、学生の側に立って、
官憲に逮捕されて犬死するのは、一番無意味だとして、天安門からの避難を
勧めたこと。官憲並びに実権を持った政府が反政府行動者を虫けらのごとく
逮捕射殺するのは、1989年も、魯迅の生きた軍閥政府の1920年代となんら変わりはないことを、(文革を通しても)肌身に感じていた。
魯迅も教え子たちが、軍閥政府の銃弾で死んでゆくのを一番悲しみ、文章で抵抗するのが大切で、体で抵抗して命を落とすのを無益なことと訴えた。
「花なき薔薇」「忘却の為の記念」にそれを記す。
    アメリカやオーストラリアなどから国外に避難して、国外から反政府活動を
するように、との勧めを一切断って、やはり中国に戻って、中国で「民主」
を訴え続け、一党独裁政治を批判したこと。
魯迅も晩年、日本やソ連などから身の保全と療養も兼ねて、日本などに来て執筆を続けてはとの誘いを何度も受けたが、中国に身を置いていなければ、何も書けないとして申し出をすべて断り、死ぬまで離れなかった。
    今日魯迅が生きていたら、劉氏にどのようなメッセージを送ったであろうか。
大きなお墓に改葬されてしまって、藤椅子に腰かけさせられた大きな像は、
何も言えないだろうか。改葬される前の顔写真だけが嵌められた普通の墓石の下に眠っていた魯迅なら、すぐにでも「活無常」の口を借りて、反撃してくれるに違いない。
「劉氏にノーベル賞を授与するのは、ノーベル平和賞への冒涜だ」という
中国政府の発表に対して「それは、おかしい。中国政府は次のように言うべきだ」
「劉氏にノーベル賞を与えるのは、中国への冒涜だ!」と。
 

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事実は雄弁に勝る

西哲は、事実は雄弁に勝ると言った。私も確かにその通りだと思っていた。
だが今日の中国ではそうではないと悟った。
 去年、青雲閣の店で(布)靴を買った。今年それが破れたので、同じ店に同じものを買いに行った。太った店員が持ってきたが、先がとがって浅かった。私は古いのと新しいのを片方ずつカウンターに並べて「違う」と言った。
「同じものです。間違いありません」
「これは…」
「同じです。よくご覧になってください!」
 それで私は先のとがったのを買って帰った。
 
 (これに関連して)ついでに我中国の愛国者先生にひとこと。先生は、自国の欠点を攻撃するのは、外国人のいう批判を受け売りしているもので、試みに、中国の前に我々のという2字を付けてみて通じるかどうかをみれば、すぐわかるとおっしゃる。
 今私は謹んで付けてみたところ、通じました。
 (同じです)よくご覧になって!      1921114
 
訳者雑感:
 これは何を言わんとしているのか、難解である。
推測だが、破れた布靴は、1年はいたら先は丸くなり指の厚みで厚くなくなっているかもしれない。だから店員が持ってきたのは、製造番号は同じだった。しかし並べてみたら明らかに違うのだが、売り手の方が強い中国では雄弁で押し通すほうが勝る例が多い。
 一方、愛国者先生が批判しているのは、魯迅など現代中国の欠点を暴くのは、外国人の受け売りだという点で、「中国は頑迷固陋で、眠れる獅子」的な批判の前に「我々中国は頑迷固陋」という2字を加えてみれば、それが外国人の受け売りか、どうかが分かると言っているが、魯迅がつけてみたところ、通じることがはっきりした。「見てごらん」ということか。
 我々中国人は何々だ、という何々が否定的なものであれば、愛国者先生は
通じないという。彼らにとってそれは通じない。通じるのは耳触りの良い褒め言葉ばかり、自慢ばかり、自己満足ばかりなのだろう。

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1921年  知識は罪

 私はもともと平凡で小さな酒店で雑事をし、安穏に暮らしていたのだが、不幸にも字を覚え、新文化運動の影響を受け、知識欲に目覚めてしまった。
 当時田舎にいて、豚や羊をとても可哀そうに感じた。辛くとも牛や馬のように何かの役に立てば、食用だけに飼育されることから免れるだろうに。だが豚羊は、ぼやっとしているだけで、一生を糊塗し、現状に満足し、なにもしようとしない。だから知識は必要だと思った。
 それで私は北京に来て、師について知識を求めた。地球は丸く、元素は70余、XYZなど、初めて聞くことは難しかったが、人はこれを知らねばならないと思った。
 ある日新聞を見て、私の信念は打ち砕かれた。虚無哲学者の「知識は罪で、盗品也…」という記述で、当時虚無哲学は大変権威があり、それが知識は罪だ、という。私の知識はたいしたことは無いが、知識には違いなく、このため、私は穴に落ち込んでしまった。それで師に教えをこうた。師は言った。「お前は勉強をなまけようとしてそんな出鱈目をいうのかね。戻って勉強しなさい!」私は「師は月謝を貪ろうとしている。知識はやはり無い方が良い、ということが脳裏から去らなかった。すぐには放り出せぬので、一刻も早く忘れよう」と思った。
 だが、遅かった。その夜私は死んでしまった。夜半、私は宿舎のベッドに横たわっていると、二つのものが現れた。一つは「活無常」もう一つは「死有分」。
(この2つはあの世への案内人:訳者注、「朝花夕拾」の「無常」参照)
私は何の違和感も無かった。彼らは城隍廟の塑像と同じだった。しかし彼らの後ろにいる二つの怪物に私は驚いて声を失った。それは牛頭馬面ではなく、羊面豚頭だ!そこで悟った。牛馬は聡明だから罪を得て、これらに変えられたのだ。このことで、知識が罪だと悟った。私の夢が終わらぬうちに、豚頭は口で私を突きあげ、あっというまに冥土に転げ落ちた。しばらくすると(紙製の)車馬が(死者供養のため)焼かれた。
 冥土に行った先輩の多くの話では、冥土の大門には扁額と対聯があるというが、注意してみたが何もなかった。ホールに閻魔様がいたが、なんと隣居の大富豪、朱朗翁だった。金は冥土には持って行けないはずだし、死ねば穢れの無い幽霊鬼になるそうだが、どんな手を使って大官になったのかしらん。とても質素な愛国布の龍袍を着て、その龍顔は生前よりふくよかだ。
「お前は知識があるか?」朗翁は表情のない顔で問う。
「ありません…」と虚無哲学者のことを思い出しながら答えた。
「無いというのは、ある証拠だ。連れてゆけ!」
 私は冥土の論理も実に奇怪なり、と思った。それで羊の角に小突かれて、閻魔殿から転げ落ちた。それは城池で、中は青レンガと碧の門の部屋があり、門の上にはセメント製の二匹の獅子、門外に一枚の看板がかかりこの世なら、それぞれの役所に56枚掛っているのに、ここは1枚のみ。それで冥土の土地が広大だということが分かる。この刹那、鋼の刺す叉を手にした豚頭の夜叉に鼻で小突かれて建物の中に入れられた。外の牌額に「豆油の滑り地獄」とあり、中は果てしなく平坦で、白豆の桐油が一面にまかれていて、無数の人がその上で滑って転んでは立ちあがりを繰り返している。私も立てつづけ様12回ほど転び、頭にたくさんのこぶを作った。だが入り口で坐ったり、寝転んでいる者もおり、起き上がろうともしない。油でべたべただが、こぶの有るのは一人もいない。私がわけを聞いても、目を開いたまま口は開かぬ。彼らは耳が聞こえないのか、話が通じないのか、話したくないのか、話すことも無いのか、どうしてかしらん。
 そこで私は転びながら前に進み、コロコロ転んでいる人に聞いた。その一人が答えて曰く「ここが即ち知識を罰する所さ。知識は罪、盗品だからさ。我々はまだ軽い方さ。シャバにいたころどうしてもう少し昏迷にしてなかったのかと悔む…」彼はハーハー息を切らしながら断続的に答えた。
「今からバカになれば」
「もう遅い」
「西洋医は人を昏睡させる薬があるから、注射してもらえば?」
「だめだ。そんな医薬の知識があるから、ここで転ぶのさ。それに針もないし」
「ではモルヒネ専門の、余り知識のない人を尋ねてみよう」
 この話をしているとき、私はすでに数百回も転んだ。それで失望し、それ以上もう注意もしなくなったとき、白豆の油の希薄な地面に頭をぶつけた。地面は硬く、ドスンとひどい転び方だったので、そのまま昏倒してしまった。
 おお!自由!私は忽然、平地の上にいて、後ろはあの城。前は宿舎だ。私はそのままやみくもに歩き、私の妻子はもう上京していると思い、彼らは私の屍を囲んで泣いていると思った。私は自分の棺の所へ行き、まっすぐに坐りなおした。彼らはびっくりした。あとから丁寧に説明してやっと分かってくれた。
とても喜んで大声で叫んだ。貴方はまだこの世にいる。ああお天道様、ありがとう。
 私はこうしてとりとめのないことを考えていたら突然生き返った。
 私の妻子は身辺にはいず、卓上に灯りがひとつ。私は宿舎で眠っていたようだ。隣の学生は劇場から戻り、気持ち良さそうに「先帝はーあーうーあー♪」をうなっているところからすると、もうだいぶ夜は更けたようだ。
こうして、この世に戻ってもとても静かで、まったくこの世に戻ったように感じず、さきほども死んだのではなかったようだ。
もし死んでいなかったら、朱朗翁も閻魔にはなっていないのだろう。
 この問題を解くのに知識を使うのは罪だから、やはり感情を使って、解くとしよう。               19211023
     2010.107
訳者雑感:
 魯迅の作品にはあの世との交信がたびたび出てくる。唐代伝奇物語とかの
伝統が受け継がれているのだろう。文字を知るのが苦の始まり。漢字というこの画数の多い四角い字は、ローマ字を覚えるのとは、どこか違う脳細胞を使わねばならないのかも知れない。造語力という点では誠に豊かなものがあるが。
あるレベルに達するまでには、大変な苦労がいる。それを使いこなせるように
なるには、罪作りな仕業をして、人から大量に「知識」を盗まねばならない。
「月謝」はその対価か。
 夢の話は、欧州の作家か、夏目漱石の作品などの影響もあろうか。
 
 

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66 生命の路

人類の滅亡は大変寂しく悲しいことと思っていた。が、数人の滅亡はなんら寂しくも悲しくもない。
 生命の路は進歩するもので、無限の精神という三角形の斜面を右肩上がりに進み、それを阻止することはできない。
 もちろん実に多くの問題や不和が人々を悩まし、それで自ら委縮堕落し、
退歩する例も甚だ多いのも事実だ。しかし生命は決してそんなことで後戻りはしない。どんな暗黒が思潮を妨げようと、どんな悲惨が社会を襲おうと、どんな悪が人道を冒涜しようと、人類の完全さを渇仰する潜在的な力は、こうした困難を踏み越えて前進する。
 生命は死を恐れず、死の前にしても笑って跳ね、死せる人々を乗り越えて前進する。
 路とは何か?道なきところを踏み固めてできたもの、荊棘を切り開いてできたもの。
 路は昔からあった。そして将来も永遠にあらねばならぬ。
 人類は決して寂莫にはならない。生命は進歩し、楽天であるから。
 
 昨日私は友人Lと話した。「一人の死は当人とその眷族にはたいへん悲惨なことだが、一村一鎮の人からみればなんでもない。一省、一国、一種族からみれば……」
 Lは顔をしかめて、「それはNatur(自然)のことで、人間のことじゃない。
君、注意しなければいけない」と言った。
 私は彼の言う事も一理あると思った。
           2010/10/02
訳者雑感:進化論と生命と路、この3つのキーワードが、めちゃくちゃな当時の中華民国で生き抜くための「楽天」であった。深刻な文章を書きながらも、つねに「楽天的」に物事を考える。現代中国の格差問題に始まるすべての問題も漢民族の伝統「楽天」が次の生命につなげ様としている。楽天が4億人から13億人に増え、死ぬ者の数を上回って来た。
 

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65 暴君の臣民

 以前清朝の重大事案の記録を見ていて、「群臣百官」が罪は大変重いと上奏しているのに対し、「皇帝」は常に減軽しているので、多分これは仁に厚いという美名を残そうとして、こんな手口を使ったのではないかと感じたことだ。
 後になって考えてみるに、全く私の見当違いであったことが分かった。
 暴君治下の臣民は、大抵は暴君より甚だしいもので、暴君の暴政は、時として暴君治下の臣民の欲望を満たしきれないものだ。
 中国のことは持ち出すまでもない。外国の例でみても、小はGogolの劇「検察使」で、衆人はみなその上演を禁じたが、ロシア皇帝はそれを許した。大は、
イエスキリストで、執政官は釈放しようと思ったが、衆人は彼を十字架に釘付けするように要求した。
 暴君の臣民は、暴政が他人の頭に落ちるのを望み、それを見て喜び「残酷」
を娯楽とし、「他人の苦しみ」を賞翫し、慰安とする。
 自分の本領はそれから「うまいこと免れる」ことだが、「うまいこと逃れた」
ものの中から犠牲者を選び、暴君治下の血に飢えた臣の欲望を満たす。だが、誰もそれを知らない。殺されるものは「ああ!」と叫び、生き残った者は喜ぶ。
         2010/10/02
 
訳者雑感:北朝鮮が三代世襲を発表した。金氏が暴君か否かは歴史が決めるだろう。だが、過去60余年間彼の地で暮らしてきた民衆は、世界的な標準から見れば、かなり苦しい目に遇って来て、脱北という行動に出ざるを得ないほどなのだが。
しかし、三代の世襲という暴君の暴政を続けさせようとするのは、暴君の臣民に違いない。他人に苦しみを与えておいて、それを見て喜ぶようだ。
別の言いかたをすれば、もし世襲でなくて、別の人間に政権を譲ったとすると、その人間が金一族の悪をすべて暴露し、徹底的に覆すとなると、国家そのものが立ち行かなくなってしまうという危険性が大きいからだという。
暴君の臣民は、それを「うまいこと免れる」本領も持ち合わせていて、その本領を発揮したのが何を隠そう、今回の三代世襲というこの国の形だ。
韓国の例で、後任者が前任者の悪をあばき、当人を裁判にかけ、自殺に追い込むケースなどが何回も繰り返されてきたので、暴君の臣民はそれを一番恐れる。
暴政は他人の頭に落ちて呉れ。自分の頭上には落ちないでくれ!と言っているようだ。金氏の世襲を断ち切るものは、前回述べた「聖武」しかないか。
 

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64 有無相通ず

 南北の官僚が戦争しても、南北の人民は仲良くし、そこで一心に「有無相通」ずるようにする。
 北方人は南方人が文弱すぎるとし、彼らにたくさんの拳法を教える。八卦拳、
太極拳、洪家、侠家、陰截腿、抱粧腿、…(沢山の拳法の名を挙げる)。
 南方人は北方人が余りに単細胞だと思い、沢山の文章を送る。…夢、…魂、
…痕、…影、何とか外史、秘史、…(沢山の文章の名を挙げる)。
 直隷山東の侠客、勇士たちよ! 諸公はかくもたくさんの筋力に富むから、神聖な労作をなしとげられる。
 江蘇江南の才子、名士たちよ! 諸公はかくもたくさんの文才に富み、何冊もの有用な新書を訳すことができる。
 われわれは、自己を改造し、他の人を保全し、互助の方法を考え出し、互いに害し合う局面を収めてはどうか!
     2010/10/01
 
訳者雑感:
 この当時、北の袁世凱と南の孫文に代表される北洋軍閥をバックにした政権と、南の(強い軍事力を持たない)孫文たちが、政権をめぐって戦っていた。
後に毛沢東が「鉄砲から政権が生まれる」と言ったように、南方の文弱な政府は、袁世凱の軍事力の前に屈してしまった。
 袁世凱の独裁と皇帝に即位するという動きに対して、南も南、雲南にもどった、蔡鍔将軍たちが北伐に立ちあがり、袁世凱は倒れた。
 蔡将軍の軍隊は北方の筋力に富む軍人たちから、戦争のやり方を教えてもらったのだろうか。その後広東に軍官学校ができ、蒋介石たちがそこから軍備を整え出した。しかし、魯迅の指摘するように、南方人はやはり文弱なのか、北方の軍閥の系統を支配下に置くことはかなわなかった。
 南方の江西省の井岡山根拠地から追い出された毛沢東と朱徳の軍は、長征の果てに、北方の延安に根拠地を設け、南方の文と北方の筋肉を有無相通ずる形で、蒋介石軍との戦争に勝利したのであろうか。魯迅はそこまで見越していたとは思えないが。
 
 
 

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