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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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評論家への希望

 23年前の雑誌は、只数篇の創作(とりあえずこう書く)と翻訳のみだったから、評論家の登場を望む声が強く、今、評論家が現れ、だんだん増えてきた。
 文芸が幼稚な時は評論家が良い物を発掘し、文芸の炎を煽ごうとする好意はありがたいことだ。また、今日の作品の浅薄さを嘆くのも、作家が更に深く掘り下げて呉れるのを期待するのだし、今の作品には血も涙も無いと嘆くのも、著作界が軽薄に戻らぬように心配しているためだ。遠まわしな批判も多いが、文芸に対する熱烈な好意であり、それはそれでありがたいことだ。
 只、12冊の西洋の古い評論に基づき、或いは頭の固い先生方のつまらぬ意見を後生大事にし、中国固有の天地の大義を持ち出して、文壇に踏みこんで来たりするのは、評論家の権威の濫用だと思う。手近な例で言えば、コックの料理を或る人がまずいと品評しても、彼は、包丁と鍋を評論家に差し出して、ではご自分で料理してください、と言うべきではない。しかし、彼には幾つかの要望があることだろう。料理を食べる人が「ゲテモノ好き」でなく、舌が二三分もの厚さでなければ、など等。
 私の評論家への要望はずっと小さい。人の作品を分析評価する前に、自分の精神を分析し、自分自身、浅薄卑劣、荒唐無稽で誤謬がないかどうかみてくれというのは、容易なことではないから望むべくもない。私の望みはほんの少しの常識に過ぎない。例えば裸体画と春画の区別、接吻と性交、死体解剖と死体凌辱、留学と僻地への追放、筍と竹、猫と虎、虎と洋食堂の区別を知る事。
さらに言えば、英米の老大家の学説を主として批評するのはもちろん自由だが、世界は英米両国だけではないことを知ってほしい。トルストイを見下すのは勝手だが、少しは彼の行いを調べ、彼の著書を何冊かを実際に読んで欲しい。
 何人かの評論家は、翻訳を批評するとき、往々にして歯牙にもかけぬほどにその労を認めず、なぜ創作をしないのかと謗る。創作の貴いのは翻訳をしようとする人は知っているが、翻訳者に留まっているのは、翻訳しかできないか、翻訳を偏愛しているためだ。だから評論家が、もし、事に従って論じず、こうしろああしろと言うのは、職権を逸脱しているし、こうした行為は教訓を垂れることで、批評ではない。またコックに譬えれば、料理を食べる時は、味がうまいかどうか言えば十分であり、料理以外になぜ衣裳や家を作らないのか、と責めるのは、いかな怠け者のコックでも、このお客は「痰が詰まって頭がおかしくなっている」と訝るに違いない。      119
 
訳者雑感:魯迅の所謂創作と呼べる作品は、他の作家に比べてとても少ない。一方翻訳は大変多く、彼の雑感日記を含む「選集」と「翻訳集」は殆ど同じくらいだ。英米だけに偏らず、独仏東欧そして日本の作品が多い。

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