西哲は、事実は雄弁に勝ると言った。私も確かにその通りだと思っていた。
だが今日の中国ではそうではないと悟った。
去年、青雲閣の店で(布)靴を買った。今年それが破れたので、同じ店に同じものを買いに行った。太った店員が持ってきたが、先がとがって浅かった。私は古いのと新しいのを片方ずつカウンターに並べて「違う」と言った。
「同じものです。間違いありません」
「これは…」
「同じです。よくご覧になってください!」
それで私は先のとがったのを買って帰った。
(これに関連して)ついでに我中国の愛国者先生にひとこと。先生は、自国の欠点を攻撃するのは、外国人のいう批判を受け売りしているもので、試みに、中国の前に我々のという2字を付けてみて通じるかどうかをみれば、すぐわかるとおっしゃる。
今私は謹んで付けてみたところ、通じました。
(同じです)よくご覧になって! 1921.11.4.
訳者雑感:
これは何を言わんとしているのか、難解である。
推測だが、破れた布靴は、1年はいたら先は丸くなり指の厚みで厚くなくなっているかもしれない。だから店員が持ってきたのは、製造番号は同じだった。しかし並べてみたら明らかに違うのだが、売り手の方が強い中国では雄弁で押し通すほうが勝る例が多い。
一方、愛国者先生が批判しているのは、魯迅など現代中国の欠点を暴くのは、外国人の受け売りだという点で、「中国は頑迷固陋で、眠れる獅子」的な批判の前に「我々中国は頑迷固陋」という2字を加えてみれば、それが外国人の受け売りか、どうかが分かると言っているが、魯迅がつけてみたところ、通じることがはっきりした。「見てごらん」ということか。
我々中国人は何々だ、という何々が否定的なものであれば、愛国者先生は
通じないという。彼らにとってそれは通じない。通じるのは耳触りの良い褒め言葉ばかり、自慢ばかり、自己満足ばかりなのだろう。
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