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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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62 怨みを飲んで死す

 古来多くの人が怨みを飲んで死んでいった。彼らは一面では「才がありながら、時に遇わず」とか「天道いずくんぞ論ぜん」の類の句を残し、その一方で資産家は嫖に狂い、賭博にのめり込んでいった。あまり金の無い者は何十杯もの酒を飲み、不平を鳴らしながらしまいには怨みを飲んで死んでいった。
 彼らが生きているうちに訊いておくべきだった。諸公!北京は崑崙から何里離れ、弱水は黄河を去ること何丈なりや?火薬は爆竹以外に、羅針盤は風水を見るため以外に、何の用途がありや?綿花は紅か白か?穀物は木になるのか、草になるのか?桑間濮上(男女がこの地で相会する;出版社注)はいかなる状況で、自由恋愛はいかなるものか?夜半にふと恥ずかしくなることなきや?
早朝突然くやむことなきや?四斤の荷は担げるや?三里の道は走れるや?
 彼らがよく考えてみて、だんだん悔い始めたら、なにがしかの希望が見えてくる。もし更に一層不平をこぼし、憤慨して恨むようなら、もはや何の手助けもできない。それで彼らは怨みを飲んで死んでゆく。
 今の中国には、不平憤懣分子が多すぎる。不平はまだ改造の導火線になることもあるが、その前に自己を改造し、社会を再改造し、世界を改造せねばならぬ。ただ単に不平だけをこぼしていても始まらぬ。
 憤慨と恨みなどは殆ど何の役にも立たぬ。
 憤慨と恨みはただ単に怨みを飲んで死ぬための根と苗に過ぎず、古人に沢山いたし、我々は彼らの轍を踏んではならない。
 我々は「天下に公理も無く、人道も無い」という言葉を借りて来て、自暴自棄の行為を覆い隠し、自らを「怨みの塊」と称し、怨みを飲んで死ぬ顔つきをして、実は何の怨みも無く死んではならぬ。2010/10/01
     
訳者雑感:古来中国の名詩と言われるものの何割かは、世に容れられず、時に遇わぬ文人たちが、不遇の時に作ったものと伝えられる。左遷の途次や配流の地で詠ったものが、そうした境遇に追い込まれた「才はあるのに時に遇わず」
「王は我を起用せず、佞臣(ねいしん)に政治を任し、云々」という状況は、
古くから連綿と続いてきたし、魯迅がこの雑文を書いた時にも数え切れないほど、蔓延していたようだ。袁世凱以降、あたかも平成20年前後の日本のごとく、大総統や皇帝、軍閥政権がころころと首班を代え、めちゃくちゃな時代、魯迅の書いたような怨みを飲んで死んでゆく人間が余りに多く、それが彼らの美学だとするような風潮が、民国初期の中国に重くのしかかっていたのだ。そうした人たちが、自暴自棄になって死んでゆくのは、何とかしなければという思いがこれを書かせたのか。立派な学校を出た若者が、職も見つけられず、自暴自棄になって行くのはなんとしても食い止めなければ。

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61 不満

 欧洲大戦終了直後、中国は多くの希望を抱いていた。だが今では悲観絶望
がそれを砕き「世の人道はすたれた」「人道などまやかしだ」と叫ぶ。
評論家は外国の論者が自責の念を述べた文章を引用し、所謂文明人は野蛮人より野蛮なことを証明した、と非難。
 これは誠に痛快な話だが、それでは我々の意見として、どうすれば人道主義と言えるのかとの問いに対する答えは大方は「治外法権の撤廃」「租界の回収」
「義和団の賠償金(元利合計10億両39年分割払い)の返還」……だが、今やすべて渺茫となり、実に人道にもとっている状態である。
 また、「我々中国人の人道はどうか?」との問いに、答えは「……」。
人道に対する答えがただ「……」の人には決して人道は降りてこない。人道は各人の懸命な努力で培い育て、保護して初めて得られるのであり、決して他人からの施しや援助で得られるものではない。
 しかし本当の人道に近いことを説く人はまだまだ少ない。説けば犯罪者扱いされる。それで上っ面だけのことを言うのすら、進歩したとも言えるのだ。
今回は実にひどい戦争だったが、「食肉寝皮(相手の肉を食らい、剥いだ皮の上で寝る)」はしなかったし、「相手国を破壊し尽くす」こともしないで、18の新しい小国を興した。ドイツのベルギー侵略行為が残虐極まりないといえども、ベルギーの公告を見れば、捕虜に食糧を与えず、村長が殴打され、平民が前線に送られたくらいで、こんなことは我中国では、自国民に対しても常に起こっていたことで、奇とするに足りない。
 人類はまだまだ成長しきれておらず、人道も当然のことながら成長しきれていないが、あちらでは発展成長している。我々が良心に問うてみて、同じように成長していると感じれば、なんら心配することはない。将来きっと同じ道を歩むことになろう。見よ!彼らは軍国主義に勝利し、彼らの評論家は自責の念を持ち、多くの不満を抱えている。不満こそは向上の車輪で、自己満足に陥らない人類を乗せることができ、人道に向かって前進する。
 自己満足しない人の多い種族は、永遠に前進し、永遠に希望がある。
 人のことばかり責め、反省を知らない人の多い種族は、禍なるかな。禍なるかな!         2010/09/30
 
訳者雑感:欧州には社会に対する不満をはっきり表明し、自分たちの犯した罪に対する自責の念の強い人たちがいる。一方の中国では、不満というよりは、
不平を口にする人は多いが、現状に満足して生きているだけの人が多いし、自責という概念は少ない。自分で自分の過去を反省するというのは、自主的でなく、上から強制された形でしかありえなかった。文革中に起こった所謂「自己批判」(中国語では自我検討という)では、自分ではそう認めてないし、断じて
認めたくもないのに、それをしないと殺される、辺境送り、身分剥奪という脅しに屈してしか、自分を批判してこなかった。検討という中国語は批判と翻訳されるが、殆ど否定に近い。
 多くの大衆の前で、自責の念にかられて、罪を告白するなど、漢民族の長い歴史伝統からして、「自主的に」など絶対にしてはならないと考えられてきた。
従って、当時の所謂文革派はそうした人々を罵る時、「決して悔い改めることのない反動派、腐敗分子!」という罵詈雑言で、頭から批判否定した。相手を責めるのは大得意だが、自責する謙虚さからは甚だ遠いものがその底にある。
 

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59 聖武 (神聖な武力)

 以前「何とか主義は中国には関係ない」と言った:今日ふとあることを考えたのでそれについて書く。
 思うに、我々中国は元来新しい主義の発生する所ではないし、それを受け入れる所でもない。たとえ偶然外来思想が入って来ても、すぐ変色し、しかも多くの論者はかえってそうなったのを自慢する。
 我々はほんの少し訳本の序や跋に注意すれば、また各種の外国事情についての批評論議をよく読めば、我々と彼らの思想の間には、何重もの鉄壁の隔てが有るのを発見する。彼らが家庭問題と言うと、我々はそれを戦争を鼓吹していると看做し:彼らが社会の欠陥をあばくと、それをジョークだと思う。
彼らが良いと思うものは、悪いと言う。更に外国の国民性を注意して見、国民文学や文人の評伝をみると、外国の著作に描かれた性情や作者の思想が、殆ど中国のそれと異なっているのがわかる。だから理解できぬし、同情もできぬ。感応もできないのだ:彼我の是非、愛憎に至っては、相反する結果になるのを免れない。
 新しい主義の宣伝者は、放火する者だが、受け入れる人が精神的な燃料を持って初めて着火するのだし、琴を弾いても聴く人の心に弦があってこそ音が響く。
発声器も他の人が発声器を持ってはじめて共鳴する。中国人はどうもそうではないから、関係ないということになる。
 というと、読者の何人かは多分怒って「中国も何人も主義に命を殉じた人もいる。中華民国以来、主義の為に多くの烈士が死んだのに、お前は何を根拠に全て否定するのか?ペッ!」これも真実だ。我々は古くからの外来思想からいうと、六朝時代には確かに多くの焚身した和尚がいたし、唐代にも腕を切って、無頼漢に布施した和尚もいた。新しいところでももちろん何人もいる。
 しかしである。中国の歴史とはやはり何ら関係ない。歴史を総括すると、数学のように精密ではなく、多くの少数を記述するでもなく、おおざっぱに四捨五入して計算し、整数のみを記しているのだ。
 中国史の整数の中には実際のところ、何とか主義と言うものは無い。この整数の中には2種の物質のみしかない――刀と火である。
その二つをまとめて(賊、軍隊が)「来るぞ!」というのが、
その総称。
 火が北から(侵入して)来れば南に逃げる。刀が前から(切りつけて)来たら、後ろに退く。山ほどある(歴史の)出納帳(二十四史を指す;出版社注)は、このパターンの繰り返しである。
 もし「来るぞ!」というネーミングがあまり適切でないし、「刀と火」というのも何か目になじまない、というのであれば、別途妙案を考えねばならず、謚名(おくりな)の法にのっとって、「聖武」(神聖な武力)とすれば多少見栄えがよくなろうか。
 昔、秦始皇帝が隆盛のころ、劉邦と項羽が彼を見て、邦は「ああ!大丈夫はこうでなきゃ!」と言い、羽は「彼、取って代わるべし!」と。羽は何を「取」
ろうとしたのか。即ち邦の言う「こうでなきゃ」である。「このようで」の程度は違うとしても、誰もが取ろうとし、取られるのは「彼」で、取るのは
「丈夫」である。「彼」と「丈夫」の心の中には、この「聖武」が生じるところ、
それを受納するところである。
 何を「こうでなきゃ」と言うか?これを話せば長くなるが、一言で言えば、獣性の欲望を満たすことで――権勢と福、子女、玉帛(玉と絹、財宝)だ。
 それが全ての大小丈夫にとって、最高の理想(?)と看做されている。現在の人もこの理想に支配されていると見られる。
 大丈夫は「このように」なった後も欲望は衰えず、体も疲弊しないが、どうやら黒い影――死が身辺に近付いてきたと感じ、神仙になろうとする。中国ではこれも最高の理想だ。現在の人もこれに支配されているのではと心配だ。
 神仙を求め、ついに得られず、疑念を催す。それで造墳を始め、屍を保存しようとし、自己の屍で一塊の地面を永遠に占拠する。これも中国ではいかんともしがたい最高の理想で、現在の人もまだこの理想に支配されているのではと思う。
 現在の外来思想はどんなものであれ、自由平等の気があり、互助共存の気があるので、我々の(社会)で、この単に「我」というものが、単に「彼を取ろう」とのみを考え、自分だけですべての空間時間という美酒を独り占めして飲み尽くそうとしている(中国の頑迷な)思想界には、実際、足を踏み入れる余地すら無い。
 このため、あの「来るぞ!」を防ぎさえすれば、それで十分である。外国を見ると、この「来るぞ!」に抵抗して拒否できるのは、確かな主義を持つ人民だ。彼らは信じるところの主義のために、一切を犠牲にし骨肉で刀に対しその切っ先をにぶらせ、血液で火を消し、刀光の火色が減じる中に、天空が薄明に変わるのを見る。それが新世紀の曙光だ。
 曙光が頭上に来ているのに、頭をあげなければ、永遠にただの物質の閃光が見えるだけである。
        2010/09/29
訳者雑感:
 聖武天皇を思いながら、聖武という表題を眺めて不思議に感じていた。
今回精読してみて、中国の歴史は「主義」によって「変革」「革命」されたことは、小数点以下であると悟った。いずれも整数になれず、歴史書には残らなかった。
魯迅の指摘するのは、「聖武」が易姓革命を執行してきた。即ち「刀と火」であり、外国の「主義」を持つ人民は自らの「骨肉と血液」でその刀と火に立ち向かって曙光を見出してきたが、中国ではどうであったろうか。
 辛亥革命での彼の実経験に基づけば、「刀と火」が緑営や匪賊、盗賊などによって「金持ち」だけでなく一般庶民までも巻き込み、獣性の欲望に依って、「財宝、子女」をかっさらって行った。それが「来るぞ!」という言葉で、
資産家、無産家の一般中国人を怖れさせ、新しい帝王、支配者が古い支配者に取って代わるという、歴史の繰り返しだと教えている。
 「二十四史」という出納帳には、それしか書かれていないのか?
 
 外来思想の主義というのも、中国に入ってくるとすぐ変色し、多くの論者は変色させたことを自慢する、というのも実に的を得ている。
昔の仏教然り、今日の社会主義然りである。中国特色社会主義と改称する。
 
 

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58 人心、古びたり


 慷慨激昂ばかりしている人は「世道は薄情で、人心は軽薄で国粋は将に滅びんとし、このため私は天を仰いで切歯扼腕、三嘆する也!」という。
 はじめてこれを聞いた時はたいへんびっくりしたが、古書を見たら「史記」の「趙世家」の公子成が主父の胡服に改めるのに反対する段を記した処にあるのを偶然見つけた。引用すると、
 「臣は中国は蓋し聡明徇智の居所で、万物用財の聚る所、賢聖の教える所、
仁義の施される所、「詩」「書」礼楽の用いられる所、異敏技能の試される所、遠方から観に赴く所、蛮夷の義を行う所也:今王は此れを捨て、遠方の服を襲い、
いにしえからの教えを変え、いにしえからの道を易え、人の心に逆らい、学ぼうとしないで、中国から遊離することになる。故に臣は王が之を図るを願う也」
 これは現在革新を阻止抑制せんとする人の言葉と寸分違わないではないか?
後にまた「北史」の周静帝の司馬后の話の中にも:
 「后の性は妬忌、后宮は敢えて進御せず。尉遅迥女孫は美しく、先に宮中にて、帝は仁寿宮に之を見て悦び、よりて幸を得た。后は帝に伺い、朝を聴き、
陰に之を殺した。上は大いに怒り、単騎苑から出て、径路に由らず山谷に入ること三十里:高熲楊素等が追った。馬をおさえ、諌めた。帝は嘆息して曰く。
「吾の貴なるは天子たるも、自由を得ず」と。
 これも又現在の口では自由を主張しながら、実際には自由に反対する人の、自由に対する解釈に対して、寸分違わぬではないか?他に似た例がきっとたくさんあると思うが、見聞狭隘ゆえ多くは挙げられぬ。だがこれからわかることは、過去何年経っても、人間の考えはやはり同じなのが分かる。現在の人心も
とても古びているのだ。
 中国人はもっとずっと古くなろうと思っても、三皇五帝以前には古びるような望みは持てるとは限らない。残念ながら、時として新潮流、新しい空気の激震に遭遇し、もはやそんなことをしている暇もないのである。
 現在の古い民族で、最も中国式理想にかなうのは、セイロン島のVedda族だ。
彼らは外界との交渉は一切せず、多民族の影響も受けない。ずっと原始の状態で、まさに所謂「伏羲皇帝」に愧じない。
 しかし彼らの人口は年々減少していて、もうすぐ絶滅してしまうそうで、これは実にとても残念なことである。
   2010/09/28
 

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 57 現在の屠殺者

高雅と言われる人は「口語文は卑しくて浅薄固陋、知識人の目にする値打も無い」という。中国で字の読めない人は、話ができるだけで「卑しくて浅薄固陋」なのは言う必要も無い。「自分は(古文を)書けないから、口語を提唱し、自らその固陋を覆い隠そうとする」吾輩などはまさに「卑しくて浅薄固陋」なのも言うまでも無い。
 最も嘆かわしいのは、何名かの雅人が、「鏡花縁」の中の君子国の酒保のように、「御酒は一壺ならんか、両壺なりや。酒肴は一碟なりや、両碟か?的な高雅
さは保てず、古文を呻吟する時のみ、高雅で古風な品格を顕し、普通の話を始めると、「卑しくて浅薄固陋」な口語になる。4億の中国人の口から発する声はすべて一顧だに値しないとは、まことに哀れなり。
 人間なのに仙人になろうとし、地上に生きつつも天上に昇ろうとする。現代人として現代の空気を吸いながら、朽ち腐れる名教(儒教)にしがみつき、死んだ言語で現在を侮蔑し尽くす。これは「現在の屠殺者」である。「現在」を殺したら、「将来」も殺す。
――将来は子孫の時代だ。
     2010/09/28

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56 来るぞ!

 近頃「過激主義が来るぞ!」というのをしばしば耳にする。新聞にも「過激主義が来るぞ!」と何回も書いている。それでお金が少しある人は心配そうだ。
役人も忙しくなり、欧洲から帰国した労働者の運動を防止し、ロシア人に注意し、警察庁まで「過激党が機関を設立していないかどうか、厳重に調査すべし」と命令を出した。
 慌てふためいて、厳重調査するのも分からんでもないが、まず最初に何が過激主義かを聞きたい。
 これに就いては何も説明は無いので、知りようがない。私も知らないのだが、敢えて言えば「過激主義」が来ることは無い。それは心配無用だ。ただ「来るぞ」は来るから、心配せねばならぬ。
 我々中国人は、決して輸入された何やら主義に引き回されることは無い。そんなものは抹殺し撲滅する力はある。軍国主義といっても、我々はこれまで他人と戦争してこなかったし、無抵抗主義といっても我々は(欧洲大戦に)参戦したし、自由主義といっても、我々には思想の表現すら犯罪とされ、二言三言話すのさえ困難だ。人道主義などとんでもないことで、我々はまだ人身売買もできるのだ。
 だからいかなる主義であれ、いずれも中国を擾乱できない。古くから今日までの擾乱は、何らかの主義に依ったなどと聞いたことも無い。目下の例を挙げると、陝西学会の布告(軍閥の惨殺)、湖南災民の布告などは何と恐ろしいことか。ベルギーの発表したドイツ軍の苛酷な状況、ロシアの別の党の出したレーニン政府の残虐な状況などを比べると、彼らはまったく天下太平で、ドイツはやはり軍国主義を説くし、レーニンは過激主義を説いているのに、である。
 これが即ち「来るぞ!」が来たのだ。来たのがもし主義なら、主義が達成されたら、それで了とされる。もし単に「来るぞ」だと、それは来ても尽きることは無いし、来てからどうなるかも分からない。
 民国ができたころ、私は小さな県城(県庁所在地)にいて早々と白旗を掲げた。ある日忽然おおぜいの男女が紛々と乱入、乱逃した。城内からは田舎へ、
田舎から城内に、と。何事かと訊くと口々に答えて曰く:「やつらが来るぞ、と
言った」と。                                                 
 これで分かるのは、みんな単に「来るぞ!」をこわがっており、私と同じだ。
あの時はまだ単なる「多数主義」があったきりで、「過激主義」は無かった。
     2010/09/27
訳者雑感:
 「阿Q正伝」のなかで、阿Qも革命党に入党したくて、いろいろ試みるのだが、夢をみているだけで、革命党からの誘いは何の音沙汰も無い。阿Qの入党したいという動機からして、金持ちの家に押し入って、金銀財宝、女性をかっさらってくることにあったのだから、空いた口が塞がらない。
 しかし、民国革命前後の革命党というか、作品中にもあるように自由党とか何とか党など、沢山の党ができたわけだが、それらは何か具体的な主義主張を
明確に打ち出すことより、まずなにはさておき、それまでの政府の倉庫にあった「財貨」や金持ちの家の「家財一切」をかすめ取ることを専らとする手合いが多かった。これが、ここでいう「来るぞ!」ということが皆から恐れられた理由背景である。
 魯迅の指摘する「輸入された主義」なぞ何の恐くも無い。そんなものは自分で抹殺撲滅する力はある、というのは、今日「輸入された社会主義」はソ連崩壊の前に、早々と自力で撲滅したかの観がある。
 
 

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54 二重構造

中国の社会構造は、数十世紀を一瞬に圧縮したような状態で、松明から電灯、
一輪車から飛行機、投げ槍から機関銃、「法理論の妄談」禁止から法律擁護、
「食肉寝皮」(人肉を食いその皮の上で寝る)という人食い発想から人道主義、
屍を迎え、蛇を拝むことから美術教育で宗教を代替することまで、全てがいっしょくたになって、ひしめき合っている。
 こうしたもろもろの事物がごっちゃに一か所にひしめいているのは、あたかも吾輩が火を使い始める前の古人と共同で、レストランを始めたような状況で、
どんなにうまく協調しようと努力しても、料理は半熟のままで、ボーイたちも
気持ちはてんでんばらばらで、商売的にも成りたたず、倒産してしまう事は目に見えている。
 黄郛氏は「欧洲大戦の教訓と中国の将来」と題した文章の中で、この点に関して、大変明確な分析を行っている。
 「7年来朝野の有識者は政教の改良に腐心するに当たって、習俗の転移に注意を払って来なかった。古い悪習を取り除こうとせずに、新しい機運は生まれてこないことを認識してこなかった。物事はこのように無理やりやっても、何もうまく運ばない。外国人の我々を評すに、中国人は一種先天的保守性があり、時勢に迫られ、各種の制度改革が必要な時、かの所謂改革者は、決して旧制度を完全には廃せずに、旧制度の上に新制度を加える形をとる。前清の兵制の変遷史をみれば、我が言の無謬なのを知られる。最初は八旗に命じて各地に駐屯防御の兵として補充守備に当たらせたが、年月を経て、旗兵が腐敗して使い物にならなくなり、洪秀全(太平天国)が起こり、やむなく湘淮の両軍を募り、応急措置とし、それから旗兵と緑営(後の軍閥)が併存という二重構造ができた。日清戦争後、緑営の兵力も当てにはならぬので、新式軍隊を作り前二者と併せ三重兵制となった。今では旗兵は消滅したが、すがた形を変えた緑営は依然として存在し、やはり二重兵制だ。これから我が国人は徹底した改革を実行する能力が無いことは覆い隠せぬ事実だ。新暦で新年を祝いながら、旧暦でもまた祝う。民国の正朔を奉じながら、宣統の年号も存し、社会の各方面の、あらゆる所で二重制でないものは無い。今日の政局がかくも不安定で、ものごとの正邪の定めの無い所以は、一言でいえば、実に一種の「二重構造」が祟っているに過ぎないのだ」と。
 この他にも、信仰の自由を認めながら、孔子を特別に尊敬し、自ら「前朝の遺老」としながら、民国(政府)から俸給を取る。革新せねばと言いながら、却って復古を主張する。周囲を見渡すと、全く二三重から多重の事物ばかりで、
それぞれが相重なり、矛盾している。全ての人がこの矛盾の中で互いに怨みを抱きながら生きている。誰にとっても良いことは無い。
 進歩しようとするなら、安寧な世を作ろうとするなら、この二重構造を根元から抜き取らなければならない。世界は小さくないとはいえ、彷徨ばかりしている人種には、自分の立位置すら無くなってしまうのだから。
      2010/09/27
訳者雑感:
 二重構造というのは、金、元、清などの征服王朝が漢族を支配するために採ってきた歴史的なものがあると思う。数十万人という圧倒的少数の異民族が、広大な土地に広がる漢族を抑えるために不可欠なものであったに違いない。
 そのダブルスタンダードも、征服王朝の実力が圧倒的な時は機能したが、衰退するとともに、魯迅の引用する通り「正邪の定め無きもの」として祟ってしまうのである。この構造を根元から引っ繰り返したのは1949年の革命政府樹立であったが、つい最近まで「松明から電灯、一輪車から飛行機」の混在は続いたし、法律論を妄りに談ずることの禁止は、いまだにそのままであるようでもあり、法律擁護などは掛け声にすぎない、理不尽な人治国家の構造は不変である。
 日本は京都の天皇と鎌倉江戸の将軍の二重構造が、国土の狭さとか少数民族の支配とかという複雑な問題に直面することから免れたため、比較的成功裏に
運営されてきたとも言える。明治維新から第二次大戦終了まで、大仏次郎の言う「天皇の世紀」は将軍統治という二重構造を暫しの間はずしてみて、天皇親政という形を取ったのだが、軍部の暴走によって、それを止める力をなくし、
亡国寸前に至った。そして米国に押し付けられる形で、象徴天皇と責任内閣制の二重構造に戻ったという形かな。
 二重構造の方が地震国日本では、耐震性にすぐれているのかも知れない。

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  随感録 49 (種族の発展)


 高等動物は意外な事故に遭わなければ、大抵は幼から壮、壮から老、老から死に至る。我々は幼から壮へ、なんら奇もなく過し、そしてこれからも当然のように何の奇もなく過すことだろう。
 残念なことだが、ある種の人々は、幼から壮へは何の奇もなく過すが、壮から老へとなると些か古怪となり、老から死に至るや、奇想天外で、青年の進路を占領し、青年の空気を吸いつくす。
 青年はそれで委縮してしまい、自分が老年になるまで耐えて待ち、神経血管がすべて変質してしまってから、再び活動しようとする。だから社会の状態は
「青年の老成」が先となり、腰と背が曲がってから、やっと世俗から離れて、軽やかに飛び立つ、という具合で、この時以降はじめて人としての道を歩み出す。
 しかし自分としては老いを忘れることができず、神仙になろうとする。他人は老いてもかまわない。ただ、自分は老いるのを受け入れたくない人間になり、
自分は中国の老人のなかの第一人者として推してゆく。
 もし本当に神仙になったのなら、永遠にこの世を仕切ってもらえば良いし、もはや後進は要らないから、それは極めてすばらしいに違いない。だが、やはりそうは問屋が卸さない。しまいには死んでしまって、元のままの天地が残り、
青年たちに苦労をかけるのだ。
 これは本当に生物界の怪現象である!
 種族の発展は生命の連続で、生物界の事業の大部分は確かにこれである。どのように発展するか。言うまでも無いことだが、進化することである。進化の途中ではすべからく新陳代謝が必要。それゆえ、新しい生命は喜びにあふれて前進し、これが壮である。旧い生命も喜んで進む。これが死。それぞれがかく歩み続けるのが進化の道。
 老が道を譲り、催促し奨励して壮たちを進ませる。道には深い淵もあり、その死でもってその淵を平らにし、彼らに歩ませる。
 青年は彼らが淵を埋めて自分たちの為に道を開いてくれたことに感謝し、老人も彼らが自分の埋めた淵を通って、遥か遠くへ進むのを喜ぶ。これが分かれば、幼から壮、老、死へとみなが喜んで過し、一歩一歩進み、多くは先祖を超える。これが生物界のまっとうな道だ!人類の祖先はみなこうしてきた。
       2010/09/25

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随感録 48 (禽獣か聖上)

 中国人はこれまで異民族を二つの呼称で呼んできた。一つは禽獣。もう一つは聖上(天子の尊称、清朝は異民族)。友人とか自分たちと同じように呼んだことはなかった。
古書にある「弱水」(伝説の中国の周囲は弱水という羽毛すらも浮かべない水に囲まれ、外国人の侵入を防ぐという:出版社注)は我々を欺いた。
 聞いたことも無い外国人がやって来て、何回か衝突して、ようやく「子曰く、
詩に云う」は役に立たないことを知り、維新を行った。
 維新後、中国は富強になった。学んだ新しい事物で、今度は外来の新しい物を追い出し、門を閉じて再び守旧に戻った。
 惜しいかな、維新は皮相だけで、門を閉じるのも一場の夢に過ぎなかった。
外国の新事物は時を経るごとにますます増え、優勢になり、「子曰く、詩に云う」も、ますます厳しい立場に追い込まれ、役に立たなくなった。それで上述の古い二つの呼称に新たに「西哲」とか「西儒」を編みだした。彼らの称号は新しくなったが、我々の考え方は旧のままであった。「西哲」の本領は学ばねばならぬが、「子曰く、詩に云う」も盛りたててゆかねばならない。言いかえると、外国の本領は学びつつ、中国の旧習は保持する。本領は新しいが、思想は旧い。
新本領と旧思想を持った新人物は、旧本領と旧思想のままの旧人物を背に乗せて、多年にわたる彼の積み重ねてきた古い本領を発揮してもらうということで、
ひと言でいえば、数年前に説かれた「中学為体、西学為用」は、ここ数年で、
「時宜にかなったものを適切に折衷する」と言われるようになった。
 しかし世の中、そんな都合のよい話はない。一頭の牛は、生贄にされたら、
孔子廟に祀られたら、農耕用には使えないし、肉を食べてしまえば、乳は絞れない。況や、一人の人間が、まず自分が生きなければならないのに、先輩を背に乗せて、生きてゆくと、先輩たちの折衷案の方法も恭しく拝聴し、朝には中国式の旧儀礼であいさつし、夜には(西洋式)握手で、午前中は「声光化電」
(新しい事物?)で午後は「子曰く、詩に云う」などと使いこなせようか?
 今の社会で、鬼神を信じる迷信深い人は、迎神祭の時、その日だけは神輿を担ぐことはできるだろう。しかし「声光化電」を学んで「新進気鋭な英賢」と
なった人間が、山野に隠れ、海浜にさすらう遺老となった人たちを背負って、
一生折衷してゆけるだろうか。
「西哲」イプセンは蓋し、不可能とみなすことは不可とした。それでBrandの口を借りて、「All or Nothing」と言わせた。
          2010/09/24
 

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随感録 47 (象牙細工)

ある人が半寸四方の象牙を見せて呉れた。なんの変哲もないのだが、顕微鏡で見ると行書の「蘭亭序」が彫られている。それで思ったのだが、顕微鏡は本来、ごく微細な自然のものを見るために作られたのだが、今では人工のものに使っている。どうして半尺四方の象牙に彫らないのだろう。一目瞭然、顕微鏡など使わずに済む。
 張三と李四(普通の中国人を指す)は我々の同時代人だ。張三は古典をよく知っていて、古文を書く。李四も同じく古典に明るく、張三の書いた古文を読む。それで思うのだが、古典は古人の時代のことがらを記したもので、その頃の事を知ろうとすれば古典をひもとかねばならない。だが、二人は同時代人なのだから、あるがままに説けば、一目瞭然で、君も古典を覚えるのを省けるし、私も古典を記憶する手間が省けるではないか?
 その方面の専門家は言う。たわけたことを言うでない!これこそが本領であり、学問なのだ!と。
 私は、中国人の中には、この本領を会得した人はそれほど多くないと思う。
もし誰かが、このあやしげな芸当を弄して:農夫が持ってきた一粒の粉を、顕微鏡で、茶碗一杯のご飯にし、水夫が担いできた水で湿らせた土から、茶を飲みたい時に、その湿った土から水を絞り出さねばならないとしたら、もう、
どうにもならない。          2010/09/23
 
訳者雑感:中国の工芸品店に行くと、かつては象牙や玉にさまざまな細工を施したものが、あきれるほど沢山並んでいた。根付などの骨董を西洋人が競うようにして買い漁ってゆくのを不思議な気持ちで眺めたことがある。訊けば、欧州から団体で中国各地の根付を見て回って、気に入ったものはその場で買い求めるのだという。
その後日本に帰国して調べたら、その昔は中国からの絹貿易の受領印として造られた「糸印」が根付に変じたということだから、中国にも似たようなものがあって、それを江戸時代に日本人が改良を加えて開花したものだという。日本の骨董品はとても高価で手がでないので、中国の練物で造った根付が、値段も手ごろでこうした一般愛好家に受け入れられているのだろう。
中国は世界の工場と言われるが、こうしたフェイクの根付など、庶民の手の届くものを大量生産している。それを承知で買い求める分にはそれで何も無いわけだが。陶磁器にしろ、七宝焼きにしろ、こうしたフェイクが庶民の間でそれなりに収集されて、玩具的な役目を果たしている。本物の絵は買えないから、写真版やレプリカを飾るようなものか。江戸時代の本歌ものは、どう逆立ちしたって、二度とは造れない古典なのだから。
 魯迅は「口語」で初めて小説を書いた。しかし彼の作品にはおびただしい量の古文が引用されてもいる。「車曳き」のしゃべる言葉ではなく、れっきとした古典の文章に裏打ちされたものである、ということを宣言しないと、当時の
文芸関係者から、見下げられたものかと推察する。
 この小品の中で、彼は古典を勉強する手間を、新しいことを学ぶ時間に使うことを提唱している。中国人で古典を勉強して会得している人の数はたいして多くないから、もう古典を読むのは止めようと言っている。
 今私が翻訳しているのは百年弱前のことがらで、これすらもう古典に近くなっていて、中国の教科書から魯迅の作品は消えてしまった。その代わりとして、
大量生産された練物の根付のような「武侠小説」の著者の作品などが入った由。
 百年以上前の骨董は、国外持ち出し禁止とかで、庶民の手の届かぬところに
祭り上げられたのだから、練物のフェイクで済ますほか、どうしようもないとでも言うのか。
 
 

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