魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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シュリーマンの会った青年は誰だったか?
1.
6月6日釜澤さんと一緒に、横浜外国人墓地と開港資料館を訪ねた。
目的は、シュリーマンが1865年5月から7月初めの2カ月日本に滞在していた間に、横浜で会ったハノーヴァー・リンゲン出身の青年の名前とその来歴などを確認する為である。
シュリーマンがフランス語で書いた「清国・日本旅行記」の講談社学術文庫日本語訳では横浜でグラヴァー商会の協力を得て、江戸への旅行手配をしてもらっており、紀行文の終わりの方に、M.グラヴァー氏はハノーヴァー・リンゲン出身の有名な医者の息子で、立派な調度品を日本の大工に作らせ云々と紹介している。長崎の有名なグラヴァーはトーマスだからなぜイニシャルがMなのか、どうもおかしいと感じた。
釜澤さんの協力を得て、フランス語の原文を調べて貰った結果:
同書の126ページには「MM. W. Grauert et Cie de Yokohamaの親切なとりなしで米国総領事フィッシャー氏…」云々の記載があります。(MMはムッシューの複数形と思われます。W. Grauert兄弟商会といった感じでしょう。)
という事が判明したので、その確認をしに横浜外人墓地まで足を伸ばした。
2.
2百円の募金を払って、順路通りに墓石に刻まれた名前を読みながら、日本語の説明板と併せ尋ねて歩いた。右手には入り口でもらった案内図と、斎藤多喜夫著「横浜外国人墓地に眠る人々」有隣堂2012年版を持って、コンパスと条規の刻まれたフリーメーソンの印の多いのに驚き、復十字の下にもう一本斜めの物があるロシア語の名の刻まれた墓の多いのも印象に残った。ドイツ人とみられる姓の多いことから、入国時の国籍は不明だが幕末明治維新の前後には大勢のゲルマン人が日本に来ていたことが分かる。
案内図の17番に目指す「Grauert」グラウエルト一家の立派な墓群がある。
Wilhelm Grauert(1829-1870)、Herman Grauert (1837-1901)、
Heinrich Grauert(1846-1890)の3兄弟。斎藤氏の著書288頁に依ると、「まず長兄のヴィルヘルムが来日し、1862年7月1日、横浜にグラウエルト商会を設立した(参考263:同書の出典番号)。来日前は香港の商社で働いており、来日時の国籍はイギリスだった。香港版の商工名鑑(The Chronicle & Directoru for China,Japan,&the Philippones)1868年版の横浜の部にN・グラウエルトが現れるが、NはHの誤りだと思われる。翌年版からはHになる。
(中略)ヴィルヘルムは1870年に死去し、以後ヘルマンの個人経営となった」
同書はその後、「ヘルマンが横浜天主堂の創建に尽力したという伝説が生まれた。横浜開港70年を記念して、有吉忠一市長が(ヘルマンの息子の)クレマンスにヘルマンを表彰する文書を手渡した。(中略)1962年には彫刻家の井上信道の制作したヘルマンの胸像が墓地に設置され… 伝記(Herman Ludwig Grauert 1837-1901)が編集され、伝説が歴史の領分に侵入してきた」
同氏は続けて「結論から言うと、伝記には疑わしい部分が多い。例えば、横浜天主堂創建の主体であるパリ外国宣教会の記録にヘルマンの名はまったく現れない(参考265)そもそも天主堂が創建された1862年1月12日にはヘルマンはまだ横浜にいなかったと思われる。(中略)
1865年に居留地参事会の議長に選出されたとも記されている。然しこの時期にはまだヘルマンが来日していた形跡はないので、これは兄のヴィルヘルムであろう。ただし議長に選出されたのはショイヤ―であって、グラウエルトは財務委員に就任している。(参考267)
調べればわかることなのに、多くの人が事実と会わない伝説を信じてしまったのはなんとも不思議だ」と結んでいる。
事実、墓碑の前の日本語版も誤りが多い。斎藤氏は「あとがき」に「既存の文献と本書とで食い違った記述がある場合には、本書の方が正しいか、あるいは少なくとも新しいと思ってください。と能力の範囲内でできるだけの事をしたという自負を述べている。
3.
我々は義経伝説を始め、聖徳太子や弘法さんの伝説をより「ありがたがって」読めるように後世の人達が「時代を経るごとにふくらましてきた物語」として読んできた。その方が面白いしすっきりしたイメージとして頭に残る。実像と虚像は歴史的な人物が古くなればなるほどその距離が離れて行くのだろう。
ディリュク・ファン・デア・ラーン氏が「横浜居留地と異文化交流」(山川出版)の81頁に「幕末・明治期の横浜のドイツ系商社」で6社の中にグラウエルト社を紹介し、「ヴィルヘルムとヘルマンのグラウエルト兄弟は開港以前1857年(安政4年)出島に来て翌年に横浜に移住したと言われるが、史料に食い違いがあり、真偽を確認する必要がある。(中略)
弟ハインリッヒ1872(明治5年)から1890年に事故死するまで会社に勤めた。1876年ロベルト・ブライフスが入社し、1901年事業を引き継ぎ第一次大戦まで続けた。
二代目ヘルマン・クレメンス及び三代目オット・イスライブ・グラウエルトは2人とも横浜で医者として活躍した」と記している。
4.
以上の事から、シュリーマンが1865年の2カ月の間に横浜で会ったのは長崎グラヴァー邸で有名なトーマス・Gloverではなく、ハノーヴァーの神学者の
グラウエルト一家のヴィルヘルムであったことが事実であろう。ヴィルヘルムの父親 Clemens August DR.PHIL. GRAUERTのDRは一般日本人は医者だと思ってしまうが、釜澤さんの説明では、PHILの博士の意味だそうだ。
ただし、1865年時点で、The Chronicle & Directoru for China,Japanの横浜の部にGlover商会とあり、そこにED. Harrison とThos Smithの名がある。
この時点でGlover商会は長崎にThomas Glover がいて、横浜に支店を出していたのであろう。これは確認の必要があるが、彼らが会ってはいないだろう。
いずれにせよ、横浜で医者を開業して外国人墓地の管理委員を長年にわたってつとめていた2代目3代目のグラウエルト家の子孫が横浜にいたら、彼等の伯父さんが1865年夏即ち150年前にシュリーマンにいろいろ協力していたことを伝えてあげたいものだ。シュリーマンは世界一周の旅で横浜を発ってサンフランシスコに向かったのは、南北戦争がその前に終わったという情報を得てから決めたのだろう。5という年はその後日清日露そして第二次大戦と戦争に因縁の深い年だ。今年2015年は起こらないで欲しい。いやもう今後戦争の歴史の年代を覚える必要の無い世界にしたいと思う。
2015/05/07記
なぜキャンプ・シュワブの沖なのか?
名護市の選挙がもうじき行われる。15日付の神奈川新聞が同じ基地を多く抱える自治体の新聞として名護市に取材に行った。賛成派の市民の下記のコメントが印象に残った。
1.基地と歓楽街とそこの住民の生活
「1960年代ベトナム戦争の頃、100軒位のレストラン、バー、ビリヤードがあって、そこを『社交街』と呼んでいた。母が店をやっていて、…とても賑わっていた。今は数軒しかない…。また基地ができて活気がもどるのを望んでいる」という趣旨であった。
社交街とは赤い灯青い灯のネオン街・歓楽街である。横須賀や横浜のそうした地域も今では過去に比べようも無いほどさびれている。横須賀は市内の人口が減り続け、空き家ばかりで困っているという。
2.元自衛隊幹部の話
私の友人に防衛大学校を出て外国公館にも武官として勤務した人がいる。
東日本大震災の時に、自衛隊が米軍とともに救援に大きな力を発揮して、感謝されたことなどの話しをしている中で、松島の航空基地が被害を受けた件などで、彼はこう話してくれた。戦前、軍が基地や司令部を置く場所の選定については、建立後何百年もの間、そうした被害に会っていない神社仏閣がある所では、移転してもらってそこに基地を作ったという。 そして今でもそうだが、基地から徒歩数分で緊急時に対応できるような「宿舎」を十分建設確保できることが大切で、その住居は殆ど無料に近い家賃で提供しているのだが、最近は騒音とか隣りづきあいなどが煩わしいとして、基地から離れた場所に引っ越したいという隊員が居て問題になっている、と。もうそんな貧しくないのだし、車もあるから郊外でも十分だというが、災害とか緊急時には車では対応できないのだ。
3.大連空港の状況
大連に長くいて、いつも市内からも開発区からも30分でゆけるという好条件の空港に満足していた。だが欠点は、軍民共用の空港で、成田行きの便を待つ間、戦闘機が次々に離着陸の訓練を行い、着陸時は後部のパラシュートのような白い傘を広げて、短距離での着陸訓練するのをみていて、事故が起こったら大変だなとひやひやしていたことだ。
というのも、空港の周囲は普天間と同じくらいの密度で、5-10階建てのアパートが林立していたからだ。それは主に滑走路の周辺に広がっていたのだが、空港ビルから市内へ向かう大通りの周辺には、空軍の司令部と広大な敷地に軍人用宿舎が何棟も続いていた。その上空に飛行機は飛ばないようになっていた。
大連市はこの状態を何とか改善しようとして、市内から高速で1時間以上北に新しい空港を作るという計画を何年も前から打ち出しているが、一向に進まない。わけが判らなかった。
しかし、今回の普天間基地の名護市辺野古への移転がこんなに長引いたのと、まったく状況は違うが、その底辺に人間のさがが覗かれるようだ。それはこうではないかと思う。
4.墜落事故の危険と隣り合わせだが、生活の便利さを手放したくない軍
大連の場合、もし空軍が今の空港から1時間以上も北の新空港に移動すれば、訓練機の時間が民用に供されるし、広大な敷地を持つ軍の司令部と宿舎を撤去してそこに新たな滑走路を作れば、問題は一気に解決しそうなものだと思う。だがそうはいかないようだ。
軍の言い分は、上記自衛隊の友人の話の中にあるように、緊急時に徒歩でもすぐ駆けつけられるような宿舎とその近くに軍人と軍属の家族が生活してゆけるだけの環境がなければならない。それには「社交街」がすぐ近くにあることも含まれるだろう。それは市内から2-30分でないと、高速で1時間も離れては不便極まりないという。
5.普天間基地を別の島や長崎・鹿児島などの過疎の半島の先端に移せぬ理由
東アジアの国際情勢の危さに対処するには、沖縄地区が一番ふさわしいというのは、これまでも誰もが認めるところだ。ところが、これをどこか人口過疎な島とか長崎鹿児島の半島の先端に移すということが現実的かどうか?という点からすると、上記の大連の例でみれば、そこに居住する何千人もの軍人とその軍属関係及び家族が便利に生活できる条件がなければ難しいということになる。基地ができれば、自然にそういう施設ができて、また多くの人がそこに集って来て、以前の様なにぎわいのある町が形成されるという説もあろうが、上述のように、現代の若い軍人は、何の娯楽もない基地のすぐ近くの軍の宿舎で、
たとえ無料でも住み続けるのは嫌だと感じるだろう。買い物や子供の学校、独身軍人向けの歓楽街もセットとしてなければ、だれも駐留したくないということになろう。
以上だが、余談ながら、60年代のベトナム帰還兵の話を下記する。
私の大学時代の話だが、邦楽部で尺八を吹いていた。京都のお寺で琴の人達と夏合宿で、秋の発表会に向けて練習をしていたら、背の高い20数歳のアメリカ人が稽古場にやって来て、琴と尺八を聞かせてくれという。部員の誰かがどこかで知り合って、案内したものだ。彼は気にいってくれ、それで私がプロの演奏をラジカセに録音して、彼に送る役となった。練習が終わって、夕食をするので、何名か付き合うことになった。夕食後彼が京都のそういう方面の場所を教えてくれないかと、訊ねてきた。当時20歳前だった私は、耳学問では聞いていたが、知らない、と答えた。彼は残念がった。その後、彼の言葉に「Air conditioned」という単語が含まれていて、最初意味が判らなかった。クーラーのことだと推測したが、当時の日本ではエアコンという言葉は普及しておらず、クーラーというのが一般的だったと思う。彼はクーラーのついた部屋でということのようだったが、当時日本でクーラーはまだ高嶺の花であった。自動車にも装備されていないし、普通の家にはクーラーはなかった。だが暑いベトナムの戦場から帰還してアメリカに戻る彼は日本の夏の暑さがこたえていたようで、エアコンがあるところを第一に探していた。
酷熱の地獄のような戦場から、半年数カ月ぶりに娑婆にもどってきた兵士の休息には、夏の京都は同じくらいこたえただろう。2020年のオリンピックは前回同様10月に開かないと、8月では世界第一級のアスリートたちには過酷な暑さとなるだろう。
2014/01/17記
「ユダヤ人とは」
Kさんから送ってもらった英字紙エコノミスト記事への雑感
世界のユダヤ人は1300万人前後。彼らが今後通婚で融け合う方向に行くのか、イスラエルに帰還して、純潔を保持し続けて、周辺諸国との軋轢を増すのか?JIBsを支援するアメリカはJIBsと緊張関係とかうまくいっていない、中国・中東諸国・大陸欧州とも微妙な立場に自らを追い込んでいる。味方の敵は敵というのは困ったものである。
1.
日本などでは父親が日本人なら日本人とみなす考えが強いのに対し、ユダヤでは母親がユダヤ人の子をユダヤ人とみなすというのは、最近DNA検査で世間を騒がせているタレントの父子の関係と類似した問題である。聖母マリアの子は父が誰であろうとユダヤ人だと言う訳だ。多くの民族が入り混じっていたパレスチナではそれが種の永続性を保つ一番確かな方法だったであろう。そのユダヤ人の母から生まれた人(神)がキリスト教を広めたのだから、そして英国首相のデズレーリらがキリスト教に改宗できたのだから、イスラエル以外に住む人達は、徐々に通婚によって混在してゆくと思われるが、どうだろうか
6-7世紀に戦乱によって沢山の高句麗人や百済人が半島から渡来してきたが、一旦数か所の集落に集められた後、各地の邦人と通婚し徐々に日本化してきた。だが、この百年程の日韓併合後に渡来してきた韓国朝鮮人は、大都会の一角に集って生活し、あまり通婚せず、却ってゲットー化してきた。これは6世紀前後の人達がすぐれた文明・教養を持っていたために尊敬され、通婚が進んだことと比べて、植民地から労働者として移住させられたことなどと何らかの関係があるかもしれない。
ディアスポラ以降のユダヤ人は記事にもあるように英仏などでは融け込んでいるのに対し、ホロコーストとソ連崩壊後の移住は、百年前の韓国朝鮮人のように、或いは、第二次大戦後の朝鮮戦争での戦乱を逃れてアメリカに渡った韓国人のように、都会の一角に集って暮らしてきて、いまだにアルファベットよりハングルが強い力を保持しているということに象徴されているのと似た点があると思われる。流暢な英語を話すのに、ハングルを捨てることはしないし、他の種族のようにアメリカ的な姓を名乗るのを潔しとしない。
2.
ユダヤ人のみならず、多くのアラビア人ペルシャ人ソグド人などが中国に色々な事情で移住してきた。最初は交易の為だとはいうが、夫々の祖国で戦乱が起こり、そこに住めなくなって追われるように中国に移住してきた人達が多い。彼らは、最初同民族で居住区を形成していたが、長い年月を経て通婚が進み、顔立ちは殆ど区別がつかなくなってきている。但し宗教はやはりユダヤ教やゾロアスター、イスラムで、寺院を持ち、食事も異なるが、大抵は漢民族の言語である中国語で生活し、姓も安(ペルシャ・ソグド)馬や蒲(アラブイスラム)など漢字の姓を名乗っている人が多い。当人も私はイスラム教徒だとして、白い帽子を誇りにしている。しかし中国では、ユダヤ人の居住区として開封も有名である。
彼らは皇帝から漢字の姓を与えられ、石とか金とか欧州でのStein, Goldなどと共通点があるのも面白い。ちなみに満州族の愛新覚羅(あいしんぎょろ)は金という漢字姓を使っている。金さんは日本に来て、近藤さんや、今野さんとか今さんと名乗っている。朝鮮族との混同を避けるためだという。
日韓併合で日本姓に強制的に変えさせたのが問題となっているが、1895年から統治してきた台湾では原住民の多くは日本姓にさせた(した)が中華系はそのままの方が多かったのはどういう背景だったろうか。
日本人は自分の姓を漢字で表記するが、読みはあくまで和語が基本で、名前を漢音で発音する時は、例えば伊藤博文を「はくぶん」とかいうのは多少揶揄の気味があるとか歴史的な読みだと言う説がある。
韓国では今日自分の名前をハングルでは書けるが漢字でどう表記するか分からないという世代が増えているという。日本のような複雑な和訓読みが少なくて、大半が漢字の音からの一つの音だというのに、である。
3.
話をユダヤ人に戻すと、記事の中でも触れられているが、今時限爆弾を抱えている1200万人のアメリカとイスラエルに居住するユダヤ人は、これからどうするのが一番良いのだろう。
アメリカに住むユダヤ人の多くが、他の民族と通婚して宗教的にも言語的にもユダヤの絆というか「しばり」からどんどん離散してゆけば、それが無宗教かキリスト教か何教かは別として、丁度中国に移住したユダヤ人やペルシャ人のようになるのが、一番可能性が高いだろう。
さてそれでは、イスラエルに居住するユダヤ人はこれからどうすれば良いのであろうか?
建国以来60年で人口は600万人になった。だがやはりこれといった産業の無い小国である。アメリカとアメリカに居住するユダヤ人の支援がなければ成り立って行かない国である。そのアメリカなどに住むユダヤ人が、ユダヤ人としてのアイデンテティを減衰してゆく過程で、どうなってゆくのだろうか?アメリカに住むユダヤ人の大半がユダヤに対する忠誠というか絆「しばり」を放擲しようとし始めたら、イスラエルは近隣の国と一緒になって通婚してゆくのが望ましいでのはないかと思うがどうだろう。
4.
参考までに、中国の客家の通婚のことに触れると:
中国にも中国のユダヤ人といわれる客家という人達が沢山いる。3千万の海外中国人の多くが、客家といわれるし、トウ小平、リーククアンユ―など有名な政治家を輩出している。
私が下宿していたシンガポールの張さん一家も客家で、9人の子供がいて、出版書店を稼業としていた。大陸から女中さんを呼び寄せたり、同族の人達の移住を支援していた。私が勤めるようになって、広東省出身の人から、なぜ客家の人の家に住んでいるのか、と聞かれた。多分学生の紹介してくれた友人がそうだったからだろう。当時200万人程のシンガポール華人の数パーセントに過ぎなかったが、8つの方言で放送されるラジオニュースにも客家語があって、これが北京語に一番近い響きを持っていたから、彼らが北方から戦乱を逃れて、揚子江の南の山間部に居住区を作り、平家の落人のように暮らしていて、明末から清初にかけての大混乱で、逃げるようにして南洋やアフリカまで移住・離散したのだ。
張さんの祖先はセーシェルに住んでいて、当時60歳くらいの張さんはシンガポールに留学にきて住みついたという。戦後、日本人と親しくなり、印刷用の紙を安定的に供給してもらって、教科書の印刷・出版を始めて経済的に成功したと語ってくれた。
彼らは多くの南方から来た華人から差別されてきて、やはり法律や医学や出版などの方面で頭角を表すほか、生計を建てるすべが無かったのだ。9人の子供も成長してそれぞれ客家の人と結婚した。それは30年前の話で、最近は孫の世代となり多くの人が通婚し始めているとの由。それは高層マンションが林立し、それぞれが「集団で居住していた地区」から跳び出て、自由な交際が始まったことにあるだろう。日本でも西日本の墳墓の周辺に住んでいた人達が、都会に移住して、戸籍も移して自由に通婚し始めたことで、差別が減少してきているという。京都や奈良ではかつて、どこそこ地区の土地は買うなとか、交際するなとか、土地の人からよく言われたし、今でもそのあたりの土地は駅に近くても他より安いのが現実だが。
2014/01/12記
酔胡従の面
1.
正倉院展を見に出かけた。
今年の目玉は漆金薄絵盤で、その彩色といい、造型の美しさは、彼の時代に既にこれほどのものが人間の手によって創られていたことに感心した。この盤は「香」を焚く器を載せるためのものだが、その香の作り方が展示されていて、とても興味が湧いた。長時間焚く事ができるように、迷路のようにくねくねと曲がった器具に香の粉をきれいにまんべんなく押し込んで行き、現代の蚊取り線香を大量生産するために渦巻き状にしているのと原理は同じだが、唐草文様のように美を追求している。一個一個職人技で且つ工芸家の息吹が聞こえるようだった。
さて本題に移るが、酔胡従の面が数点展示してあり、最近修復したレプリカもあって、古びて退色した面と彩色が施され、太い髭も植えられて、飛び出してくるようだった。
その後、読売新聞に「正倉院展」のことに触れた記事で、どなたかが「胡」をイランの事、古代ペルシャと考えている人が多いが、正しくはソグド人だと解説しておられた。ペルシャは波斯と漢訳されており、胡はそうではない、と。
2.
その後、松本清張の「過ぎゆく日暦(カレンダー)」を読み、15頁に下記の如くあり、
『唐招提寺は安如宝の独力による建立である。だが、学者はあまりこれに触れず、ために世間へ鑑真の建立との誤解を与えた。これ学者が東大寺資料を偏重するあまりである。当時のアカデミーの主流東大寺に排斥され、蔑視され、無視された揚州の唐僧鑑真と胡国僧如宝の痛憤が唐招提寺(はじめ「唐提寺」)を独力で建立させた。
中国唐代の文献には鑑真の名は無し。
高弟法進(ほっしん)は師鑑真に背いて東大寺に残り、聖武帝歿後、故新田部親王の廃宅に遷された鑑真および思託(したく)などの弟子らがこれを私立の寺とし、唐提寺と名付けた。東大寺側は鑑真を中傷すること甚だしく、ために思託は淡海三船(「懐風藻」の選者)に頼んで鑑真の東行記を撰してもらったが、淡海の「唐大和上東征伝」における脚色は度が過ぎ、曲筆舞文に近い。
早稲田大学教授安藤更生は東征伝を事実なりと信じて論文を書く。
安如宝は安国の人。
安国は安息国(漢書西域伝)でペルシャのこと。波斯人とも書く。波斯人が八世紀に奈良に居住していたことは聖武紀にも出ている。私はペルシャ人安如宝の努力をテーマに小説を書こうとした。安如宝を安国(中央アジアのボハラ。タシケントの付近)の人とする説があるが、安息国のペルシャ系とした方がよい。』
引用が大変長くなったが、中略すると誤解を生じる恐れがあり、こうなってしまった。
東大寺側が鑑真を排斥、蔑視、無視したことへの痛憤が「唐招提寺」の建立につながったと言う点は、数年前の正倉院展で見た、鑑真から東大寺の良弁にあてた「唐から新たにもたらされたお経を貸して欲しい」との願い状が反故とされ、その裏側に役所の事務用に使われていたものが、その後再度裏返されてびっくり仰天、端正な漢文ではっきり読み取れる内容だったことで証明された。東大寺側はこの願い状を無視したのだ。この時、鑑真は、少しは眼が見えていたのか。さもなければこの手紙は誰かに代筆してもらったものだろう。
4.
話は安息国と胡国に移る。
山川出版の「世界史総合図録」によれば、7世紀から8世紀にかけて、トリポリからアム川の少し西側まで、ウマイア朝のイスラム国家だったが、750年にアッバース朝に代わると版図としては吉川弘文館の「世界史年表・地図」20頁には、アム川を越えたソグドの地に広がっている。東はパミール・カシュガルなどと接するまでに拡大した。
2013年に山川出版の「世界史リブレット」に森部豊氏の「安禄山」「安史の乱」を起こしたソグド人、という本が出た。8頁に、次のような文がある。
『ソグド人とは、中央アジアのアム川とシル川にはさまれた地域のうち、ザラフシャン川の流域(ソグディアナ)に住んでいたイラン系の種族で、(中略)オアシス都市では灌漑農耕が行われていたが、利用できる水量がかぎられており、耕地面積の拡大や穀物の生産には限度があった。そのため、過剰な人口は都市の外へでて行き、これがソグド人の交易活動につながったという。(中略)
ソグド人の東方への進出は古く、文字史料上では後漢王朝とソグドとの間に通交関係があったことが確認できる。(後略)』
私の感じでは、ソグド人は酔胡従の面のほりの深さや長い鼻などからして、ペルシャ系の種族だろうし、突厥とかモンゴル・西蔵系ではないだろうが、アッバース朝のイスラム帝国支配から脱出した仏教や非イスラム教(ゾロアスターなど)の人々だと思う。
後漢以来唐代まで中国各地に移住して拠点を築いてきたソグド人は、故郷がイスラム王朝のアッバースに征服されたのに伴い、多くの非イスラムソグド人が唐に流入してきたであろう。彼らは鑑真とともにやって来た安如宝のように敬虔な仏教徒だっただろう。
鑑真の故郷 揚州は塩業で栄えた交易港で、当時の唐代の国政に使う税金の大半は塩からの物品税でまかなわれていた。(それまでの租庸調とか均田法などが崩れた結果)そういう情勢下、多くのソグド人が唐の人との交易を通じて、唐の各地に住みついて行っただろう。
5.
ここで平凡社の「世界百科事典」でソグド語、ソグディアナを見ると、インドヨーロッパ語族でイラン系に属し、古代ソグディアナで用いられた言語。商業・宗教活動に伴い西安・洛陽など東方へ拡大。文献としては仏典文字として敦煌の千仏洞の一つから発見された。トルファンからマニ教やキリスト教の経典も発見されている。
ササン朝ペルシャ、エフタル、突厥と相次いで支配され、8世紀にアラブの領土となってイスラム化した。とある。
今日西安はじめ、中国の大抵の大都市にはイスラム寺院があり、回族のみならず、多くの漢族も回教を信じている。だが、鑑真とともに奈良に渡った安如宝のような仏教徒も沢山いたであろう。彼らは長い年月の間に漢族と通婚し、容貌的にも漢族と見分けがつき難くなっているが、安とか康という姓はソグド人の末裔に多いと言われている。
同じく平凡社の事典の「胡人」を見ると、中国の秦漢では、もっぱら匈奴をさしたが、シルクロードの往来が盛んになって、西域の諸民族を西胡または単に胡と呼び、唐では広く塞外民族を表す一方で、多くイラン人をさした。深目高鼻・青眼多鬚の胡賈胡商は西方の文物・慣習をもたらして、中国文化を世界化し日本にも及んだ。(中略)
6.
それでは、胡とは一体何をさすと見たら良いであろうか?ペルシャかソグドか?
唐代には胡風趣味が盛んになり、唐詩にも胡旋舞を踊る胡姫などがしばしば登場する。
その多くは繁華街の酒場であった。彼ら彼女らがイスラム教徒だったら酒を飲んだであろうか?イスラム帝国から脱出してきたソグド人の多くは非イスラム教徒であった可能性が高いと思われる。唐の各地の都市で交易をしながら生活基盤を築いている同族を頼って、沢山のソグド人がやって来ただろう。彼らの多くは繁華街で商売して生計を立てて来た。
漢族も彼ら彼女らを寛容に受け入れて、唐の都は世界に冠たる国際都市となった。漢族の客はソグド人に向って、「どこから来たの?」と問う。彼ら彼女らの答えは漢族の多くが知っている大国ペルシャの都会名だっただろう。その方が通りがよい。それで漢族の人も彼ら彼女らを「胡」から来た「胡人」だとおおざっぱにくくって、そのまま受け入れた。
胡姫はソグディアナのどこかから来たとしても、そこはすでにアッバス朝の支配下にあり、その事実を漢族に説明しても意味の無いことだから、ペルシャの都会名を告げて安心させると同時に、自分は大きな国からやって来たのだとの印象を与えることができる。
古代半島から日本に渡って来た人達も、楽浪郡からやって来ても、漢人(あやひと)と称したのは、彼らが漢に支配されていたからだろう。
現代中国では、繁華街でよく見かけるスラブ系の女性は大抵モスクワやペテルブルグからやって来たという。シベリアや中央アジアから来たとしても、その地名を言っても漢族や日本人に通じないことを知っているから。
日本の繁華街には、ハルビンや上海から来たという女性が多い。内モンゴルとか安徽省から来たと言っても分かってくれないからもあるが、ハルビンは美人で有名だし、上海ならだれでも知っているから。
結論:胡人はペルシャ系だが非イスラム教徒のソグド人のことであろうと思う。
正倉院の酔胡従の面を見、唐詩の胡姫の酒場での活躍から、そう判断する。
2013/11/13記
名は体を表す――靖国神社は招魂社に戻すべし。
1.
日本語では米ソなどがドイツ軍に勝利した日を「対独勝利記念日」としていたが、英語の辞書にはV-G というのは無く、V-Dayが1946年12月31日とあり、V-E Dayが
Victory in Europe Dayとして1945年5月8日とあり、V-J-Dayが米国では1945年8月14日又は9月2日、英国では同8月15日とある。以上は英語圏としての両国ですら差があることを示している。ちなみにV-JとはVictory over Japanの由。
2.
アメリカではベトナム戦争というが、ベトナムではアメリカ戦争という。
英国の歴史には聞こえの悪いアヘン戦争という表記が無い。アメリカではアヘン戦争と呼ぶ。イギリスがアメリカ植民地などからの収入を失って、起こした不名誉な戦争として。
中国はKorea Warを「抗米援朝戦争」と呼んできたが、今年から「朝鮮戦争」と改めた。
これだと北朝鮮が仕掛けた戦争のように聞こえる。北朝鮮への距離を置いた表現だ。
3.
中国共産党は、主に国民党軍と戦ってきたが、日本に戦勝した時点で中国を支配していたのは蒋介石の国民党政府であって、彼らは当初V-J Dayを祝っていた。内戦で毛沢東の共産党軍に負けて台湾に逃げてから、共産党政府は、米国との戦いの為に、日本の国民の支持を取り付けようとして、戦争を仕掛けた日本軍部と一般の日本国民を明確に分けて、
日本国民はファシズムの犠牲者である、として何とか日米の分断を図ろうとした。
4.
1960-70年代の日本は、反米、反ベトナム戦争を唱えて、アイゼンハウアーの訪日を阻止したほどの反米気運が盛り上がり、岸首相も退陣に追い込まれた。
そして、1972年に田中首相が、アメリカに先んじて周恩来と国交回復し、それをアメリカはけしからんとして「ロッキード事件」をリークして田中を退陣させた、という説も流された。(流したのはアメリカ筋とか?)
5.
最近の世論調査では、日中両国とも、相手側を「嫌いだ」とする割合が9割を超えた。
一方では日本の安部内閣の支持率が7割くらいあり、その政権の閣僚と多くの議員が靖国神社に参拝するのに対して、どう対応してゆくのが得策か、と考え始めた中国人もいる。
「これは日本人としての神道信仰の情緒的なものもあり、A級戦犯のことばかり批難しても
埒があかぬから、別の方法を考えねば…」と。
6.
ロンドンのセントポール寺院にはおびただしい数の戦争で死んだ「英雄」「将軍」たちの墓碑と髑髏があり、多くの人がお参りとか(観光)見学に来ている。
碑文をよくみれば、アジアアフリカ植民地獲得戦争や、仏独西などとの戦争での戦死者だ。
彼らは、結局勝者であって、敗者は祭られていない。
京都の本願寺の大谷廟には日清日露と第2次大戦の最初のころ(勝っていた)の戦死者の墓碑が沢山残っている。オベリスクのような尖塔形とか。青山などにも多くある。
7.
アメリカのメモリアルデーも初めのころは、南北戦争で戦死した南軍の戦死者は対象に
なっていなかった。彼らの戦死者は北軍の戦死者とは別の所で祭られていた。
その後、第一次世界大戦で戦死した南部出身者たちが一緒に祭られるようになって、
全米挙げての記念日となった
靖国神社には、戊辰戦争で戦死した官軍兵士が招魂されていたが、幕府軍の死者はもちろん、西南の役で死んだ西郷たちは招魂されていない。戦場で死んでいない退役軍人も招魂
されていない。本来国の為に戦死した兵の魂を招いて、祭るための神社が招魂社であって、
全国にそれがある。それを東京に集めて、国を靖らかに保つことができなかった「敗北した戦争指導者たち」の魂を招く事は、大きな矛盾がある。名は体を表す。日本を亡国の淵に追いやった戦争指導者の魂は別の場所で、たとえば、別の墓地や寺院で、その人を祭りたいという人達が祭ればよいと思う。上野の西郷さんのように。
2013/08/19記
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