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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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孔子像と紅歌

2010年の正月休みに上海魯迅公園を訪ねた。
朝10時ごろ、入口の左側の広場に百名近い中高年の男女が集まって、
中央のリーダーの掛け声に合わせて、1960年代の文化大革命の頃に
流行した歌を次から次に歌っていた。「紅歌会」というそうだ。
2011年初、北京の天安門広場に巨大な孔子の像が姿を現した。
身に行こうかと考えているうちに、まもなく突然撤去された。
重慶で薄書記の指導の下、「紅歌」を歌って腐敗した社会を正そう、
社会の黒幕(やくざ、ごろつき)を徹底的に締め出そうとしている
運動が高まっていると宣伝している。
2011年の7月1日の共産党90周年で、胡主席は、幹部の腐敗や社会の
さまざまな矛盾の解決に全力を尽くすが、「文革」の手法は取らない
と声明を出した。
2011年7月7日に江沢民前主席が重体だと北京筋が認めた。
孔子像を建てたグループと「紅歌」を提唱するグループの鬩ぎ合い。
兄弟カキに鬩ぐというが、まさしく天安門というカキの両側で、
儒か紅かが鬩ぎ合っている。江氏の健康問題が影を落としている。

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辛亥革命見聞記

東洋文庫の「辛亥革命見聞記」を一気に読んだ。フランス革命の伝統を
受け継いだ、フランスの社会科学自由学院教授、フェルナン・ファルジュネルの切り口が百年後の今もいきいきと蘇ってくる。
見聞記を書けるだけの予件として、彼は当時の袁世凱政権に対する
外国借款という「財政問題」に焦点を当てている。単なる中国語を使える社会学者
にとどまらず、フランスの借款団の「顧問」的な役割を担っていなければ、知りようのない詳細まで記述している。アメリカはこの借款が袁世凱政権を支えることになり、共和派をつぶすことになることからとして借款団から手を引く。ドイツはドイツのやり方。残った英露と日本という王室のある国家と王室を追い出したフランスの銀行団が袁世凱に大金を貸すことになる。塩税など中国内の税収を担保に抑えて。それで国内の税収が入らなくなり、魯迅たちの経験したような「給与未払い」の遠因が
この辺から起こっている。

著者はフランス革命で起こった同じようなことが辛亥革命で起こっている
と肌で感じている。王制を倒した後にくる「破壊」「火事場泥棒」「反革命」
そして議会開催ー利害対立ー独裁者登場、など革命の掲げたものと程遠い、また
相反した「財源の奪い合い」が「焦点」で、なんだかんだといっても
やはり「理想、理念」だけでは人間の社会は動かない。資金、借款etc.

訳者の石川湧が戦前に北京の古本屋で買った1冊の本がこれだ。(1914年出版)
彼はそのあとがきで、「数十年以前から≪阿Q正伝≫をはじめ魯迅の
諸作品の背景をなしている辛亥革命によって、いつもぼんやりとした
幻影のようなものにつきまとわれていた」…

数年前のある夜、共訳者の石川布美といっしょにテレビを見ていて、
「いちおう名の知られている解説者が…(内容はすっかり忘れたが)…その解説者は、話の途中で≪シンイ革命≫と言った。私たち二人はあっけにとられて…」という一段があった。
1970年に出版した当時、フランス文学専攻の彼らの思いは「シンイ革命」
と言っている日本で、中国に対する認識をいくらかでも広め、深めたい
ということから翻訳した、という。
辛亥革命百周年の今年、多くの人に読んでもらいたい面白い本である。



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教科書から阿Qが消える


201098日の「語驚壇」の「教科書中刪除阿Q」の投稿より。
 一体どんなわけなのか、阿Qの精神で阿Qの形象を消すとは?
各地の教科書から大量の古典が消え、魯迅の作品は大撤退させられた。
1.教科書から阿Qを消すのは、どうみても阿Qの精神でもって、阿Qの形象を消そうとするものだ。  ――強国論壇 網友 トウ華淦
2.中国は老人が多いのに、「背影」(朱自清の作品)すらも容れられなくなった。中国の阿Qは新陳代謝で「阿Q正伝」を教科書から落とした。――同上
3.国語教科書から阿Qがいなくなった。現実生活に阿Qが戻って来た。
           ――同上 韓遷友              
4.魯迅の文章は削っても、魯迅の精神は失ってはならない。民族の背骨は曲げてはならない!    ――同 立新無海
5.現在、魯迅は教科書から退出した。時代とともに歩めなくなったからだと
 言うが、それなら孔孟も退出すべきではないか?警醒を失った民族は、将来
 多分うまくゆかないだろう。  ――同 西行良子
6.永遠の古典は無い。不変の流行も無い。時代と共に進む。新陳代謝は味あ
 わねばならぬ。  ――同 立新無海
7.魯迅の「薬」を削れば、李一たちは、氾濫し災いをなす。「狼牙山五壮士」
 を削れば、釣魚島の危機は旦夕に迫る…悲哀! ――同 百姓一員
8.魯迅を超えられないからといって、よもや魯迅を追い出すことはできない。
 魯迅の才も無いくせに、魯迅の文章を扼殺する権利はあるとでもいうのか。
         ――同 大失落者
9.阿Qは教科書からいなくなったが、更に多くの阿Qが現実の社会に湧き出てきた。阿Q的精神勝利法は認知された。 ――同 星座深藍
10.今欠けているのは、魯迅のような犀利な筆峰を持った文人。余くりかえ
 っているのは、功を歌い、徳を称えるゴマすり根性の文士。―同 大失落者
訳者雑感:日本でも漱石や鴎外が姿を消して久しい。彼らの作品はその背景を知らないと、真の理解は難しかろう。今の日本人は、漱石鴎外を知らなくても支障をきたさないという風潮であり、学生たちも「誰それ?」と一向に気にしない。
  中国でも魯迅の小説は、受験戦争に明け暮れる中学生たちには「無縁」の
ものになりつつある。その一方で、論語や儒教の影響の濃厚な古典が就学前の
児童向けから、中学生向けまで、絵入りの美しい豪華本が並んでいる。
 13億人の中から7千万の党員になるための「現代の科挙」と言われる大学
入試合格の為には、魯迅の作品は無縁というだけでなく有害とでもいうのだ
ろうか。    2010/10/16

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 4)二人の宰相

1.
 9月8日、今年の日中韓首脳会議が、10月8日に天津で開催の方向で、調整が進んでいるとの一報があった。昨年は麻生氏の関係で、福岡で開かれた。
今年は主催国の温家宝首相の故郷 天津で、ということだそうだ。
 2007年4月「氷を溶かす旅」として、両国の「友情と協力のために」日本を訪問した温家宝首相は、日本の国会で演説した。私自身もその演説が、彼の心の底から発していると感じて、感動を覚えたことである。
翌日に彼が記者団を前にして、「演説の後、すぐ(天津の)母親に電話をしたら、(90歳近い母が)“息子よ、本当にいい演説だったよ”と私を褒めてくれた。」と語っていたことが、強く印象に残っている。その時の彼の弾んだような中国語が、今も耳の奥から聞こえるようだ。
 どうして、彼は日本の国会での演説を終えたすぐ後に、母親に電話をいれたのであろうか、とちょっと不思議な気もしないではなかった。日本に出かける前に、母親に国会で話すことを、告げて来たのであろうか。彼と略同じ年齢の66歳に6度目の渡航で、殆ど失明の状態で、やっと日本にたどり着いた鑑真和尚のことを、演説の中で2回触れている。1942年天津で生まれた彼は、当時65歳で、母親は日中戦争が激しかったころの天津で、日本人とのいろいろな軋轢、風雪に耐えて、生きてきたのであろう。日本との戦争中に日本人が占領していた天津で、彼女はどのような生活をしてきたのであろうか、と想像してみた。
 2009年3月に、温家宝首相は、インターネットでの国民との対話の中で、
彼女のことに触れている。彼は子供のころ、母親から「どんなひとに対しても、自分の気持ちをこめて話すように。」と教えられてきたそうだ。
彼の母親は、教育関係の仕事に関係していたのであろうか。その母は、90年の風雪と滄桑の歴史を乗り越えて、自分を育ててきてくれたのだが、数日前に脳梗塞で倒れ、両目が失明に近い状態になってしまったと、ネットの庶民に語っていた。
2.
 私の手元に、9月7日付けの大連新商報の切抜きがある。片面では、新疆ウイグル自治区で、注射針事件を抑え切れなかった、同自治区トップの共産党書記の解任を求める漢族のデモに起因して、胡錦涛主席が、即刻、書記と公安のトップを更迭した、と伝えている。
 その隣に、総理就任以来、いちども欠かさずに「教師の日」の前には、学校を訪問し、教師たちとヒザを交えて懇談してきた温家宝首相が、9月4日に北京市の第三十五中学の2年五組の最後列で、40分単位の授業を5科目聴講し、ペンでノートを取っている写真と記事が掲載されている。
 見出しは「永遠に学生」、記事の概要は、彼はどんな多忙なときでも、「教師の日」の数日前には、フルに1日の時間を捻出して、学校訪問を欠かさず実行してきた。教師からいろいろな改善提案を聞き、それに対して彼の意見を丁寧に答えた、とある。その後の新聞発表として、「一国の将来は、教育を重視しているか否かにかかっている。教育を重視しない国に将来は無い。(中略)今年から(注;中国の新学期は9月から)全国各地の義務教育段階の教師の給与は、
その地区の公務員の水準を下回らないことを保障する。」と発言している。
 日本のテレビでもかつて紹介されたように、中国の地方、奥地の教師たちの生活は日本人の想像を絶するものがある。言語に表せないほどの貧困の中で、
本当にわずかな給与にもかかわらず、師範大学を卒業したばかりの教師たちが、
2年、3年という年限を区切って、奥地、農山村の子供たちを、一人で教えている。片道1時間、2時間かけて通ってくる子供たちに、昼食をも準備しながら、真心からでなければ決して勤まらないような環境にもめげずに、教えている。
 これまでは、彼ら彼女等の給与は同地区の公務員の水準から、ほど遠かったのであろう。それを今年から下回らない、と保障したのだ。
私は、そんな山奥の村に、自ら足を踏み入れたことはないが、広東省の田舎に出向いたとき、町の役所が、あたかもアメリカの議事堂を模したような、白亜の建物であったのに、そこからさほど離れていない場所の学校が、とても貧弱であったと、違和感を覚えたことがある。
 そんな役所に勤めている公務員たちも、毎月の給与はたかが知れている。しかし、給与外の収入が、その何倍にもなるのは、中国人なら誰でも知っている。山村の義務教育に従事する教師たちには、縁のないものである。友人にこのことを話したとき、彼の反応は「そりゃ田舎の教師は、誰もなり手がないんだが、北京や大連などの教師は、副業に堂々と、塾を開いては給与の何倍もの収入を得ているし、子弟たちの親から、入試にうまく成功したら、大変な謝礼をもらっているよ。だから、よけい田舎に赴任する教師が少なくなるんだ。」という。
3.
 温家宝首相の発言は更に続く。
「大学教授を尊重するのと同じように、中小学校の教師を尊重しなければならない」と。「この社会で、教育が一番大切だということを、大いに力をいれて宣伝し、(中略)この世の中で教師が最もひとびとの尊敬を受ける職業で、もっとも羨慕に値する職業にしなければならない。」と訴えている。
 私はこの発言の一部を、朝の散歩のときのラジオニュースで聞いて、感動したが、実際には残念ながら、そうでなくなりつつあるということを、認めざるを得ないのだ、という厳しい現実を認識しているのだということが、伝わってきて、づーん、ときた。
彼が小学生だったころ、彼の母親と同じような年齢の教師たちが、彼に対して、真剣に教えてくれたことを感謝し、それをかみしめながら、一字一句を発言していると思った。
 日本でも、オリンピックの開催された1964年ごろを境に、戦前からの教師は「聖職」という使命感を持って教壇に立っていた先生が、減少してゆき、「でもしか教師」という言葉が、登場しはじめた。中国も昨年のオリンピックを節目にして、日本が歩んだ道を歩むことになるのだろうか。
 大都市の教師の収入が高くなればなるほど、師範大学の卒業生は大都市に残りたがるようになり、田舎の学校には誰も行きたがらなくなるのは無理もない道理だ。温家宝首相の言うように、「ひとびとの尊敬を受ける教師になるよりは、人より高い収入を得るために大都市の教師になる、という流れは阻止できない。」それが、彼の心を苦しめているのだ。儒教2千数百年の伝統の中国で、‘師’となること、‘師’に対する尊敬の念は、世界の中でもっとも高い水準にあった国で、師となるよりも、より収入の高い職業に就かせるべく、世の親が血眼になっている。その結果、子供たちが、より有名な大学に入ることを最大の目標とし、学校の教師たちも、教え子たちの内の何名を有名大学に入学させたかを、教師の技量、成績として競っている。
4.
 今年の6月の大学入試で、大量の不正が発覚し、役人と教師たちによって点数が操作されたというのは、科挙の長い伝統をそのまま受け継いだものである。
「舞弊」という中国語がある。不正を働いてでも、目的を達するという意味で、魯迅の祖父ですら、なかなか科挙に合格できない息子のために、これをしたということで、牢に繋がれた。試験会場で、優秀な受験生の答案を横取りして、そのまま写すなどということが、横行している。
カンニングという言葉そのものの行為が、至るところで行われている。その最終目標は、役所に入り、官について、給与の何倍、何百倍もの収入を得るためという。その子供たちの背中を一生懸命に押しているのは、父親よりは母親が圧倒的に多いという。これは何も中国に限ったことではないが、昨今の新聞報道で、毎年数千人の収賄容疑者が、処刑されているが、少額の収賄は別として、大金、それも何千万、何億元というような金額の収賄犯の多くは、夫人とか家族の口利きによるものが、多いという。
 本人の物欲金銭欲はそれほどでなくとも、一定以上の高官に就任するやいなや、夫人のところへ、たいへんな贈り物が届く。将を得んとすれば、馬を射よ。である。送る側の狙いは正確無比である。必ず目的を達成する。
  小倉芳彦の「古代中国を読む」という本には、古代中国では、賄賂は、決して今日のような罪悪とは考えていなかった、とある。王と貴族の間の絆をしっかりとしたものにするためには、自分の身分や地位を保障してもらうために、最高級の玉の宝飾を、賄賂として王に贈るのが慣わしだったという。
 毒薬で殺されることになった男が、執行人に賄賂を贈って、その毒薬の濃度を薄めてもらって、毒殺から免れたという逸話を引いている。
 それがだんだん時代ともに変じて、今日では官位を引き上げてもらうため、あるいはより大きなビジネスを獲得するために、贈る様になったのだ。
5.
温首相は母親の薫陶を受けて、人に話をするときも、心をこめて話すように教育されてきた。その母親が、自分が日本の国会での演説を、天津の自宅で、同時中継テレビを通じて、聞いていてくれた。演説後すぐ電話したのは、「永遠に母親の子」であることを示している。なによりも真っ先に、彼女に電話して、どうだった、と感想を求め、「とてもよかった。いい話だったよ。」と褒めてもらって、翌日、記者たちに話さずにはおられないほど、うれしかったのであろう。高倉健の随筆「あなたに褒められたくて」の通り、彼は母に褒められたくて一生懸命、生きてきたのだ。
 彼は、素晴らしい母親に育てられて幸せであった。文化大革命中、甘粛省に長いこといて、離れてくらしていた。そんなつらい生活も、母親に褒められたくて、一心に金槌を握って、地質調査に励んだのであろう。
 現代の小中学生たちを見ていて、自分たちが親や教師たちから受けたものを今日の子供たちが、経済的にはすごく発展したのに、過去よりもよい環境で教育を受けることができていないということが、彼の心を痛めさせているのだろう。
私の会社から家までの間に、6階建ての大きなビルの中学校がある。5時半ごろ、仕事を終えて、その付近にちかづくと、3車線の道路のうち、2車線が、下校を待つ親や、関係者の出迎えの車で一杯になる。高学年になっても、親が車で迎えに来るというのは、一体ぜんたいどうしたことなのであろうか。
 中には、徒歩や自転車で帰る生徒もいるが、やはり進学校に入学させるために、遠方から通っているものが多いのであろう。日本のように電車が発達していなくて、通学には車しかないという面もあるが、中には高校生までも車の送迎が見られる。アウディとかベンツもあるし、殆どは新しい車だ。
6.
天津のコンプラドールその2を書いていて、気づいたことだが、広州近郊の例えば、仏山とか順徳あたりに科挙の進士をたくさん輩出した書院を見学したことがある。明の万歴のころ、状元となった黄士俊が建てたといわれる立派な書院で、清暉園という。もちろん広州市内にもそのモデルとなったような立派な書院がいくつかあるが、広州から車で1-2時間も離れたところにも、科挙に合格した人間が沢山いたとの説明書が展示されていた。
炎暑の広東でも、北方より多くの進士を出している。北方や西部地域は、武器を作る鉄の生産が盛んで、武力で統治するのに力を発揮してきた。一方、北部の人間が中央に攻め込んで、ドミノ倒しのように南方に追われてきた人たちは、広東に住みついた。中には客家とよばれ、体力的にも北方にかなわないので、一生懸命勉強することで頭角を現そうとした。文天祥などもそうだとされる。清末に活躍した梁啓超は客家かどうか知らないが、孫文たちは客家だといわれている。
閑話休題、科挙の制度が廃止されて、広東の多くの青少年たちは、役人になる希望は捨てて、英国人が開いた香港の英語学校に寄宿し、英語や近代的な西洋の学問を学んで、広東にもどり、ジャーディン社の総コンプラドールであった唐景星たちのような人たちに率いられて上海や天津のコンプラドールとなっていったケースが多いと感じたことである。広東香港は科挙廃止後のコンプラドールの養成所であった。前にも触れたが、唐氏は、後輩のために、ビジネス英漢辞典を編集し、上海に「格致書院」という学校まで作って、子弟の教育には大変熱心であった。
梁さんの父も教育にはとても熱心で、天津では屈指の金持ちなのに、広東幇の中では‘吝嗇でもナンバーワン’と言われていたが、妻妾との間にもうけた沢山のこどもたちにはみな最高の教育を受けさせていた。教育費は一切惜しまなかった。教育が、故郷を離れて働く広東人の最大の拠り所だと信じていたのだろう。
 7.
 そんなことを考えていたら、一人っ子政策の結果、車で送迎されて育った世代から、20年後の中国の将来を担うことのできる人間が育つであろうか、と心配になってきた。日本には、自国の学校には入学できず、外国の大学へ行って、英語は上手く話せるよというだけの政治家は何人かいるが、そんな人たちでは国難を乗り切ることは難しかろう、とも思った。
 9月7日、頼んでおいた本が届いた。人民出版社の「朱鎔基が記者の質問に答える」という表題で、1991年の副首相のころから、2002年に首相を退任するまでの12年間、内外のジャーナリストたちの質問に答えたものを編集した本だ。8月末に完成し、9月2日に発売された。
 457ページ、362千字で59元。この種の本としては、倍近い値段だが、初版は何部印刷されたのだろう。新聞に百万部は売れるだろうとの評があった。だが、朱鎔基氏本人の言葉は一切付け加えられていない。前書きも、何もいっさいない。彼自身はこの出版には何も関知しない。
 彼は首相退任後6年間、公の場から一切退いた。新聞記事から引用すると、
「彼は故郷の長沙に帰ることを拒絶し、従兄弟の書いた彼の伝記を読むことも拒絶し、中華詩詞協会の名誉主席就任への要請も拒絶した。」云々と続く。
 江沢民主席が、訪問先の求めに応じて、いろいろなところで、彼の名前を揮毫したものは、よく目にするが、朱氏のものはめったに見かけない。08年10月に山西省の平遥に出かけたとき、百年近く前の昔の役所の門に架けるための板看板に、地の人の求めに応じて揮毫したのを始めてみた。それも彼が首相を退いてから2002年に夫人と一緒に、平服で観光に訪れたときのものだ。
その役所の名は「平遥県衙」という。百年ほど前にここを訪問したフランス人ジャーナリストが撮った、ここで行われた当時の裁判と腐刑などまがまがしい処刑の写真を展示していた。
中国のウオール街と呼ばれて、票号という自家の手形を発行するなどして、金融で栄えたこの街でも、貪官汚吏が毎年のように悪事を働いた。だがここの役人は彼等を厳しく処罰したことをこの展示品はしっかりと説明していた。彼はこの役所の展示に心を動かされて、「平遥県衙」という4文字と自分の名を書くことに応じたのであろう。自分の後任者たちが、是非ここの人たちと同じように、貪官汚吏をきびしく取り締まってくれることを切望して。
8.
 今回の出版は、どのような背景から出てきたものであろうか。6年間、一切公の場で発言してこなかった彼のことを取り上げるのは、きっと何か訳があるに違いない。彼は一言もコメントしていないが、12年間の彼の言動は、とりもなおさず政治的なものである。
 芭蕉は「奥の細道」の手稿を何回も何回も白い紙を貼って書き直し、推敲に推敲を重ねて完成に近い状態になった。周囲の人たちが出版をと持ちかけたのを、きっぱり拒絶している。生前には公にしてくれるな、という意思表示であった。朱氏のこれまでの姿勢は、この芭蕉の心情を髣髴とさせる。弟子たちは、芭蕉の作品のすばらしい出来を、世の人に分かち与えたいと考えてもいただろうが、これによって名声を更に高めて、出版で収入を得ようとする輩もいたかもしれない。アメリカでは退任した大統領は、講演や回顧録を書いて余生のための収入を確保すると言う。
彼の伝記も、過去にも国外で沢山出版されて、好評を博してきた。しかし、彼は、そうした書物が中国で出版されるのを拒否してきた。
彼の記者への返答を読み進めてゆくうちに、私の心をぐさりと掴むことばにであった。 それは、2000年3月15日に行われた、第9次全人大の三次会議での記者会見のときであった。デンマークの記者が民主的な選挙の実施などの質問の最後に、「総理、貴方の任期は既に半ばを過ぎましたが、貴方が離任した後で、中国人民が貴方のどんな点を、もっとも記憶にとどめておいて欲しいと思いますか?」との問いに答えたものである。
 「残りの任期は残すところ3年もありませんが、(中略)私は人民の信任に背かぬように力を尽くして(後略)」という文章の後、「只 私が退任した後、全国の人民がこう一言、言ってくれることを望んでいます。“彼は一個の清官であった。貪官ではなかった。”それで私はたいへん満足します。もし彼等が更に気前良く、“朱鎔基はやはり実際に良いことをやってくれた、と言ってくれたなら、私は天に感謝し、地に感謝します。」と。
 これは、先に質問を受けていて、原稿を予め考えていたものであろう。ことばの流れとしては、その場の勢いで、原稿から少し脱線しているかもしれない。
 彼は在任中も、離任後も他の政治家の場合によく耳にするような、子弟とか夫人とかが、外資系の会社に云々とか、という噂を聞かなかった。離任後も別のポストに執着して、官から縁が切れることを心配しなかった。逆に自らもとめて、官、公から身を遠ざけた。官にしがみついてきた貪官汚吏の前人たちの末路を、いやというほど見てきた男の生きざまであろう。
9.
 その彼の後を襲ったのが、温家宝首相である。彼は母親の薫陶と、前任者の身の振り方を、しっかりと自分のものにし、その先輩の影を慕いながら、仕事に励んでいるように見受ける。こうした首相が2代続くというのは、改革開放後の中国にとって、なによりのめぐみであると思う。
温首相は、前にも少し触れたが、夫人が宝飾関係に大変関心が強く、自分でも事業を経営云々と言う話が、伝わってきた。それで首相就任後に、離縁したという噂である。本当かどうかは知らない。多くの中国人は真実を知っているようだが、口外しない。彼の外遊に、夫人同伴を見たことはない。本当なのだろうか。そうだとしたら、大変な勇気と決断をしたものだ。
英国のエリザベス女王一世は、生涯結婚しないのかと尋ねられて、「私は国と結婚していますから。」と答えた。温家宝首相が、前任者のように、首相の職務に専念するため、身の清さを保つために本当に離縁しているのなら、それは中国という国と結婚するためと言えるかもしれない。それだけの覚悟で望まないと、13億人もの人間を抱える中国の首相は務まらないのだろう。
朱首相は、別のところで、「農民の収入の向上を一番に考えている。」と述べている。温家宝首相は、2008年に「農民が喜んで小麦栽培に取り組めるように、小麦の買い上げ価格を引き揚げることを決定した。」と発表したときの
彼の表情は、真剣だが、とてもうれしそうであった。先輩の気持ちを引き継いで、そしてまた自分の気持ちをようやく実現できたことのうれしさだろう。
一昨年までは、小麦の値段が、低く抑えられていて、河南省の広大な面積の小麦畑は種も植えられず、農民が都市に出稼ぎに行ってしまった結果、荒れ果てていた。それが、08年の4月に河南省を訪れたとき、開封で乗ったタクシーの運転手からも、今年はやっとここの農民も小麦を植える気になってよかった、という話を聞いた。ほんのわずかな引き上げだったが、農民にとっては死活問題であったのだ。
中国の将来は、温家宝首相が語ったように、教育の問題と農村の農民の生活水準の引き上げにかかっている。
10.
 最近、建国60周年の式典準備のために、多くの軍人に混じって、北京の青少年たちが、深夜に動員されて、パレードの練習をしている姿が、放映されている。
あと1月で国慶節を迎えるこの時期に、人民出版社が6年間も公の場で何も発言してこなかった、彼のことばを印刷したのは、どんな経緯からであったのだろうか。
 このなぞは、もう暫くしたら分かるかもしれない。とうぶん分からないかもしれない。この本が百万部とか2百万部、飛ぶように売れたら、中国は健全な方向に向かっていると言えるだろう。
 首相という大任を力いっぱい勤め上げたら、あとは無官でいたい、と願うのが、本当の気持ちだろう。清官三代ということばがある。これは清の時代の役人を指すことばで、当時は清官といわれた人は殆どいなかったのだが、清官ですら、三代は何もしないで暮らしてゆけるだけの財産を残した、と言う意味だ。いわんや、清官でない貪官などは掃いて捨てるほどいて、彼等はその何十倍、何百倍もの財を蓄えたのだが、さらにその子弟たちを、自分の後継に据えて、さらに輪をかけた貪欲な役人となっていき、1911年の革命で終焉した。
 現代中国の官たちの中で、朱首相の望んだこと、離任の後に、全国の人民から、彼は貪官ではなかった、一個の清官だったと言ってもらえれば、たいへん満足します、ということばを、本当に自分の気持ちとして言えるのは何人くらいいるだろうか。
 大都市の学校には、山村の分校で子供を教えることに喜びを感じていた教師のように清らかな人は、もはや数えるほどしかいない。
(完)
 2009年9月10日 教師の日に、大連
 
 

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