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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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酔胡従の面

酔胡従の面
1.
 正倉院展を見に出かけた。
今年の目玉は漆金薄絵盤で、その彩色といい、造型の美しさは、彼の時代に既にこれほどのものが人間の手によって創られていたことに感心した。この盤は「香」を焚く器を載せるためのものだが、その香の作り方が展示されていて、とても興味が湧いた。長時間焚く事ができるように、迷路のようにくねくねと曲がった器具に香の粉をきれいにまんべんなく押し込んで行き、現代の蚊取り線香を大量生産するために渦巻き状にしているのと原理は同じだが、唐草文様のように美を追求している。一個一個職人技で且つ工芸家の息吹が聞こえるようだった。
 さて本題に移るが、酔胡従の面が数点展示してあり、最近修復したレプリカもあって、古びて退色した面と彩色が施され、太い髭も植えられて、飛び出してくるようだった。
その後、読売新聞に「正倉院展」のことに触れた記事で、どなたかが「胡」をイランの事、古代ペルシャと考えている人が多いが、正しくはソグド人だと解説しておられた。ペルシャは波斯と漢訳されており、胡はそうではない、と。
2.
 その後、松本清張の「過ぎゆく日暦(カレンダー)」を読み、15頁に下記の如くあり、
『唐招提寺は安如宝の独力による建立である。だが、学者はあまりこれに触れず、ために世間へ鑑真の建立との誤解を与えた。これ学者が東大寺資料を偏重するあまりである。当時のアカデミーの主流東大寺に排斥され、蔑視され、無視された揚州の唐僧鑑真と胡国僧如宝の痛憤が唐招提寺(はじめ「唐提寺」)を独力で建立させた。
 中国唐代の文献には鑑真の名は無し。

高弟法進(ほっしん)は師鑑真に背いて東大寺に残り、聖武帝歿後、故新田部親王の廃宅に遷された鑑真および思託(したく)などの弟子らがこれを私立の寺とし、唐提寺と名付けた。東大寺側は鑑真を中傷すること甚だしく、ために思託は淡海三船(「懐風藻」の選者)に頼んで鑑真の東行記を撰してもらったが、淡海の「唐大和上東征伝」における脚色は度が過ぎ、曲筆舞文に近い。
 早稲田大学教授安藤更生は東征伝を事実なりと信じて論文を書く。
  安如宝は安国の人。
安国は安息国(漢書西域伝)でペルシャのこと。波斯人とも書く。波斯人が八世紀に奈良に居住していたことは聖武紀にも出ている。私はペルシャ人安如宝の努力をテーマに小説を書こうとした。安如宝を安国(中央アジアのボハラ。タシケントの付近)の人とする説があるが、安息国のペルシャ系とした方がよい。』

 引用が大変長くなったが、中略すると誤解を生じる恐れがあり、こうなってしまった。
東大寺側が鑑真を排斥、蔑視、無視したことへの痛憤が「唐招提寺」の建立につながったと言う点は、数年前の正倉院展で見た、鑑真から東大寺の良弁にあてた「唐から新たにもたらされたお経を貸して欲しい」との願い状が反故とされ、その裏側に役所の事務用に使われていたものが、その後再度裏返されてびっくり仰天、端正な漢文ではっきり読み取れる内容だったことで証明された。東大寺側はこの願い状を無視したのだ。この時、鑑真は、少しは眼が見えていたのか。さもなければこの手紙は誰かに代筆してもらったものだろう。
4.
 話は安息国と胡国に移る。
 山川出版の「世界史総合図録」によれば、7世紀から8世紀にかけて、トリポリからアム川の少し西側まで、ウマイア朝のイスラム国家だったが、750年にアッバース朝に代わると版図としては吉川弘文館の「世界史年表・地図」20頁には、アム川を越えたソグドの地に広がっている。東はパミール・カシュガルなどと接するまでに拡大した。
 2013年に山川出版の「世界史リブレット」に森部豊氏の「安禄山」「安史の乱」を起こしたソグド人、という本が出た。8頁に、次のような文がある。
 『ソグド人とは、中央アジアのアム川とシル川にはさまれた地域のうち、ザラフシャン川の流域(ソグディアナ)に住んでいたイラン系の種族で、(中略)オアシス都市では灌漑農耕が行われていたが、利用できる水量がかぎられており、耕地面積の拡大や穀物の生産には限度があった。そのため、過剰な人口は都市の外へでて行き、これがソグド人の交易活動につながったという。(中略)
 ソグド人の東方への進出は古く、文字史料上では後漢王朝とソグドとの間に通交関係があったことが確認できる。(後略)』

 私の感じでは、ソグド人は酔胡従の面のほりの深さや長い鼻などからして、ペルシャ系の種族だろうし、突厥とかモンゴル・西蔵系ではないだろうが、アッバース朝のイスラム帝国支配から脱出した仏教や非イスラム教(ゾロアスターなど)の人々だと思う。
 後漢以来唐代まで中国各地に移住して拠点を築いてきたソグド人は、故郷がイスラム王朝のアッバースに征服されたのに伴い、多くの非イスラムソグド人が唐に流入してきたであろう。彼らは鑑真とともにやって来た安如宝のように敬虔な仏教徒だっただろう。
鑑真の故郷 揚州は塩業で栄えた交易港で、当時の唐代の国政に使う税金の大半は塩からの物品税でまかなわれていた。(それまでの租庸調とか均田法などが崩れた結果)そういう情勢下、多くのソグド人が唐の人との交易を通じて、唐の各地に住みついて行っただろう。
5.
 ここで平凡社の「世界百科事典」でソグド語、ソグディアナを見ると、インドヨーロッパ語族でイラン系に属し、古代ソグディアナで用いられた言語。商業・宗教活動に伴い西安・洛陽など東方へ拡大。文献としては仏典文字として敦煌の千仏洞の一つから発見された。トルファンからマニ教やキリスト教の経典も発見されている。
ササン朝ペルシャ、エフタル、突厥と相次いで支配され、8世紀にアラブの領土となってイスラム化した。とある。
 今日西安はじめ、中国の大抵の大都市にはイスラム寺院があり、回族のみならず、多くの漢族も回教を信じている。だが、鑑真とともに奈良に渡った安如宝のような仏教徒も沢山いたであろう。彼らは長い年月の間に漢族と通婚し、容貌的にも漢族と見分けがつき難くなっているが、安とか康という姓はソグド人の末裔に多いと言われている。
 同じく平凡社の事典の「胡人」を見ると、中国の秦漢では、もっぱら匈奴をさしたが、シルクロードの往来が盛んになって、西域の諸民族を西胡または単に胡と呼び、唐では広く塞外民族を表す一方で、多くイラン人をさした。深目高鼻・青眼多鬚の胡賈胡商は西方の文物・慣習をもたらして、中国文化を世界化し日本にも及んだ。(中略)
6.
 それでは、胡とは一体何をさすと見たら良いであろうか?ペルシャかソグドか?
 唐代には胡風趣味が盛んになり、唐詩にも胡旋舞を踊る胡姫などがしばしば登場する。
その多くは繁華街の酒場であった。彼ら彼女らがイスラム教徒だったら酒を飲んだであろうか?イスラム帝国から脱出してきたソグド人の多くは非イスラム教徒であった可能性が高いと思われる。唐の各地の都市で交易をしながら生活基盤を築いている同族を頼って、沢山のソグド人がやって来ただろう。彼らの多くは繁華街で商売して生計を立てて来た。
 漢族も彼ら彼女らを寛容に受け入れて、唐の都は世界に冠たる国際都市となった。漢族の客はソグド人に向って、「どこから来たの?」と問う。彼ら彼女らの答えは漢族の多くが知っている大国ペルシャの都会名だっただろう。その方が通りがよい。それで漢族の人も彼ら彼女らを「胡」から来た「胡人」だとおおざっぱにくくって、そのまま受け入れた。
 胡姫はソグディアナのどこかから来たとしても、そこはすでにアッバス朝の支配下にあり、その事実を漢族に説明しても意味の無いことだから、ペルシャの都会名を告げて安心させると同時に、自分は大きな国からやって来たのだとの印象を与えることができる。
 古代半島から日本に渡って来た人達も、楽浪郡からやって来ても、漢人(あやひと)と称したのは、彼らが漢に支配されていたからだろう。
 現代中国では、繁華街でよく見かけるスラブ系の女性は大抵モスクワやペテルブルグからやって来たという。シベリアや中央アジアから来たとしても、その地名を言っても漢族や日本人に通じないことを知っているから。
 日本の繁華街には、ハルビンや上海から来たという女性が多い。内モンゴルとか安徽省から来たと言っても分かってくれないからもあるが、ハルビンは美人で有名だし、上海ならだれでも知っているから。
 結論:胡人はペルシャ系だが非イスラム教徒のソグド人のことであろうと思う。
正倉院の酔胡従の面を見、唐詩の胡姫の酒場での活躍から、そう判断する。
      2013/11/13記
 

 

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