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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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唐の文宗と柳公権

 中国の聯句について文宗と柳公権の対話を読んでいて、
やはり旧唐書を見てみなければと思い立ち、
近くの大倉山精神文化研究所の付属図書館を尋ねた。
中華書局の「二十四史」の中の「旧唐書」から該当するとみられる2と7,8,9を
書庫から出して貰って、2では文宗を、
そして7では柳公権の兄、柳公綽の列伝の中に記載されている柳公権の部分を
書き写した。
 文宗は在位826-840年途中幽閉されたが、
復位して840年の開成5年春正月戊寅朔、
上不康(健康を害し)不受朝賀。上崩於大明宮太和殿、寿享33.とある。
 柳公権の列伝に、開成3年、転工部侍朗、充職。とありその後に下記の聯句の段あり。

  引用すると:
旧唐書巻165、列伝115に筧さんが「長安百花の時」に引用されている箇所を見つけた。(旧唐書の4312ページ)
文宗 夏日与学士聯句、帝曰「人皆苦炎熱、我愛夏日長」 
文宗は夏学士と聯句をし、「人は炎熱に苦しんでいるが、私は夏の日の長いのを愛す」
公権続曰「薫風自南来、殿閣生微涼」時、丁、袁五学士皆属継、帝独諷公権両句:
曰「辞清意足、不可多得」(後は省略)
公権が「薫風が南から吹いて、殿閣に微涼が生じた」と続けた時、
丁、袁等五学士も続けたが、帝は公権の2句を「辞がすがすがしく、
意も十分尽くされている」と評し、公権に
命じて御殿の壁に題させ、字は5寸(15cm)角の大きな字で、それを見て帝は嘆じて曰く:
「鐘、王、復生、以てこれに加えるもの無し」と…(後略)

(訳者雑感;
  これから、聯句衆は文宗と柳公権と5学士の7人だったと推定される。きっと沢山の
句がつけられたのだろうが、歴史書に残ったのはこの4句のみ。
宮殿の壁に5寸角の大きな字で書かせたとあり、彼が書の達人だったことが分かる。
それ以外のエピソードとして、公権は穆宗にも仕えたが、帝が召見の時、公権に対して、
「我於仏寺見卿筆蹟、思之久矣」(寺で卿の筆蹟を見、久しく思い念じていた)。
そして公権に問うて曰く「筆何尽善」と、公権はそれに答えて
「用筆在心、心正則筆正」、上改容、知其筆諌也」と。上改容、の三字は帝の容貌が目の前に浮かぶ。心が正しければ筆は正しい。その通りだと思う。
 史官はできうる限り短い語句で列伝を残し、
後世の読者の琴線に触れるような文言にした。
読んだ人が、自分もこういう具合に「史」に名を残したいと望ませるように。
尚、これに加えるもの無し、の句は、芭蕉が「奥の細道」の
汐越の松で西行の歌を引いて、「この一首にて数景尽きたり、
もし一辨を加ふるものは、無用の指を立るがごとし」
の文に影響を与えしか。
芭蕉は必ずや中国の聯句を読んでいたであろう。

     日夜浮 2012/05/03記


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